ハシム1
ある肌寒い夜。ベルノルトはふと目を覚ました。彼はそっと、寝具の下に忍ばせた剣に手を伸ばす。柄に手をかけ、足を曲げて動ける姿勢を作る。それから彼は緊張を押し殺した声でこう呟いた。
「……誰だ?」
「お見事でございます、殿下」
一人しかいないはずの室内で、聞き慣れない声がそう答える。ベルノルトはゆっくりとベッドの上で身体を起こした。真っ暗であったはずの室内には、小さな明かりが灯っている。
火の明かりではない。魔道具の明かりだ。明かりを持っているのは黒ずくめの人物で、先ほどの声からして男だろう。彼は部屋の隅に控えていた。明かりが弱いせいで、顔は見えない。
ベルノルトはまだ、剣の柄に手をかけたままだ。実際、彼はこの男のことを警戒していた。「殿下」と呼んだからには、この男は「ベル」の正体を知っていることになる。暗殺か拉致か、最悪の可能性がベルノルトの頭をよぎった。
とはいえその可能性が低いことも、ベルノルトは理解していた。暗殺にせよ拉致にせよ、やるならもうやっているだろう。そもそも、わざわざ明かりをつけて、自分の存在を主張したりはしないはずだ。それでベルノルトも大声を出すことなく、声をひそめてさらにこう問うた。
「何のようだ?」
「ジノーファ陛下より、手紙をお預かりしております」
「父上から?」
黒ずくめの男は「はっ」と答え、懐から手紙を取り出した。そして腰を低くしたままベルノルトに近づき、両手で書状を差し出す。ベルノルトはそれを受け取ると、まずは封緘を確かめる。封緘は双翼と双剣の図柄。間違いなく父王ジノーファからのものであることが分かり、ベルノルトはようやく緊張を解いた。
「隠密衆か?」
「御意」
「見事なものだ。こんなところまで忍び込んでくるとは」
ベルノルトはそう言って感嘆した。ここはマデバト山にある、山守衆の砦の一室だ。居場所を探り当てることも、忍び込んでくることも、決して容易ではなかったはず。彼は隠密衆のレベルの高さを垣間見た気がした。
「しかしなぜ、わざわざ忍び込んできたのだ?」
「一つは手紙をお渡しするため。もう一つは、山守衆を訪ねる前に、殿下のお立場などを確認しておこうと思いまして」
隠密衆の男がそう答えると、ベルノルトは納得した表情を浮かべた。要するに、設定と対応がチグハグなことにならないように、ということだ。
「なるほどな。それで、何を確認しておきたい?」
「……手紙は、お読みになられないので?」
「手紙は後でも読める」
「かしこまりました。しからば……」
男が幾つかの点を尋ね、ベルノルトはそれぞれに答えた。二人が話していたのはそう長い時間ではない。男は手早く確認を終えると、ベルノルトに恭しく頭を下げた。
「ありがとうございました。十分でございます」
「そうか。それで、いつ山守衆に接触してくる?」
「二日後に」
「分かった。日が昇ったら、他の三人にも話しておく」
ベルノルトがそう言うと、男は「お願いいたします」と言ってまた頭を下げた。そして「某はこれにて」と言って音もなく立ち上がる。もう行くのだろう。そう思い、ベルノルトは彼にこう声をかけた。
「では、二日後に“初めて”会うとしよう」
「はっ」
ベルノルトの物言いが気に入ったのか、男は僅かに笑ったようだった。それから彼は部屋のドアを僅かに開く。そして片足分だけ外に出たところで、彼はベルノルトの方を振り返ってこう告げた。
「それから殿下。エマ様のご懐妊の由にございます」
「……っ!?」
大声で叫びそうになり、ベルノルトは慌てて口を手で塞いだ。男の顔はよく見えないが、その目は間違いなく笑っている。そして彼はそのまま部屋の外へ出てドアを閉じる。ベルノルトが中途半端に手を伸ばす中、ドアが完全に閉じると、部屋の中はまた真っ暗になった。
ベルノルトは手を伸ばしたまま数秒固まっていたが、我に返ると手探りで明かりをつける。ちなみにコレも魔道具だ。そしてその明かりを頼りに、隠密衆の男が持ってきた手紙を読む。
封筒の中には、三通の手紙がまとめて入っていた。ジノーファからのものと、シェリーからのものと、そしてエマからのものだ。ベルノルトはそれぞれに目を通した。
どの手紙にも、特別重要なことは書かれていない。そういうことは隠密衆が山守衆の里へ来てから、彼らから聞けということなのだろう。実際、知らないはずの情報を知っていては不審に思われるだろう。
ジノーファの手紙には「危険なことはせず、身の安全を第一に考えるように」と書かれている。シェリーの手紙ではまずベルノルトの無事を喜んでいて、それから他の弟妹のことやエマの懐妊のことが書かれていた。逆にエマからの手紙には、自分の妊娠のことは一切触れられておらず、ただひたすらベルノルトの無事の帰国が祈られていた。
『どうかご無事にお戻り下さい。ただそれだけを願っています』
