決戦にむけて1
アルアシャン率いるイスパルタ西征軍本隊五万は、クリシュナの支配領域において順調に足場を固めていた。ただしこの場合の順調とは、勝利を重ねていることを意味しない。ようするにマドハヴァディティア軍が荒らし回った後の土地を、接収して支配下に置いているのだ。
当然、そこには大勢の流民がいる。イスパルタ西征軍はその面倒を見なければならなかった。放っておけば補給線を脅かされかねないからだ。それでイスパルタ軍は戦争をしに来たのか、それとも難民の救済に来たのか、ちょっと分からない状態になっていた。
ただしイスパルタ軍はマドハヴァディティア軍の尻拭いに東奔西走していたわけではない。戦線を構築し、さらにそれを押し上げることで、マドハヴァディティア軍の活動できる領域を確実に狭めている。
さらに別働隊であるアースルガム方面軍の働きのおかげで、面倒を見る流民の数は想定よりも少なくて済んでいた。そしてアースルガム方面軍がラーカイド城を落としたことで、クリシュナの支配領域とされていた地域のおよそ半分は、イスパルタ軍の支配下に入っている。それは、アルアシャンにいよいよ決戦が近いことを予感させていた。
「ベルノルト殿下からも要請がありましたが、ラーカイド城には補給物資を送りました。幸い、城の周囲には焼かれずに済んだ街も幾つかあります。一緒に軍資金も送っておきましたので、補給線の負担は当初の想定よりも軽くて済むでしょう」
「うん。では、兄上たちは?」
「補給を受け次第、南下を開始することになります」
参謀の一人がそう言うのを聞き、アルアシャンは大きく頷いた。これまでマドハヴァディティ軍はかなりの程度行動の自由を持っていた。だがここから先、彼らは行動の自由を徐々に失い、追い詰められていくことになる。
だから完全に追い詰められる前に、つまり身動きが取れなくなってしまう前に、マドハヴァディティアは最後の決戦に臨むだろう。彼がどのタイミングでどこを攻めるのか、それはまだ分からない。だが彼は必ず動く。それもそう遠くない未来に。
「こちらも戦力を結集させよう。マドハヴァディティアを破り、この戦争を終わらせる」
「御意」
アルアシャンの言葉に、ハザエル以下参謀たちが畏まる。アルアシャンは一つ頷いてから、話題を変えてこう尋ねた。
「ところで、クリシュナはどうしている? ナルドルグ城から出陣したことは聞いたのだが……」
「報告によれば、その後、幾つかの街を救援したようです。今は、マドハヴァディティア軍本隊の動向を探っているのではないでしょうか」
参謀の一人がそう話すのを聞き、アルアシャンはもう一度頷いた。イスパルタ軍とクリシュナ軍の間では、ひとまず不戦協定が結ばれている。その上で情報交換も行われていたが、精度も頻度もあまり十分とは言えないというのが実情だった。
クリシュナとしては、イスパルタ軍に不信感があるのだろう。何しろ、このような状況になるまで放っておかれたのだ。そもそも今のイスパルタ軍の動きは、混乱に乗じて彼の支配領域を切り取っているようにも見える。彼はイスパルタ軍と敵対はできないものの、潜在的には敵と見なしているのではないか。ハザエルらはそう見ていた。
クリシュナの立場からすれば、それはある面で当然のことだろう。だがイスパルタ軍にも言い分はある。そもそも彼はイスパルタ朝に救援の要請はしても、同盟を結んだり臣従を誓ったりしたわけではないのだ。つまりそこには「利用してやろう」という魂胆が見え隠れする。
当然ながらイスパルタ軍にとっては面白くない。彼らが西の果てまで兵を進めてきたのは、第一に国益のためであり、決してクリシュナごときに利用されるためではないのだ。彼が自分の都合で動くのは勝手だが、それならばイスパルタ軍も己の都合で動く。それは甘受するべきだろう。
アルアシャン自身もクリシュナのことはあまり信用していない。それは彼がアースルガムを狙う素振りを見せたマドハヴァディティア軍を、しかし素通りさせたからだ。そのためにシークリーは実際に攻撃を受けることになった。
