次なる方針
イスパルタ西征軍はマドラス城に入った。そしてそこでベルノルトからの報告書を受け取った。アルアシャンはベルノルトとサラの無事を喜び、それからマドハヴァディティア軍の動向予測について読んで眉間にシワを寄せた。クリシュナの首を狙うのは別に良い。だが補給を現地調達に頼るというのは、とても正気とは思えなかった。
「『地獄になる』、か……」
アルアシャンは苦い顔をしてそう呟く。彼は一度、兵站の仕事を経験している。それで四万の兵を養うためにはどのくらいの食料が必要なのか、彼は具体的な数字で把握していた。
そしてその量の食料を現地調達で賄おうとすれば、そこで一体何が起こるのかを思い浮かべるだけの想像力もある。「地獄になる」というのは、あながち間違っていないように思えた。
「すぐに兵を」と考え、しかしアルアシャンの目は報告書の最後に留まる。そこには「当初の戦略方針は達成された」という旨が書かれている。確かに当初彼が掲げたのは、「ベルノルトとサラを保護し、アースルガムを再興する」という方針だ。そしてマドハヴァディティアがアースルガムに手を出さないなら、それは達成されたと言っていいだろう。
現在、クリシュナとは水面下で接触はしているものの、正式に同盟を結んだり傘下に収めたりしたわけではない。つまりクリシュナを助けなければならない理由はない。あとはマドハヴァディティアがイスパルタ朝と事を構えるつもりがないなら、ここで遠征を切り上げても良いのだ。
だがイスパルタ軍が引き上げて、あのマドハヴァディティアが大人しくしているだろうか。アルアシャンははなはだ疑問だった。むしろ喜々として侵略を再開するだろう。そうなれば、今度こそアースルガムが狙われるかも知れない。
アルアシャンはそこまで考えると、これ以上は一人で悩んでも仕方がないと思い、ユスフとハザエルを呼んだ。そして少し考えてから、ラーヒズヤも追加で呼ぶ。マドハヴァディティアのことをよく知っている人物からも意見を聞きたいと思ったのだ。
三人が揃うと、アルアシャンはベルノルトの報告書について説明する。ユスフとハザエルはひとまずベルノルトとサラの安全が確保されたことを知ると、ほっと胸をなで下ろした。一方でラーヒズヤはベルノルトの名前を聞くと、ヴァンガルのことを思い出したのか、感慨深いやら苦笑するしかないやら、といったふうだった。
「……それで、どう思う?」
説明を終え、さらに報告書の回覧が終わると、アルアシャンはそう尋ねた。「どう思う?」とは含蓄の広すぎる問いかけだが、要するに自由に意見を言ってくれという意味だ。ユスフとハザエルはそのことをよく分かっているので、早速口を開いてこう言った。
「マドハヴァディティアの狙いがクリシュナの首であるというのは、妥当な予測であると考えます。というより、この位置で敵の襲来がなく、またアースルガム方面にも姿を見せないのであれば、消去法で西へ向かったとしか思えませぬ」
「元帥に同意します。マドハヴァディティアの狙いは、ナルドルグ城の後背地を荒らし、クリシュナをおびき出すことと思われます。要するに彼は、大がかりな迂回進路を取ったのです。アースルガムにちょっかいを出したのは、それを隠すための欺瞞行動だったのでしょう」
アルアシャンは二人の意見に頷く。そしてラーヒズヤに視線を向けると、彼に改めてこう尋ねた。
「ラーヒズヤはどう考える?」
「お二人のおっしゃる通りかと。ナルドルグ城は堅城です。かつてはマドハヴァディティアも攻めあぐねました。正面からは攻めたくないでしょう。何より後背地はクリシュナの弱点と言えます」
アルアシャンが視線で続きを促す。ラーヒズヤはこう続けた。
「クリシュナには現在、直轄地がありません。彼の支配領域と呼ばれている地域を実際に治めているのは、いわゆる反マドハヴァディティア勢力の者たちです。要するにクリシュナは、彼らから補給と増援を受けながら戦うつもりだったわけです」
