空城の計(偽)1
第一次西方戦争が終わりイスパルタ軍が引き上げた後、マドハヴァディティアは幾つかの小国と都市国家を滅ぼした。そしてそれらの国々の王妃や王女たちを戦利品として自らの後宮に収めた。
反マドハヴァディティア勢力が立て続けに蜂起したとき、クリシュナは彼女たちと関係を持つことで、それらの勢力の後ろ盾となった。彼らをシンパとすることで、クリシュナは短期間のうちに自らの勢力を築いたのだ。
要するに、クリシュナが父王の臥所を暴いたのは、完全に打算によるものだった。だが後宮には見目麗しい女たちが揃っていたし、肌を重ねれば情もわく。クリシュナは一人の王女を愛してしまっていた。その姫の名をナディナと言った。
「……というわけだ、ナディナ。国元へ戻り、私を助けてはくれないか」
クリシュナは事情を説明してからナディナにそう言った。ニルギット平原における連合軍の敗北についてすでに知っているのか、彼女は意外にも取り乱したりはしなかった。それでも顔を強張らせているから、動揺がないわけではないのだろう。だが彼女が口にしたのは、クリシュナが思ってもみなかった言葉だった。
「でしたら陛下。陛下も一緒に参られませんか?」
「……それは、このガーバードを捨てて落ちのびよと言うことか?」
「はい」
ナディナは一つ頷いて首肯する。しかしクリシュナは首を横に振った。
「それはできない。ガーバードの城壁を頼らずして、どうマドハヴァディティア軍と戦えばよいのだ」
「ですが陛下。城壁を頼りにしたとして、それで勝てるとは考えておられないのでしょう? わたくし達が兵を集めたとして、それさえもイスパルタ軍が来るまでの時間稼ぎでしかないはずです」
ナディナはクリシュナから聞いた話をそのように理解していた。クリシュナも「それは違う」と反論できない。彼もまた同じように考えていたからだ。そして彼が反論しないのを見て、ナディナはさらにこう言った。
「敵軍を退けることができないのであれば、城壁が堅牢であろうともガーバードにどれほどの意味があるでしょうか? それよりはむしろ、陛下が自ら反マドハヴァディティア勢力を糾合なされたほうが、後の反攻に繋がるのではないでしょうか」
「ふむ……。そういう考え方もある、か……」
その言葉を聞き、クリシュナは真剣に考え込んだ。これまでは王都に籠城することばかりを考えていた。だがそれに拘る理由は、実のところそれほど多くない。であればガーバードから離れることも選択肢の一つとするべきではないか。そう考えてみると、彼は目の前が開けたかのように感じた。
「……君の言ったことをもう少しよく考えてみよう。ただやはり君は国元へ行ってくれ」
「はい。急いで支度をいたします」
そう答えたナディナに一つ頷いてから、クリシュナは後宮を後にした。そしてもう一度ハルバシャンとドゥルーヴを呼び出し、今度はガーバードを離れることについて諮問する。当初、二人は思わしくない顔をした。
「確かにナディナ様の言われることも一理あるとは思いますが、しかし……」
「左様。兵の数で劣る以上は、やはり城壁が必要と存じます。またガーバードには数万の民衆がおります。籠城戦ならば、これを戦力に組み込むことも可能でありましょう」
ハルバシャンとドゥルーヴはそう否定的に答えた。二人が渋い顔をするのも、クリシュナは当然だと思う。この劣勢下、堅牢な城壁に頼りたくなるのは普通だ。それで彼は一つ頷いてから、さらに自分の考えをこう述べた。
「二人の意見はもっともだと思う。だが、ガーバードに籠もる以上はどうしても内通の危険がつきまとう。卿らを疑っているわけではない。だがここはマドハヴァディティアが長年治めてきた都市だ。私よりも奴に親しんでいる者は多いだろう。そういう者たち全てに目配せをするのは不可能だ」
