停戦
マドハヴァディティアにとって、ラーヒズヤは右腕であり懐刀だ。そして今では最後の命綱となっている。
百国連合はすでに崩壊したと言っていい。群雄割拠の乱世に逆戻りした西方諸国を落ち着かせ、援軍を催してヴァンガルに後詰めする。それがラーヒズヤに任された仕事であり、彼以外には不可能な一大事業だ。
そして援軍を得てイスパルタ軍を打ち払ったあかつきには、ルルグンス法国はマドハヴァディティアのものになる。そこまでいかずとも、改めて和睦することは可能だろう。それで最低でも法国の北半分は得られる。そして相互不可侵条約を結んで時間を稼ぎ、その間に西方諸国を固め直す。それが、マドハヴァディティアが現在思い描く戦略だった。
「全て終わった時には、ラーヒズヤに一国与えねばなるまい」
マドハヴァディティアはそう考えている。ラーヒズヤの功績は大きなものになる。いっそのことヴァンガルを与え、東方の旗頭にしてしまおうかとさえ、彼は考えていた。イスパルタ朝との戦争は続くのだ。最前線には信頼できる者を置かねばならない。
そう重要なのは信頼である。マドハヴァディティアはラーヒズヤのことを大いに信頼していた。実の子供たちより、彼のことを信じ頼りにしていたことだろう。そしてラーヒズヤもそれに応えてきた。
だがそれでも、やはり譲れぬ一線というものはある。前述したとおり、首尾良くこの難局を切り抜けることができたら、マドハヴァディティアはラーヒズヤに一国を与えるつもりでいる。都市国家などと吝嗇なことを言うつもりはない。最低でも五州。イスパルタ軍との戦いで武功を上げれば十州でもくれてやろう。彼はそのつもりでいる。
国を建てさせる訳であるから、ラーヒズヤは王になる。「陛下」と尊称される立場になるわけだ。さらに五州といえば、西方諸国ではなかなか類を見ない大領である。十州となればそれ以上だ。名実ともに西方における二番手の立場と言って良い。
要するにそこまでなら、マドハヴァディティアにとっては許容範囲内なのだ。むしろ王を任命するとなれば、それは彼の権威の強化に役立つだろう。「王の中の王」という称号に実態を与えることになる。そしてだからこそ、彼はラーヒズヤの頼み事に不快感を抑える事ができなかった。
――――「王の中の王」の称号を、一時借用させていただきたい。
ラーヒズヤはそう書いて寄越してきた。事の発端には、ラーヒズヤが鎮撫する領域の統制が関わっている。彼はそれにたいそう苦労していた。
西方諸国には小国や都市国家が乱立している。そしてそれを治める者はだいたい「王」を名乗る。つまりラーヒズヤの統制下には多数の王がいるのだ。だが彼自身はマドハヴァディティア配下の一将軍に過ぎない。いくらマドハヴァディティアの名代とはいえ、ただの将軍が上位者面して采配を振るうのを面白く思わない王は多い。
また戦の中で協力したり手柄を立てたりした者たちの扱いも、ラーヒズヤを悩ませていた。西方諸国では独立の気風が強い。要するに彼らは、王になることを望んだのだ。功績からしてそれが適当な者もいる。だがラーヒズヤに王を任命する権限などない。だが正当に評価してやらねば、彼を見限ってクリシュナに鞍替えする者がでるだろう。
多数の王を統制するための名目を手に入れなければならない。ラーヒズヤがそう考えたのも当然だろう。その時、彼の頭に浮かんだ言葉は二つ。「大王」と「王の中の王」だ。西方諸国において、王を超越する存在と認められているのはその二つである。余談だが、その両方ともが根拠や後ろ盾を持たない、いわばただの俗称であることは、皮肉的と言えるかも知れない。
ラーヒズヤとしては、「大王」の称号を使うことはできない。それは大アンタルヤ王国イスパルタ朝の国王ジノーファのものだからだ。彼がジノーファを畏れ奉っているわけではない。要するに西方諸国の者たちはその称号に何の権利もないので、使ってもただ馬鹿にされるだけというわけだ。むしろイスパルタ朝に通じたと思われるかも知れない。
そうなると、ラーヒズヤが使える名目は一つしかない。つまり「王の中の王」の称号だ。ただしその称号は彼の主マドハヴァディティアのもの。勝手に使えば、それこそ反逆を疑われかねない。それで彼は「借用」という言葉を使ったのだ。