敵軍が南から攻めてくるのであれば、これで問題なかった。ナルドルグ城で敵を防げば、それより北の地域、つまり後背地は守られるからだ。実際に領地を治めている者たちも、ナルドルグ城が陥落すれば次は自分たちが蹂躙されることは分かっている。彼らは積極的にクリシュナを支援し、ナルドルグ城の守りを固めていた。
別の見方をするならば、ナルドルグ城の戦闘継続能力を支えているのは、その後背地であるわけだ。つまりそこを潰せばナルドルグ城はもう戦えない。しかもクリシュナ軍の大半はナルドルグ城に集められている。後背地は無防備と言っていい。襲われれば当然、ナルドルグ城へ救援要請を出すだろう。
クリシュナはそれを受けざるを得ない。後背地を失えばナルドルグ城は孤立する。何より見捨てれば彼らの支持を失うことになる。彼が生き残るためには、ナルドルグ城から出撃して敵と戦うしかないのだ。そしてそれこそがマドハヴァディティアの狙いであろうと思われた。
「なるほど。よく分かった。だが補給の問題はどうする?」
「ベルノルト殿下が指摘していましたが、やはり現地調達でしょう。これまでの例を見るに、マドハヴァディティアがそれを躊躇うとは思えません。そうだな、ラーヒズヤ?」
「はっ。元帥閣下のおっしゃる通りかと」
「……では、地獄になるな」
アルアシャンは陰鬱な顔でそう呟いた。他の三人も、彼の言葉を否定しない。クリシュナをナルドルグ城から引きずり出すには、むしろ派手にやったほうが良い。そうである以上、マドハヴァディティアは徹底的にやるだろう。彼らが通った後には、荒野と廃墟だけが残ることになる。彼らはそれを疑っていなかった。
「……例えばだが、クリシュナがガーバードを目指す、というのはあり得ると思うか?」
ふと思いついて、アルアシャンはそう尋ねた。ガーバードはマドハヴァディティアの本拠地だ。そこを狙われたら、マドハヴァディティアと言えども慌てるのではないだろうか。
「ガーバードですか……。いえ、マドハヴァディティアが本拠地を空にするとは思えません。兵を残しているでしょう。攻略は難しいと考えます」
ハザエルがそう答える。ニルギット会戦でマドハヴァディティアが動員したのは五万と言われている。だが今回彼が動かしたのは四万。一万弱の兵が浮いているわけで、それをガーバードに置いてあると思われた。
クリシュナ軍は多く見積もっても二万弱。この戦力でガーバードを速やかに攻略するのは難しいだろう。そしてもたつけば、マドハヴァディティアが北から迫ってくる。最終的には城壁との間で挟み撃ちだ。
「そもそもガーバードを落としたとして、クリシュナにはその先がありません」
ユスフがそう指摘する。クリシュナはガーバードから逃げ出してナルドルグ城に入ったのだ。それはガーバードではマドハヴァディティアと戦えないと思ったからだろう。それなのに再びガーバードに舞い戻ったとして、一体何ができるのか。結局、攻め潰されるだけだ。
「なるほど、な。ではクリシュナとしては、どうしてもマドハヴァディティアに野戦を挑まなければならないわけだ。……それで、我々としてはどう動くべきだろうか?」
アルアシャンは改めてそう尋ねた。前述した通り、ベルノルトとサラの身の安全はひとまず確保され、アースルガムの再興も宣言された。そしてクリシュナとは正式に何かしらの同盟を結んだわけではない。
クリシュナを見殺しにして、それでマドハヴァディティアが大人しくなるなら、それはそれで有りだろう。だが本当にマドハヴァディティアは大人しくなるのか。それを信じられる者はこの場に一人もいなかった。
「イスパルタ軍が撤退すれば、マドハヴァディティアはまたぞろ蠢動を始めるでしょう。それを警戒するなら、西方に多数の兵を置かなければなりません。それでは二度手間です。必ずしも奴を討ち取る必要はないと思いますが、西方の趨勢ははっきりさせておくべきです」
「ハザエル元帥閣下に同意します。マドハヴァディティアが野心を捨てることはありません。確かに討ち取れるかは別問題ですが、なればこそ奴の勢力を押さえ込み、さらに奴になびくことのない者たちを配置するべきです」
