カリカットの街
クルシェヒルよりはるか西。ベルノルトら一行はカリカットの街に到着していた。幌馬車を手に入れてから、およそ八日後のことである。コルカタの街からの距離を考えると、いくぶん時間がかかったと言わなければならない。
ここまでの道中、彼らはのんびりしていたわけではない。ただ、急いだわけでもなかった。危険を避けるために迂回路を選択したこともあり、それが八日という日数に繋がったのだ。安全を優先した結果なので、彼らはそのことに不満を持ってはいなかった。
さて、カリカットの街はアースルガム一族発祥の地と言われている。つまり遊牧民のアースルガム族が農耕民との交易を行っていた街であり、すぐ近くにはマデバト山がある。遊牧民の生活圏のすぐ近くにある街で、つまり百国連合域内において辺境と言われる地域に位置している。
ベルノルトらの四人の目的地は、厳密にいえばマデバト山であり、カリカットの街ではない。ただここまで来ればマデバト山は目と鼻の先だ。それにこの街にも用がないわけではない。むしろマデバト山にいるアースルガム一族の分家に接触するためには、まずはこの街でアースルガム解放軍に接触する必要がある。
そのための手立てはすでに用意してある。紹介状があるのだ。法都ヴァンガルのイスパルタ大使館が用意した紹介状、ではない。コルカタの街にある、ハートラス商会の商会長カービアが書いてくれた紹介状だ。調達を頼む物資のリストの中に混ぜておいたのだが、それに応えるようにして、彼も準備した荷物の中にこの紹介状を忍ばせておいてくれたのである。
百国連合域内にいる限りにおいては、大使館の紹介状よりもカービアの紹介状のほうがおそらく価値が高い。少なくとも有用ではある。この紹介状があれば、ほぼ確実にアースルガム解放軍の信用を得られるからだ。
もちろんカービアもアースルガム解放軍の全貌を把握しているわけではない。紹介状が通用するのは彼の名前が通用する限りにおいて、だ。もっとも百国連合の北部であればおおよそ把握しているということなので、ベルノルトらが移動する範囲内ならば特に問題はないだろう。
ただアースルガム解放軍が基本的にレジスタンスであることを考えれば、安易にその力を借りることはできない。接触する回数が増えれば、それだけ露見する可能性が高まるからだ。それでベルノルトらはコルカタからカリカットまで、実はまだ一度もアースルガム解放軍には接触していなかった。
『情報が欲しい』
そう思うことは何度もあった。噂程度では、集められる情報の量も精度も限界がある。ベルノルトたちは特にマドハヴァディティアや百国連合軍の動向に強い関心があったのだが、距離があることもあって詳しい事情はほとんど把握していなかった。
『我々が知ったところでどうにもならないのです。それよりは身を隠す方を優先しましょう』
アッバスにそう諭され、ベルノルトも目立つような行動は控えていた。「何か面白い話はないか?」と尋ねることはあっても、「百国連合軍の様子はどうなんだ?」とか「戦況はどうなっているんだ?」といったことは一切聞かなかった。
そうすることでただの旅人を装ってきたのだ。そして今までのところ、ベルノルトらは素性を咎められたりはしていない。結果論ではあるが、情報収集などしなくて良かったと言えるだろう。
ただそれもここまでだ。カリカットの街ではアースルガム解放軍に接触する。そして解放軍は主に情報収集の分野で活動を行っている。相手が特別邪険にでもしないかぎり、彼らの集めた情報を教えてもらえるだろう。
カリカットの街に着くと、ベルノルトらはまず宿を探した。宿に荷物と馬車を置いてから、アースルガム解放軍の拠点の一つへ向かう。カービアがいうには主に外部との接触のために使っている場所で、要するに切り捨てられる場所というわけだ。ただ紹介状もあるのだし、いきなり相手の懐に飛び込むよりは、表玄関を通るべきだろう。まあこの場合は裏口というべきなのかも知れないが。
ベルノルトらが向かったのは、目立たない路地に佇む一件の酒場だった。名前は「火酒亭」。二階建てで、恐らくは酒を飲ませる以外の営業もしているのだろう。アッバスはそう思ったが、同行者らの手前、何も言わなかった。