それを聞き、二人は難しい顔をして唸った。都市の住民が信用できなければ、籠城戦などたちまち破綻する。内側から城門が開かれてしまっては、城壁など意味をなさない。そうでなくとも内部で騒乱が起これば、それは自滅への第一歩だ。
「それに、反マドハヴァディティア勢力の者たちに後詰めの兵を出させるとして、誰がそれを指揮する? どう考えても、援軍が来るより敵が来る方が速い。
援軍がガーバードの中に入れなければ、別の指揮系統でこれを動かすしかない。だがそれを決めることができるのか? 時間がかかれば我々がもたない。かといってバラバラに動けば各個撃破される。戦力が無駄になるだけだ」
そもそも後詰めの兵が無事にガーバードの近くまで来られるのか、それさえも不明だ。マドハヴァディティアがそれを察知して一万ほどの兵を回せば、援軍はことごとく各個撃破されるだろう。
だが王都ガーバードを離れればどうか。クリシュナ自身が反マドハヴァディティア勢力を糾合すれば、少なくとも兵を無駄に損なうことはない。クリシュナ軍に組み込んでしまえば、指揮系統も一本化が可能だ。また籠城戦を想定しているであろう、マドハヴァディティアの思惑を外すことができる。
「ですが、マドハヴァディティア軍がただちに我が軍を追撃した場合、これを振り切れますかな……」
ハルバシャンが心配そうにそう呟く。最大の問題はそこだろう。マドハヴァディティアがガーバードの掌握を後回しにしてクリシュナ軍を追撃した場合、彼らは三倍近い相手と野戦で戦わなければならなくなる。そうなれば敗北は必至だ。クリシュナが生き延びたとしても、戦力差は絶望的なものになるに違いない。
「そこについては、確実なことは言えないな。だが敵軍は兵糧に不安を抱えているはず。であれば、補給拠点でもあるガーバードは確実に抑えたいはずだ」
ガーバードを捨てることは、ある意味賭けになる。クリシュナはそれを認めた。だがその賭けに勝てれば、ある程度の時間を稼ぐことができる。その時間があれば、反マドハヴァディティア勢力を糾合することや、ラーヒズヤ軍と改めて連携することが可能だろう。敵の戦力を分散できれば、戦いようはある。
それにもしかしたら、イスパルタ軍もその間に動くかも知れない。ともかく今必要なのは時間なのだ。態勢を立て直すには時間がいる。その時間を稼ぐためにあえてガーバードを投げ出すというのは、賢い選択肢ではなかろうか。
クリシュナが説明を終えると、ハルバシャンとドゥルーヴは難しい顔で考え込んだ。頼みの綱がイスパルタ軍である以上、彼らが動くまでの間、戦力の保持を最優先にするのは間違っていない。
賭けの要素があるのは事実だが、この状況下、安全安心な選択肢などそもそも存在しない。いや、実はたった一つだけ安全で安心な選択肢がある。ヴィハーンはそれをこのように指摘した。
「…………ガーバードを捨てるのであれば、選択肢はもう一つございます」
「ドゥルーヴ、それは何だ?」
「イスパルタ朝へ、亡命することです」
今ならばまだ、海路が使える。船でヘラベートへ向かえば、さすがのマドハヴァディティアも追っては来られまい。だがクリシュナは僅かに苦笑を浮かべて首を横に振った。
「ドゥルーヴ。私は自分が愚かな謀反人と呼ばれることは覚悟している。だが卑怯な臆病者と呼ばれるのは、我慢できん」
「イスパルタ軍を頼り、マドハヴァディティアを打ち破れば、艱難辛苦を乗り越えた名君と言われましょう」
「全軍を率いて行けるならばそれでもよい。だが船が足りん。集める時間もない。そもそも謀反を起こしておいて、危うくなったら逃げ出すような王を、兵達が再び迎えるはずもなし。そなたもそう思ったからこそ、今まで亡命を勧めなかったのではないのか?」