ハザエルに続いてラーヒズヤがそう発言する。マドハヴァディティアが大人しくイスパルタ朝の下につくというのは、ラーヒズヤには想像しがたい。討ち取れないのなら徹底的に力を殺ぐべき、と彼は主張した。
一方でラーヒズヤはアピールも忘れない。「マドハヴァディティアになびくことのない者たち」というのは、つまりクリシュナであり、また彼自身のことだ。彼はすでに戦後を見ていた。まあ自分だけでなくクリシュナも一緒に売り込んだのだから、「自分のことしか考えていない」というわけではないだろう。
「私も進軍を支持します。我々が動かずとも、難民は押し寄せてくるでしょう。どうせなら踏み込んでいった方が混乱は少ないはずです」
ユスフはそう言って別の観点からも進軍を訴えた。加えて、またさらに別の懸念も口にする。
「もう一つ、ダンジョンのことが心配です。攻略する者がいなくなれば、いずれスタンピードが起こります。一度モンスターがあふれ出てしまえば、それに対処するためには何十万という兵士が必要になるでしょう。最悪の場合、第二の魔の森と化してしまうことすらあり得ます。防衛線をさらにもう一つ抱えることになるのです。いかにイスパルタ朝が大国と言えど、それは大変な負担になります」
ユスフがそう説くと、ハザエルが重々しく頷いた。彼はもともと北方方面軍の出身であり、モンスターを相手に終わりのない戦いをするのがどれだけ大変か、骨身に滲みて理解している。
アルアシャンもどうして魔の森が生まれたのかについては、歴史の授業で習って知っている。歴史上最たる愚行のために、現在にいたるまで人類は頭を悩まされているのだ。さらに抜本的な解決策はいまだ見いだされていない。
下手を打てば、ヴァルハバン皇国の愚行を、自分が繰り返すことになる。その時、自分は世の人にどう評価されることになるだろうか。アルアシャンはサッと血の気が引いた気がした。
(落ち着け……)
もっとも、アルアシャンは取り乱したりはしなかった。今から動けば、最悪の未来は十分に回避できる。進軍を躊躇う理由はもうなかった。
「マドハヴァディティアを討つ。準備を進めてくれ。特に、兵糧は念入りに用意しろ」
「御意。……ところで王太子殿下。ベルノルト殿下のほうはいかがいたしますか?」
「兄上のところに送った戦力抜きでは、難しいか?」
「相手はあのマドハヴァディティアです。動かせる戦力は全て動かすべきでしょう」
「ハザエル元帥閣下に同意します。また我々が二方向から攻め込めば、クリシュナ軍と併せて三方からマドハヴァディティア軍と戦うことができます。首尾良く包囲できれば、勝利は間違いないでしょう」
ハザエルとラーヒズヤの言葉に、アルアシャンも大きく頷く。こうしてベルノルトはシークリーに集った戦力を率いて戦うことが決まった。これらの兵は後の世でアースルガム方面軍と呼ばれることになる。ともかくこうして、戦局は最終局面へと突入したのだった。
○●○●○●○●
「別方向より進軍し、本隊と連携しつつ、マドハヴァディティア軍を討て」
端的に言えば、それがアースルガム方面軍に下された命令だった。さらに司令官がベルノルトだったこともあり、方面軍にはかなりの程度の裁量が与えられている。もとよりマドハヴァディティアをこのままにしておくわけにはいかない。アースルガム方面軍はさっそく動き始めた。
「ハシム。状況は?」
「酷いものです」
ベルノルトの問い掛けに、ハシムは端的にそう答えた。「酷い」というのは、クリシュナの支配領域の状況だ。マドハヴァディティアは大いに殺し、大いに奪い、そして街々を焼き払っている。
殺された者たちの中には、いわゆる反マドハヴァディティア勢力の者たちが多く名前を連ねている。亡国の残党勢力であったり、レジスタンスだったりした者たちだ。またマドハヴァディティアの後宮でクリシュナと寝た女たちもそこには含まれていた。
