ヘラベート攻略戦2
(そろそろ来るはずなのだが……)
百国連合軍がイスパルタ軍の野戦用防衛陣地に押し寄せてから七日目。自軍陣地の様子を見て回りながら、ウスマーンは内心でそう呟いた。もちろん、彼が待っているのは敵ではない。味方である。国境の守りとして展開させていた、総督府の戦力一万。それがそろそろ来ても良いころなのだ。
これまでウスマーンは防御に徹した戦いをしてきた。念入りにしつらえた防衛陣地を頼りにして、おおよそ優位に戦局を進めている。敵の誘いに乗らず、無理な戦い方もしないので、味方の損害も少ない。
ただ、敵に大損害を与えたわけではない。敵を撃退するためには、どこかで打って出る必要がある。そのことはウスマーンも認めていた。そしてその契機となるのが、増援の到着であると彼は見込んでいるのだ。
もっとも、「増援が来たら打って出る」とウスマーンは決めているわけではない。ヘラベートにはあらかじめ大量の物資が備蓄されていた。さらに援軍が船で来たように、海路での補給も期待できる。イスパルタ朝の国力と組織力に裏打ちされた補給線が、ウスマーンを手厚く支えていた。
それで持久戦はむしろイスパルタ軍に有利。ウスマーンはそう思っている。今まで打って出なかったのは、増援を待っていたのもあるが、基本的にはそれが理由だ。特別な理由もなしに、自分たちの優位を捨てる気はなかった。
(とはいえ……)
とはいえ、敵もまだ本気ではないだろう。ウスマーンはそう考えていた。敵将が手を抜いているとは思わない。だがこれまでの戦いからすると、なるべく損耗を抑えようとする意図が窺える。そしてその方針のままでは埒が明かないことを、敵将はそろそろ認めるだろう。
敵は攻め方を変えてくるだろう。犠牲と損耗を厭わずに攻めてくるはずだ。しかもコレまでに見た敵将の手腕からして、その攻撃はぬるいモノにはならない。そもそも数の上では敵の方が多いのだ。十中八九、苛烈で厳しい戦いになるだろう。ウスマーンはそう予感していた。
(そうなる前に、増援が間に合うと良いのだが……)
ウスマーンがそう考えていると、突然、物見台の上から敵襲を知らせる銅鑼が鳴らされた。それを受けて、イスパルタ軍の防絵陣地がにわかに騒ぎ立つ。それぞれの部隊が慌ただしく配置につく中、ウスマーンもまた指揮台へ向かった。
指揮台の上に立つと、ウスマーンは部下から望遠鏡を受け取り、敵軍の様子を窺った。そして僅かに眉をひそめる。敵軍の様子が、昨日までとは異なるように見えたのだ。それも無論、イスパルタ軍の都合の悪い方に。間に合わなかったか、と思いウスマーンは小さく舌打ちした。
「全軍に通達! 敵は本気で来るぞ! 昨日までは様子見だったと思え!」
ウスマーンは全軍に警戒を促した。無論、増援が間に合わなかったからといって、負ける気はない。それに増援がそろそろ来るであろうことは確かなのだ。それまで耐えれば、戦況は大きく好転する。諦める理由は何もなかった。
そして敵が、百国連合軍がイスパルタ軍の防衛陣地に肉薄する。彼らは弓矢の届かない距離で一旦止り、隊列を整える。重厚なその布陣に、ウスマーンは「敵ながら天晴れ」と胸中で称賛の言葉を贈った。
百国連合軍はすぐには動かなかった。挑発するような動向や、誘うような隊列の乱れもない。両軍が睨み合うにつれ、緊張が高まり空気の鋭さが増していく。触れれば切れそうな雰囲気の中、ラーヒズヤがナレインに向かって頷いた。
「ぜ、全軍攻撃開始!」
「全軍、攻撃開始!」
ナレインの命令をラーヒズヤが復唱する。ラッパが鳴り響き、いよいよ百国連合軍が動き出した。
「迎撃しろ! 攻撃開始!」
敵の動きを見て、ウスマーンもまた攻撃を命じる。イスパルタ軍の防衛陣地から一斉に矢が放たれた。銀色の雨が空気を切り裂いて百国連合軍に降り注ぐ。百国連合軍の側も負けじと矢と射返した。