そう尋ねられ、ドゥルーヴは口をつぐんだ。それは彼が図星をつかれたことを意味している。ただ生き残るだけならば、亡命は有りだろう。だがクリシュナはそれを求めてはいない。
最終的に、クリシュナ軍は王都ガーバードを放棄することになった。全軍を率いて北上し、反マドハヴァディティア勢力を糾合して反撃を期することになる。ただ方針を決めたらすぐに出立、というわけにはいかない。
クリシュナはまず、予定通り後宮の女たちをガーバードから逃がして、それぞれの国元へ返した。その際、護衛を付けて、さらに持てるだけの宝物を持たせてやる。もちろん兵を集めることを求める書簡も持たせていて、後は彼女たちの手腕に期待することになる。
「陛下。それでは行って参ります」
「ああ。私もすぐに後を追う。また会おう」
クリシュナは忙しい仕事の合間を見つけてナディナを見送った。ナディナが寂しげに目を潤ませて彼を見上げる。クリシュナはきつく彼女を抱きしめた。そしてナディナも額を彼の胸に押しつけてそれに応える。
クリシュナにとって、ナディナを口説いたのも抱いたのも、全ては政治的な判断によるものだった。それが今は、ただただ彼女が愛おしい。
「こんなはずではなかったのだがな」と彼の頭の冷静な部分は自嘲する。だが心と身体は彼女の暖かな体温と甘い香りを貪るように求め続けた。
やがて二人は力を緩め、最後に口付けを交わしてから身体を離した。ナディナが馬車に乗り込むと、一〇〇名ほどの一行がぞろぞろと歩き出す。ナディナは馬車の窓から身を乗り出し、遠ざかるクリシュナの姿を目に焼き付ける。彼もまた馬車の姿が見えなくなるまでその場を動こうとしなかった。
後宮の女たちを送り出す以外にも、なすべき仕事は多々あった。ニルギット会戦の顛末とクリシュナ軍の今後の方針について、イスパルタ軍に報せなければならない。この連絡には当然ながら船が用いられた。
ただガーバードを放棄すれば、今後はこのようにして連絡を取り合うことはできなくなるだろう。船の拠点となる貿易港は、王都の南にあるのだ。クリシュナはそれをふまえた上で、「今後は一層の協力関係を求む」と書いた。
さらにクリシュナは、「マドハヴァディティアの暴虐を正すため、一日も早い来援を請う」とも書いた。これでイスパルタ軍は西方の情勢に介入するための大義名分を得たわけだ。
もっともこんなものがなくとも、イスパルタ軍は西方へ進軍してくるだろう。だが最初から協力的な姿勢を明確にしておけば、いきなり襲いかかられる心配をしなくて良い。これ以上敵を増やさないための、当然の一文だった。
「さて、これが吉と出るか、凶と出るか。これもある種の賭けだな」
書き上げた書簡を封筒に収め、クリシュナは苦笑気味にそう呟いた。イスパルタ軍は救世主となるのか、それとも征服者となるのか。前者となってくれれば良いが、クリシュナはその確信を持てなかった。
率直に言って、クリシュナはイスパルタ軍を信用しきれない。確かにこれまでクリシュナ軍とイスパルタ軍は基本的に協調姿勢を取ってきた。だが実際に肩を並べて戦った事があるわけではない。
それどころか、イスパルタ軍はマドハヴァディティア軍を西方へ解き放った、その張本人である。イスパルタ軍が停戦に応じなければ、マドハヴァディティアはヴァンガルで朽ちていたはずなのだ。
(それを責めるのは筋違いだと、分かってはいるのだがな……)
クリシュナ軍とイスパルタ軍は正式に同盟を結んだわけではない。そうである以上、イスパルタ軍が自国の都合を優先するのは当然である。クリシュナもそれは分かっている。
分かってはいるが、それでもやはり面白くはない。イスパルタ軍がクリシュナ軍のことをどう見ているのか、その本当のところがはっきりとしないからだ。