戦力差があったことは分かる。だがクリシュナが本気でイスパルタ軍との緊密な連携を望んでいたのなら、それでも彼は出陣するべきだった。実際に戦わずとも、牽制して時間を稼ぐなり、できる事はあったはずだ。それをしなかったということは、彼はやはりイスパルタ軍を利用するつもりでいるのだろう。
(だいたい……)
だいたい自分の意思で謀反を起こしておいて、危なくなったから助けてくれというのは、都合が良すぎるだろう。いやアルアシャンとしてはクリシュナが謀反人である時点で彼を信用する気にはなれないのだ。
マドハヴァディティアに叛いたと言う点では、ラーヒズヤも同じだ。だが彼は臣下という立場で、その時点で国は傾き、しかも理不尽な命令を受けていたという。「主君の器量を見限ったのだ」という彼の言い分は、アルアシャンにも一応納得できた。
だがクリシュナは違う。彼が父王に叛いた時点で、ヴェールールは西方において間違いなく強国だった。しかも彼はマドハヴァディティアの長子として留守居役を任されていた。理不尽な命令を受けるどころか、十分に評価され引き立てられていたのだ。
ではなぜクリシュナは父王に叛いたのか。それは「このままでは王太子になれないと思ったから」と言われている。自分ではなく異母弟のナレインが王太子になる。その未来が受け入れられなかったのだ、と。
そこにもまた、アルアシャンはザラリとしたものを覚える。彼は王太子で、そして異母兄がいる。兄は、ベルノルトは自分が王太子ではないことをどう思っているのだろうか。クリシュナがそうであったように、謀反を起こすほどにそれを口惜しく思っているのだろうか。
(そんなはずない!)
アルアシャンは強く強く、それを否定した。二人は仲の良い兄弟だった。剣の稽古はしょっちゅう一緒にしたし、アルアシャンに乗馬を教えてくれたのはベルノルトだった。それからというもの、時間を見つけては二人で遠乗りや狩りへ行ったものだ。
だいたい、自分とベルノルト、ナレインとクリシュナでは、立場が似ているようでしかし同じではない。マドハヴァディティアは王太子を定めていなかったから、クリシュナとナレインの間には公然と競争があった。しかしジノーファはアルアシャンを王太子に定め、ベルノルトには「その地位を望んではいけない」と言い聞かせて彼を育てたのだ。
しかしだからこそ、と言うべきか。アルアシャンはなんだか、心の奥深いところを逆撫でされたように感じるのだ。よく知りもしない他人に、自分たちのことを揶揄されたかのような。そう感じるのは、自分の器が小さいせいだろうか。そんなふうにも思ってしまう。
(本当に、気に入らない!)
アルアシャンは内心でそう吐き捨てた。とはいえ現状、気に入らないからと言ってクリシュナを無視するわけにもいかない。マドハヴァディティアが狙っているのは、十中八九クリシュナの首。そしてクリシュナ軍が崩れれば、マドハヴァディティア軍はそのまま南下してガーバードへ帰還できてしまう。
その場合、イスパルタ軍がこれを追うのは恐らく難しい。追うのであれば補給線を一から見直し、さらにガーバードの攻略まで視野に入れなければならないからだ。はっきり言って準備不足である。
よって、クリシュナ軍が健在なうちにマドハヴァディティア軍を追い詰め、これを叩いて趨勢を決するというのがイスパルタ軍の基本的な方針になる。そのためにはクリシュナ軍の動向にも注意を払う必要があるわけだ。それでアルアシャンは思わずこう呟いた。
「大人しくしてくれていれば良いけど……」
「まあ、無理でしょうねぇ」
苦笑を浮かべながらユスフがそう応える。前述したように、クリシュナからはイスパルタ軍を利用してやろうという思惑が見え隠れする。またより重要な点として、彼は自分の立場を守るために結果を必要としているのだ。そうであるなら、クリシュナもまた動くべきタイミングを図っているに違いない。