火酒亭の入り口には、「準備中」の札がかけられている。ただ鍵はかかっておらず、ベルノルトたちは構わずに店内へ入った。店内には丸テーブルが三つと、あとはカウンター席がある。そしてカウンターの奥から店主と思しき人物がやや不機嫌そうにこう言った。
「準備中だ」
「失礼。実はハートラス商会のカービア殿からここの馬乳酒が絶品だと教えてもらったもので。夜まで待てなかったんです」
メフライルがそう答える。店主は不機嫌そうな顔のまま、視線を鋭くしてメフライルを、そして他の三人の様子を観察した。
実のところ、この店のメニューに馬乳酒はない。馬乳酒は遊牧民が水代わりに飲むものだ。火酒亭で出すのは、もっと強い酒ばかりだ。だから普通なら「そんなものはない」と言って叩き出すのだが、カービアの名前が出てきたとなると、少し事情が異なる。
「……カービアは、何か言っていたか?」
「手紙を預かっています」
そういってメフライルはカービアからの紹介状を店主に渡した。店主はそれを受け取ると、不機嫌そうな表情のまま中をたしかめる。そして一度「面倒事を」と言いたげな目をメフライルに向けてから、顎をしゃくって店の奥に入るように促した。
通された奥の部屋は、表の店とはずいぶん雰囲気が違っていた。窓は小さく、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。ただ内装が趣味良く整えられているので、薄暗さは不気味さよりも落ち着いた雰囲気を演出していた。
奥の部屋に全員が入ると、メフライルは今度はヴァンガルのイスパルタ大使館からの紹介状を店主に見せる。店主はランプに火を付けてからその紹介状を読んだ。部屋の中は、ランプの明かりがないと文字を読むのに少々難儀する薄暗さなのだ。ベルノルトはその設計に少々呆れたが、本来この部屋を使うのは店が開いてから、つまり日が暮れてからなので、薄暗い程度のことは関係ないのだとすぐに気付いた。
「……それで、何の用だ?」
イスパルタ大使館からの紹介状をメフライルに返してから、店主は彼にそう尋ねた。この部屋に入ったからなのか、それとも紹介状を読んだからなのか、店主の態度は明らかに協力的になっている。メフライルはこう答えた。
「マデバト山に行きたいんです。向こうと連絡を取れませんか?」
「少々面倒だな。だが取れないことはない」
そういって店主はニヤリと笑った。その笑みには今日までマドハヴァディティアとヴェールールの目を欺いてきた、そのことへの自負が浮かんでいる。
カリカットはほんの数年前までアースルガムの一部だった。しかしアースルガムはマドハヴァディティアによって滅ぼされた。以降、アースルガムはヴェールールの一部となっている。カリカットも同様である。
ヴェールールにおけるカリカットの立ち位置というのは、あまり良いものではない。この街がアースルガム一族発祥の地であることは、マドハヴァディティアも承知している。さらにマデバト山にはアースルガム一族の分家があり、さらにその北には遊牧民アースルガム族の居留地がある。
つまりこの街はアースルガム王家とゆかりの深い土地なのだ。それを考えれば、征服後、この街に強い弾圧が加えられてもおかしくはなかった。しかしそうはならなかった。
両者の縁の深さは、いわば歴史的なものである。マドハヴァディティアがアースルガムを征服した時点で、いわゆるアースルガム商会はこの街から姿を消していたし、アースルガム本家もまたこの街から拠点を移していた。
加えて、王都を脱出したサラがカリカットの街に、そしてマデバト山に逃げ込まなかったことを、マドハヴァディティアは重視した。つまり「アースルガム王家はカリカットへの特別な影響力をもっておらず、この街が独立運動の起点になることはない」と判断したのだ。
さらに、厳密に言えばこのカリカットの街こそがアースルガムの北限だった。つまりマデバト山はアースルガムという小国には含まれていなかったのである。ヴェールールも基本的にはそれを踏襲している。マデバト山はヴェールール国外であり、百国連合域外なのだ。