矢の射かけ合いで有利だったのは、言うまでもなくイスパルタ軍だ。柵や盾を効果的に使い、敵の矢を防いでいる。一方の百国連合軍は前進しながらであるため、防御にも攻撃にも専念できない。だが彼らは着実に距離を詰めていた。
「突撃っ!」
百国連合軍先鋒の部隊指揮官が突撃の命令を下す。連合兵たちは一気に駆け出してイスパルタ軍の防衛陣地に群がった。イスパルタ兵もそれを迎え撃つ。柵の格子の間から槍を突き出して連合兵を壕に突き落とし、物見台からも矢を射てそれを援護する。壕の中には連合兵の死体が次々に折り重なった。
「臆するなっ、進め!!」
しかしそれでも百国連合軍は止らない。壕を飛び越え、塁を乗り越え、柵を破壊して、徐々徐々に前へと進んでいく。イスパルタ軍も激しく応戦しているが、勢いは百国連合軍の側にあった。
百国連合軍は遮二無二に攻めているようで、実はそうではない。小刻みに突出させる部隊を入れ替え、損耗を防ぎつつ衝撃力を持続させている。さらに数的優位を活用し、一部の兵を敵陣の側面から背後へと回り込ませた。動かすフリではない。実際に動かしたのだ。
ウスマーンとしては、この動きに対応するしかない。やはり一部の兵を割いて、この敵部隊の動きを妨げさせる。だがそのせいで、敵正面戦力の圧力が相対的に増す。イスパルタ軍は徐々に押し込まれ始めた。
「やるな……! しかしまだまだぁ!」
ウスマーンは別働隊に指示を出した。敵別働隊の外側に回り込み、防衛陣地との間で挟み撃ちにさせたのだ。側面に回り込んだ百国連合軍の別働隊は、見る見るうちに損害を増やした。
それを見て、ラーヒズヤは思わず舌打ちをもらした。別働隊が壊滅すれば、イスパルタ軍の別働隊が自由になる。逆に側面へ回り込まれては危険だ。
「ちっ、救出させろっ!」
窮地に追い込まれた別働隊を救出するため、ラーヒズヤはまた別の部隊を動かした。それを見てウスマーンも指示を出す。敵の別働隊を逃がしたのだ。とはいえタダで逃がしてやるつもりはない。味方との合流を急ぐ敵別働隊の背中を激しく追い立て、追加の出血を強いた。
しかしその一方で深追いはさせない。深追いすれば、逆襲を受ける可能性が高いからだ。そしてその場合、別働隊を救出するだけの余力が今のイスパルタ軍にはない。要するに、ウスマーンは戦果よりも戦力の保持を優先したのだ。
百国連合軍が自軍の別働隊救出のため、追加の戦力を割いたので、イスパルタ軍の防衛陣地にかかる圧力は一時的に減じていた。その時間を最大限に利用し、ウスマーンは味方を立て直す。イスパルタ軍は百国連合軍を払いのけにかかった。
それを見てラーヒズヤは一時撤退を指示した。救出した別働隊の再編もしなければならない。また激しい攻撃を継続させたために、味方の体力的な限界も近い。このままダラダラと攻め続けるよりは、一度小休止を入れて次の攻撃の瞬発力を高めた方が良い。そういう判断だった。
引いていく百国連合軍を、イスパルタ軍はやはり追わなかった。敵の攻撃が止んだその時間を、別の方向へ有効に利用する。負傷兵を後方へ運び、柵などを修理する。さらに腹を少し満たす。腹が減っては戦えないが、満腹でも戦闘に支障をきたすからだ。
一時間ほど経っただろうか。百国連合軍が攻撃を再開する。イスパルタ軍も戦意を滾らせてそれに応戦した。激しい攻撃に高度な駆け引きを織り交ぜて、両軍の熾烈な戦闘は続いた。
そして夕方、西の空が赤く染まり始めた頃。ラーヒズヤはこの日の攻撃を切り上げた。彼としては、今日一日で決着を付けるつもりだった。その予定通りにいかなかったことは遺憾である。
とはいえ、趨勢の天秤は百国連合軍の側へ徐々に傾いている。物資が尽きる前に、敵の野戦用防衛陣地を突破してヘラベートを攻略することができるだろう。それが彼の見通しだった。
その見通しは恐らく正しかった。少なくとも、ウスマーンもまたイスパルタ軍の劣勢を認めなければならなかった。前日まで保っていたイスパルタ軍の優勢は、この日の戦闘で吹き飛んでしまった。ラーヒズヤの指揮は見事だった。