そう書かれた手紙を読んで、ベルノルトは胸が締め付けられる思いがした。エマから手紙をもらうのは、これが初めてである。手紙を書く必要もないくらい、会おうと思えばすぐに会える関係だったからだ。それが今は、会うことはおろかこうして手紙を届けることさえ満足にできない。
「エマ……」
ベルノルトは小声でそう呟いた。この手紙を書いたとき、彼女はどんな想いでいたのだろう。自分だって不安や心配事があっただろうに、そんなことは一切表に出さない。それがいじらしい。
「ああ、くそ。会いたいな……」
髪の毛を乱暴に掻き上げ、ベルノルトはそう呟く。夜明けまでの数時間、彼はエマとの思い出に浸った。
○●○●○●○●
ベルノルトが手紙を受け取ってから二日後。イスパルタ朝の使者が山守衆の里を訪ねてきた。リリィからそのことを知らされると、四人は驚いた様子を見せ、それから足早に砦の会議室へ向かった。
会議室の中には、ルドラとアサーヴと、もう一人見慣れない男がいた。どうやらこの男が使者らしい。彼はベルノルトら四人の姿を見ると、立ち上がって人好きのする笑みを浮かべ、少々大げさに手を広げてこう言った。
「ようやく見つける事ができました。全員ご無事で何よりです」
男の声は、二日前ベルノルトの部屋に忍び込んできた隠密衆と同じ声音だった。ということは同一人物なのだろう。エマの懐妊のことで驚かされたことを思い出し、ベルノルトは思うところがないわけでなかったが、それを顔に出すことはなかった。
「お手数をおかけしました。ですが、良くここにいると分かりましたね」
そう言って男に応対したのはメフライルである。そのことはすでに伝えてあるので、男にいぶかしげなところはない。それどころか彼はベルノルトやサラの方にほとんど視線を向けないまま、メフライルにこう応じた。
「そのことも含めて、お話しすることがたくさんあります。……お二人も、どうぞ一緒に聞いてください」
後半部分はルドラとアサーヴの方を見ながら、男はそう言った。もちろん、全員そのつもりだ。全員がイスに座ると、彼は一つ頷いてから話し始めた。
彼はまず、ハシムと自分の名前を名乗った。たぶん偽名だろう、とベルノルトは思ったがいちいち声には出さない。そしてハシムは次に、イスパルタ軍の動向について説明を行う。その内容は、しかし山守衆にとってあまり望ましいものではなかった。
「……つまりイスパルタ軍は長期戦の構え、というわけか」
「そうなりますな」
自分の言葉を肯定され、アサーヴは眉間にシワを寄せた。イスパルタ軍は現在、ヴァンガルに籠もる百国連合軍と、城壁を挟んで睨み合っているという。長期戦の構えであり、つまりイスパルタ軍がアースルガム再興のために西方へ足を踏み入れるのは、いましばらく先になるだろう。
果たしてそれまで山守衆は保つのか。本当にイスパルタ軍はアテになるのか。アサーヴの頭に疑念が浮かぶ。それを見て取ったのか、ハシムは次にファラフ商会のことを話した。ファラフ商会は現在、イスパルタ軍の指示と援助を受けて、ユーヴェル商会の代わりにアースルガム解放軍の指揮を取っているという。
「ファラフ商会はすでに、ヘラベートの総領事館と連携しながら、解放軍の活動を再開させています。そのおかげで私も、こうして皆様方の足取りを追えたというわけです」
ハシムはそう説明した。つまりアースルガム解放軍のネットワークを使い、ベルノルトらの足取りをたどったというわけだ。彼らは解放軍に接触しつつ山守衆の里まで来たので、そのネットワークさえ機能していれば、四人の足取りを追うのは難しくなかっただろう。
さてファラフ商会を頂点にすることで、アースルガム解放軍はまた再び動き始めた。西方諸国はいま、激動の時代に突入している。解放軍の活動再開は、そのなかで埋没していくのを避けるという意味で、朗報と言えるだろう。
ただ、ベルノルトは少し違うことを考えていた。「ファラフ商会はヘラベートの総領事館と連携している」とハシムは言ったが、実際には指示を受けて動いているとみるべきだろう。
さらに現在、ルルグンス法国にはジノーファがいる。彼は当然ながら、総領事館への命令権を持っている。その命令は最優先で実行されるだろう。つまりジノーファは、間接的にではあるが、アースルガム解放軍を指揮下に置いたと言っていい。
もともと、アースルガム解放軍はイスパルタ朝の意を受けて動くことが多かった。だがこれから解放軍はより直接的に、ジノーファの手足となって動くことになる。彼はこの段階からもうすでに、西方への目配せを行っているのだ。
(流石だ……)
手抜かりがないな、とベルノルトは思った。ジノーファはどこまで考えているのだろうか。ヴァンガルをマドハヴァディティアから取り戻すのは当然として、その先、つまり西方諸国にどれくらい関わる気があるのか。ベルノルトは少し気になった。
