ミールワイス
ついにヴェールール軍による法都ヴァンガルへの攻撃が始まった。ヴァンガルは大きな都市である。ヴェールール軍の三万という戦力では、四方を包囲することは難しい。そこでマドハヴァディティアはまず正門に攻撃を集中させた。
当然、ルルグンス軍もまた正門に戦力を集中させて防衛を行う。「ルルグンス兵は弱兵」と言われて久しいが、首都を攻撃されれば彼らも奮起せざるを得ないらしい。抵抗は激しく、マドハヴァディティアは二時間ほどで攻撃を打ち切った。
「さすがそう簡単には行かぬなぁ」
マドハヴァディティアはそう言って、いっそ楽しげに笑った。彼に焦った様子は少しもない。敵の抵抗が激しいのも、最初の攻撃で城門を破れないのも、全て織り込み済みである。彼はヴァンガル攻略の成功を確信していた。
その後、彼は昼夜を問わず、断続的に攻撃を行わせた。ルルグンス軍が必死に抵抗することは分かっている。それでなるべく味方の損耗を避けつつ、部隊を交代させながら頻繁に攻撃を仕掛けた。そうすることによって、ルルグンス軍に猛攻を印象付けたのである。
攻撃を続ける一方、マドハヴァディティアの下には不都合な報せも来ていた。イスパルタ軍の一隊が、警戒網を突破したという。ベルノルトの護衛としてヴァンガルに入った、五〇〇ほどの一団である。
彼らは四頭立ての、いかにもベルノルトが乗っていそうな馬車を囮に使い、まんまとヴェールール軍を出し抜いて東へ抜けたという。馬車は囮であったから、中は無人で、人を馬鹿にしたような人形が乗せられていたそうだ。
イスパルタ軍を取り逃がしたということは、遠からず万単位の援軍が後詰めに現われるだろう。それまでにヴァンガルを落としていなければ、ヴェールール軍は最悪、城壁とイスパルタ軍の間で挟み撃ちにされることになる。
またイスパルタ軍が現われれば、ミールワイスが本当に内応してくれるのか、それも定かではなくなる。彼は確かにこれまでマドハヴァディティアの要請に応じてきたが、しかしまだ決定的にルルグンス法国を裏切ったわけではない。
今はまだヴェールール軍とイスパルタ軍を、マドハヴァディティアとジノーファを秤にかけている状態で、後者が有利と思えばミールワイスは内応を止めるだろう。それどころか逆に、内応したと見せかけてマドハヴァディティアをイスパルタ軍に売るかも知れない。彼の誠実さを、マドハヴァディティアは当然ながら全く信用していなかった。
「そろそろ、仕掛けるか」
「はっ。頃合いかと」
攻撃を始めてから三日目の夕方。マドハヴァディティアとラーヒズヤはそう言葉を交わした。この三日間でヴェールール軍は戦力を増していた。各地に散らばっていた、遊牧民の略奪隊がこちらに合流したのだ。その数、およそ三〇〇〇。
全部でどれほどの遊牧民がこの作戦に加わっているのか、マドハヴァディティアは知らない。合流せず、略奪を続けている者や、戦利品を手土産に北へ戻った者もいるだろう。だから後どれくらい戦力を積み増しできるのか彼は分からなかったし、イスパルタ軍のこともあるので、これ以上戦力の集結を待とうとも思わなかった。
その日の夜。日が暮れるのを待ってから、ヴェールール軍は動いた。南を向く正門の前に兵を集めて威嚇させつつ、一万ほどの兵を西側へ回したのだ。この一隊はかがり火を焚いて移動したので、その様子はヴァンガルからもよく見えた。
当然ながら、ルルグンス軍はこれに対処するべく、西門へ兵を回した。今まで正門に攻撃を集中させていたのは、このためであったと思われる。つまりヴェールール軍の狙いは最初から西門だったのだ。ルルグンス軍は北門や東門からも兵を引き抜いて西門の守りを固めた。
ルルグンス軍の目は、はっきりと西門へ向けられた。そのことを確認すると、マドハヴァディティアは動いた。本陣に明々とかがり火を焚かせる。しかしそこは無人だった。本陣にいるはずの戦力は、夜陰に紛れて東門へ向かっていたのである。
