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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
外伝 誰がために鐘は鳴る

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後悔と出陣


 最悪を回避するためのタイミングは、通り過ぎてからそれと気付くものらしい。クリシュナはこの頃、そんなふうに思っている。


 空城の計を偽装したことで、クリシュナ軍は無事にガーバードより退去して、ナルドルグ城に入ることができた。当面はこの城を拠点とし、マドハヴァディティア軍の北上を防ぐ。そしてイスパルタ軍が西進してくるのを待つ。それがクリシュナの基本戦略だった。


 そのようなわけだから、クリシュナがガーバードにいるマドハヴァディティアの動向に細心の注意を払うのは当然だった。そしてそのかいもあり、彼はマドハヴァディティアが軍を催そうとしているその動きを掴むことができた。


『早い……!』


 報告を受け、クリシュナはそう唸った。とはいえ敵が攻めてくるなら備えなければならない。彼は支援者たち、つまり反マドハヴァディティア勢力の者たちに後詰めを求めた。ただやはり時期が早い。兵の集まりは悪かった。


 とはいえ、まったく集まらなかったわけではない。クリシュナ軍の戦力は一万四〇〇〇まで回復した。加えて兵は送ってこなかったものの、物資を送ってきた支援者は多い。それでナルドルグ城には十分な物資が蓄えられた。そしてこの時、クリシュナは思いもよらない人物を迎えることになった。


『ナディナ!? なぜ君がここに……』


 それはかつてマドハヴァディティアの後宮に収められていた亡国の姫。クリシュナが父王に叛くことを決めたとき、打算で関係を持った女。そしていつの間にか愛してしまったヒト。


 そのナディナが兵を連れてナルドルグ城へ合流したのだ。連れてきた兵の数は五〇〇に満たない。それでも支援者らが出した後詰めの中では最大の数だった。とはいえクリシュナが驚いたのはその数ではなく、ナディナ自身がナルドルグ城へ赴いてきたことである。


『あら、そんなに意外でしょうか? クリシュナ様が敗れれば、どのみちわたくしたちに未来はないのです。それならば最大限に協力するのは、むしろ当然のことでございましょう?』


『だからといって君自身が来なくとも……』


 そう言ってクリシュナは渋面を浮かべる。そんな彼にナディナは艶然と微笑みながらさらにこう告げた。


『ナルドルグ城は堅城で、さらにここには多くの兵もいます。大した塀もない屋敷にいるよりも、よほど安全ですわ。それにわたくし、待っているだけの女になるつもりはありませんの』


『ナディナ……。すまない、助かる』


 クリシュナはそう言ってナディナを抱きしめた。実際、彼女がここにいる意味は大きい。ガーバードから撤退して以来、クリシュナの権威は失墜気味だ。兵の集まりが悪いことには、その辺りの事も関係している。彼自身、それを肌で感じていた。


 だがそれでもナディナはここナルドルグ城へ来た。そこにはクリシュナの、反マドハヴァディティア勢力の首魁としての立場を強化する意味がある。彼はマドハヴァディティア軍を防ぐ「盾」ではない。一つの勢力をまとめ上げる「王」なのだ。ナディナは彼のその立場を守ったと言える。


 加えて、ナディナはクリシュナの心も守ったといえる。彼は自分が追い詰められていることを理解している。本拠地とも言えるガーバードを失い、マドハヴァディティアに対して戦力でも劣っている。現状、打って出ることはできず、つまり耐えることしかできない。状況を好転させるカードを、彼自身は持っていないのだ。これが大きなストレスであることは言うまでもない。


 もちろんナディアが来たからと言って、その問題が解決したわけではない。だが彼女の存在は、間違いなくクリシュナの心を軽くした。彼が沈着さを保って戦いの準備を進めることができたその影には、ナディナの存在が大きく関係していたのだ。


 さて、クリシュナが戦いの準備を進めている中、ナルドルグ城に大きなニュースがもたらされた。サラ王女がアースルガムの再興を宣言したのだ。彼女の傍らには、何とイスパルタ朝の第一王子ベルノルトがいるという。