加えて辺境たるこの地を軽視する向きもあったのだろう。そういった諸々の事情もあり、マドハヴァディティアはことさらカリカットの街を焼くようなことはしなかったし、マデバト山やさらにその北へ兵を送るようなこともしなかった。
とはいえ全くの放置というわけにもいかない。マドハヴァディティアは代官を派遣してカリカットを治めさせた。そして代官は当然の措置として、マデバト山にいるアースルガム一族の分家や遊牧民のアースルガム族との接触や交易を禁じた。
とはいえ抜け道はある。極端な話、「自分はアースルガムの連中とは無関係だ」と言い張れば、それで禁止事項には抵触しないのだ。また街ではなく少し離れた場所で取引するという手もある。よそ者である代官らの目の届かない場所を、地元の人間達は幾らでも知っているのだ。
カリカットのアースルガム解放軍は、そうやって活動資金を調達してきていた。そしてそれが可能だったのは、表向きの抵抗活動は一際せず、それによって代官やマドハヴァディティアを油断させてきたからだ。
もちろん問題がないわけではないが、概ね上手くやってきたと言っていい。店主が自信を見せるその裏には、裏付けとなるだけの実績があるのだ。そもそもこの街の住民は解放軍に協力的である。
だからマデバト山と連絡を取るくらいなら、いくらでも可能だ。だがいくら紹介状があるとはいえ、無条件で要求を容れることはできない。それで店主は当然のこととしてメフライルにこう尋ねた。
「だがお前さん達、何しにマデバト山まで行くんだ?」
店主の問いに、メフライルは少し困ったように苦笑を浮かべた。実のところ、マデバト山まで行ってその後どうするのか、ベルノルトらの間ではまだ方針が定まっていなかった。
アッバスなどは、アースルガム族への伝手を頼って騎馬を手に入れ、ルルグンス法国の北部を迂回して、つまり遊牧民の勢力圏を東へ移動して、イスパルタ朝本国へ帰還することを提案している。一方でそのままマデバト山に潜伏して状況が変化するのを待つ、という安全策もまた捨てがたい。それでメフライルの答えは曖昧なものにならざるを得なかった。
「北の、遊牧民の情勢などを調べたいと思っています」
「遊牧民の情勢、ねぇ……。こっちで把握している限りでは、マドハヴァディティアの影響力が強まっているようだな」
店主は面白くなさそうにそう話した。第一次西方戦争、そして今回と、マドハヴァディティアは遊牧民を雇って戦力に組み込んでいる。また今のところ、彼に雇われたことで遊牧民の側に大きな損害は出ていない。つまり遊牧民にとってはお得意様であるわけだ。十分に稼げているとあって、遊牧民は彼に好意的だった。
ただし、全ての遊牧民がそうであるわけではない。まず前提として、遊牧民の間にも部族間対立がある。またマドハヴァディティアはアースルガムを攻め滅ぼしたわけだから、アースルガム族との関係は険悪だ。双方とも積極的に攻撃を仕掛けるようなことはしていないが、敵対関係にあると言って良い。
そういうわけで、マドハヴァディティアもアースルガム族やその友好関係にある部族については、戦力として雇うことをしていない。つまり彼らはマドハヴァディティアから何の利益も得ていないことになる。
すると遊牧民の間でも、マドハヴァディティアから利益を得ている部族と利益を得ていない部族に分かれることになる。利益を得ている側は、当然ながら力を付ける。そして中には巨大勢力たる百国連合を後ろ盾にして、他の部族への圧迫を強める者たちもいた。自分たちの勢力を強めるチャンスと考えたわけだ。
マドハヴァディティアはそういう動きを黙認した。というより、どうでも良かったのだろう。彼は遊牧民社会における覇権には無関心だ。だが圧迫される部族からしてみれば、敵対部族はマドハヴァディティアの支援を受け、その尖兵として自分たちを攻めているように思える。
こうして遊牧民の間にも、ゆるやかではあるが、親マドハヴァディティアと反マドハヴァディティアの対立構造ができあがったのである。そして店主が言うには、今のところは親マドハヴァディティアの側が優勢であるらしい。
「ま、遊牧民の争いなんてものは千年も昔から続いている。その要素の一つとして、マドハヴァディティアと百国連合のことが無視できなくなってきた、ってことだろう」