東門は静まり返っていた。そこへ、マドハヴァディティアが直率するヴェールール軍一万が肉薄する。彼らの姿を見つけたのだろう。城壁の上でたいまつが振られる。そしてゆっくりと城門が開かれた。
「ミールワイス枢機卿より言付けを預かっています。『例の件、よろしく』と」
城門を開けたのは、十数名のルルグンス兵だった。聞けば、ミールワイス子飼いの兵であるという。彼らに対応したラーヒズヤは、「承知した」と答え、それからさらにこう尋ねた。
「それで、枢機卿はどこに?」
「『大聖堂を押さえる』、と」
それを聞き、ラーヒズヤは少しばかり嫌な予感を覚えた。だが「今は余計なことを考えている場合ではない」と、その予感を振り払う。今は速やかに正門と西門を開放し、味方を中へ入れることが最優先である。
「突入せよ!」
ラーヒズヤはそう命じた。ヴェールール兵が鬨の声を挙げて東門を通り抜けていく。彼らは事前に決めていた通り、二手に分かれてそれぞれ正門と西門を目指した。そして外に展開している味方と力を合わせ、それら二つの城門を開放する。
夜半過ぎ、ついにヴェールール軍の全軍がヴァンガルに突入した。重要施設が次々に制圧されていく。その中には当然、イスパルタ朝の大使館も含まれていた。そして朝日が昇る頃、ルルグンス法国の旗が降ろされた。代わりにヴェールールの旗が掲げられる。後世の歴史家は言う。「ルルグンス法国が滅んだ朝だった」と。
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ミールワイスは四〇歳を待たずに枢機卿の一人となった。ルルグンス法国においては異例の出世スピード、と言って良い。それだけに彼は自らの力を自負するところが強く、要するに野心家だった。
ルルグンス法国の序列において、枢密院の一員たる枢機卿は、ミールワイスがなり得る最高位の役職だった。枢機卿の上には法王がいるが、こちらは血筋によってその後継者が選ばれる。それでミールワイスが枢機卿を目指したのはごく自然な流れだった。
引退する前任者の後任として枢機卿となったミールワイスは、しかしその地位に失望することになる。輝かしく見えたその地位には、思っていたほどの権力が付随していなかったのだ。
それも仕方がない。ルルグンス法国の版図は十七州。往年の国力はなく、しかも隣には大国イスパルタ朝が存在する。西方諸国の脅威も合わせて考えれば、この大国に媚を売るより他に国を保つ術はなく、枢密院はすでにイスパルタ朝の“命令”を履行するだけの組織に成り下がっていた。
いや、それだけならまだ良い。他国から指示を受けることは腹立たしいが、しかし公平に見てイスパルタ朝の“命令”はそこまで酷いものではなかった。露骨な内政干渉はなかったし、結果的に法国の利益となったものも多い。
それにイスパルタ朝との同盟は、枢密院の後ろ盾でもある。枢機卿の発言力が担保されているのは、この後ろ盾によるところが大きい。言ってみれば、大国との同盟は権力の源泉なのだ。不満は多いが、それを呑み下すのは難しくなかった。
彼を最も失望させたのは、枢密院のあり方と法王ヌルルハーク四世その人だった。形式上、枢密院は法王の補弼機関である。つまり法王に対して助言を行うのが枢機卿らの仕事であり、最終的な決定権は法王にあるのだ。
ヌルルハーク四世は愚かで、わがままな法王だった。現実を見ることなく、ただ思いつきと願望で「あれをしろ、これをしろ」と命じる。しかも具体的な方策は何も考えておらず、枢密院に丸投げするのが常だった。
『これでは、枢密院は法王の下請け機関ではないか!』
ミールワイスは何度そう思ったか分からない。実際、無理難題を口にするヌルルハーク四世をなだめすかし、それを実現可能な範疇に落とし込んで彼の機嫌を取るのが、枢機卿らの主な仕事になっていた。
