炎帝1
「おっと」
倒れこむジノーファの身体を、ダンダリオンは片手で受け止めて支えた。彼の勝利にロストク兵たちが大歓声をあげる。ただ実際のところ、楽な勝利ではなかった。その証拠に彼の鎧には無数の傷がついている。ジノーファの鎧も同じで、まさに激闘だった。
「陛下、よくぞご無事で!」
幕僚たちが、笑顔を浮かべてダンダリオンに駆け寄る。そんな彼らに、ダンダリオンはジノーファの軽い身体を預けた。その際、厳重にこう言い渡す。
「縄を打つ事はまかりならぬ。賓客として丁重にもてなせ」
「ははっ」
幕僚の幾人かがジノーファを運んでいくのをダンダリオンは見送った。それから彼は改めてアンタルヤ軍が築いた防衛陣地に目を向ける。そこは不自然なほど不気味に静まり返っていた。そのことを不審に思いつつ、ダンダリオンは良く響く声でこう告げる。
「そなたらの王子は我らの手に落ちた。降服せよ」
返答はない。それどころかざわめきもない。まさかと思い、ダンダリオンは駆け出した。そしてその様子を見たとき、彼は乾いた笑い声を上げた。
「は、ははは……」
アンタルヤ軍の防衛陣地。そこには誰もいなかったのである。槍や兜、挙句には死んだ仲間の遺体まで使って、まだそこにいるかのように偽装していたのだ。静まり返っていたのも当然だった。
ダンダリオンは全てを悟った。ジノーファが演じた一騎打ち。あれはダンダリオンの、そしてロストク軍全体の注意を集めるための囮だったのだ。彼らの視線と意識が一騎打ちに集まっている間に、生き残ったアンタルヤ兵たちは息を潜めて撤退したのである。
追撃をと考え、しかしダンダリオンは首を横に振った。ここは国境に近く、アンタルヤ兵たちはすでに祖国の土を踏んでいるだろう。すでに太陽は山陰に隠れている。暗がりの中、土地勘のない他国で彼らを追うのは無謀だ。
なにより、ダンダリオンにはそんなことをしている余裕はなかった。一騎打ちの前にジノーファから言われたとおり、スタンピードを起こしたダンジョンの対処に当たらなければならない。彼らはまんまと逃げおおせたのだ。
「してやられたわ!」
国境近くの小高い丘の上。アンタルヤ王国の方向を見ながら、ダンダリオンはそう叫んだ。苛立ちや失意はない。むしろ愉快だった。こんなに愉快な気分になれるとは、最初に今回の報を受けたときには思っても居なかった。
□ ■ □ ■
――――アンタルヤ軍、動く。
その報がロストク帝国帝都ガルガンドーのダンダリオンのもとへもたらされたのは、大統歴六三五年二月十六日のことだった。ロストク帝国とアンタルヤ王国は五年間の相互不可侵条約を結んでおり、今年はその三年目なのだが、まさかという思いはない。もとより国家間の約定など破られるもの。ついに来たかと思いつつ、ダンダリオンは緊急の対策会議を開き、主立った者たちを召集した。
『しかしこの時期に軍を動かすとはな……』
『アンタルヤはロストクから見れば南国。もうすでに十分温かくなっているのだろうよ』
『いえ、むしろ我らの動きが鈍くなることを期待してのことと思われます』
『ならばその思い上がりを思い知らせてやらねばなるまい』
ダンダリオンはすぐさま直轄軍に出撃の準備を命じた。なお、直轄軍とはロストク帝国における常備軍のことである。その数は全体で十万。精兵揃いであるとして周辺国からは恐れられていた。
ちなみにこの十万というのは実戦部隊の数である。後方勤務も含めた組織全体の数は当然もっと多くなる。
さて翌日、後のことを長男で皇太子のジェラルドに任せると、ダンダリオンは直轄軍の騎兵三〇〇〇を直率して南へ向かった。旧フレゼシア大公領にはもともと歩兵一万、騎兵二〇〇〇からなる直轄軍の一軍が駐留しており、すでに動員の準備が進められている。ダンダリオンはまずこの部隊と合流した。そしてさらに、もう一万五〇〇〇の兵が増援として送られてくる予定になっている。