「……っ、なんだと?」
その彼が、一瞬虚を突かれた。撤退する百国連合軍を、イスパルタ軍が絶妙なタイミングで追撃したのだ。これまでどれだけ誘っても挑発しても出てこなかったイスパルタ軍が、防衛陣地から打って出てきたのである。
ラーヒズヤは「イスパルタ軍が打って出てくることはない」と思っていた。これまでそうだったからだ。だから虚を突かれた。ただこれを彼の油断と考えるのは少々酷だろう。実際、百国連合軍は無防備に撤退していたわけではないし、虚を突かれたとはいえ彼はただちにその事態に対応した。
「出てきたのならむしろ好都合だ。今日中に決着をつけてやるぞ」
ラーヒズヤは矢継ぎ早に指示を飛ばした。百国連合軍はジリジリと下がって、イスパルタ軍の圧力を受け止める。まともに戦う必要はない。相手の攻勢限界まで耐えれば良いのだ。数ならば連合軍のほうが多い。敵が息切れしたら、あとは包囲殲滅するのみである。
ラーヒズヤの主観では、イスパルタ軍はもう詰んでいた。イスパルタ軍の奇襲気味の攻勢には驚かされたが、しかしそれだけだ。この盤面で、敵に逆転する目はもうない。彼はそう考えていた。
しかしその盤面を放り投げて、丸ごとなかったことにしてしまう存在が現われた。すなわち盤外からの一手である。ウスマーンが想定する盤上は、ラーヒズヤが想定する盤上よりも広かった。あるいはそう言えるかも知れない。いずれにしてもラーヒズヤはその認識の差を、最悪の形で知ることになった。
「敵、新手ですっ!」
「何を言っている!?」
悲鳴交じりの報告を、ラーヒズヤは思わず聞き返した。東の方角より、敵の新手が現われたという。正確な数は分からない。だが最低でも五〇〇〇以上。それを聞き、ラーヒズヤはイスパルタ軍が突然攻勢に出た理由を理解した。
同時に、彼は敗北を悟った。敵の正面戦力をいなしている時に、柔らかい脇腹を突かれるのだ。混乱は必至だろう。退路を断たれたのなら、いっそ開き直って全軍に前進を命令できる。だが背後を取られたわけではない。兵士たちは逃げ出すだろう。ヴェールール兵ではない連合兵の土壇場での踏ん張りを、ラーヒズヤは信用していなかった。
(もはや致し方なし)
ラーヒズヤはヘラベートの攻略を諦めた。大きく後退して敵の攻撃をしのぎ、部隊を再編することは可能だろう。しかしこの戦闘で百国連合軍には大きな損害が出る。その上で増援を得た敵を排除するのは無理だ。
ならば可能な限り損耗を抑えつつヴァンガルへ撤退するより他にない。ラーヒズヤはそう方針を定めた。しかしそれに反対する者がいた。名目上の大将であるナレインだ。彼はラーヒズヤからヴァンガルへの撤退を告げられると反射的にこう叫んだ。
「嫌だ!」
ヴァンガルへ撤退すると言うことは、マドハヴァディティアの命令を果たせないということだ。つまりナレインの初陣は負け戦になる。それがどういう意味を持つのか、ナレイン自身はまだよく分かっていない。だがそれを差し引いても、負けることは受け入れがたかった。
「押し問答をしている時間はございませぬっ。御免!」
駄々をこねるナレインに、ラーヒズヤは付き合わなかった。もはや敗北は避けがたいとして、曲がりなりにも王子である彼がイスパルタ軍の手に落ちることだけは、絶対に避けなければならない。
加えて、これからラーヒズヤは殿軍の指揮を取らなければならない。その隣で騒がれては、はっきり言って邪魔なのだ。また彼もナレインが死んでしまえば良いなどとはさすがに思わない。それで彼はナレインをさっさと逃がすことにした。
ラーヒズヤがムチを振り下ろして、ナレインの乗る馬の尻を叩く。馬はしがみつくナレインを乗せたまま、猛然と走り始めた。悲鳴を上げて遠ざかる彼のあとを、ヴェールール騎士が追いかける。僅かに苦笑を浮かべながら、ラーヒズヤはそれを見送った。
