始まりのスタンピード
ランヴィーア王国。ロストク帝国の東に位置する内陸国だ。国土は六一州。ロストク帝国には一歩及ばないものの、十分な強国と言える。
ランヴィーア王国とロストク帝国は同盟を締結している。そのため現在、王都フォルメトには、皇帝ダンダリオン一世の三男フレイミース皇子が留学していた。そのような背景もあり、今のところ二国間の関係は良好だった。
さてロストク帝国の東、ランヴィーア王国の南に、もう一国、イブライン協商国という国がある。国土は七八州。南東方向が大海に面しており、複数の良港を有し、海上交易によって栄えている。
さて、このイブライン協商国において、今年の頭ごろから異変が起こっていた。地震である。場所はランヴィーア王国との北西の国境付近。決して揺れの規模は大きくないものの、週に一、二回、多いときには四、五回も地震が起こるのだ。
異常な事態である。被害は出ていなかったが、天変地異の前触れではないかとその地方に住む人々は怖れた。だが、どうしてみようもない。できる事と言えば、せいぜい神に祈るくらい。人々が不安な毎日を過ごす中、その懸念はある意味、最悪の形で的中する。
大統歴六三六年六月十二日。小さな地震が頻発していたその地方を、大きな地震が襲ったのである。多くの家屋が倒壊し、死傷者も多数出た。悲しみにくれる中、頻発していた小さな地震はこの前触れであったのかと、人々は納得もした。
しかし本当の災厄が起こったのは、この大きな地震の後だった。地震を前触れにして起こった本当の災厄。それはモンスターの氾濫。すなわちスタンピードである。
大統歴六三六年六月十六日、巨大地震が起こってから四日後。その日、ヘングー砦はいつもと変わらない朝を迎えていた。ヘングー砦はランヴィーア王国の砦で、イブライン協商国との国境の北側を守っている。
ヘングー砦は重要な要衝である。地形的にはもちろんのこと、ここはロストク帝国との国境にも近い。まさに国防上の重要拠点だった。
ただ、ここ十年ほどは大きな戦いの舞台とはなっていない。ロストク帝国とは同盟が結ばれているし、イブライン協商国もそれを承知でここへ軍勢を送り込むようなまねはしなかった。ロストク軍によって側面を突かれることが目に見えていたからだ。
そしてランヴィーア王国の側としても、わざわざ内陸部へ侵攻する理由は乏しかった。彼らは塩田や貿易港、つまり海が欲しいのだ。それでここ十年ほどの間、イブライン協商国との衝突は、主に国境の東側で起こっていた。
そのようなわけで、ヘングー砦は重要拠点ではあるものの、半ば忘れられた存在となっていた。人員も削減され、最大で二万人が配備された守備兵は、現在五〇〇〇人程度にまで減らされている。城砦司令官職が花形であったのも今は昔。今では左遷先として使われるようにさえなっていた。
当然、兵士たちにも緊張感はない。ぬるい空気の中、今日もまた何事も起こらず過ぎていくのだろうと、誰もが思っていた。
しかし大統歴六三六年六月十六日。この日、ヘングー砦は歴史の表舞台に蹴り上げられることになる。モンスターの大群が、この地を襲ったのだ。
ヘングー砦の、今となっては過剰にすら思える高い城壁の上。そこにいる兵士たちは本来ならば警戒任務中なのだが、みなそれぞれに雑談に興じている。そんな中、一人の兵士がふと視線を南へやったとき、それに気がついた。
「……おい、なんだ、あれ?」
地平線に砂埃が、まるで陽炎のように立ち昇っている。兵士たちは雑談をやめ、身を乗り出し目を細めてその様子を窺った。
「あ、ああ……!」
望遠鏡を覗いていた兵士が、喘ぎ声をあげて後ずさる。その様子に尋常ならざるものを感じ、隊長は背中に冷や汗を流した。
「貸せッ!」