(これは……)


 これは大きな契機になる。クリシュナはそう直感した。この時点で、イスパルタ軍はすでに西進を開始している。この動きは彼らも掴んでいるだろう。今後、イスパルタ軍の動きは加速することが予測される。


 一方でマドハヴァディティアはどう動くのか。彼はいまさらイスパルタ軍との敵対は避けられまい。となれば今後の戦局で優位に立つため、ベルノルト王子の身柄を求める可能性は十分にある。しかもマドハヴァディティア軍はまだ出陣していない。つまりまだ戦略の練り直しは可能だ。


 とはいえ地図を広げてみれば、ナルドルグ城ではなくアースルガムを狙うというのは、ちょっと現実的ではない。であればやはり、マドハヴァディティアがまず狙うのはナルドルグ城だろう。だがアースルガムの再興宣言が彼の戦略に影響を与える可能性は高い。


『攻撃は苛烈になるかも知れないな』


 クリシュナはそう呟いた。イスパルタ軍がその動きを加速させることは、マドハヴァディティアもまた予測しているだろう。「遅れを取るわけにはいかぬ」と思っているはずだ。後顧の憂いなくイスパルタ軍と戦うためにも、彼としてはナルドルグ城を手早く攻略する必要がある。


『ではクリシュナ様はどうなさるのですか?』


 そう尋ねたのはナディナだった。クリシュナはまず苦笑で彼女に答える。それからどこか自嘲気味にそう言った。


『どうもこうも、何もできないさ。今の私にできるのは、この城でマドハヴァディティアを迎え撃つ事だけだ』


 仮に、サラ王女とベルノルト王子の身柄を確保するべく、ナルドルグ城より出陣してアースルガムへ進軍したとする。すると当然ナルドルグ城は手薄になるから、南から北上してくるマドハヴァディティア軍は容易くこれを落とすだろう。


 そしてその時、彼らの目の前に広がっているのは、無防備な反マドハヴァディティア勢力の領地である。マドハヴァディティア軍は喜び勇んでこれを蹂躙するに違いない。一方でクリシュナ軍は支持者と補給地を失い、さらに数で勝るマドハヴァディティア軍が背後から迫ってくる状況に追い込まれる。


『その前にアースルガムを制圧出来れば良いが、それも難しいだろうな。サラ王女とベルノルト王子も、勝てないと思えばさっさと逃げるだろう。むしろこの二人をつかまえることの方が難しい』


 そしてこの二人を逃せば、アースルガムを制圧できたとして、今度はイスパルタ軍を敵に回すことになる。マドハヴァディティア軍とイスパルタ軍の両方を敵に回すのだ。万に一つの勝ち目もない、絶望的な状況と言っていい。


『それならば最初から、このナルドルグ城でマドハヴァディティア軍を迎え撃つ方が良い。少なくともイスパルタ軍を敵に回すことは避けられるからな。アースルガムの動向は気になるが、今は内側を固めるのが優先だろう。兵の数もさほど多くはあるまい。打って出てこないのであれば、脅威にはならん』


『では、アースルガムは無視して良い、と?』


『無視はできないな。アースルガムと誼を結ぶ事ができれば、それはつまり間接的にではあるがイスパルタ軍と繋がるということだ。誰もがそれを考えるだろう。何しろ、ベルノルト王子はそれを狙って自らの存在を明かしたのだろうからな』


 マドハヴァディティアもラーヒズヤも、アースルガムを無視してことを進めることはできないだろう。友好を結ぶのか、敵対するのか、あるいは利用するのか。どのように関わるかはそれぞれだろう。だが無視することだけはできない。


『……妬ましいことだ』


『クリシュナ、様?』


『アースルガムは小身だが、西方の注目を一身に集めて周囲を振り回している。つまりそれだけ彼らの存在は大きいと言うことだ。一方で私はどうだ。一万を超える兵を抱えながら、その影響力はごく僅かだ。ナルドルグ城からは動けないことを見透かされている。私の存在は小さいのだ』