ナレインを逃がしてからイスパルタ軍の新手が突入してくるまでの間、ラーヒズヤは打てる限りの手を打った。敵新手の突撃前に撤退を始めるのは無理だ。敵正面戦力を引き剥がせない。敵の突撃を前提に善後策を講じるしかない。可能な限り損害を抑えるため、ラーヒズヤは忙しく頭を働かせた。
彼にとって不幸中の幸いだったのは、百国連合軍の指揮系統が十分に健在だったことと、頼りになるヴェールール軍一万がほぼ無傷で残っていたことだ。そのおかげで、備えもなしに敵の突入を許すことは避けられた。
ただしそれは、状況が好転したことを意味しない。イスパルタ軍の新手に側面へ突撃されると、百国連合軍は大きく崩れた。しかし全面崩壊には至らない。ラーヒズヤが備えていたおかげだ。
百国連合軍がジリジリと後退を開始する。しかしイスパルタ軍も簡単には敵を逃がさない。圧を強めて百国連合軍に出血を強いた。だがそれでも、百国連合軍は壊走しない。辺りが薄暗くなってきたこともあり、結局イスパルタ軍は思うように追撃が出来なかった。百国連合軍は組織的秩序を保ったまま、ヴァンガルへ撤退した。
さてナレインだが、彼は本隊よりも一足早く、小勢に守られてヴァンガルへ帰還した。彼は父王マドハヴァディティアに敗戦の責任を問われるものと恐怖していた。それで彼は父王に謁見するや、開口一番にこう言い訳を口にした。
「ち、父上! 此度のことは全てラーヒズヤが悪いのですっ」
「この馬鹿者がっ!」
マドハヴァディティアの返答は罵声と鉄拳だった。マドハヴァディティアはナレインと謁見する前に、彼の護衛をしてきた者たちの話を聞いて、すでにおおよその事情を知っている。それで彼は呆然とする息子をこう怒鳴りつけた。
「自らを逃がしてくれた者をそのように貶めるとは何事だっ! 恥を知れ!」
「ち、父上……」
「むしろ、命を賭けてくれた将兵のために願い出ることこそ、大将たる者の役目であろう! なぜそれが分からぬ!」
「も、申し訳ございませんっ。……で、では、父上に、いえ陛下に一つお願いがございますっ!」
頬を赤く腫らしたナレインが、そう言ってうずくまるように平伏する。マドハヴァディティアは仁王立ちしながら、息子を厳しい目で見下ろしてこう答えた。
「許す。言え」
「ラ、ラーヒズヤ将軍以下百国連合軍の将兵は、わたしを死地より逃がすために命をかけてくれました。ど、どうぞ彼らには温情を賜りますように……!」
「うむ。相分かった」
マドハヴァディティアはあっさりとそう答えた。それから彼は玉座にどっかりと座り直す。そして未だに平伏したままのナレインを見て一つ苦笑を浮かべると、彼は息子にこう声をかけた。
「百戦して百勝とはなかなかいかぬ。俺も何度か、手痛い敗北を喫したものだ。負けた時にはさっさと逃げろ。生きてさえいれば、再起は可能だ」
「は、はい……」
「負けて諦めるな。次にどう勝つかを考えろ! 勝ち続けた者が勝者となるのではない。最後まで立っていた者が勝者となるのだ!」
「はいっ。次は負けませぬっ」
ナレインの返事を聞き、マドハヴァディティアはフッと表情を緩めた。そして「下がれ」と命じる。ナレインの背中を見送ってから、彼は玉座に座ったまま、思案を巡らせた。
(ヘラベートは……)
ヘラベートは当分、諦めざるを得ない。あまりに拘りすぎると、イスパルタ軍本隊との決戦に間に合わなくなる。そしてそちらで勝てば、諸々の帳尻は合う。補給を陸路に頼らざるを得ないのは苦しい。だがやってやれないことはないだろう。ヴァンガルは補給のための拠点としても機能するはずだ。
だがそうなると、イスパルタ軍本隊がヴァンガルまで肉薄するのは避けたい。包囲されると物資が中に入ってこないからだ。とはいえ野戦を挑むには、現状では兵の数が足りない。もっとも予定では増援の第二陣として、もう三万が来ることになっている。マドハヴァディティアは本国のクリシュナに使いを出して、それを催促することにした。
だが物語は、ここから彼の思いもよらぬ方向へ転がることになる。
ウスマーン「いや~、ラーヒズヤは強敵でしたね」