総督府、動く
――――ヴェールール軍、法都ヴァンガルに襲来。その数、およそ三万。
駆け込んできたマルセル配下の騎士からその一報を受けると、新領土の総督ロスタムはすぐさまウスマーン将軍を呼んだ。部下がウスマーンを呼びに行くまでの間、ロスタムはマルセルからの手紙をもう一度読む。そこにはベルノルトのことも書いてある。「容易ならざる事になった」と思い、ロスタムは顔を険しくした。
「閣下、急報とか」
ノックもそこそこに、ウスマーンがロスタムの執務室に入ってくる。彼の顔もまた険しい。その彼にロスタムは「うむ」と言って一つ頷くと、マルセルからの手紙を差し出した。
ウスマーンの目がせわしなく動いて文字を追う。手紙を読み終えると、彼は顔をしかめながら「はあ」とため息を吐いた。その気持ちはロスタムも分かる。自分もため息を吐きたくなるのを堪えながら、ロスタムはウスマーンにこう尋ねた。
「どう見る?」
「まずヴァンガルですが、城壁は高く堅固です。兵も、『略奪隊相手に損害を出した』と書いてありましたが、もとの人口が多いのです。加えて、前法王の葬儀のために人が集まっています。改めて徴兵を行えば、一万二〇〇〇程度にはなるでしょう。いざとなれば女子供も戦うはず。ヴェールール軍は三万という話ですから、城壁を頼りに戦えば、普通に考えて早々に陥落することはありません」
「そうだな。普通に考えれば、そうだ」
ロスタムは少々含みのある言い方をした。頷くウスマーンの顔も渋い。それはロスタムの言い方が癇にさわったのではなく、通常のセオリーが通用しないルルグンス軍の脆弱さを嘆いてのことである。
手紙には、「大聖堂に隠されていたダンジョンを使い、ベルノルトをヴァンガルの外へ脱出させた」との旨の事柄も書かれていた。マルセルをはじめ、フードらが「ルルグンス軍は持ちこたえられる」と考えていたなら、わざわざそんなことはしなかっただろう。つまり彼らの目から見ても、ヴァンガルは危ういのだ。だからベルノルトを逃がした。
手紙の中で懸念されていたのは、ヴェールールによる調略の可能性だった。ヴェールール軍が動く少し前、ヴァンガルには故ヌルルハーク四世の弔問の名目でラーヒズヤがいた。彼はヴェールール軍の参謀長だ。彼がルルグンス法国の重鎮を調略した可能性を、マルセルらは心配していた。
実際に調略が行われたのか、ロスタム自身は懐疑的だ。ラーヒズヤは大身すぎる。彼が動けば周囲にそれと気付かれるだろう。ただ生粋の武官であるラーヒズヤが直前までヴァンガルにいたことについては、ロスタムも強い懸念を抱いている。
普通、たった三万でヴァンガルを落とせるとは思わない。だがヴェールール軍は動いた。ラーヒズヤが自分の目で確認して、落とせると判断したのだ。であればやはり、ヴァンガルは危うい。ロスタムとウスマーンは認識を同じにした。
「ウスマーン、動けるか?」
「はっ。明朝、二万を率いて出陣いたします」
「うむ、頼む。陛下へのご報告は、私のほうでやっておく。……問題はベルノルト殿下とサラ殿下のことだな」
ベルノルトとサラは、ダンジョンを使ってヴァンガルを脱出した。ダンジョンの、それも下層を通らねばならないという話だから、かなり危険なルートだ。ただこの点に関して、ロスタムやウスマーンにできる事は何もない。
ダンジョンの出口がどこにあるのか、手紙には何も書かれていなかった。ただ総督府に駆け込んできた騎士が把握していて、大まかな位置は分かっている。兵を出して迎えに行くべきではないか。ロスタムはそう提案したが、ウスマーンはしばし思案してからこう答えた。
「…………まずは、ヴァンガルを優先するべきでしょう」
それを聞き、ロスタムは視線を鋭くする。ただ、声を荒げて否定することはしない。鋭い視線のまま、無言で理由を問う。ウスマーンはこう答えた。
「両殿下がダンジョンを使ってヴァンガルを脱出するなど、ヴェールール軍は想定していないでしょう。ですがイスパルタ軍が動けば感づかれかねません。かえって危険と判断します。
それよりはヴァンガルが健在な内に後詰めをするべきです。上手く行けば、城壁との間で敵を挟み撃ちにできます。そこまで上手く行かずとも、ヴェールール軍が撤退すれば、それこそが両殿下の安全に繋がります」
「万が一、ヴァンガルがすでに陥落していた場合はどうする?」
「その場合は、国境際まで撤退することになりましょう。マルセル殿の手紙によれば、ヴェールール軍には『ベルノルト殿下は決死隊に混じって本国へ帰還した』と説明すると書かれていました。それなのにイスパルタ軍がヴァンガル以北で動けば、それが嘘であることを敵に勘付かれます。
またヴァンガルが陥落しているにもかからわず法国国内で作戦行動を続けようとすれば、敵に補給路を断たれる恐れがあります。そうなれば、我々は異国で孤立することになります。今後の作戦にも支障が出かねません。両殿下の救出は、もっと秘密裏に行うべきと考えます」
