過大な要求
ジノーファがルルグンス法国との国境に到着した。彼が率いているのは、イスパルタ朝近衛軍の精鋭五万。ただしこれとは別に、すでに四万の兵が動員されている。さらにもう一万が予備戦力としてクルシェヒルに置かれており、つまり彼は十万の兵を動かしたことになる。
ジノーファがクルシェヒルのはるか西方へやって来た時、戦況は大きく変化しようとしていた。マドハヴァディティアの本拠地、百国連合の盟主ヴェールールで謀反が起こったのだ。イスパルタ軍はその情報を、他でもない首謀者たるクリシュナ王子その人から報されていた。
クリシュナの思惑は明白だ。つまり、父王マドハヴァディティアをイスパルタ軍に始末させることである。そして自らはヴェールールを掌握し、父王に成り代わって西方諸国の盟主となる。
彼のその露骨とも言うべきやり方に、ジノーファとしても思うところがないわけではない。だが基本的に敵勢力の混乱は歓迎するべきことであり、ジノーファはそこに最大限つけ込むつもりだった。
そしていよいよジノーファ率いるイスパルタ軍がルルグンス法国へ足を踏み入れようとした時、ヴァンガルのマドハヴァディティアのところから使者が来た。和平交渉をしたいという。使者がその条件を口にしようとしたとき、ジノーファはそれを遮ってこう言った。
「イスパルタ軍と交渉したいのであれば、ヴァンガルの大使館の職員など、そちらが捕らえたイスパルタ朝の人間を返してもらおう。それが交渉を行う前提条件だ」
「よ、よろしいのございますか。マドハヴァディティア陛下は大聖堂のダンジョンのこと、すでにご存じでございますぞ」
使者は頬を引きつらせてそう言った。これは脅しだった。「ベルノルトが大聖堂のダンジョンを使ってヴァンガルを脱出したことはすでに把握している。その行方は探索中であり、早く和平交渉をまとめなければ彼が人質になってしまうぞ」。使者はそう言っていたのだ。
「言いたいことはそれだけか。ならば早くヴァンガルへ戻るがいい」
ジノーファは口元に嘲笑を浮かべてそう答えた。その態度を見て使者が焦る。まさかベルノルトはすでにイスパルタ朝本国へ帰還しているのか。その可能性が彼の頭をよぎった。だとすれば、今さっきの脅しなど本当に滑稽なだけだ。
もちろん、ベルノルトは行方知れずのままだ。つまりジノーファとしては、最悪人質になっていることも考えなければならない状況だった。だが使者が下手な脅しをかけてきたおかげで、現時点で彼が人質になっているわけではないことが分かった。そういう意味では、使者の脅しは本当に逆効果だった。
「それにしても父上。あの使者はどうしていっそのこと、兄上を捕らえていると言わなかったのでしょう? 脅すのであれば、その方が効果があると思うのですが……」
使者がすごすごと退席するのを見届けてから、アルアシャンがジノーファにそう尋ねた。ジノーファは柔らかく微笑んでこう答えた。
「その場合、和睦の条件には必ずベルノルトの身柄の返還が入る。だが交渉がまとまってもベルノルトが帰ってこないのであれば、謀られたとしてイスパルタ軍は軍事行動を再開する。それではマドハヴァディティアは本国の謀反を鎮圧しに戻ることができない。しかも再交渉は絶望的だ。戦の長期化も必至だろう。彼にとって、それでは意味がない」
むしろマドハヴァディティアは早急に交渉をまとめたいと思っているはずで、そのためにも「ベルノルトを捕らえている」というウソの脅しを使うことはできなかったのだ。ジノーファはアルアシャンにそう教えた。
「ですが陛下。これを契機にマドハヴァディティアがより一層、ベルノルト殿下の探索に力を注ぐことはないでしょうか?」
その懸念を口にしたのはユスフだった。ベルノルトを人質にされれば、イスパルタ朝の立場は悪くなる。ルルグンス法国は諦めなければならなくなるだろう。だがジノーファはその懸念を否定した。
