クリシュナ2
マドハヴァディティアの権力基盤は、言うまでもなく百国連合である。そこで反乱が相次いでいるという報せは、彼の顔を大いにしかめさせた。このままでは追加の増援がイスパルタ軍本隊との決戦に間に合わないかも知れない。
「クリシュナに反乱を鎮圧させろ。早急に、だ」
マドハヴァディティアがそう命じたのは当然であろう。すぐさま使者がクリシュナのもとへ送られた。使者はクリシュナにマドハヴァディティアの命令を伝え、さらに状況の説明を受けて帰ってきた。
使者を介して伝えられたクリシュナの方針は、必ずしもマドハヴァディティアの望むものではなかった。とはいえ全く的外れというわけではないし、何より現場のことは現場の人間が一番よく知っている。マドハヴァディティアは少々の不満を抱えながらも、それを呑み込んでクリシュナに任せることにした。
(だが、間に合わんな、これは……)
イスパルタ軍本隊がルルグンス法国に入るまでに、増援の第二陣は間に合わない。マドハヴァディティアは自分の見立てに顔をしかめた。
イスパルタ軍の本隊がやって来た場合、敵の戦力は合計で十万を超えるものと見込まれている。一方、百国連合軍の戦力は、先の敗戦の影響もあり、参戦可能数で五万六〇〇〇を割り込んでいた。
仮にルルグンス軍を動員したとしても、マドハヴァディティアの動かせる戦力は七万に届かない。また地の利も彼の側にあるとは言いがたい。この条件で野戦を挑み、イスパルタ軍相手に勝利を得ることができるのか。
マドハヴァディティア自身は不可能だとは思わない。しかし参謀たちの中には否定的かつ懐疑的な意見が多かった。
「ルルグンス軍を戦力として数えるのは非現実的です」
「彼らの脆弱さは、陛下も良くご存じのはず」
「そもそも奴らはイスパルタ軍と緊密な関係にあったのです。戦場へ連れて行けば、たちまち裏切りましょう」
参謀たちはまず口々にそう言った。ルルグンス軍の弱さや、彼らがイスパルタ軍寄りであることは、マドハヴァディティアも認めなければならない。そしてルルグンス軍が使えないとなると、彼我の戦力差はおよそ二倍になる。かなりの劣勢、と言わなければならない。
「籠城するべきと考えます」
そう上奏したのはラーヒズヤだった。これは彼個人の意見と言うよりは、参謀たちがもろもろ検討した上での結論である。幸い、百国連合域内での反乱騒ぎが治まれば、増援のアテはあるのだ。またヴァンガルの城壁は堅牢である。現実的に考えて、籠城は有力な選択肢だった。
「やむを得ん。籠城だ」
マドハヴァディティアはそう決断した。方針が定まったことで、百国連合軍は籠城のための準備を始めた。何より重要なのは兵糧だ。マドハヴァディティアは兵糧の備蓄を指示した。
兵糧を集める方法は大きく分けて二つ。百国連合から持ってくるか、ルルグンス法国で集めるのか。だが兵糧は思うようには集まらなかった。
百国連合から持ってくるとして、すでに増援の第一陣が相当量の兵糧を運んできている。追加分は第二陣が持ってくるはずだったのだが、次の補給は反乱騒ぎで目途が立たない状態だった。
ならばルルグンス法国、ヴァンガルの周辺で兵糧を徴発しようとして、それも上手く行かなかった。ヴァンガルより北の地域では、遊牧民の略奪隊が荒らし回ったあとで、そもそもモノがない。
そしてヴァンガルより南の地域では、さきの敗戦をきっかけに住民がさらに南へ、ヘラベートの周辺へ退避していた。その方が安全だと彼らは思ったのだ。その際、あるだけの食料を持ち出しており、百国連合軍が徴発できる分はほとんど残っていなかった。またヘラベートにイスパルタ軍がいることを思えば、大がかりな徴発などできるはずもない。
「第二陣のために集めた分の内、無事なものをこちらへ送らせろ」
マドハヴァディティアはそう命じた。すぐさま調達できる、ある程度まとまった量の兵糧というと、それしかなかったのだ。しかしその命令と前後して、小国エルナクラムの造反が明らかになる。