それでも枢密院で主導的な立場を得ることができれば、ミールワイスは多少なりとも不満を和らげることができただろう。ただそのために必要なのは、一にも二にもイスパルタ朝の個人的な後ろ盾だ。そして枢密院における親イスパルタ派の人物といえば、それはミールワイスではなくてブルハーヌだった。
ブルハーヌはミールワイスが枢密院に入る前から、親イスパルタ派の枢機卿として知られていた。当然、枢密院における発言力は最も大きい。ヌルルハーク四世がわがままを口にしても、彼がイスパルタ朝との関係を持ち出して宥めれば、ヌルルハーク四世もしぶしぶながらもそれを撤回する。そんなことが幾度もあった。
枢機卿となったミールワイスは、当然のようにブルハーヌと権力闘争を繰り広げた。彼は反ブルハーヌとも言うべき者たちをまとめ上げて発言力を確保したが、その結果なんと反イスパルタ派の首魁と目されるようになってしまった。己のその立ち位置に気付いた時、ミールワイスは思わず頭を抱えてしまったものである。
こうなると、イスパルタ朝の後ろ盾を得るのは難しい。不可能ではないだろう。だが得られたとして、結局はブルハーヌに次ぐ二番手だ。それに今更、反イスパルタ派の首魁を降りられるはずもない。
そんなミールワイスにヴェールールが接触してきたのは、ある意味で当然のことと言えるだろう。最初の接触があったのは第一次西方戦争の後で、その時点では彼に祖国を裏切るつもりなど毛頭なかった。
それどころか、「ヴェールールに近しい立ち位置になるのは危険だ」とすら思っていた。ヌルルハーク四世はイスパルタ朝にべったりで、しかもマドハヴァディティアのことを蛇蝎のごとくに嫌っている。しかもヴェールールとマドハヴァディティアは戦争に負けたばかりだ。手を組む相手としては、いかにも魅力がないように思えた。
ただ、外交チャンネルを開けておくことは、それとは別問題である。ヴェールールと百国連合は事実としてルルグンス法国の隣に存在しているのだ。しかも戦争までしている。これを無視することは現実的ではない。それで、ミールワイスはあくまでも仕事の範疇でヴェールール側と付き合うようになった。
こうして彼はヴェールールとの間にパイプを持つようになったのだが、それによって彼の立場は強化されることになった。その原動力となったのは金であり、その流れを作ったのは商人たちだった。
少し話は逸れるが、西方諸国ではルルグンス法国の硬貨が広く流通している。つまり両者は同じ経済圏に属しているのだ。少なくとも、経済分野における親和性は極めて高い。しかも通貨を発行しているのは他でもない、法国なのだ。つまりその分だけアドバンテージがある。
折しも、西方諸国は百国連合としてまとまり、騒乱もなく小康状態を保っている。その版図は六〇州を越え、ルルグンス法国よりもはるかに大きい。法国の商人たちが西へ目を向けたのも当然と言えるだろう。
イスパルタ朝の商人たちもずいぶんと進出しているが、彼らの拠点はあくまでもヘラベートだ。現地まで足を運んでいる者はまだ多くない。今ならまだ、より深く食い込むことができる。法国の商人たちはそう考えた。
ただルルグンス法国には、金儲けは卑しいことと見る風潮がある。事業を拡大し、しかもつい最近戦争をした相手と商売をするというのは、なかなか難しい。つまり多額の“寄付”が必要になる。それこそ利益が全て吹き飛ぶほどの。そこで法国の商人たちは庇護者を求めた。それが、他ならぬミールワイスである。
彼の懐には多額の金貨が舞い込んだ。商売を行わせれば行わせるほど、その額は増えていった。百国連合との交易拡大にヌルルハーク四世は(主に感情的な理由で)いい顔をしなかったが、そこで生まれる多額の利益は彼にとっても魅力的だった。
結果として枢密院におけるミールワイスの影響力は増した。そして影響力以上に資産を増した。その成功が、彼をより百国連合寄りにした。そしていつしか、彼はこう考えるようになったのである。
『百国連合を後ろ盾にすれば、枢密院で最大の力を持てるようになるのではないか』