「この期に及んでまだ見つけられていないと言うことは、マドハヴァディティアは法国国内を中心に探索を行わせているのだろう。なら、あの子が見つかる心配はない」
ジノーファはあえて楽観的にそう言った。彼がことさらベルノルトのことを気にすれば、それを慮ってイスパルタ軍全体の動きが鈍くなりかねない。それでは国益を損ねる。ジノーファの立場からすれば、それは許されないことだ。
とはいえ、ベルノルトのことを全く気にしないのも、それはそれで不自然だろう。それでジノーファは本隊をヴァンガルの北へ展開することを考えた。イスパルタ軍のこの動きを見れば、マドハヴァディティアはベルノルトがこの地域にいると考えるだろう。彼の本当の潜伏先からは目をそらすことができる。
さらにウスマーン将軍の部隊をヘラベートから北上させる。そうやってヴァンガルを南北から挟み撃ちにするのだ。同時にルルグンス法国におけるイスパルタ軍の実効支配地域を増やす。マドハヴァディティアは異国で孤立を深めることになる。
「反対です。良き案とは思えません」
そう言ってジノーファの方針に異を唱えたのはハザエルだった。その理由を彼はこう説明する。
「そもそもマドハヴァディティアがベルノルト殿下の行方を追えないとお考えなら、我々がカモフラージュのために動く必要はありません。また軍を二つに別けることは戦力の分散です。今の場合、敵の居場所ははっきりとしているのですから、戦力はむしろ集中して運用するべきです。まずは先遣隊と合流するべきであると考えます。そして一刻も早く、ヴァンガルに肉薄するべきです」
ハザエルはそう強く主張した。ジノーファはそこに少し不穏なものを覚える。それで彼にこう尋ねた。
「ハザエル。何を懸念している?」
「陛下。確かにマドハヴァディティアは交渉を申し入れてきました。しかし彼が本気で交渉する気があるのか、それは分からないのです」
「時間稼ぎ、だというのか?」
「はい。ではこの場合、奴は何のために時間を欲しているのでしょう?」
「撤退のため、ではないのか」
「陛下のおっしゃる通りでしょう。ですがヴァンガルから撤退すれば、奴は此度の戦で何の成果も上げられなかった事になります。前回に続き、今回も、です。ましてヴァンガルを空ければ、そこにはイスパルタ軍が入る。これは明白です。ならばいっそのこと、と考えてもおかしくはありませぬ」
「ヴァンガルを焼く、か……」
ジノーファが眉間にシワを寄せてそう呟くと、ハザエルは「御意」と言ってそれを肯定した。新たな国土を得られないのであれば、せめて富を奪い尽くす。そして敵に堅牢な城塞都市を使われないよう、全てを焼き払ってから故国へ帰還する。十分にあり得る可能性だ。
そしてマドハヴァディティアはやると決めたら徹底的にやるだろう。今回の場合、住民を捕らえて捕虜にするなどということはするまい。行軍速度が遅くなるからだ。彼は住民を殺すだろう。「ヴァンガルの大虐殺」などいう事態が起こりかねない。
「分かった。ウスマーンに伝令を出せ。ヴァンガルに向かう途中で、先遣隊と合流する」
ジノーファはそう方針を定めた。幕僚たちが「御意!」と返事を返す。イスパルタ軍の本隊は南へ迂回しつつヴァンガルへ向かうルートを取った。その途中で先遣隊と合流することになる。
イスパルタ軍の行軍は順調だった。詳細な地図はすでに持っていたし、ルルグンス法国の国民は協力的だ。先導役のルルグンス騎士はいなかったが、周辺の地理に明るい者は探せばすぐに見つかる。そして敵はヴァンガルから出てこない。イスパルタ軍は何にも妨げられることなく進んだ。
