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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
外伝 誰がために鐘は鳴る
321/364

アースルガム解放軍、出陣2


『アースルガム解放軍はイスパルタ軍を後ろ盾としている。一度矛を交えるような事があれば、例え一時は勝ったとしても、必ずやイスパルタ軍の苛烈な報復を招くであろう』


 ベルノルトが上記のような噂を流すことを相談すると、ハシムは当初難色を示した。アースルガム解放軍とイスパルタ軍の関係は秘匿されている。勘付いている者はいるだろう。だが今のところ、両者の関係は大っぴらにはされていないのだ。それを勝手に公表してしまうのはまずい、とハシムは言った。


『ただの噂だ。なにも証拠まで示そうというわけじゃない』


『有効だとは思いますが……。西征軍の戦略にも影響があるやもしれませぬぞ』


『……ではイスパルタ朝の第一王子として命じる。ハシム、噂を流せ。全ての責任はわたしが負う』


 結局、ベルノルトはそう言ってハシムを押し切った。隠密衆はその創設にシェリーが大きく関わっている。すでに手を引いたとは言え、今でも彼女の影響力は大きい。そしてベルノルトはそのシェリーの息子だ。本来の身分を持ち出されては、ハシムも抵抗は難しかった。


『……御意。ですが噂を流すなら、解放軍のネットワークを利用するべきかと。さすれば旧アースルガム領内、瞬く間に広がりましょう』


『そうだな。では実際に動くのは、ルドラ殿の了解を得てからだな』


 畏まるハシムに、ベルノルトは一つ頷いてそう応じた。そして軍議にて噂の件は了承された。ハシムはさっそく、手筈を整えるために動き始めている。その様子を見守りながら、ベルノルトは内心でこう呟いた。


(打てる手は打った、つもりだ……)


 此度の戦は勝たなければならない。それも、イスパルタ軍の手を借りることなく。そうでなければ、独立国としてのアースルガムは再興できないだろう。ベルノルトはそう思っている。


 イスパルタ朝の立場から言えば、アースルガムをわざわざ独立国として再興させる必要はない。旧領を与えて一貴族として遇すれば、それで十分に約束は果たしたと言えるだろう。


 貴族で収まりが悪いなら、公国でもよい。ともかく旧領の回復と、それに見合う立場を与えれば良いのだ。むしろ実力の上でも形式の上でもアースルガムを下に置くことで、イスパルタ朝の権威はさらに高まるだろう。


 だがそれはサラに取って最善の結果とは言えない。彼女は「アースルガムの女王になる」と言ったのだ。その道を潰えさせたくはない、とベルノルトは思っている。そうでなければ、友達甲斐がないではないか。


(「俺がいる」とは、言えなかったけど……)


 それはサラが「さみしい」と言って泣いたときのことだ。ベルノルトは彼女に「俺がいる」とは言ってやれなかった。


 だからこそ、というのは変かも知れない。だがそれがベルノルトの正直な気持ちだ。彼はサラの未来を狭めたくないのだ。そのためにできる事は何でもするつもりである。


(せっかく……)


 せっかく王家に生まれたのだ。利用できるものは利用しよう。それで責任を問われたならばその時は仕方がない。さっさと臣籍に下れば良いだろう。どうせ王位を継ぐこともないのだから。ベルノルトは肩をすくめつつ、そう思った。



 ○●○●○●○●



 メヘンガル城には徴兵された者たちが続々と集まってきている。イシャンはその様子を見下ろすが、しかし彼の表情は険しい。兵達の士気はお世辞にも高いとは言えない状態だったからだ。


 その理由は幾つかある。第一にイシャンは侵略者側の人間だ。徴兵された現地住民達からすれば、どうしても反発を覚える。それでもヴェールール併合後に善政が敷かれていれば、住民達は協力的になったかも知れない。しかしマドハヴァディティアは戦費確保のために重税を課したし、メヘンガル城の兵士たちはその尖兵だった。心証が良いはずがない。


 そのために「昔は良かった」と、併合前の生活を懐かしむ住民は多い。実際、併合前の方が税は安かったし、戦争にかり出される頻度も少なかった。それが今やどうか。マドハヴァディティアもクリシュナもラーヒズヤも、戦争ばかりしている。その負担は結局の所、住民達にのし掛かるのだ。今回の徴兵を含め、うんざりしている者は多かった。