「王の中の王」の称号を、その権威を借りることで、配下の王たちを統御する。ラーヒズヤはそう考えたのだ。彼の下に多数の王がいることや、西方においては独立の気風が強いことを、マドハヴァディティアもまた承知している。それで「借用」という言葉を使えば、主君に自分の考えを理解してもらえるはず。ラーヒズヤはそう思っていた。
しかしマドハヴァディティアの受け取り方は違った。「王の中の王」の称号は彼にとって唯一無二のものであり、例え貸し与えるのだとしても、自分以外の誰かがそれを使うなど考えられないことだった。
「ラーヒズヤめ、俺に成り代わるつもりか」
ラーヒズヤからの書状を読み、マドハヴァディティアはそう吐き捨てた。そう、西方諸国では独立の気風が強い。大領を得たラーヒズヤが独立を考えないと、一体誰が言えるだろうか。現在彼が鎮撫する版図は、十州をはるかに上回るのだ。
マドハヴァディティアはラーヒズヤの要望をはねつけた。称号の借用を許さなかったのである。それどころか「さっさと援軍を送れ」と催促した。そうやってラーヒズヤを押さえつけようとしたのだ。彼は誰かが自分に成り代わることも、あるいは並び立つことも、断じて容認するつもりはない。彼の自尊心がそれを許さなかった。
さて、「援軍を送れ」と催促されたラーヒズヤは、自分がマドハヴァディティアの不興を被ったことを悟った。彼にとってそれは本意ではない。叛くつもりもなければ、独立するつもりもなかったのだ。彼は重いため息を吐いた。
催促された通り、援軍を率いてヴァンガルへ馳せ参じれば、マドハヴァディティアもラーヒズヤに二心がないと分かるだろう。しかしながら現実問題として、今はまだ十分な援軍を組織することができない。中途半端な戦力で後詰めしても、イスパルタ軍に蹴散らされるだけだろう。それでは状況はもっと悪くなる。
(だが……)
ラーヒズヤは険しい表情で考え込む。今すぐに動かなければ、マドハヴァディティアは彼への不信感を強めるに違いない。彼は今、試されているのだ。応えなければ、彼は主君に粛清されるだろう。
「理不尽な……」
ラーヒズヤは悲しくなった。そもそも全てはマドハヴァディティアのためだったのだ。主君の苦境を救うべく、彼はこれまで奮闘してきた。それなのにたかが称号の借用のために、疑われてしまった。これまでの働きはなんだったのかと、彼はやるせない想いに襲われた。
「陛下は、なぜ信じてくださらないのか……!」
マドハヴァディティアはラーヒズヤの忠誠よりも自らの称号を重んじたのだ。彼はそれが悔しかった。そんな時である。ある噂が流れ始めた。「ラーヒズヤが独立した」、もしくは「独立しようとしている」という噂だ。
前者はまったくのウソである。独立の宣言など、ラーヒズヤはしたことはない。後者についても、最近までそんなことは考えたことすらなかった。そもそも独立云々に関して、彼は誰かに相談したことすらないのだ。
それなのに噂が流れた。しかも広まるのが早い。恐らくはクリシュナが絡んでいるな、とラーヒズヤは思った。クリシュナの発案かは分からないが、積極的に広めたのは彼だろう。自分をマドハヴァディティアから引き離そうとしているのだ、とラーヒズヤは予想した。
(もしも……)
もしもこの噂がマドハヴァディティアの耳に入ったなら。そう考えて、ラーヒズヤはゾッとした。これが、例えば兵糧を送った直後であったなら、マドハヴァディティアは噂を一笑に付して取り合わなかっただろう。だが今はどうか。ラーヒズヤにとっては最悪のタイミングだった、と言わざるを得ない。
事ここに至れば、ラーヒズヤがマドハヴァディティアの信を取り戻す方法はただ一つ。援軍を率いてヴァンガルへ後詰めすることだけだ。だが前述した通り、それをしたところで軍事的には無意味だ。それどころか無用な損害しか生み出さないだろう。ラーヒズヤは戦死するだろうし、マドハヴァディティアもそれ以上戦うことはできなくなる。
また、仮にヴァンガルへ入ることができたとして、ラーヒズヤがマドハヴァディティアのために取り戻した版図は、また再びクリシュナの手に落ちることになる。十分な防衛戦力がなくなるからだ。そうなれば後が続かない。ラーヒズヤもマドハヴァディティアも、揃ってヴァンガルで討ち死にすることになる。全て無駄になるのだ。