さてイスパルタ軍本隊がルルグンス法国へ入ってから五日後、再びマドハヴァディティアのもとから使者が来た。使者はジノーファの要求通り、ヴァンガルで捕虜にしたイスパルタ朝の人々を連れていた。その中にはフードとデニスの姿もある。
ジノーファはまず使者に席を外させ、解放された者たちから話を聞いた。そのなかでジノーファは法王フサイン三世とその家族が殺されたこと、またミールワイス枢機卿が敵に内通していたことを知った。
「良く励んでくれた。卿らの働きは決して忘れない。ひとまずゆっくり休んでくれ」
ジノーファはそう言って彼らをいたわり下がらせた。彼らの背中を見送ってから、ジノーファはマドハヴァディティアの使者を呼ぶ。そしてこう告げた。
「そちらが本当に交渉を望んでいることは分かった。条件を聞こう」
「ははっ。マドハヴァディティア陛下はこれ以上、イスパルタ軍と争うことを望んでおられません。それでヴァンガルより北をマドハヴァディティア陛下が、南をイスパルタ王が取られるのはいかがでしょう。その上で、五年間の相互不可侵を提案いたします。この間に百国連合とイスパルタ朝の絆を深めれば、我々は共存共栄することができましょう」
「ふむ。なるほど……」
それほど悪い条件ではないな。ジノーファは率直に思った。法王フサイン三世とその家族が殺されたことで、ルルグンス法国は滅亡したと言っていい。あとはその国土をどう切り分けるのかという話だが、この条件ならこれ以上戦うことなく、ヘラベートを含めた法国の南半分が手に入る。そう思いつつ、彼は口を開いて使者にこう答えた。
「では、こちらの条件を述べよう。……百国連合軍はルルグンス法国より完全に撤退。さらに百国連合より十州を割譲し、賠償金として金貨五万枚を支払ってもらおう。また相互不可侵条約を破ったことの責任として、ヴェールール王の首を差し出していただく」
「そ、そのような条件、とても呑めませぬっ!」
そう言って使者は悲鳴を上げた。駆け引きや演技ではない。交渉役としては失格な事に、素の感情が出てしまったのだ。とはいえそれも致し方ない。
ジノーファの要求はまったく受け入れがたいものだった。「無条件降伏せよ」と言っているに等しい。マドハヴァディティアは絶対に受け入れないだろう。使者にとってそれはあまりにも明白だった。
「イ、イスパルタ王よ。貴方様は和睦なさるつもりがないのですかっ?」
「そんなことはない。これでも譲歩している」
「譲歩っ!? 譲歩ですとっ! 一体どこを譲歩したというのですかっ!?」
「百国連合を滅ぼさず、存続できるようにしたではないか」
ジノーファはうっすらと酷薄な笑みを浮かべてそう答えた。それを聞き、使者が険しい顔をして押し黙る。イスパルタ軍はルルグンス法国を超えてさらに西へ進む用意がある。聞きようによっては、そのようにも受け取れる台詞だ。数秒の沈黙の後、使者は鋭い視線をジノーファに向けてこう言った。
「……ヴァンガルには、マドハヴァディティア陛下のもと、精強な大軍がおりまする。イスパルタ王は容易くこれに勝利することができるとお考えなのでしょうか? だとすればそれは……」
「そういう話ではないのだ、使者殿」
ジノーファはそう言って使者の話を遮った。彼の言いたいことがよく分からず、使者は怪訝な顔をする。ジノーファは使者にこう語った。
「ヴェールール王は相互不可侵の約定を破った。あまつさえ喪中のヴァンガルを強襲し、ヌルルハーク四世の死を辱めた。そのような者が和平や共存共栄を口にしても、わたしはそれを信じる事ができない。それでもなお交渉を求めるなら、信じるに足るだけの証を差し出してもらうしかない。つまりそういうことだ」
「で、では人質を……」
「人質などいらぬ。イスパルタ朝においては臣下にさえ人質を要求することはない。他国に対してはなおのことだ」