エルナクラムは百国連合からの離脱を宣言した。百国連合が割れた、というだけの話ではない。公然とマドハヴァディティアの権威を否定する国が現われたのだ。その権威に陰りが出てきたことは、もはや否定の余地がない。周辺国や、なによりマドハヴァディティア本人に与えた衝撃は小さくなかった。
さらにこの段階にいたっても、クリシュナはまだ反乱勢力の討伐を始めていない。それで反乱軍は思うままに勢力を拡大していた。旧領を回復し、さらに親マドハヴァディティアの立場を取る国々や都市国家を攻めている。新たな反乱も相次ぎ、このままではマドハヴァディティアが西方に築いた秩序は崩壊しかねなかった。
マドハヴァディティアは自らの足下が崩れようとしているのを感じていた。西方における権力基盤の崩壊は、彼の覇道の終幕と同義である。そのとき彼はヴァンガルで孤立し、イスパルタ軍に討たれることになるだろう。それこそが反乱勢力の狙いに違いない。彼としては、それを黙ってみている訳にはいかない。
「クリシュナは何をしている!? 満足に留守を預かることも出来ないのか! さっさとこれらの謀反人どもを討伐させろっ!」
マドハヴァディティアはクリシュナのもとへ勅使を送った。使者ではない。勅命を伝えるべく、王の代理たる勅使を送ったのだ。これはクリシュナに対する最後通牒とも言えた。
その勅使を、クリシュナは斬った。ついに彼は父王マドハヴァディティアに叛いたのである。彼はただ一人を除いて、勅使とその随行員を皆殺しにした。その一人とは、以前に使者としてクリシュナのもとへ遣わされてきた男だった。
「卿には、私から父上への言付けを預かってもらいたい。『民も私も、あなたにはもうついて行けない。ヴェールールは私が継ぐゆえ、あなたは東の果てに骨を埋められよ。それがあなたの望みであったはずだ』とな」
血なまぐさい笑みを浮かべながら生き残らせた男を歓待しつつ、クリシュナは彼にそう依頼した。歓待を受ける男は顔面を蒼白にしており、手に持った杯も震えている。クリシュナはかまわず、その杯にワインを注いだ。血のように赤いワインであり、西方諸国が再び群雄割拠の戦国時代へと突入したことを象徴しているかのようだった。
翌日、彼は東へ送り出された。しかし彼はヴァンガルへは向かわず、そのまま行方をくらませた。ヴァンガルへ行ってありのままを報告すれば、今度こそ殺される。彼はそう考えていたのだろうし、それは恐らく正しかった。ちなみにクリシュナは彼の行方などどうでも良かった。
さてクリシュナは父王マドハヴァディティアに叛旗を翻した。このままでは王になれないと思ったからであり、反乱や造反が相次ぐ昨今の情勢が事を起こす好機であると思ったからだ。
クリシュナはもともと留守居役を任されていたから、ヴェールールの内政はすでに彼の掌中にあると言って良い。また彼は一万五〇〇〇の戦力を握っており、国内においては圧倒的な力を有していた。
しかし彼はそれをよいことに、すぐに外へ打って出ることはしなかった。彼はまず足下を固めることから始めた。すなわちヴェールールの完全な掌握である。
ちなみにこの「ヴェールール」というのはアースルガムやグルグラムと言った、マドハヴァディティアによって滅ぼされて併合された国々の領土を含まない、第一次西方戦争以前の、いわゆる旧領のことを指している。
まあそれはともかく。クリシュナは邪魔者を次々に粛清した。その主たる標的となったのは、彼の異母弟たちである。クリシュナはナレインよりも年上の王子たちを全て殺した。彼らを支持する重臣たちも同様である。その罪状は「反乱勢力との内通、および結託」であったという。