(マドハヴァディティアのことは、敵視していると思うのだが……)
しかしだからといって、「敵の敵は味方」という論法が成り立つのか、それは分からない。イスパルタ軍は単独でもマドハヴァディティアを討伐し得るからだ。そうである以上、あえて現地の勢力と手を結ぶだろうか。
むしろマドハヴァディティアを使って西方の土着勢力を一掃させた後、改めて彼を討つことで西方を丸ごと掌中に収めようとしているのではないか。クリシュナはその疑念を拭いきれずにいる。
「今戦っているのは、マドハヴァディティアだ」
自分に言い聞かせるようにして、クリシュナはそう呟いた。今の彼になりふり構っている余裕はない。征服者だろうと侵略者だろうと、利用できるモノは利用する。そうしてはじめて生き残ることができるのだ。彼は短く瞑目して腹を決める。そして信頼できる者を選んで書簡を託し、イスパルタ王への使者とした。
「急げよ。必ずやイスパルタ軍を動かしてくれ」
「御意!」
使者は数名の護衛を伴って南へ馬を駆けさせた。そして貿易港から船に乗って東へ、ヘラベートへ向かう。彼がヴァンガルでジノーファに謁見するのは、この六日後のことだった。
さて使者を送り出した後、クリシュナはさらに宝物庫を開放し、その中身を持ち出させた。今後の軍資金とするためだ。宝物庫だけでなく、王城内にある金目のものはほぼ全て持ち出させた。残して置いてもマドハヴァディティアの軍資金になるだけなので、遠慮はなかった。
ただ中には絵画や骨董品など、持って行くにはかさばるモノもある。クリシュナはそういうモノを金貨に換えさせた。売ったり、担保にして金を借りたりしたのだ。中には渋る商人もいたが、そこは武力で脅した。
持って行くのは宝物だけではない。それ以上に必要なのが兵糧だ。王都ガーバードにはニルギット会戦が長期化することを見越して、連合軍を養うための大量の兵糧が保管されていた。
これも残して置けばマドハヴァディティア軍が使うだけなので、クリシュナは全て持ち出すよう命じた。当然ながらクリシュナ軍は連合軍よりも少ない。これでしばらくは補給を受けずとも兵を養えるだろう。
持っては行かないが、しかし残してはおけないモノもある。人口や税収など、国を治める上で重要な情報が記された書類だ。クリシュナはそれらの書類を全て焼き払わせた。彼はいっそのこと王城ごと焼き払ってしまえば良いのではないかと思ったが、ハルバシャンはこう言って彼を止めた。
「空城の計を応用しましょう。上手くすれば、敵を足止めできます」
話を聞き、クリシュナはその策を採用した。そしてさらに検討した上で準備を進めるようにとハルバシャンに命じる。王都から落ちのびる上で、この作戦が成否を左右することになる。クリシュナはそう予感した。
そしてナディナを見送ってから三日後、クリシュナ軍は王都ガーバードを放棄して北へ向かった。向かうのはナルドルグ城。マドハヴァディティアも攻めあぐねた、堅牢な城である。
クリシュナに従う兵の内、実際に戦えるのはおよそ一万二〇〇〇。ニルギット会戦前と比べると、四〇〇〇ほども減っている。ただ全てが戦死したわけではなく、多数の負傷者や、また国へ戻した王妃王女らに護衛として付けた分もこの中には入っていた。
「…………」
クリシュナは後ろを振り返ってガーバードの城壁を見上げる。恐らくここへ帰ってくることはないだろう。彼はそう覚悟している。ただ不思議と寂寥を感じることはない。つまり王都は自分にとってそういう場所だったのだろう。クリシュナはそう思い、視線を前に戻した。彼はもう、後ろを振り返らなかった。
ナディナ「惚れさせたのか、惚れてしまったのか、それが問題だわ」