ジノーファははっきりとそう言った。だいたい、人質というのは気休めでしかない。歴史上、人質を差し出していたにも関わらず、叛旗を翻した例などいくらでもある。そしてマドハヴァディティアならそうするだろう。
それどころか、人質が殺されることを見越して、幼い王女を送ってくるかもしれない。それを殺したとなれば、ジノーファにも批難が出るだろう。もっとも、マドハヴァディティアが今すぐに差し出せる人質は、ナレイン王子くらいしかいないだろうが。
「で、ですがとてもおっしゃるような条件は呑めませぬ。やはり法国を南北で半分ずつというのが常識的なところかと……」
そう言って使者は食い下がった。しかしジノーファの返答は、彼の望むようなものではなかった。
「交渉し、条件をすり合わせたいというのなら、それも構わない。捕虜たちを返してもらったことだし、交渉には応じよう。だが必ず合意に至るとは約束できない。特にこちらとしては、ヴェールール王の首は譲れない条件だ」
使者はますます険しい顔をして、悔しげに唇を噛んだ。イスパルタ側がどうしてもマドハヴァディティアの首を求めるというのなら、どれだけ交渉を重ねたところで無駄である。
結局、使者はジノーファの出した条件を持ち帰ることにした。それ以外に方法がなかったとも言える。その際、「和平交渉中なのだから、軍事行動は控えて欲しい」と要請したが、ジノーファは「交渉が妥結したわけではないのだから、我々が掣肘を受ける謂われはない」と言ってそれをはねつけた。
使者がヴァンガルへ帰ると、イスパルタ軍は行軍を再開した。その途中、ジノーファは隣を進むアルアシャンが何か難しい顔をしていることに気付く。それで彼は息子にこう尋ねた。
「アル。何か気になることでもあるのかい?」
「父上。その……、父上の返答を聞いて、マドハヴァディティアはヴァンガルを焼いたりはしないでしょうか?」
「……その懸念は否定できないね」
やや苦い笑みを浮かべて、ジノーファはそう答えた。マドハヴァディティアが「交渉の余地なし」と判断すれば、彼がヴァンガルを焼く可能性は十分にある。ただイスパルタ軍が南寄りのルートを取った以上、北には彼の影響力が残ることになる。それを捨てることができるのか。その辺りが焦点になるだろう。
「本当に捕虜を返した以上、マドハヴァディティアはある程度本気で交渉をまとめようとしているのだろう。彼の望みは法国の北半分。つまり新たな国土という成果だ」
ヴァンガルを保持しつつ、新たな国土を得る。それが現状、マドハヴァディティアが望みうる最上の結果だろう。それが叶えば、今回の戦、彼は十分に「勝った」と言える。彼が欲しいのは要するにそれだ。
忘れてはならない。マドハヴァディティアの権威は、いま大きく揺らいでいるのだ。百国連合からは離反者が相次ぎ、息子さえも叛旗を翻した。あまつさえ、本拠地を失っている。ここで成果を出さずに撤退すれば、彼の権威は地に落ちるだろう。
そのことを誰よりもよく分かっているのは、マドハヴァディティア本人であるに違いない。そしてルルグンス法国で新たな国土を得ようとした場合、その要となるのはヴァンガルだ。だから彼はそう簡単にはヴァンガルを捨てることができない。ヴァンガルからの撤退は、彼の権威の失墜であるからだ。
今、マドハヴァディティアは交渉によって権威の失墜を避けようとしている。だがジノーファは過大な要求を突きつけた。特に自身の首など、彼は絶対に差し出さない。彼は難しい判断を迫られるだろう。
「マドハヴァディティアが自分の権威や面子を保つために、どの程度の成果が必要であると判断するのか。それ次第だろうね」
ジノーファは少し遠くを見るようにしながらそう言った。
アルアシャン「何の対価もなしに捕虜を取り戻した……」
ユスフ「これが、足下を見るって事です、王太子殿下」