『ですが、皆がアースルガムに注目するのはそこにベルノルト王子がいるから、背後にイスパルタ朝がいるからではありませんか?』


 アースルガムの存在が大きいのは、決してアースルガム自身の力によるのではない。ナディナはそう指摘する。しかしクリシュナは苦笑してただ首を横に振った。それを見て彼女は気付く。クリシュナが妬ましく感じているのはアースルガムではない。そこにいる、ベルノルト王子のほうなのだ。


『……状況が変われば、きっとクリシュナ様が西方の舵取りをされるようになりますわ』


 ここでベルノルトを貶めても、クリシュナは納得するまい。ナディナはそう思い、しかしそうであるならなんと声をかけて良いのか分からず、結局彼女は中身のない励ましの言葉を口にした。


『そうだな』


 クリシュナは一応納得したふうにそう答える。だが彼が内心で自嘲を止められていないことに、ナディナは気付いていた。「状況が変われば」と彼女は言ったが、それが何より難しいのだ。


 いや、ナルドルグ城に籠もったままでも状況は変わるだろう。しかしその時、この西方で主導権を握っているのはクリシュナではない。主導権を握りたいのであれば、どこかのタイミングで自ら動かなければならないのだ。そして今の彼は、それができる状況にない。


 要するに「状況を変えること」それ自体が、最も難しい。だがそのチャンスは確かにクリシュナの前にも現われた。


 マドハヴァディティア軍四万はガーバードを出陣すると、なんとアースルガムを窺う動きを見せた。つまりナルドルグ城の東の脇を、とはいっても軍を率いて数日かかる距離なのだが、すり抜けるようにして北上を始めたのだ。


 この動きを見て、クリシュナは困惑した。前述した通り、彼はマドハヴァディティア軍がアースルガムを狙うのは無理筋だと考えていた。よってマドハヴァディティアは真っ直ぐにナルドルグ城を狙ってくるに違いない。そう考えて彼はこれまで準備をしてきたのだ。


 しかしクリシュナはその予想を外された。このような行軍ルートを選択したマドハヴァディティアの狙いは一体どこにあるのか。そのことについて、彼は軍議を開いてハルバシャンらの意見を求めた。


『やはり、我らをナルドルグ城からおびき出すことが狙いではありませぬか?』


 ハルバシャンがそう意見を述べると、他の参謀らも揃って頷いた。ナルドルグ城は堅城だ。かつてはマドハヴァディティアも攻めあぐね、最終的には調略によって城門を開かせた。つまり彼はこの城を攻略できたわけではないのだ。


 マドハヴァディティアにとってそれは苦い経験だったろう。そして再びナルドルグ城を攻めるに際し、その経験が頭をよぎるのはむしろ当然と言える。しかも今回は調略が利きそうにはないし、またイスパルタ軍という不安要素もある。攻城戦にあまり時間をかけるわけにはいかない。


 ならば、ナルドルグ城からクリシュナ軍をおびき出してこれを叩く、という戦略を描くのはむしろ当然のことのように思える。マドハヴァディティアはそのためにあえて無防備な脇腹を曝して見せたのではないか。ハルバシャンはそのように語った。


『なるほど。双頭の蛇、か』


『御意』


 そう言ってハルバシャンが頷くのを見ながら、クリシュナは「父上が好きそうな戦術だな」と思った。「双頭の蛇」とは、一言で言えば敵軍の包囲を目的とした戦術である。実際、数の上ではマドハヴァディティア軍のほうが圧倒的に優位なのだから、最初の一撃で敵を分断できなければ、クリシュナ軍は包囲殲滅されることになるだろう。


『奇襲は成功すると思うか?』


『難しいでしょう』


 何しろクリシュナ軍が西から来ることは分かっている。マドハヴァディティアは警戒するだろう。それでは奇襲を成功させることは難しい。ではどうするべきか。


『補給線を狙うべきです』


 参謀の一人がそう発言する。わざわざ手強い敵と戦う必要はない。アースルガムを狙うマドハヴァディティア軍が北上しきった後に補給線を寸断すれば、彼らは勝手に自滅することになる。しかも危険は少ない。最小のリスクで最大のリターンを得られるのだ。これをやらない手はないだろう。だがクリシュナは内心でこう疑問を覚えた。


(しかし本当に、マドハヴァディティアの狙いはアースルガムなのか……?)