ウスマーンの考えを聞き、ロスタムは腕を組んで唸った。「ベルノルトの救出こそを最優先にするべきではないか」。そういう想いは根強くある。ただウスマーンの言うとおり、イスパルタ軍が表立って動けばヴェールール軍にベルノルトのことを察知される恐れがある。
そうなれば、ベルノルトの身柄確保の競争になるだろう。その場合、足の速い遊牧民を多数抱えるヴェールール軍のほうが有利だ。またヴァンガルが陥落していれば、ウスマーンの言うとおり補給に不安を抱えることになる。それでは探索はままなるまい。
「致し方なし、か。総督として、将軍の判断を尊重する。両殿下の救出に関しては、隠密衆を動かしていただけるよう、進言してみよう」
「御意」
「まあもっとも、隠密衆が動く前に両殿下は自力でこちらまで来られるかも知れないが……」
「そうなれば重畳。そうならない場合のことを想定するべきでしょう」
ウスマーンがそう言うと、ロスタムは重々しく頷いた。これからどうなるのか、見通しは立たない。打てる手は打っておくべきだ。備えが無駄になっても笑い話で済むが、ベルノルトやサラに万が一の事があれば、顔面を蒼白にするだけでは済まないのだから。
ロスタムはそう考えてから、話題を切り替える。ヴァンガルが間に合わなかった場合の、次なる目標についてだ。ウスマーンは退くというが、それでは少々芸がない。それで彼はこう命じた。
「それでヴァンガルが陥落していた場合だが、国境際まで退くのではなく、南のヘラベートを確保せよ」
「ヘラベートを? しかし反発が出ませんか。イスパルタ朝は混乱に乗じて法国の土地を切り取ろうとしている、と」
ウスマーンが懸念を述べると、ロスタムは「ふん」と鼻を鳴らした。そしてやや嘲笑気味の口調でこう答える。
「ヴァンガルが陥落していれば、そのような不満、どこからも出ようがないわ。それにヘラベートに兵を置くことについては、すでに法国との間で合意がなされている。我々はそれに基づいて行動するだけの事よ」
ロスタムがそううそぶくとウスマーンも苦笑する。現在、ヘラベートにはすでに一五〇〇ほどの兵が配置されている。二人とも平時であればこれで十分だと思っていたし、ジノーファもさらに兵を増やすつもりはなかった。
だがヴェールール軍が動いたことで事情が変わった。仮にヴァンガルが陥落した場合、百国連合との戦いは長引く恐れがある。マドハヴァディティアはヴァンガルを拠点とするだろう。であれば、イスパルタ軍にも法国国内に拠点が必要だ。ウスマーンもそのことは理解できる。
「了解しました。ヘラベートは良い橋頭堡になりましょう」
ヘラベートは港町だ。つまり船が使える。兵を送るにしろ、物資を送るにしろ、陸路に比べれば量も速度も段違いだ。イスパルタ朝は百国連合に対し、国力と物量で勝る。ヘラベートがあればその強みを存分にいかせるだろう。ウスマーンはそう言ったが、ロスタムは不満そうにこう答えた。
「馬鹿者。それだけではない」
「……はて。他に、何かありますか?」
「マドハヴァディティアに使わせぬため、だ」
ロスタムにそう言われ、ウスマーンはしばし考え込み、はたと気付いて顔を上げた。それを見てロスタムも重々しく頷く。
ヘラベートが使えなければ、ヴェールール軍は本国からの補給を陸路に依存することになる。海路に比べれば不自由だ。無論、現地調達も占領地統治もするだろう。ヴェールール軍三万だけであれば、それで養うことができるかもしれない。だが百国連合軍を催すとなると、やはり本国からの補給が重要になる。
大軍を陸路で養うのは大変だ。百国連合軍は鎖に繋がれた犬と同じ。鎖の長さがどの程度になるかは分からないが、いずれにしてもその動きは鈍くなる。その分だけイスパルタ軍は有利に戦えるだろう。
だがもっと重要なことがある。敵が補給を陸路に依存したとして、その途中で反乱が起こればどうなるか。補給路は寸断され、百国連合軍はたちまち干上がることになる。ロスタムはその可能性を考えていたのだ。
「しかし閣下、あり得ますか?」
「分からん。だが可能性は十分にある」
マドハヴァディティアの本拠地は、言うまでもなくヴェールールである。そしてヴェールールから見ると、ヘラベートなら船を使って直接行き来することができる。兵や物資に加え、情報もやり取りしやすい。
だが陸路でヴァンガルへ向かうとなると、他国を経由しなければならない。つまりその途中で反乱を起こせば、補給路を寸断するだけでなく、マドハヴァディティアと本拠地の連絡を断つこともできるのだ。
それを、いわゆる反マドハヴァディティア勢力がどう見るか。上手くやれば、マドハヴァディティアを異国で孤立させ、そのままイスパルタ軍に討たせることができる。実行するかは別として、それを考える者はいるだろう。忘れてはならない。百国連合には群雄割拠の乱世だった頃を覚えている者たちが、まだ多くいるのだ。