「我々がクリシュナに合わせてやる義理はありません。我々は我々の都合で動けば良いのです。それで勝てます」
そう言い切ったハザエルの言葉に、アルアシャンも頷く。クリシュナがイスパルタ軍を利用するつもりでいるのなら、イスパルタ軍もまた彼らを利用すればよいのだ。
そしてマドハヴァディティア軍を討ち果たした時、どちらがより発言力を得ているのか。それによってクリシュナとの関わり方も決まってくるだろう。そして当然ながら、功績を譲ってやるつもりなど少しもなかった。
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ラーカイド城を落としたアースルガム方面軍は、要請していた補給物資を受け取ると、速やかに隊列を整えて南下を開始した。城にはバラットと彼の部隊を残してある。これによりアースルガム方面軍の戦力は、およそ一万四〇〇〇となった。
ラーカイド城を任せたバラットは、もともとはラーヒズヤ配下の武将であり、彼に反発してアースルガムに攻め込んだ経歴を持つ。その際、形式的なものとはいえバラットはマドハヴァディティアに通じており、その点を危険視する声は少なからずあった。要するに彼の裏切りを警戒していたのだ。
(よくよく裏切りを疑われる男だな)
そういう意見を聞いて、ベルノルトは内心苦笑した。その気持ちは分からないではない。彼自身、バラットが裏切りはしないかと、心底疑ったことがある。とはいえ彼は裏切らなかった。それが事実である。
またそもそも、この状況下で裏切ったとして、バラットにどんなメリットがあるのか。ラーカイド城の周囲にマドハヴァディティア軍の分隊は存在しない。徹底的に追い散らしたからだ。つまり裏切ったとして、彼は孤立することになる。
アースルガム方面軍にとっては補給路が寸断されることになるが、しかし致命的ではない。本隊から別ルートで補給を受けることは可能だ。なんなら引き返してもう一度城を攻略するという手もある。とはいえ余計な手間を取らされるわけだから、当然その分時間はかかる。
つまりバラットが裏切れば、マドハヴァディティア軍にとっては時間稼ぎになる。だがだからといって、マドハヴァディティアがバラットを助けにくると考えるのは非現実的だ。なにしろ彼はこの地域で新たな領地を得るつもりがない。また彼の本拠地ガーバードは南方にある。それなのに北にあるラーカイド城に兵を出して後詰めするというのは、ちょっと考えにくい。
よってバラットがイスパルタ軍を裏切ったとして、彼自身のメリットはほとんどない。それならこれまでにベルノルトの下で挙げた功績を大事にした方が良いだろう。だいいち彼は一度、マドハヴァディティアから捨て駒扱いされている。打算的にも心情的にも、バラットがイスパルタ軍を裏切る理由はないだろう。
まあそれはそれとして。ラーカイド城から南下するアースルガム方面軍の狙いは、言うまでもなくマドハヴァディティア軍本隊である。これを叩き、可能ならばマドハヴァディティアを討ち取るか捕らえるかする。これが彼らの、いやイスパルタ西征軍の狙いだ。
実際問題として、マドハヴァディティアを討ち取るか捕らえるかするのは難しいだろう。だが最低限、勝利してマドハヴァディティア軍をこの地域からたたき出さなければならない。
もっとも何もしなくても、遠からずマドハヴァディティア軍はこの地域から出て行くだろう。だが手をこまねいてそれを見送ったと思われれば、イスパルタ軍の武威に傷がつく。また荒らされたこの地域の後始末を押しつけられるのだ。イスパルタ軍が思うように動けないとなれば、西方情勢は一気に流動化しかねない。
一方でマドハヴァディティアは「イスパルタ軍を手玉に取った」との評価を得ることになる。それは彼の武名を高めるだろう。「やはり西方諸国をまとめ上げるのは、〈王の中の王〉マドハヴァディティアしかいない」。そんな声が大きくなるに違いない。