 なるほど確かにマドハヴァディティア軍はアースルガムを目指している。その先にいる、彼が四万もの兵を動かしても狙う価値のある獲物は、ベルノルト王子だけだろう。だが彼はこんなにも簡単にエサに食い付くような男だったろうか。


 だがクリシュナはその疑問を口には出さなかった。状況証拠だけ見れば、マドハヴァディティアは確かにアースルガムを、ベルノルト王子を狙っているように思えたからだ。それでクリシュナは参謀の意見を容れて出陣を控え、マドハヴァディティア軍が北上するのをただ見送った。


 それが最悪の選択であったことに気付いたのは、マドハヴァディティア軍の最後尾を見送ってから数日後のことだった。彼らはナルドルグ城の後背地を、すなわちクリシュナの支援者らが治める地域を荒らし始めたのだ。


『なるほど。これが狙いか……』


 報告を受け、クリシュナは力なくそう呟いた。後背地を潰されては、ナルドルグ城は補給を受けることができなくなる。いやそれ以前に、この状況を放置していては、クリシュナは反マドハヴァディティア勢力の者たちの信任を失ってしまう。実際、報告と一緒に救援の要請もされているのだ。


『直ちに出陣の準備を整えよ』


 そう指示を出すと、クリシュナは執務室で一人、苦いため息を吐いた。マドハヴァディティア軍の北上を見送ることにしたとき、彼が心の奥底で確かに感じていたのは暗い喜悦だった。「これでベルノルト王子は困った状況に追い込まれる」。その予想は彼にとって蜜のように甘かった。


『滑稽なことだな』


 クリシュナはそう呟いて笑った。自分を嗤った。嫉妬で判断を誤ったのだろうか。いや、そうは思わない。だが滑稽であることに変わりはない。我が身を振り返らずに人を指さしていたのだから。


 クリシュナ軍の出陣の準備は、さほど時間をかけずに終わった。もともとマドハヴァディティア軍の補給線を狙うつもりでいたから、そのための準備はしていたのだ。そして報せを受けてから二日後の朝、クリシュナは一万二〇〇〇の兵を率いて出陣した。


『では、行ってくる』


『はい、クリシュナ様。ご武運を』


 最後にナディナとそう言葉を交わし、クリシュナは馬上の人となった。彼はナディナを二〇〇〇の兵と共にナルドルグ城に残した。


 本来なら全軍で出陣するべきなのだろう。だがガーバードにはおよそ一万の兵が残っているという。ナルドルグ城を空にした場合、この戦力が北上してきては挟み撃ちにされかねない。城に兵を残したのはそれを避けるためであり、そして兵を残す以上はナディナもここにいた方が安全だろうという判断だった。


 そして結果として、これがクリシュナの生涯で最良の選択となった。ただし彼自身がそれを喜ぶことはついになかった。


クリシュナ「状況が悪けりゃ出番も少ない!」

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― 新着の感想 ―
[一言] そもそもクリシュナは、国で反旗をひるがえして女達に手を出して無理矢理勢力擬きを作っただけで、武威による西方統一をした訳でも無く、内政手腕を発揮して西方の盟主として支持を得た訳も無く、勝手に宣…
[良い点] く、クリシュナー!
[気になる点] 運の無い男クリシュナはここで死ぬのか? しかし、ここ数話マドハヴァディティアが全く出てこない。 マドハヴァディティアの狙いはどこなんだろう? [一言] 再開ありがとうございます。 …
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