一方、ルドラはベルノルトとはまた別の視点でハシムの話を聞いていた。彼はイスパルタ軍がファラフ商会に資金援助を始めた点を重視した。つまり解放軍のネットワークにまた金が流れることになる。彼はその一部を山守衆に引き込めないかと考えた。それで彼はまずこう訪ねた。
「ハシム殿。それで解放軍はこの先、どのように動くことになりますか?」
「まずはこれまで通り、情報収集や噂の流布を中心に働いてもらうことになりましょう」
場合によっては有力者の調略も行ってもらうかも知れない。ハシムはそう答えた。何しろ西方諸国は動乱の時代に再突入したばかり。頼みたい仕事は次々と出てくるに違いない。
「つまり、実際に兵を挙げるところまでは求めない、と?」
「陛下はそのおつもりのようです」
「しかしハシム殿。今、西方諸国は揺れに揺れています。百国連合は瓦解したも同然。マドハヴァディティアもヴァンガルから動けない。今こそ好機ではありませんか?」
ルドラが身を乗り出してそう語ると、アサーヴが驚いたように彼を見る。もともと決起に積極的なのはアサーヴの方で、ルドラは逆に慎重論を唱える側だった。だが今、彼は決起に積極的な姿勢を見せている。
アースルガム解放軍が活動を再開したと聞いて、今なら統一的な意思決定ができると思ったのだろうか。アサーヴはそう考えた。彼も似たようなことを考えたからだ。その上で、例えばジノーファの方からクリシュナに圧力をかけてもらえれば、アースルガムの再興はすぐにでも叶いそうに思える。しかしハシムは困惑気味にこう答えた。
「そうはおっしゃいますがルドラ殿。混乱しているからと言ってそれが好機であるとは言えますまい。そもそもイスパルタ軍を待って事を起こすというのが、解放軍の基本方針であるはず。どうしてもと言われるなら止め立てはしませぬが、あまり性急に動かない方が良いと思いますぞ」
ハシムは、というよりイスパルタ軍は、アースルガム解放軍がこの時点で事を起こすことに前向きではないのだ。彼らの主眼は、あくまでもルルグンス法国の戦線に向いている。そのことを察して、アサーヴは少し苛立たしげにこう言った。
「クリシュナにアースルガムの再興を認めるよう、命じていただくことはできないのか?」
「できないことはないでしょうが、あまりお勧めはできませぬ」
「なぜ?」
「そのようにアースルガムを再興したとして、結局は実体のないものとなりましょう」
旗を立てれば、国家の再興を宣言することはできる。ヴェールールとイスパルタ朝がそれを認めれば、アースルガムの再興にあえて異議を唱える国はないだろう。だが国を再興したとして、次はその国を維持しなければならない。そして国を維持するためには、そのための組織が必要だ。
アサーヴが言うようにしてアースルガムを再興したとして、その後国を維持するためには、結局ヴェールール時代の役人たちをそのまま使わなければならない。それはつまりクリシュナの影響力が強く残ることを意味する。
いや再興の条件として、クリシュナがそれを求めるだろう。いくらイスパルタ朝の命令とは言え、ただで一国の独立を認めてやるほど、彼はお人好しではあるまい。実質的にヴェールールの属国と言うべきで、「再興しても実体がない」とはつまりそういうことだ。
「だが……」
「ハシム殿。イスパルタ軍やジノーファ陛下のことを疑っているわけではないのです。ただ現実問題として、我々は身をすり減らして今を耐えています。このままでは、我々はイスパルタ軍が来るまでに骨と皮だけになってしまいます」
アサーヴがさらに言い募ろうとするのを遮って、ルドラはそう山守衆の苦境を訴えた。ベルノルトは「少し大げさだな」と思ったが、嘘を言っているわけではない。実際、山守衆とアースルガム族はギリギリの状態で耐えている。
「ふむ。つまりこのままでは、決起する以外に方法がなくなる、と?」
「はい。そういう危機感が、山守衆のなかでも広がっています」
「なるほど。では、何かできることがありますか?」
「資金を、援助していただきたい」
ルドラはそう、要望を口にした。ハシムにそれを意外に思う様子はない。ある程度予想していたのだろう。彼はチラリとベルノルトたちの方へ視線を向ける。そして大きく頷いてからこう応えた。
「よろしい。分かりました。山守衆の皆様と、あとはカリカットの街の解放軍に、資金が渡るように手配しておきます。街の方々の方にも、事情をお伝えしておきましょう。それで十分な食料を調達できるようになるはずです」
ハシムは力強くそう請け負った。ルドラは笑みを浮かべる。彼にとっては満額回答だったと言っていい。
ハシム「虚を突く。これこそ隠密の極意」
ベルノルト「敵にやってくれ」