一方でナレインよりも年下の王子たちや王女たちについてはひとまず生かしておいた。男子とは言え、あまりに幼い者たちを殺せば悪名に繋がる。王女たちも同じ理由だ。また王女たちの場合は今後、政略結婚の駒として使うこともできる。それに殺すことはいつでもできる。それが彼らを生かしておいた理由だった。
国内の掃除を終えると、クリシュナは今後の方針について家臣たちに諮った。基本的にはマドハヴァディティアの権威を否定して、クリシュナ自身がそれに成り代わることになる。
具体的には、親マドハヴァディティアの立場を取る勢力を攻め滅ぼして行くことになるわけだが、それだけでは少し足りないというのがクリシュナの考えだった。どれだけクリシュナが反マドハヴァディティアの立場を取っても、すでにヴェールールという国そのものが恨まれているのだ。
実際、これまでに部下を使って秘密裏に反乱勢力と接触してきたが、感触は芳しくない。彼らはヴェールールのことを信じられないのだ。このままでは連携は難しい。そして四方が敵ばかりでは、早晩行き詰まるのが目に見えている。
「イスパルタ朝と手を結んではいかがでしょうか?」
家臣の一人がそう提案する。マドハヴァディティアと敵対している勢力と言えば、やはりまずは大国イスパルタ朝だ。またイスパルタ朝と手を結べれば、ヴァンガルにいるマドハヴァディティアを東西から挟む形になる。戦略的にも有効だ。
ヴェールールには港がある。船を使えば、ヘラベートにいるイスパルタ軍と連絡を取ることは容易だ。イスパルタ軍もクリシュナのことを歓迎するだろう。どの程度の協力関係になるのかは別として、手を結ぶことそれ自体は難しくないはずだ。
しかしクリシュナはその提案にあまり乗り気ではなかった。彼にはマドハヴァディティアのような東方への野心はない。それどころか、マドハヴァディティアと戦う上ではどこかでイスパルタ朝との連携が必要になることも理解している。
だがヴェールールとイスパルタ朝では、国力に差がありすぎる。マドハヴァディティアを倒したときに、ヴェールールがイスパルタ朝の一部か、そうでなくとも属国になっていては意味がない。イスパルタ朝と協力しつつ、しかし侮られない。それがクリシュナの望む形だった。
「ならばやはり、反乱勢力や百国連合から離反した国々と連携するしかありませぬ。新たな連合を作り上げ、陛下がその盟主となるのです」
顎髭を撫でつつそう発言したのは、ドゥルーヴという白髪の男だった。彼はクリシュナの教師役を務めていたこともある。そのかつての恩師に、クリシュナは怪訝な顔をしてこう問い返した。
「可能なのか? 後者なら、政略結婚でもなんでも手はあると思うが……」
例えばエルナクラムであれば、ヴェールールに対してそれほどの隔意はないだろう。同盟が成立する余地は大いにある。
だがグルグラム独立党はどうであろう。グルグラムを滅ぼしたのはヴェールールだ。頭がすげ変わっても、過去がなくなるわけではない。彼らはヴェールールを敵視するだろう。
クリシュナはそう思ったが、ドゥルーヴの自信は揺るがなかった。彼はかつての教え子に、さらにこう語った。
「陛下が、彼らの後ろ盾となればよろしいのです」
「後ろ盾?」
「御意。ところで今、後宮にはマドハヴァディティアに連れてこられた、亡国の王妃や王女方がおられます」
「彼女らの身柄を、反乱勢力に返してやるのか? いや、しかしな……」
クリシュナは腕を組んで顔をしかめた。彼女らはいわば人質である。今のところ反乱勢力がヴェールールに手出ししてこないのは、クリシュナの側が動かないからだが、その一方でこれらの人質を害されないためという理由もあるのだ。
それなのに人質を返せば、反乱軍はこれ幸いとヴェールールに牙をむくのではないか。クリシュナはそれを懸念していた。しかしドゥルーヴはこう答えた。
「違います。身柄を返すのではありません。それでは後ろ盾にはならないでしょう」
「では、どうするというのだ?」