主君の信を取り戻すことができたとして、しかし将来は暗澹としている。それでは何のために信を取り戻すのか分からない。そう考えてしまった瞬間、ラーヒズヤはマドハヴァディティアに仕える意義を失った。
(援軍を送らずに見捨てれば、陛下は死ぬな)
何しろ、戦力が足りなくて打って出ることができないから、マドハヴァディティアはヴァンガルに籠城しているのだ。そして籠城とは援軍を期待して行うもの。それなのに援軍が来なければ、ただ座して死を待つのと変わらない。
ましてジノーファはマドハヴァディティアの首を要求したという。この二人が和睦することはありえない。であればやはり、マドハヴァディティアは死ぬ。偉そうなことを言ってきてはいるが、彼の命は風前の灯火なのだ。
言い方を変えれば、マドハヴァディティアの命は今や、ラーヒズヤの掌中にある。彼が十分な援軍を率いて後詰めすれば、マドハヴァディティアは生き残るだろう。しかし見捨てれば、そのまま死ぬことになる。
そしてマドハヴァディティアの命を自分が握っていると思うと、ラーヒズヤはふと自分の中で彼の存在が小さくなるのを感じた。マドハヴァディティアともあろう者が臣下に命運を握られるとは。何とも情けない話ではないか。
(それに……)
それに、マドハヴァディティアは今このタイミングで「援軍を出せ」と命じてきた。それが無駄であることくらい、彼も分かっているはず。それなのに命じたと言うことは、遠回しに「死ね」と言われているのか、それともそれも分からぬ程に耄碌したのか。いずれにしても、もはや主君と仰ぐには価しない。
件の噂は、遠からずマドハヴァディティアの耳に入るだろう。もしかしたらもう入っているかも知れない。ラーヒズヤ軍も一枚岩ではないのだ。どこぞの王がヴァンガルへ急使を送っていたとしてもおかしくはない。
(もはや退路はない、か)
ラーヒズヤは胸中で嘆息気味にそう呟いた。生き残るためには独立するより他にない。時勢に流されてしまった感は強い。だが運命とはそういうものなのかも知れない。ラーヒズヤはそう思った。
○●○●○●○●
「ラーヒズヤが独立した」。もしくは「独立しようとしている」
その噂がヴァンガルの百国連合軍に与えた衝撃は小さなものではなかった。ちなみにこの時点で百国連合は瓦解していると言って良い。それなのに「百国連合軍」という呼称を使うのも妙な話だが、今はまだその呼称を使うことにする。
さて、噂の話だ。ラーヒズヤの独立は、ヴァンガルに籠もる百国連合軍にとってまさに凶報だった。これではもう、援軍も補給物資も期待できない。自分たちは見捨てられたのだと思い、自棄になる者が続出した。
そのせいでヴァンガルの治安が悪くなり、それがマドハヴァディティアへの不満に繋がる。徐々に徐々に、機運は高まっていた。何かが起ころうとしている。多くの人がそれを感じていた。
さて肝心のマドハヴァディティアはどうであったか。彼はラーヒズヤの裏切りにそれほどの衝撃は受けていなかった。むしろ「やはり」という思いが強い。自分がラーヒズヤを追い詰めたという意識は、彼にはなかった。
あるのは憤りだ。クリシュナもラーヒズヤも、マドハヴァディティアに叛いた。クリシュナはマドハヴァディティアの後宮を我が物としてその臥所を暴き、彼の面子を大いに潰した。ラーヒズヤは「王の中の王」の称号を狙い、彼に成り代わろうとしている。どちらも断じて許すことはできない。
こうなると、マドハヴァディティアにとって憎いのは、ジノーファよりもクリシュナやラーヒズヤの方だった。ジノーファは最初から敵だった。手強い敵で、第一次西方戦争の敗北は彼にとって痛恨事だった。しかしジノーファは常に堂々としており、その姿勢には彼も「敵ながら天晴れ」と感じ入ったものである。
だがクリシュナやラーヒズヤは裏切り者だった。マドハヴァディティアの懐にいた者たちが叛旗を翻したのである。それも彼の血と肉を奪って。その上、彼らは真正面からマドハヴァディティアと戦おうとはせず、イスパルタ軍によって彼を殺そうと企んでいる。卑怯で、意気地のないやり方だ。
(貴様らの思い通りに死んでなどやらんぞ……!)