 もちろん全部が全部、支配者のせいというわけではない。誰が支配者になっても、同じ結果になった部分はあるだろう。だが住民の側からすれば、生活が苦しくなったのは全てその時の支配者の責任なのだ。


 そこへ、「アースルガム解放軍」である。解放軍について具体的なことを知っている住民は、実のところそれほど多くない。だが「名前くらいなら聞いたことがある」という者は結構な数に上る。「彼らが解放者となって生活を楽にしてくれるのではないか。少なくともアースルガム時代に戻してくれるのではないのか」。そう期待する者は多かった。


 だがイシャンはそのアースルガム解放軍と戦えという。どうして自分たちの生活を苦しくした者たちのために戦い、生活を楽にしてくれるかもしれない者たちを倒さなければならないのか。士気が上がるはずもなかった。


 またさらに、ある噂が兵士たちの士気を押し下げていた。「アースルガム解放軍はイスパルタ軍を後ろ盾としている。一度矛を交えるような事があれば、例え一時は勝ったとしても、必ずやイスパルタ軍の苛烈な報復を招くであろう」という噂だ。この噂は徴兵が始まって少ししてから、急速に広がっていた。


 噂の真偽は分からない。だがイスパルタ軍の強さは、西方にも轟いている。何しろあのマドハヴァディティアに勝ったのだ。そのイスパルタ軍から報復されるかも知れない。その可能性は兵士たちを震え上がらせていた。


 この噂を広めていたのは、ハシムをはじめとする隠密衆とアースルガム解放軍の構成員たちだ。特にオムの指示を受けてメヘンガル城に入り込んだ者たちは、周囲に対ししきりにこの噂を吹き込んだ。そのため特にメヘンガル城の中で噂が広がっており、すでに知らない者がいない状態だった。


 当然ながらこの噂はイシャンの耳にも入っている。そのせいで彼自身さえ、戦意が高揚しているとは言いがたい状態だった。彼はその立場上、末端の兵士らが知らないような事も知っているからだ。


 ヴェールールの公式見解では、アースルガムのサラ王女は死んだ事になっている。だが人の口に戸は立てられないもので、「実は生きていてイスパルタ朝に亡命した」という話がまことしやかに囁かれていた。


(もしもその話が本当であったなら……)


 アースルガム解放軍の後ろにはイスパルタ軍がいる、という話は十分にあり得る。イシャンはそう思った。そしてその場合、彼が旧アースルガム領をまとめ上げて独立を宣言しても、イスパルタ朝はそれを決して認めないだろう。


 旧アースルガム領をまとめて差し出せば、あるいはそれなりの地位を得られるかも知れない。だがここでアースルガム解放軍と戦えば、その選択肢さえも潰えるだろう。イスパルタ軍はその威信に賭けてイシャンを潰しに来る。その結果がどうなるかは、火を見るより明らかだ。


「まあ、それも噂が本当であればの話だ」


 虚勢を張るように、イシャンは一人そう呟いた。ただ噂が偽りであったとしても、ここでイスパルタ軍の名前が出てきたことは見逃せない。


 そもそも現在、この西方地域は混乱しているのだ。少し前まではクリシュナとラーヒズヤが争っていた。そんな中、突如としてマドハヴァディティアが帰還し、それを契機として二人は手を結んだのである。


 決戦が行われ、マドハヴァディティアが勝利したが、クリシュナもラーヒズヤもいまだに健在である。イスパルタ軍の立場からすれば、西方へ介入する隙が多々あるように見えるだろう。


 実際、イシャンがラーヒズヤの周辺を探らせた際にも、イスパルタ軍の西征が近いことを伺わせる情報がちらほらとあった。つまりイスパルタ朝は西征の意思を隠そうともしていない。彼らは遠からず、西方へ乗り込んでくる。これは確実だ。


 これを噂と絡めて考えてみる。すると「アースルガム解放軍は負けた場合、イスパルタ軍に接近する」という可能性が見えてくる。つまり現在まだイスパルタ軍を後ろ盾としていなくても、将来そうなる可能性があるというわけだ。そしてその可能性は十分高いように思われた。