ダンダリオン麾下の戦力が一万五〇〇〇となった時、アンタルヤ軍五万はまだ帝国領内には侵入していなかった。これは別にアンタルヤ軍の行軍速度が遅かったからではない。ロストク帝国の諜報網は情報伝達速度が速く、またダンダリオンも当初騎兵のみを率いていたので移動速度が速かったのだ。
こうしてダンダリオンとロストク軍は、ガーレルラーン二世率いるアンタルヤ軍を待ち受けることに成功した。侵略者に行動の自由を与えなかったという点において、大きな成果であったといえる。実際、この時アンタルヤ軍はわずかばかりの略奪も行うことができていなかった。
無論、戦力差は大きい。増援が到着するまでは楽ではない戦いを強いられることになるだろう。ダンダリオンはそう予想していたのだが、しかし彼の予想は外れた。統歴六三五年二月二六日、一度ぶつかりロストク軍がその精強さを見せ付けると、アンタルヤ軍はあっけなく退いたのである。
あまりに簡単に撤退したので、ダンダリオンは当初罠を疑った。おびき寄せ覆滅する策があるのだろうと思い、彼は撤退するアンタルヤ軍を追撃しなかった。そして斥候を数多く放ちアンタルヤ軍の動向について調べさせその報告を受けたとき、彼は唖然とした。罠は存在せず、アンタルヤ軍は本当にただ撤退していたのである。
『奴ら、何をしに来たのだ?』
『分かりませぬ。ですが、このまま帰してやる必要もありますまい』
幕僚の言葉にダンダリオンは頷いた。ロストク軍はアンタルヤ軍の後を追い、そしてジノーファが守る防衛陣地へ迫ったのである。つまらない戦いになると内心では興醒めしていたのだが、終わってみればなんとも愉快な結末で、彼は上機嫌だった。
「……それで、我が軍の損害はいかほどだ?」
「戦死者は一七三名。負傷により戦線離脱を避けられない者が一六七八名。この内、手足を失うなどして戦線復帰を望めない者は二五六名です」
ジノーファを捕らえたその日の夜。ダンダリオンは自分のテントで若い幕僚から報告を受けていた。ロストク軍の被害について聞いた彼は、「ふむ」と呟いて顎を撫でた。
「参戦数でおよそ二〇〇〇減ったか」
「スタンピードの群れに後ろから襲われてこの程度ですんだのは、むしろ僥倖と言うべきでしょう」
「分かっている。それもこれも、あの小僧のおかげだ」
にやりと笑って、ダンダリオンはそう言った。「あの小僧」とはもちろんジノーファのことである。彼が共闘を申し出、さらには再編の時間をかせいでくれたことで、ロストク軍は最小限の被害で済んだのだ。
そのことに感謝の気持ちを抱かない者は、この陣中にはいない。彼の決断のおかげで自分は生き残ることができた、と考える兵は少なくないだろう。ただダンダリオンがジノーファにそれ以上の好意を持ったことを、報告を行う幕僚は察していた。
「ジノーファ王子のことをずいぶんと気に入られたようですね」
「おうよ。娘を嫁にくれてやってもいいくらいだ」
そう言ってダンダリオンは笑った。彼には今年十三歳になる、つまりジノーファと歳がつりあう娘がいるので、その言葉はあながち冗談とも言い切れない。若い幕僚は引き攣ったような笑みを浮かべた。
ダンダリオンは思い出す。ジノーファが震える脚をしかりつけて立ち上がったあの時の姿を。凛然として気高く、その眼には決意が溢れていた。決断力に優れ、武芸に秀で、兵を慈しむ心を持つ。
我が身を犠牲としたのは王太子としてどうかとも思うが、どのみちあの状況では、彼は死ぬか捕まるかのどちらかだったろう。それを考えれば最上の結果を出したといえる。本当に大した奴だとダンダリオンは思った。
「それで、あの小僧はどうしている?」