マドハヴァディティアの中でムクムクと反骨心が湧き上がる。この瞬間、彼はイスパルタ軍よりもむしろクリシュナとラーヒズヤを敵と定めた。それはつまり、ヴァンガルを捨てる覚悟を決めた、ということだ。
マドハヴァディティアはジノーファのところへ使者を出した。これまでも使者は何度か出していたが、今回提示された条件はこれまでとはかなり違った。その条件は、おおよそ以下の通りである。
一つ、両軍は六ヶ月間休戦する。
一つ、百国連合軍はヴァンガルより退去する。
一つ、貨財・宝物の持ち出しは自由とする。
一つ、イスパルタ軍は五万人一ヶ月分の兵糧を提供する。
六ヶ月間の休戦は、その間に西方諸国をもう一度まとめるつもりなのだろう。あるいはそれ以上は「信じられぬ」と拒否されると思ったのかも知れない。ヴァンガルからの退去は当然として、新たな領土を要求しなかったのは「法国の国土はきっぱり諦めた」という意思表示だろう。貨財・宝物の持ち出し自由は、それに代わる成果ということだ。それに兵を動かすにも金はかかる。今のマドハヴァディティアには先立つものが必要なのだ。
面白いのは「五万人一ヶ月分の兵糧」だ。もしかしたら、百国連合軍は兵糧が足りていないのかも知れない。あるいは兵糧を提供させることで、イスパルタ軍の動きを多少なりとも制限しようと考えたか。面白いことを考えるな、とジノーファは思った。そして少し考えてから、彼の側の条件をこう提示した。
一つ、両軍は十日間停戦する。
一つ、百国連合軍はヴァンガルより退去する。
一つ、停戦期間中、百国連合軍はルルグンス法国において略奪・放火等を行わない。
一つ、大聖堂より貨財・宝物の持ち出しは自由とする。
一つ、五万人五日分を上限に、百国連合軍に対して兵糧を売却する。
マドハヴァディティアの首を要求しなかったのは、画期的と言っていい。つまり百国連合軍がルルグンス法国を諦め、なおかつ停戦なら交渉をまとめる用意がある、と返答したのだ。
ジノーファが提示した条件に対し、マドハヴァディティアは停戦期間を三ヶ月、売却する兵糧の上限を五万人十日分として再度交渉を行わせた。ジノーファは三ヶ月の停戦期間に難色を示したが、使者は彼にこう述べた。
「陛下はまず、クリシュナを討つおつもりです」
その上、使者は予定している行軍ルートまでも開示した。つまり「その間にラーヒズヤを討て。しかる後に雌雄を決しよう」というわけだ。ジノーファは使者を別のテントで待たせた上で、幕僚らと相談。その条件で合意した。合意内容はおおむね以下の通りだ。
一つ、両軍は三ヶ月間停戦する。
一つ、百国連合軍はヴァンガルより退去する。
一つ、停戦期間中、百国連合軍はルルグンス法国において略奪・放火等を行わない。
一つ、大聖堂より貨財・宝物の持ち出しは自由とする。
一つ、五万人十日分を上限に、百国連合軍に対して兵糧を売却する。
こうして両軍の間に三ヶ月の停戦が成立した。この間にマドハヴァディティアは麾下の兵を率いて西へ戻ることになる。第二次西方戦争はまた一つ、大きな節目を迎えようとしていた。
なお、教皇ミールワイスであるが、彼は三〇〇〇のルルグンス兵を率いてマドハヴァディティアに従い、西へ向かった。彼はヴァンガルに残らなかった。マドハヴァディティアがいなくなれば、ヴァンガルの住民から復讐されるだろう。住民らの手を逃れたとして、イスパルタ軍に捕まれば裏切り者として処断されるに違いない。それを恐れてのことである。もはやルルグンス法国に彼の居場所はなかった。
ラーヒズヤ「裏切ったのではない、見限ったのだ」