 そうなれば結局、イシャンがイスパルタ軍と敵対的な立ち位置に置かれてしまうことに変わりはない。彼にとっては大変不本意なことだ。降伏すれば、その時点で実効支配している地域は認めてもらえるかも知れない。だがイスパルタ軍が来るまでに旧アースルガム領を平定できるのか。だができたとして、噂が真実であればかえって危険だ。


(ならば……)


 ならばいっそのことこのまま動かず、シークリー周辺の治安維持に専念してはどうか。兵を集めたのも、治安維持の為と説明できる。アースルガム解放軍に対しては、「戦う気はないが、治安を乱すことはまかりならぬ」と使者を送っておく。これなら、少なくともイスパルタ軍の心証を損ねることはない。


「いや、だが……」


 正直に言って、イシャンは気が進まなかった。これは彼にとって一生に一度のチャンスなのだ。それなのに何もせず、ただ現状維持に甘んじるのか。その選択は、まさに苦虫を噛みしめるほどに苦い。


 イシャンはこれまで目立たない人生を送ってきた。メヘンガル城で留守居役を任される程度には出世したが、しかしそもそもメヘンガル城は辺境の城砦。そんなところに送られた時点で、出世街道の本筋からはだいぶ外れている。


 あるいは中途半端に出世した弊害なのか。チャンスさえあれば自分はもっと上に行けたはずだと、彼はこのところずっとそう思っていた。つい先日も、彼は例の決戦に加わることができなくて悔しい思いをした。まあ、ラーヒズヤは大敗したので結果だけ見れば行かずに済んで良かったわけだが。


 とはいえ、メヘンガル城から出陣した時点でそんなことが分かるはずもない。あの時イシャンは、兵を率いて出陣する城主を妬んだ。不当にも彼が自分のチャンスを奪ったとさえ思った。その気持ちは「ラーヒズヤ、大敗」の報を聞くまでくすぶり続けた。


『次こそはチャンスをモノにしてみせる』


 酒を飲みながら、イシャンは何度もそう呟いた。だがいざチャンスが目の前に現われると、彼はそれを掴むべきか否か迷っている。そしてイシャン自身はと言えば、そんな自分に戸惑いや不甲斐なさを感じるほど、自分自身を客観視できてはいなかった。


 今ならばまだ引き返せる。今ならまだラーヒズヤに叛いたわけでも、イスパルタ軍に楯突いたわけでもないのだ。だが引き返してしまえば、自分がそこまでの人間だったと認めることになる。何よりこれほどのチャンス、この先イシャンの人生に二度と訪れないだろう。


 イシャンは悩み続けている。そしてその間にも、兵は集まっている。だが城内の雰囲気は(いくさ)前の高揚からはほど遠い。城内でしきりに囁かれる噂のせいだ。大将も兵士も士気が上がらないまま、準備だけが整おうとしていた。



 ○●○●○●○●



 春の足音が聞こえ始めた季節。イシャンはついに兵を動かした。これらの兵を「イシャン軍」と呼称する。ただし彼はメヘンガル城の全軍を動かしたわけではない。城に一〇〇の兵を残した。


「城を空にするわけにはいかぬ」


 それが表向きの理由だったが、実情は少し違う。要するに著しく士気の低い者たちを残したのだ。この時点ですでに、イシャンは配下の兵を統制できなくなっていたと言っていい。他の兵士たちもそれが分かっているから、出陣してもイシャン軍の士気は低かった。


 さてイシャン軍が出陣したことを知ると、ルドラもカリカットから出陣した。その数四五〇。アースルガム族が騎馬三〇を出し、さらに山守衆が追加で二〇を出している。彼らはアースルガム解放軍を名乗った。


 余談になるが、アースルガム解放軍が公然とその名前を名乗り実戦に赴いたのはこれが初めてである。カリカットの街を攻略してたのは、解放軍の作戦と言うより山守衆の作戦だった。だから特にオムなどは、この初陣にかける想いが強い。それなのにルドラが大将を務めたものだから、それを後で聞いたアーラムギールはたいそう悔しがったという。


 さて、メヘンガル城とカリカットのほぼ中間地点で両軍は相対した。ベルノルトはすぐにでも戦端が開かれるものと考えていたが、その予想は外れた。戦端はなかなか開かれず、両軍は睨み合ったまま二日三日と時間が過ぎた。