そんな時だ。彼の耳にこんな話が入って来た。曰く「マドハヴァディティアは法王の世俗的権力と宗教的権威を分離させることを考えている」。それを聞いたとき、彼の価値観は根底から揺さぶられた。
マドハヴァディティアが考えているのは、ルルグンス法国を征服した後の事だろう。世俗的権力は自らが手に入れ、法王に宗教的権威を残すことで、占領地の統治を安定させようというのだ。
ミールワイスが考えたのは、さらにその先のことである。宗教的権威が残ると言うことは、つまり百国連合域内で女神イーシスへの信仰が公認されるということである。もしも連合内で布教活動を行い、多数の信者を獲得できれば、法王の影響力は今とは比べものにならない範囲にまで及ぶことになる。
百国連合とルルグンス法国の版図を合わせれば、七〇州を越える。さらにそこへ旧法国領を加えれば、なんと一〇〇州近い。その広大な領域に、法王は影響力を行使するようになるのだ。
マドハヴァディティアは世俗的権力と宗教的権威を分離するという。だがミールワイスに言わせればそんなことは不可能だ。両者ともその力は民衆の支持の上に成立する。そして多数の信者を獲得すれば、それを背景に政治へ圧力をかけることなど、いくらでも可能だ。それはすなわち、世俗的権力である。
つまり表面上両者を分離したとして、実態としては百国連合の盟主と法王が並び立つことになる。いや盟主があくまで「盟主」でしかないことを考えれば、法王の方が優勢になるかも知れない。つまり法王がマドハヴァディティアを超越するのだ。
『あの、ヌルルハーク猊下が?』
ミールワイスは失笑を禁じ得なかった。あの肥満体の老人に、そんな大それたことができるはずもない。そもそもヌルルハーク四世には寿命が足りないだろう。ではフサイン三世にその器量があるかと言えば、それもまた否だ。
『だいたい、なぜ法王でなければならぬ?』
唇の端に野心をのせて、ミールワイスはそう呟いた。枢密院で台頭し、法王に影響力を行使することで、ルルグンス法国において権勢を得る。それが今までの彼の大願だった。だがそれさえも今は小さく見える。
ヌルルハーク四世もフサイン三世も、見かけの上とは言え、マドハヴァディティアに世俗的権力を渡すことなどできないだろう。であればマドハヴァディティアには別の同盟者が必要だ。そしてその同盟者として最も相応しいのは、ミールワイスに他ならない。
『悪くない。そうだ、悪くない』
もちろん、マドハヴァディティアは露骨な政治介入を許さないだろう。世俗的権力については、どうしても一歩退いた立場を取らざるを得ない。だが今のままではずっと「法王の小間使い」で「イスパルタ朝の下働き」だ。そんな未来はうんざりだった。
ミールワイスの野心は膨れ上がっていった。ちょうどその頃、ヌルルハーク四世が死んだ。そしてヴェールールが「弔問の使者を送る」と言ってきた。彼にとっては渡りに船と言えた。
ヴェールールの使者を受け入れることには反対意見もあった。だがミールワイスは「他国の使者を一方的に拒絶することは、独立国としてあるまじき愚行」と主張してそれを受け入れさせた。フサイン三世は昨今の情勢からルルグンス法国の独立性を守ることに過敏になっている。彼を転がすのは簡単だった。
ミールワイスはヴェールールの使者団のために屋敷を一つ用意した。当然、彼の息がかかっていて、密談にはもってこいだ。そしてラーヒズヤがヴァンガルにいる間中、二人は何度も密談した。
ラーヒズヤはミールワイスに教皇の地位を約束した。枢密院の代表たる地位である。同時にミールワイスは百国連合域内における布教活動の許可も取り付けた。もはや躊躇う理由はなかった。
ミールワイスはラーヒズヤの手を取った。いや、彼を介してマドハヴァディティアの手を取ったのだ。こうして彼は祖国を売った。
ミールワイス「キャリアパスの終着点が中間管理職だなどと、私は認めない」