「報告によれば、まだ目は覚まされていないようです」
「ふむ。重ねて命じるが、丁重に扱えよ。賓客として遇せ」
「はっ、徹底させます。それで、次の報告ですが……」
夜は更けていく。ジノーファが目を覚ましたのは、次の日の朝のことだった。
□ ■ □ ■
ジノーファが目を覚ますと、そこは見知らぬテントだった。温かいベッドに横たわったまま、彼は自分がダンダリオンに敗れたことを思い出す。それからゆっくりと身体を起こし、テントの中を見渡して首をかしげた。顔を洗うための水差しと桶まで用意されている。彼は捕まったはずなのだが、しかし捕まったにしてはずいぶんと質のいいテントだった。
「ジノーファ殿下。お目覚めになられたでしょうか?」
「あ、ああ。いま起きた」
テントの外から声をかけられ、ジノーファは反射的にそう答えた。答えてからわずかに「しまった」と思ったが、もう遅い。「失礼します」と言って、声をかけたロストク兵がテントの中に入ってきた。
「お体の具合はいかがですか?」
「だ、大丈夫だ。なんともない」
「それはようございました。朝食をお持ちいたしましたので、どうぞお召し上がりください」
そう言ってロストク兵は手に持っていたトレイをジノーファに差し出した。トレイにはパンとバター、肉と野菜のスープ、干しイチジクを押し固めた菓子が載っている。ここが戦場であることを考えれば、かなりのご馳走と言っていい。ジノーファはそれを少し戸惑いながら受け取った。
「うん、ありがとう。それで、その……」
「朝食を召し上がられましたら、陛下のもとへご案内いたします。殿下がお尋ねになられたいことは、きっと陛下が教えてくださるでしょう」
「そう、か」
「はい。では、私はテントの外で待機しております。準備ができましたら、声をおかけください」
それでは、と言ってロストク兵はテントから出て行った。その背中をジノーファはやや呆然としながら見送る。そして再び一人になったテントの中で、彼はぽつりとこう呟いた。
「一体どうなっているんだ……?」
ジノーファは捕虜だというのに、あのロストク兵はかなり好意的だった。付け加えるなら、このテントもそうである。彼の王太子という身分が関係しているのだろうが、それにしても捕虜の待遇ではないように思う。もっとも彼自身、捕虜になったのはこれが初めてなので、過去の経験と比較することもできないのだが。
「…………。あ、おいしい」
ともかくジノーファは食事を食べることにした。用意された食事は結構おいしかった。
朝食を食べ終え身支度を整えると、ジノーファは待機していると言ったロストク兵を呼んだ。そして彼に先導してもらい、ダンダリオンのところへ向かう。陣中を歩いている最中、ジノーファはある噂を思い出して彼にこう尋ねた。
「行軍中、ダンダリオン陛下は兵士たちと同じ物を食べられると聞いたが、本当なのだろうか?」
「はい。本当です。殿下にお出ししたのも兵士たちと同じ食事だったのですが、お口にあったでしょうか?」
「うん、おいしかった。それにしても、ロストク軍は良いものを食べているんだな」
「まあ、国境近くとはいえ、ここは帝国国内ですからね。国外遠征に比べれば、兵站は安定しています」
周りを見渡せば、目に入るロストク兵の表情は皆明るい。良いものを食べているからなのだろう、とジノーファは思った。
さて、そんな話をしている内に、二人は陣中にあって最も大きなテントに到着した。案内役のロストク兵がジノーファが来たことを伝えると、彼はすぐに中へ通された。
「おお、ジノーファ殿。よくぞ参られた。ささ、そこへ座られよ」
ジノーファがテントの中に入ると、一番奥に座ったダンダリオンが快活な笑みを浮かべて彼を迎えた。ロストク軍の幕僚たちなのだろう、テントの中には彼のほかにも十人ほどがそれぞれ胡坐をかいている。ジノーファが勧められたのは、そんな彼らの真ん中。ダンダリオンの正面である。そこには敷布が敷かれていた。