名声を高めた彼の下には、多くの兵が集まるだろう。「今こそイスパルタ軍を追い払うべし」という世論が高まれば、戦況は一転してマドハヴァディティア軍優位となりかねない。
(よそ者の辛いところだな)
ベルノルトは肩をすくめつつ、内心でそう呟いた。そうこの西方において、イスパルタ軍は「よそ者」なのだ。これまで反発が少なかったのは、それだけマドハヴァディティアの求心力が低下していたからに他ならない。
よってマドハヴァディティアの求心力が回復すれば、その分だけイスパルタ軍への風当たりは強くなる。そう簡単に負けるとは思わないが、戦況が泥沼化することはあり得る。その場合、イスパルタ軍は長大な補給線を長期間にわたって支えなければならなくなる。それは大国イスパルタ朝といえども負担だろう。
『撤退もやむなし』
その時、父王ジノーファはそう判断するのではないか。ベルノルトはそう恐れている。イスパルタ軍が撤退すれば、アースルガムは再びマドハヴァディティアに蹂躙されるだろう。それはベルノルトとしても耐えがたい。
「勝つしかないな」
ベルノルトはそう呟いた。勝ってマドハヴァディティアの権威を打ち砕き、彼の持つ戦力を引き剥がすのだ。確かに彼を討ち取ったり捕らえたりするのは難しいだろう。だがここで勝利を収めれば、今後彼はガーバードに籠もるしかなくなる。
現状では、残念ながらガーバード攻略の準備はできていない。だがそれでも良いのだ。マドハヴァディティアがガーバードから動けなくなれば、彼の影響力はその周囲に限定される。彼の求心力はさらに低下し、人々は雪崩を打って彼から離れるだろう。
これらのことを考え合わせれば、これから行われようとしている戦いは、まさに決戦と呼ぶに相応しい。その決戦において勝利を収めるためにまず必要なのは、正確な情報だ。そのために役だったのが、何を隠そう、アースルガム解放軍が張り巡らせたネットワークだった。
余談になるが、これがバラットにラーカイド城を任せた理由の一つでもある。つまりアーラムギールを後方に残すわけにはいかなかったのだ。そしてベルノルトのその判断は当たった。
「それで、敵の様子は?」
「はっ。どうやら戦力を集結させているようです」
アーラムギールは自信を持ってそう答えた。多数の街や村が焼かれても、いや焼かれてしまったからこそ、アースルガム解放軍のネットワークは情報収集のために役立った。故郷を失い愛する者を殺されたその怒りの憎しみが、人々を駆り立てて解放軍に協力させたのである。
そしてそのようにして集められた情報によると、マドハヴァディティアはこれまで各地へ分散進撃させていたそれぞれの部隊を呼び戻し、本隊に戦力を集結させているという。それはつまり彼もまた潮時が近いと感じていることを示している。
ベルノルトはそのことを不思議とは思わない。ラーカイド城が落ちたことは、すでにマドハヴァディティアも知っているだろう。局面が変わったと彼も思ったはずだ。ここから先、マドハヴァディティア軍はこれまでのように暴れ回ることはできなくなる。
ならば旗色が悪くなる前にさっさとずらかろう、という腹なのだろう。極端なことを言えば、マドハヴァディティアはイスパルタ軍と戦う必要などないのだ。イスパルタ軍を振り回し、クリシュナ軍を痛めつけ、勝っている状態でガーバードへ帰還する。彼にとってはそれで十分なのだ。
「急がないとだな……」
ベルノルトはそう呟いた。早くしないと、マドハヴァディティアに勝ち逃げされる。とはいえ、アースルガム方面軍だけで戦力を結集させたマドハヴァディティア軍に挑むのは危険だ。本隊と連携し、さらにクリシュナ軍の動きを見極める必要がある。
「それで、敵が戦力を集結させている場所は?」
「それは……」
ベルノルトに促され、アーラムギールは報告を続けた。ベルノルトはその内容をまとめさせ、本隊にも送る。刻一刻と、決戦は近づいていた。
アルアシャン「クリシュナは……、ま、死んでもいっか」