「国を失われた王妃や王女方。その方々と関係を持たれませ。それにより、マドハヴァディティアとの決別と、反乱勢力への連携と亡国の復興を表明するのです。子供が出来ればなおよろしゅうございます。反乱軍の者たちも、安心して陛下を後ろ盾とできるでしょう」
そのようにして、親マドハヴァディティアならぬ、親クリシュナとも言うべき勢力を形成するのだ。それによってマドハヴァディティアに対抗し、なおかつイスパルタ朝にも侮られないだけの力を得る。ドゥルーヴはそう語った。
ちなみに彼の策には国内向けの意図もあった。前王の後宮を受け継ぐのは新王の特権である。マドハヴァディティアの後宮を我が物とすることにより、その権力がすでにクリシュナものであることを示す。そういう思惑もあった。
「なるほど。敵を減らして味方を増やす。政略の常道だな」
クリシュナはそう言ってドゥルーヴの策を採った。ただ娼婦を抱くようにして、亡国の王妃や王女たちと関係を持つわけにはいかない。亡国の復興を約束し、それによって反乱軍を味方に引き込もうというのだから、その本質は同盟である。なればこそ格式を整える必要があった。
クリシュナはまず部下に命じ、反乱勢力に自分の意向を伝えさせた。さらに後宮にいる女たちに贈り物をおくる。手紙を書き、時間が許せば足を運ぶこともした。そうやって野蛮な父とは異なり、自分は貴公子であることをアピールした。そうやって好感を得るようになったところで、クリシュナは彼女たちにも自分の意向を伝えた。
こうしてマドハヴァディティアの後宮に収められていた女たちは、そのほぼ全員がクリシュナに与することになった。無論、身の安全や亡国の復興が条件である。その上で彼女たちはそれぞれ縁のある反乱勢力などに手紙を書いた。クリシュナへの協力を促す手紙である。
これにより、主たる反乱勢力はクリシュナと連携することになった。そしてそれだけの形式が整ってから、クリシュナは彼女たちを抱いた。反乱勢力はヴェールールを恐れる必要がなくなり、ますますその勢いを盛んにした。
この頃になると、エルナクラムの他にも百国連合からの離脱を宣言する国や都市国家が現われていた。これらの者たちは緩やかに横の繋がりを保ちつつ、なおかつ反乱勢力と手を組むことで勢力の拡大を目指していた。
彼らにとってクリシュナは敵ではなかったものの、手を組むには少々大きすぎる相手なのだ。対等な同盟関係を結べなければ、マドハヴァディティアの代わりに今度はクリシュナが盟主になるだけだ。それでは百国連合から離反した意味がない。
だが肝心の反乱勢力がヴェールールの傘下に収まってしまった。このままではマドハヴァディティアからもクリシュナからも敵視されることになりかねない。
だが今更マドハヴァディティアに慈悲を請うことはできない。幸い、クリシュナの方からは連携の誘いが来ている。しかも彼の姉妹である王女たちを嫁がせることも考えているという。
婚姻によって同盟関係が保障されるなら、それほど悪い話ではない。少なくとも一方的に臣従を要求されるよりはマシだ。それで百国連合を離脱した国々も、クリシュナの側へ靡いた。
こうしてなんと一時期においては、いわゆる親クリシュナ勢力が西方諸国の四分の三以上を席巻した。彼はこれを一兵も動かさずに実現させたのだから、政略の手腕については秀でたところがあったと言って良い。
さらに彼はヘラベートにいるイスパルタ軍とも接触している。主に現状の説明をしただけではあったが、ともかく「自分はイスパルタ軍と敵対しない」という立場を明確に伝えた。
この時のクリシュナは、イスパルタ軍がマドハヴァディティアを討ってくれることを期待していただろう。彼の立場からすれば当然の期待だ。ただ、物事は彼の期待通りには進まなかった。とはいえ彼が接触してきたことは、この後のイスパルタ軍の戦略に大きな影響を与えていくことになる。
クリシュナ「任せておけ。守備範囲は広い」




