ヴェールール軍襲来
――――ヴェールール軍、襲来。
ベルノルトらを送り出した、その二日後の昼食にはまだ幾分早い時間。フードとデニスは法都ヴァンガルにあるイスパルタ大使館の応接室でその報せを受け取った。
報せを持ってきた文官は恐怖を押し隠した様子だったが、フードとデニスは来たるべきものが来たとした思っていない。のんびりとお茶を飲む二人に動揺した様子はなく、「ご苦労」と言って報告者を下がらせた。
「さて、とうとう来ましたなぁ」
「左様で。……別に来なくても構わなかったのですがねぇ」
二人はそう言って笑い合った。二人の表情には余裕がある。ヴェールール軍のことを脅威に思っていないわけではない。むしろ彼らは自分たちの命が危ういことをしっかりと認識していた。彼らに余裕があるのは、「やるべき事は全てやった」という自負があるからだ。
ベルノルトとサラについては、十分な物資を持たせて腕利きの護衛を付け、ダンジョンを使ってすでにヴァンガルから脱出させた。今頃は中層か、それとも下層か。いずれにしても正確な地図がなければ、彼らを追うことはもはや不可能だ。
マルセル麾下のイスパルタ軍五〇〇も、すでにヴァンガルから出陣している。彼らがどうなったのか、情報は何ら入ってこない。だが上手くいったのであれば、十日の内に援軍が現われるだろう。フードとデニスにできるのは、それを待つことだけである。
大使館に保管されていた機密文章は、全て焼き捨てた。これでアースルガム解放軍との繋がりなど、知られてはまずい情報がマドハヴァディティアに伝わることはない。焼いた書類は大量で、二人は「一緒にイモでも焼けば良かった」と笑い合ったものだ。
また大使館の職員は、最低限の人員だけ残して全て外に出した。現地で雇ったルルグンス人には、十分な金を持たせた上で暇を出した。本国から連れてきたイスパルタ人の方は、ユーヴェル商会を頼って避難させている。これでともかく、大使館にヴェールール軍が踏み込んで来たときに、彼らが危険にさらされることはない。
ただ、だからといって彼らが安全かと言えばそんなことはない。ヴェールール軍が都市の中に侵入してくれば、皆等しく危険だ。ただ大使館はほぼ確実に狙われる。それよりは大使館の外へ避難していたほうが安全だろう。
どのくらい差があるのかは判然としないので、その点はフードもデニスも心苦しいのだが。とはいえ二人にはどうしようもない。悪いのはマドハヴァディティアなので、その辺りの事は諦めてもらうしかないだろう。
もっとも、ヴァンガルが陥落すると決まったわけではない。ヴァンガルは大きな都市であり、城壁も高くて堅固だ。普通に考えれば、たった三万で攻略するのは難しい。加えて前述した通り、マルセルらが見事に任務を果たしていれば、十日の内にイスパルタ軍が後詰めする。つまりあと八日持ちこたえる事ができれば、ヴェールール軍を退けることは十分に可能だ。
「持ちこたえられると思いますか、フード卿?」
「さて、持ちこたえて欲しいものです」
深刻な気配はまるで見せず、二人はそう言葉を交わした。防衛戦の準備には大使館も協力している。金庫に残っていた資金と、倉庫に保管されていた武器を提供したのだ。法王フサイン三世からはブルハーヌ枢機卿を通じて感謝の言葉があったが、さてどこまで本心なのかと二人は苦笑気味だった。
マルセル麾下のイスパルタ兵五〇〇は防衛戦に使いたかったというのが、フサイン三世の本音だ。ベルノルトを含めて彼らが“敵前逃亡”したことに、フサイン三世は強い不満を抱いていると言う。その気持ちも分からないではない。だがこちらの都合も少しは考えて欲しいと二人は思うのだ。
「……いずれにしても、我々にできることはもうありません。あとはただ、流れに身を任せるのみでしょう」
「そうですな。願わくば良い結果になって欲しいものです」
「まことに。……ところでデニス卿。実のところ、我々には難題が残されています。具体的に言えば、今日の昼食についてです」
「……やれやれ。まさかヴァンガルに来て包丁仕事をすることになろうとは。経費削減は結構ですが、職員を減らしすぎたのではありませんか?」
「なにぶん、金庫が空なもので……。それでも腹は減るのですから、難儀なものです」
「ではひとまず、目の前の難題を解決するとしましょうか。腹が減って何も考えられなくなる前に」
「ええ、そうしましょう」
二人は連れ立って厨房へ向かう。フードとデニスが四苦八苦して作った料理は酷い出来で、二人は自分たちの作った料理を「戦場めし」と名付けたのだった。
○●○●○●○●
フードとデニスが不慣れな食事の準備をしていた頃、法都ヴァンガルの目前に迫ったヴェールール軍も陣を張って食事の用意をしていた。どちらの料理がより不味かったのは分からない。だが不味い飯に慣れているのはヴェールール兵らの方だった。彼らは黙々と食事を腹に流し込む。そしていよいよ、攻囲陣形をしいた。