 その間、特にアースルガム解放軍は何もしなかったわけではない。アッバスが騎馬隊を率い、威嚇と牽制と挑発をかねて一度仕掛けた。突撃したのではなく、馬を駆けさせながら弓矢を放ち、一撃離脱したのだ。反撃の矢はまばらで、これ以降、イシャン軍は面白いように縮こまった。


「敵軍には、騎兵の姿が見えませぬな。さすがに大将まで徒歩ということはないのでしょうが……」


「だがこちらには騎馬隊がある。イシャンも簡単には動けますまい」


「これならば勝てますぞ。仕掛けるべきです!」


 オムはそう主張したが、ルドラは数で勝る相手に自分から仕掛けることを躊躇った。それで睨み合いが続いた。夜襲をかけるという案も出たが、残念ながら練度が足りない。実行には移されなかった。


 さて一方のイシャン軍である。実のところ、イシャンはまだ迷っていた。そもそも彼は決戦をするつもりで兵を動かしたわけではないのだ。彼が兵を動かしたのは、カリカットを威圧するためだった。


 脅しつけ、形ばかりでもよいので自分に臣従させる。アースルガム解放軍の方から降伏してきたという形なら、イスパルタ軍に睨まれることはない。彼はそう考えたのだ。


 いかにも中途半端な戦略だ。それでもイシャンが上手く行くと思ったのは、彼がカリカットの戦力を過小評価していたからである。彼はアースルガム解放軍の戦力を多くても二〇〇と見ていたのだ。


 彼我の戦力差は二倍以上。この状態で解放軍が打って出てくるはずはなく、そしてカリカットの城壁は低い。肉薄すれば勝利は確実で、脅しつけて少々の慈悲を見せれば降伏するだろう。イシャンはそう思っていたのだ。


 しかし彼の「楽観的願望」は外れた。アースルガム解放軍は四〇〇以上の兵を動員し、さらにカリカットから打って出てきてイシャン軍と相対した。イシャン軍は数で勝っているが、解放軍は当然それを承知の上だ。つまり彼らの士気は高い。これを撃破し得るのか。イシャンは自信を持てなかった。


 しかも解放軍は騎兵を従えている。歩兵が騎兵を振り切るのは不可能だ。撤退しようとすれば背中を襲われ、甚大な被害を出すだろう。イシャン軍はそのせいでますます動けなくなった。そして動けずにいるために味方の士気は下がり、そのためにまた動けなくなる。イシャン軍は悪循環に陥っていた。


「どうして、どうしてこうなった……!」


 血走った目をしながら、イシャンは誰にともなくそう呟いた。客観的に見れば、迷った挙句に決断を下せず、正しい情報ではなく自己の願望に基づいて行動したため、とでも言えるだろうか。だが彼の周りにそれを指摘してくれる者はいなかった。彼はただ、自分の運の悪さを恨んだ。


 戦端がまだ開かれていないのだから、交渉して事を収めるという道もあった。だがこうして相対した以上、アースルガム解放軍が戦わずに降伏することはありえない。講和のためにはイシャンの側が折れる必要がある。そして彼はそれを決断できなかった。


「敵も仕掛けてこない。敵は我らを恐れているのだ。このまま情勢が変化するのを待つ」


 イシャンは自分に言い聞かせるようにそう言った。彼は一体どんな情勢の変化を見込んでいたのだろうか。後世の歴史書には何も書かれていない。それでも確かに情勢の変化は起こった。ただしそれは彼の望んだ形ではなかった。


ハシム「シェリー様、ご子息は立派になられましたぞ。……少々厄介な方向に」

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― 新着の感想 ―
[一言] サラもイシャンも似たような存在なのかもね。サラの方が伝手がある分やや上なだけで。
[一言] ベルノルトは余り有能じゃないね汗 アースルガムにかなり個人的な感情で肩入れし過ぎているし、そんなに肩入れしたところでイスパルタ王国にメリットが大して無いんだよねぇ……。 ほんの少し?かなり微…
[良い点] ベルはいい意味で割り切りもできるようになり、肝が太くなりましたね。王子として使えるものは使うと言いつつ、いざとなれば臣籍降下して王子なんてやめてしまってもいいと思えるのは、王子という枠から…
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