ひったくるようにして望遠鏡を受け取り、隊長はそれを覗きこむ。そして彼もまた「ああ……!」と声を漏らした。
「やばいぞ、こりゃ……! モンスターだ!」
望遠鏡を使っても、その姿はまだはっきりとは見えない。しかし人ならざる者どもが蠢いていることは分かる。しかも土埃を立てるほどの大群で、それぞれの大きさもまばら。となればやはり、モンスターしかいない。
「スタンピードだっ! 警鐘を鳴らせっ!」
「は、はいっ!」
隊長に怒鳴られ、兵士の一人が足をもつれさせながら鐘楼へ走る。そしてすぐに「カンッ、カンッ、カンッ、カンッ」という甲高い鐘の音が砦中に響き渡った。
「何事だ!?」
警鐘を聞き、砦中が騒がしくなる中、報告を受けた城砦司令官アルガムが城壁の上に到着する。司令官に望遠鏡を差し出しつつ、隊長は簡潔にこう言った。
「閣下、スタンピードです!」
「ぬぅぅ……!」
アルガムは望遠鏡を覗きこみ、そう唸り声を上げた。イブライン協商国の侵攻ならまだしも、スタンピードというのはまったく予想外の事態だ。しかしそれでも敵が攻めてくることに変わりはない。司令官はすぐさま指示を飛ばした。
「迎撃準備を整えろ! これは演習ではない! 繰り返す、これは演習ではない!」
城砦司令官からの明確な命令が下され、浮き足立っていた兵士たちもそれぞれに動き出す。一つ幸運なことがあったとすれば、アルガムが派閥争いに負けて左遷されてきた者ではあっても、しかし決して無能ではなかったことだろう。彼は必要な指示を次々に下し、迎撃の準備を進めさせた。
「狼煙を上げろ! 伝令を出して、スタンピードのことを周辺の村や街に伝えさせるのだ!」
「りょ、了解です!」
「副官、現在までの状況をまとめて王都へ報せろ! 新たなダンジョンが出現した可能性について示唆を忘れるな!」
アルガムの知る限り、この辺りにスタンピードを起こしそうなダンジョンはない。ということは、新たなダンジョンが出現したことが可能性として考えられる。だが普通、そんなことは示唆されるまでもなく、当然考えてしかるべき事柄のはずだった。
それなのに彼がわざわざ示唆するようはっきり指示したのは、ダンジョンがもたらす利益について、王宮の高官たちの意識を誘導するためである。ダンジョンはきちんと管理すれば枯れない鉱山と同じ。利に聡い奴らが、これに食いつかぬはずがない。
そして食いついてさえくれれば、援軍の派遣も速やかになされるだろう。目の前のモンスターの大群を退けるためには間に合わないだろう。しかしその後でダンジョン攻略を行うためにはその戦力が必要なのだ。
加えて、別の思惑もある。ダンジョン攻略が行われ、安定的な管理が行えるようになった後の話だ。その時、ここヘングー砦の重要性は大きく増すに違いない。ということは、城砦司令官たる彼の発言力や影響力も増すのだ。
それはつまり、実質的な出世と変わらない。いや、もしかしたら今回の功績で本当に出世できるかもしれないのだ。左遷され、もはや出世とは縁がないと諦めていたが、どうやら運が向いてきたらしい。無論、すべてはスタンピードを収め、生き残ることができたらの話だが。
「ハッ! ただちに報告書をしたためます!」
返事をして走っていく副官の背中を見送り、アルガムはさらにいくつか伝令の指示を出す。敵国の侵攻だろうが、スタンピードだろうが、重要なのは素早い情報の伝達だ。彼はそれを弁えていた。
各所への伝令を指示し終えると、迎撃準備が進む喧騒の中、アルガムは顎に手を当てて考え込んだ。迫り来るモンスターの大群。報告によれば、数は七〇〇〇~八〇〇〇程度。これを国内で暴れさせるわけにはいかない。ではいかにして撃退、いや殲滅するのか。脳裏に浮かぶのは、昨年、隣国で起こったスタンピードの事例である。