彼ら彼女らの最期は悲惨だった。自決できた者、戦場で果てた者たちは、まだ名誉を守ることができたと言って良い。生きたまま捕らえられた者たちは凄惨な仕方で殺された。用いられた処刑方法は口にするのも憚られるものばかりだ。
「ですが、隙もあります」
そう言ってハシムは視線を鋭くした。彼が言うには、マドハヴァディティア軍はひとかたまりになって進軍しているわけではなく、幾つかの部隊に分かれて分散進撃しているのだという。それらの部隊は多くても五〇〇〇程度だという。
これは現地調達、つまり略奪の効率を上げるためと思われた。例えば人口がせいぜい数百人しかいない村を四万の大軍で襲ったとして、兵士一人あたりの取り分は微々たるモノだ。これでは士気を保てないだろう。
食料はもっと深刻で、襲撃に一日を費やしても、四万人一日分の食料が得られないかも知れない。手持ちの食料は減り続け、略奪しているのに兵士たちは飢えるという、バカバカしい話になりかねない。それを避けるための分散進撃だと思われた。
「つまり、各個撃破できる好機、というわけか」
「御意」
ハシムは恭しく答えた。分散進撃し略奪に精を出すクソ野郎どもを、倍以上の戦力で順番に叩き潰していく。なかなか壮大にして爽快な作戦だ。ただし成功すれば、だが。そしてベルノルトの立場としては、義憤と目先の武功を理由に、成算の低い作戦を実行するわけにはいかない。
「エクレム。どう思う?」
「軍事的な事だけを考えれば、成算は高いでしょう。さすがにマドハヴァディティアの本陣まで我々の半分以下ということはないと思いますが、そこは本隊と連携しながら戦えば良い。問題は流民と化した住民達です。下手をしたら、我々は彼らの護衛だけをすることになります」
エクレムはそう懸念を口にした。マドハヴァディティア軍に街を焼かれた流民が、庇護を求めてイスパルタ軍のところへ来る、というのは十分に想定される。流民の中には女子供に老人まで交じっているのだ。彼らを引き連れてとなると、行軍速度は著しく低下するだろう。自由な軍事行動など取れなくなるに違いない。
「護衛で済めば良いがな」
ベルノルトは肩をすくめてそう言った。護衛だけなら別にやっても良い、と彼は思っている。難民はアースルガム方面軍で引き受け、マドハヴァディティアはアルアシャン率いる本隊が討つ。それで西方が落ち着くのなら、ベルノルトはそれでまったく構わない。
だが現実は違う。護衛だけやっていれば良い、などと事にはならない。集まってくるのは流民なのだ。彼らは着の身着のまま逃げてくる。しかもそれが数万、いやともすれば数十万人。彼らを保護するなら食わせなければならない。つまり端的に言って、兵糧がまったく足りない。
彼らを見捨てる、という選択肢もある。だがこれは悪手だ。マドハヴァディティア軍が荒らし回る以上、イスパルタ軍は物資を現地調達できない。つまりどうしても補給線を伸ばす必要がある。だがそれを流民達に襲われたら、今度はイスパルタ軍が干上がることになる。
つまりイスパルタ軍はどうあっても難民たちの世話をしなければならない。彼らを暴徒化させないためだ。そしてそのためには大量の食料が必要になる。そしてベルノルトが把握しているアースルガム方面軍の補給能力では、ほぼ確実に難民達を持て余すことになる。
「……いっそ、全部本隊に押しつけるか?」
半ば投げやりにベルノルトはそう呟いた。エクレムもハシムも、そして他の者たちも、皆が一様に形容しがたい顔をする。ただ能力的に言えば、本隊の方が相応しいのは確かだ。
本隊のほうが補給線は太いし、軍資金も多い。何より本隊から来た命令書からは、アルアシャンが流民の問題を避けては通れないと考えていることが窺える。ならば対策は講じているだろう。
まあ、「全部本隊に……」というのは流石に冗談だとしても、アースルガム方面軍だけで何とかなるような問題ではないことは確かだ。そして時間が経てばたつほど、流民が増えていくことも。結局、この日の軍議は長引いた。
ラーヒズヤ「さあ懸命に働かねば!」
ユスフ(生き生きしてるなぁ)