ヴェールール軍がまず狙ったのは、ヴァンガル正面の正門だった。マドハヴァディティア麾下三万の兵が整然と並ぶ。マドハヴァディティアは馬上からヴァンガルの正門を眺めて満足げに頷いた。ここまではおおよそ全て、彼の思惑通りに事が運んでいる。
前回の失敗、つまり第一次西方戦争の敗北から彼が学んだことは多い。その一つが、イスパルタ朝の諜報能力の高さだ。イスパルタ朝は彼が百国連合軍を催そうとしていることを察知し、その情報を基にジノーファは兵を動かした。その結果、イスパルタ軍は神速の動きを見せ、彼は戦うことすらできずに敗北したのである。
『まずはこれを欺かねばならぬ』
再び東方へ兵を出すに際し、マドハヴァディティアはそう考えた。ただ、イスパルタ朝と諜報合戦をして勝てるとは思わない。ヴェールール国内なら何とかなるだろう。彼にはその自信がある。
だが百国連合の他国となると、そもそも諜報という概念すらない国が多い。そのような国から情報が漏れ出すのを防ぐのは不可能だ。これは〈連合〉という形式を取らざるを得なかった、マドハヴァディティアの弱点と言えるだろう。
では、どうするのか。マドハヴァディティアの出した答えは、「百国連合軍は催さず、まずはヴェールール軍のみで事に当たる」というものだった。百国連合軍集結の兆候がなければ、イスパルタ朝も油断するだろう。その隙に乗じて奇襲の一撃を加え、それによって趨勢をたぐり寄せるのだ。連合軍を組織するのは、そのあとで良い。
ただ動かせるのがヴェールール軍だけだとすると、そう何カ所も狙うことはできない。その後のことも考えれば、攻撃対象は絞る必要がある。ラーヒズヤら参謀たちに検討させた結果、彼らが挙げた候補地は二つ。それが法都ヴァンガルと南の貿易港ヘラベートだった。
ヴァンガルとヘラベートは互いに距離が離れている。両方を攻略することは難しい。攻略できたとして、百国連合軍の準備が整うまで両方を保持することは不可能だろう。兵力を分散させれば、遠からずやって来るイスパルタ軍に各個撃破される恐れがある。攻撃対象はどちらかに絞る必要があった。
ヴァンガルは大きな都市で、その城壁は堅牢だ。いかにルルグンス兵が弱兵とはいえ、ヴェールール軍のみでこれを攻略するのは非常に難しいと言わざるを得ない。攻略のためには一工夫必要だろう。
一方のヘラベートは堅牢とは言いがたい。二〇〇〇弱のイスパルタ軍が駐留しているが、ヴェールール軍のみで十分に落とせるだろう。ただ落としやすいということは守りにくいと言うことでもある。落としたあと、百国連合軍の準備が整うまでしっかりと守れるのか、不透明な部分はある。
『さて、どちらを攻めるか……』
マドハヴァディティアは悩んだ。そんな時だ。前法王ヌルルハーク四世が死んだ。彼はこの機会に攻めかかろうかと思ったが、それは止めた。時勢を得たかのように見える。だがそれはイスパルタ朝にとっても同じだろう。いま動けば対処される。彼はそう直感した。ただ、何もしないのは面白くない。
『この機会だ。弔問を名目に誰ぞヴァンガルへ送るか』
マドハヴァディティアは少々意地悪くそう考えた。彼に死を悼まれても、ヌルルハーク四世は嬉しくもなんともあるまい。むしろ顔を歪めて嫌悪するだろう。フサイン三世をはじめ、法国側の誰も彼の弔問など喜ぶまい。
だが断ることもできまい。断れば、ルルグンス法国は無礼を咎められて、それが兵を動かす口実になる。まして法国では葬儀と即位のための儀式が一年に渡って続くという。それらの儀式をきちんと行えるかどうかは新法王の面子に関わる問題で、この時期に最も戦争をしたくないのは他でもないフサイン三世であろう。
使者を送る。それによってヴァンガルの内情を探らせるのだ。その情報は攻略の際にも役立つだろう。ついでに有力者を調略できれば言うことはない。またここで外交に積極的な姿勢を見せれば、イスパルタ朝もまさかヴェールール軍が動くとは思うまい。
それでマドハヴァディティアはラーヒズヤをヴァンガルに送ったのだが、彼が面白いことを報せてきた。イスパルタ朝は弔問の使者として第一王子のベルノルトを遣わしたというのだ。
『ほう……』
マドハヴァディティアの野心がうずいた。仮にベルノルトの身柄を抑えることができれば、イスパルタ軍の動きを封じることができる。彼を人質にして交渉を行えば、イスパルタ朝本国の国土を得るのは無理でも、ルルグンス法国をマドハヴァディティアのものにすることはできるだろう。
さらにラーヒズヤはルルグンス法国の大物を調略することに成功した。枢機卿の一人であるミールワイスだ。この成果にはさすがのマドハヴァディティアも驚愕した。まさか枢機卿の一人が内応するとは思っていなかったのだ。そして同時に、これはまたとない好機であるように思えた。