店主は肩をすくめてそう話をまとめた。ただ彼の話を聞いたベルノルトらの、特にアッバスの表情は渋い。店主の話をそのまま受け取るなら、アースルガム族は力を落としていることになる。騎馬の調達はともかく、彼らの伝手を使って本国へ帰還するのは難しいかもしれない。
その後、ベルノルトたちはさらに店主と情報交換を行った。そのなかで分かったことだが、カービアに依頼した例の噂の件はカリカットには来ていないらしい。もっともあの噂はヴェールールで広まり、クリシュナ王子の耳に入らなければ意味のないもの。遠く離れたカリカットで広まっても仕方がないし、かえって不自然だと思ったのかも知れない。
「何なら店で広めておくが、どうする?」
「……いえ、この件はカービア殿に仕切りを頼んだものです。カービア殿のやり方に任せます」
メフライルは他のメンバーに目配せし、特にベルノルトが僅かに首を横に振ったので、特別噂を広めるよう店主に頼むことはしなかった。
また百国連合軍の様子についても尋ねたのだが、距離があるせいか詳しいことは分からないという。ヴァンガルにいるマドハヴァディティアの動きも同様だ。
ただ少なくともカリカットではまだ徴兵は行われていないという。しかしその一方で穀物の取引は活発になっているといい、これは兵糧を調達する動きであると思われた。戦争の気配はこの街にも着実に近づいている。そのことにやや眉をひそめつつ、メフライルはごく自然な調子で次にこう尋ねた。
「……そう言えば、アーラムギール殿から何か指示は来ていませんか?」
「いや、来ていないと思ったが。どうかしたのか?」
「いえ。大使館で彼とベルノルト殿下が密談したと、出発前に聞いたものですから。アースルガム王家の本邸がどうのとかいう話だったそうで……。近いのでしょう?」
アースルガム一族が長年根を張ってきただけあって、その本邸もカリカットの近くにある。アーラムギールがサラから頼まれた、一族の本当の系図の件を処理するなら、この街の解放軍のメンバーにやらせるのが最も合理的だ。
ベルノルトたちはそう考え、この場でその話題を出したのだが、しかし店主が知る限りそういう話は来ていないという。それを聞き、サラは内心で困惑を深めた。そして店主が彼女をさらに困惑させることをこう告げる。
「そもそも、王家の本邸は焼け落ちているぞ」
それを聞いて、サラのみならずベルノルトやメフライルも驚きを露わにした。アーラムギールの話では本邸は半ば放置されているという話だった。しかし店主の話によると、どうやら詳細は少し違うらしい。
サラがアースルガムの王都を脱出した後、マドハヴァディティアはカリカットの街に兵を出した。本邸が近くにあることも含め、彼女の潜伏先の候補と考えたのだ。実際には空振りだったわけだが、それでも探索は行われた。
その時点で本邸はすでに無人だった。本邸を探索したヴェールール兵たちは役得とばかりにめぼしいモノを強奪。最後に油を撒いて火をかけた、というのが真相であるらしい。以来、本邸は廃墟となっている。放置されているというのはまったくの外れというわけではなかったな、とベルノルトは他人事のように思った。
サラとしてはもう少し詳しい話を聞きたかった。本邸に保管されていたという、王家の本当の系図。それがどうなったのかを知りたいからだ。だが店主の様子を見るに、彼はこれ以上のことは知らないだろう。ならばこれ以上この話題を続けるのも不自然だ。それでサラは口をつぐみ、メフライルも適当に切り上げて話題を変えた。
最後にベルノルトらは、マデバト山のアースルガム解放軍に宛てた紹介状を書いてもらった。向こうから人を呼ぶよりは、紹介状を持って直接向かった方がリスクは少ない、という判断だ。ただ普通にマデバト山へ向かうわけにはいかない。代官の目を欺く必要がある。
「ここへ行け」
そういって店主が教えてくれたのは、裏路地に店を構える雑貨屋だった。ただし雑貨屋は表の顔で、実際には様々な仕事を請け負う便利屋であるという。そしてこの街のアースルガム解放軍の実働部隊の一つでもあるということだった。
サラ「別荘を焼かれた!」