あの戦いではまず、防御陣地に篭ったアンタルヤ軍がモンスターの大群を受け止め、その足を止めた。そうしている間にロストク軍が左右に展開し、モンスターどもを包囲殲滅したのだ。
(やはり……)
やはり、モンスターを殲滅するには、これを包囲するよりほかないだろう。このヘングー砦の堅牢な城壁で敵を受け止め、しかるのちに左右に兵を展開して包囲するのだ。現状、取りうる方策はこれしかないように思える。ただ一つ、懸念があった。
砦に篭って防御を固めるのは簡単だ。しかしモンスターの側がそれに付き合ってくれるとは限らない。極端な話、素通りしてしまうかもしれないのだ。それだけは絶対に避けなければならない。
(となれば……)
となれば、囮が必要だった。モンスターどもが喰い付きたくなるようなエサを、置いておかなければならないのだ。問題はその役回りを誰にやらせるか、だ。
「……重装歩兵部隊を集めろ」
それしか選択肢はないように思えた。直ちに重装歩兵およそ一〇〇〇が集められる。整列した彼らを前に、アルガムはこう訓示を与えた。
「お前たちの配置は敵正面である。お前たちが外に出た後、正門は閉じられ、さらに土嚢でふさがれる。つまり、お前たちに退路はない! しかし、お前達の後ろにいるのは戦友である! 戦友を信じ、ただ前を向いて戦え! お前たちを置いて我々が撤退することは決してないっ!」
おおっ、という鬨の声が上がった。それを見てアルガムは一つ頷き、そして出撃の命令を下す。重装歩兵部隊が砦の外に出て隊列を組むと、直ちに正門は閉じられ、裏側には土嚢が積まれた。
その作業を横目で見つつ、アルガムはさらに別の部隊を招集する。軽装で足の速い歩兵部隊で、一〇〇〇ずつの部隊を二つ、合計で二〇〇〇。両翼たるこれらの部隊を左右に展開し、モンスターの大群を包囲する作戦だった。
「モンスターどもを殲滅し、我々が生き残れるか、それはお前達の働きにかかっている。祖国のため、戦友のため、諸君の奮戦を期待する!」
そう言ってアルガムは両翼を出撃させた。さらに虎の子の騎兵五〇〇を、いつでも動かせるよう、城壁の外で待機させる。残りは可能な限り城壁の上にあげた。予備戦力はほぼない。まさにヘングー砦の総力戦だった。
アルガムがこれらの準備を行っている間に、モンスターの大群がついに弓矢の射程に入った。司令官は舌打ちしつつ、すぐさま攻撃開始の命令を下す。幸い、弓兵の配置は完了しており、弓矢がまるで銀色の雨のようにモンスターの大群へ降りそそいだ。
城壁の外から戦闘の喧騒が聞こえてくる。どうやら重装歩兵部隊がモンスターと接触したらしい。ともかく素通りだけはされずにすみ、アルガムは小さく頷いた。そして編成が終わった軽装歩兵部隊を送り出す。
ただ、正門は土嚢で塞いでしまっている。それで彼らは正門の反対側にある、北門から外へ出た。そして左右に分かれて南下する。その際、北門は開けっ放しにした。これは万が一モンスターが北側へ回った場合、砦それ自体を巨大な餌箱にしてモンスターを誘引するためである。
軽装歩兵部隊の出撃を見送ると、司令官は戦いの指揮を取るべく、城壁の上にのぼった。眼下ではすでに、激しい戦いが繰り広げられている。
醜悪なモンスターどもが奇声を上げながら、怒涛のごとく次々に重装歩兵部隊へ襲い掛かっていく。しかし城壁の上からの援護を受ける重装歩兵部隊は、まるで花崗岩の岩盤のようにモンスターの攻撃を受け止めそして弾き返す。
なんとか、素通りされることだけは避けられた。そして今のところ、危なげのない戦いぶりだ。しかも、モンスターの数が報告で聞いていたほど多くはない。せいぜい五〇〇〇~六〇〇〇と言ったところだろう。これなら十分に包囲殲滅は可能なように思えた。
そして両翼たる軽装歩兵部隊が到着する。ただし、到着してすぐに攻撃を仕掛けさせることはしない。一旦足を止めさせ、足並みとタイミングを揃えてから、アルガムは両翼に突撃を命じた。