ロスタムやウスマーンが直接働きかけて、百国連合内でマドハヴァディティアに対して叛旗を翻させることには難しい。だが反乱を起こしやすい状況へ持って行くことはできる。そしてそのためには、ヘラベートをマドハヴァディティアに使わせるわけにはいかないのだ。ウスマーンはそのことをはっきりと理解した。
「了解しました。断じてマドハヴァディティアにヘラベートは渡しませぬ」
「うむ。頼んだ。戦況次第では、総督府から後詰めの兵を出してヘラベートを確保する。そのつもりでいてくれ」
ウスマーンが「御意」と答えると、ロスタムは満足げに頷いた。その後、二人は軽食をつまみながらさらに幾つかの点を確認する。それが終わると、ウスマーンは慌ただしく退席した。
そして翌朝、ウスマーンは夜明けと共に二万の兵を率いて出陣した。食料は各地に用意してあるし、連絡もすでに行われている。行軍速度は速かった。
ルルグンス法国との国境へ向かうその途中、ウスマーンはマルセルの部隊と合流した。話を聞くところによると、彼らはずいぶんと派手に戦ったらしい。警戒網はボロボロだろう。ウスマーンはそれを確認してからヴァンガルの様子を探らせるために斥候を走らせた。
ヴァンガルの中に入る必要はない。ヴァンガルは健在なのか、それとも陥落してしまったのか。健在だとして、ヴェールール軍はどの辺りを攻めているのか。その辺りのことを探らせるためだ。
マルセルらに関しては、ウスマーンは彼らをそのまま総督府へ向かわせた。その際、十分な物資と金を与え、「無理せず、ゆっくりと向かえ」と命じる。総督府には馬を走らせ、あらかじめ彼らのことを報せておくことにした。
そして出陣してから三日後、ウスマーン率いるイスパルタ軍二万は国境を越えてルルグンス法国へ入った。ここから先、物資の備えはない。当面必要な分を携えていくことになる。その分だけ、行軍の速度は鈍った。
もっとも、ある面では好都合だった。ウスマーンはヴァンガルの様子を知りたがっていた。本格的に動くのは、ヴァンガルが健在か否かを確認してからにしたかったのだ。そして斥候が戻ってくる。ウスマーンは直接報告を聞いた。
「ヴァンガルには、ヴェールールの旗が掲げられておりました」
斥候は短くそう報告した。つまりヴァンガルは陥落したのだ。それを理解して、ウスマーンの周囲にいた幕僚たちはざわめいた。
「あり得ぬ!」
「いくらルルグンス軍が惰弱とはいえ、ヴァンガルは大きく、そして堅固な城壁を備えた都市だぞ。それが、この短期間で落ちるとは……」
「ヴェールール軍は三万という話ではないか。それではまともに包囲する事もできぬ。それでどうやって落としたというのだ!?」
「まさかフサイン猊下が、臆病風に吹かれて逃げ出したのか? それならば納得もできるが……」
幕僚たちがあれこれと推測を語る。ウスマーンは「静まれ」と言って彼らを制した。そして斥候からより詳しい話を聞く。
「城壁はどうだった? 大きく破損しているような箇所はあったか?」
「そのような箇所は見受けられませんでした。また城門も焼け落ちたりせず、健在でした」
「ヴァンガルから逃げてきた者たちはいたか?」
「それが、ヴァンガルから脱出できた者はほとんどいないようです」
斥候がそう答えると、幕僚たちがまたざわめいた。城壁や城門に破損がないということは、城門が内側から開かれたのだろう。そしてヴァンガルは速やかに制圧された。だから脱出できた者がほとんどいないのだ。
「だれぞ、敵に通じたか……」
ウスマーンはそう呟いた。幕僚たちも頷いて同意する。城門が内側から開いたと言うことは、つまりそういうことであろう。フードやマルセルが懸念していた調略の話は、当たってしまったわけだ。
ウスマーンは嫌な予感を覚えた。裏切ったのは一体誰なのか。現状でははっきりとしたことは分からない。だが高位の者であればあるほど、ベルノルトらがダンジョンを使ってヴァンガルから脱出したことを知っている可能性が高い。そしてマドハヴァディティアがそのことを知れば、彼はベルノルトを探索させるだろう。
(どうする……!?)
ウスマーンは迷った。迷った末に、当初の予定通りヘラベートへ向かうことにした。大聖堂のダンジョンは、ルルグンス法国にとって秘中の秘。枢機卿クラスの人間でなければ、その存在すら知らないだろう。マドハヴァディティアもすぐに把握できるとは思わない。ならば迂闊に動いて、敵に余計な気付きを与えてはまずい。
ウスマーンは斥候から報告をまとめ、さらにヘラベートへ向かうことを書き添えて、総督府のロスタムのところへ使者を送った。そして自身は二万の兵を率いて南下する。マドハヴァディティアも南までは手が回らないようで、ウスマーンは容易くヘラベートを確保した。こうして戦局は、新たな局面に突入したのである。
ロスタム「フサイン三世は役に立たぬ」
ウスマーン「ある意味分かりやすくていい」