ジノーファは背筋を伸ばすと、慎重にテントの中を進んだ。足もとはずいぶん柔らかい。おそらく絨毯が何枚も重ねられているのだろう。そして彼は敷布の上にゆっくりと腰を下ろし、そして胡坐をかいた。
ジノーファはダンダリオンの顔を改めて真正面から見る。燃えるような赤い髪は短く整えられており、彫は深く、顔立ちは端正だ。今年で四七歳のはずだが、それよりずっと若く、三十代の後半に見える。ジノーファの父ガーレルラーン二世は四二歳でダンダリオンよりも年下なのだが、顔だけ見比べれば彼の方が年下に見えるだろう。
「余がロストク帝国皇帝ダンダリオン一世である」
「アンタルヤ王国王太子ジノーファと申します」
堂々としたダンダリオンの名乗りに、ジノーファは臆することなくそう応じて頭を下げた。その対応に満足したのか、ダンダリオンは笑みを浮かべて一つ頷く。そして二、三、他愛のない言葉を交わした。
「それと、生き残ったアンタルヤ兵だが、どうやら見事に逃げおおせたらしい。朝になってから斥候を放ったのだが、影も形も見つけられなんだそうだ」
「そうですか。それは、良かった」
ジノーファは安堵の息を吐いた。自身は捕虜の身なのだが、彼は味方のアンタルヤ兵が無事に撤退したことを本当に喜んでいた。
「さてジノーファ殿。貴公にこうして来てもらったのは、まず改めて礼を言いたかったからだ。貴公のおかげで我が軍は壊滅的な被害を免れた。篤く感謝する。何か望みがあるのなら言うがいい。可能な限りは応えよう」
「……では、モンスターと戦い戦死したアンタルヤ兵を弔っていただけないでしょうか。共に戦った彼らが野ざらしのままと言うのは、忍びないのです」
ジノーファは少し考えてからそう望みを口にした。ここで自分を解放してくれと頼んでも叶わない事は分かりきっている。気がかりだったことを常識的な範疇で選んだつもりだ。それに対し、ダンダリオンは鷹揚に頷いてこう答えた。
「あい分かった。彼らは我らにとっても戦友である。手厚く葬ることを約束しよう。他にはないのか?」
「……それでは、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「スタンピードを起こしたダンジョンへの対処は、いかがされるおつもりでしょうか?」
ジノーファが意を決してそう尋ねると、ダンダリオンは「ふむ」と呟いて面白そうに笑みを浮かべた。そしてジノーファの意図を正確に察した上で、彼はこう答えた。
「スタンピードを起こしたのは、最近新たにできたダンジョンのようでな。現在、斥候を方々に放って件のダンジョンの場所を探らせている。位置が特定され次第、ここにある戦力を用いて攻略することになるだろう」
「そう、でしたか。では、ご武運をお祈り申し上げます」
ジノーファは安心した様子でそう言った。彼はダンダリオンがこのままアンタルヤ王国領へ逆侵攻をしかけることを懸念していたのだ。しかし今すぐに逆侵攻はしないとダンダリオンは言った。スタンピードを起こしたダンジョンへの対処を優先する、というのが彼の判断だった。
安堵した様子のジノーファを見て、ダンダリオンは一つ頷いた。そして彼を呼んだ用件の二つ目、本命とも言うべき話題をこう切り出す。
「さて、ジノーファ殿。実は余の方からも、貴公に聞きたいことがある」
「はい。何でしょうか?」
「そなた、聖痕持ちだな?」
ダンダリオンの視線がスッと鋭くなる。同席している幕僚たちもその可能性は考えていなかったのか、目を見開いてダンダリオンとジノーファを交互に眺めた。視線を集める中、ジノーファはただ曖昧な笑みを浮かべるのだった。