両翼に左右から叩かれ、モンスターは中央へ集まらざるを得なかった。そこへ城壁の上から大量の矢が撃ち込まれる。モンスターは確かに大群だが、しかし指揮官などいない。混乱が混乱を呼び、モンスターどもは前に進むことすらままならない状態だ。それを見てアルガムは騎兵を突撃させる。そして、これが止めの一撃となった。
終わってみれば、ほぼ完璧な包囲殲滅戦だった。しかしヘングー砦側の被害も大きい。外に出て戦った歩兵で、無傷の者は一人もいない。特に囮となって敵を受け止め、不退転の決意で戦い抜いた重装歩兵部隊など、およそ半数が戦死している。
仮にすぐさま次の戦闘があったとして、参戦可能な兵員は二五〇〇名もいないだろう。つまり戦力のほぼ半分を損耗したことになる。壊滅的な被害だった。
しかしそれでも。スタンピードをしのぐことができた。しかも近隣の村や町への被害は皆無である。ヘングー砦とそこを守る兵士たちは、その本分を果たしたと言っていい。
だがアルガムの表情はまだ硬い。彼は分かっているのだ。この災厄がまだ終わってはいないということが。スタンピードを起こしたダンジョン。そこを攻略しない限り、遠からずまたスタンピードが起こるだろう。それだけは、絶対に阻止しなければならない。
(スタンピードを起こしたダンジョン。まずはそれを探さねばならぬな……)
そう思いつつ、アルガムは城壁の上から南の方角を睨む。今回、モンスターの大群は南から北上して来た。そしてここヘングー砦の南と言えば、すなわちイブライン協商国の領土である。つまりスタンピードを起こしたダンジョンは、イブライン協商国の領内にある可能性が高いのだ。
そして、そのダンジョンを攻略するためには、まとまった数の兵を連れて行く必要がある。最低でも二〇〇〇は必要だろう。ランヴィーア兵二〇〇〇が国境を越えてイブライン協商国領内へ侵入するのだ。
(戦争になるな、これは……)
それは自明のことであるようにアルガムには思えた。しかしだからと言って引き下がるわけにもいかない。イブライン協商国がきちんとダンジョンの攻略を行ってくれるのか、分からないからだ。そして攻略が行われなければ、近いうちに次のスタンピードが起こってしまう。実際にスタンピードの被害を受けているわけであるし、ランヴィーア王国の国防上、指を咥えてみていろというのは受け入れ難い。
(なにより……)
なにより、ダンジョンは利権の塊だ。これを黙ってくれてやる手はない。「スタンピードを起こしたイブライン協商国に管理者たる資格なし」とでもいえば、宣戦布告の大義名分も立つ。戦乱の予感を覚え、アルガムは血が熱く燃えるのを感じた。
とはいえ、まさか無断で戦争を始めようとは思わない。モンスターの大群を殲滅したことを含めて情報をまとめ、関係各所にその情報を伝達し、さらに王宮に指示を仰ぐ必要がある。また伝令を走らせなければならないだろう。
やるべき仕事を思い浮かべ、アルガムは煩わしげにため息を吐いた。しかし必要な事柄である。しかもこの先、ヘングー砦はこの事態に対処するための重要な拠点となる。そこで仕事が滞っていれば、その悪影響は全体へ及ぶだろう。そして彼は無能者と呼ばれ、出世の道は閉ざされるのだ。
それは、避けたい。せっかく降って沸いた出世の機会。必ずやものにしてみせると意気込みつつ、アルガムは執務室へ向かった。
翌早朝、まだ日も昇りきらない薄暗がりの中、ヘングー砦から十数人の斥候がイブライン協商国側に向かって放たれた。スタンピードを起こしたダンジョンの所在を探るためだ。
そして三日後、ダンジョンが見つかったとの報告がアルガムにもたらされた。
アルガムの一言日記「出世したーい!」