またラーヒズヤによれば、大聖堂の宝物庫には莫大な量の宝物が収められているという。それはルルグンス法国がこれまでの長い歴史の中で蓄えてきた宝物であり、ラーヒズヤによれば「ヴェールール一国を三年養える」ほどのものであるという。それを聞き、マドハヴァディティアはいたく欲心を刺激された。
『ヴァンガルを獲るぞ』
マドハヴァディティアはそう宣言した。ミールワイスが内応したからには、ヴァンガルを攻め落とすのは難しくない。ルルグンス法国の宝は全て彼のものだ。フサイン三世を捕らえることもできるだろう。あるいは殺してしまうかも知れないが、それはそれで構わない。
さらに今なら、ベルノルトの身柄を抑えることも可能だろう。それが叶えば、法国はもう彼のものだ。仮に叶わなかったとしても、ヴァンガルの城壁が無傷で手に入れば、百国連合軍を催すまでの時間は十分に稼げる。
マドハヴァディティアの命令を受け、ヴェールール軍が速やかに準備を始めた。ただ国外遠征であり、しかも百国連合加盟国とはいえ、他国を経由しなければならない。諸々の調整のためにはどうしても時間がかかる。その間にベルノルトが弔問を終えて帰国してしまっては、ヴァンガル攻略の価値が半減してしまう。
『ふむ。一手必要だな』
それでマドハヴァディティアは小細工を弄した。まずラーヒズヤに指令書を送り、ミールワイスを使ってベルノルトをヴァンガルに止めさせた。さらに一部隊を送り、ルルグンス法国国内に網を張る。ベルノルトがヴァンガルから逃げ出してきた場合に、これを捕らえるためである。
ただ大がかりな部隊を送れば、全てが露見してしまう。そこでマドハヴァディティアは遊牧民を使った。遊牧民に法国の北部を略奪させ、そこに紛れる形で本命の部隊を送り込んだのである。またそこには、略奪隊をヴェールール軍の指揮下におくという意図もあった。
ただ遊牧民を使うことには反対意見もあった。「略奪隊の討伐のために、イスパルタ軍が介入してくるのではないか」という懸念があったのだ。早期にイスパルタ軍が介入し、そのままヴァンガルに立て籠もるようなことになると、少々厄介だ。
それでもマドハヴァディティアは遊牧民を使うことに拘った。理由は主に二つ。一つはルルグンス法国の目を西から北へ逸らし、ヴェールール軍本隊の動きを悟られないようにするため。もう一つは純粋に遊牧民を戦力として使うためだった。
そこでやはりミールワイスを使い、イスパルタ軍への救援要請を一時棚上げさせることにした。彼は上手くフサイン三世を煽り、まずはルルグンス軍が略奪隊に対処することになった。
その対処の仕方があまりに悪かったのは、マドハヴァディティアにとって望外の成果だった。ルルグンス軍は多数の死傷者を出してヴァンガルへ撤退した。ヴェールール軍本隊が侵攻する前に、敵が勝手に戦力を減らしたのだ。彼は高笑いする代わりに苦笑を浮かべたものだった。
戦う前から、ルルグンス法国はボロボロだったと言って良い。その状況を作り上げたのは、他でもないマドハヴァディティアだった。彼は自らの謀略が上手くいったことに気分を良くする。そして満を持して兵を動かした。
相互不可侵条約を不当に破る格好にはなるが、そんなものはいちいち気にしない。そもそもこの手の条約破りはある種のお約束だ。油断する方が悪い。彼はヴェールール軍三万を率いて法国へ侵攻。一路、ヴァンガルを目指した。
彼としては、途中の村や町は無視したかった。一日でも早くヴァンガルを落とすためだ。ヴァンガル攻略の目途は立っている。だがイスパルタ軍が来る前に終わらせなければならない。そうである以上、やはり時間は貴重だ。
ただ何もかも上手くいくとは限らない。長期戦になる可能性もある。その場合、補給線を脅かされては堪らないし、何より兵たちは略奪を楽しみにしている。戦意高揚と警告、そして物資の現地調達をかねて、マドハヴァディティアは二カ所ほど略奪を許した。これで、あえて邪魔立てしようと考える愚か者はいなくなるだろう。
その甲斐もあり、ヴェールール軍は高い士気を保った状態でヴァンガルへと肉薄した。さすがにヴァンガルの城門は固く閉じられていて、城壁の上には武器を構える多数の兵士の姿が見える。ここまではほぼ無抵抗だった。しかしここから先は、さすがにそういうわけにはいかない。
(ここからが本番だな)
マドハヴァディティアは内心でそう呟き、口元に獰猛な笑みを浮かべた。ここから東進が始まるのだ。ヴァンガルの攻略はその足がかりにすぎない。ルルグンス法国を併呑し、さらにその東へ向かうのだ。
ヌルルハーク四世がガーレルラーン二世に割譲した旧法国領を回復すれば、百国連合とイスパルタ朝の国力はほぼ拮抗、ともすれば逆転する。彼は五年以内にそれを成し遂げるつもりだった。
(そのためにも……)
そのためにも、ここで躓くわけにはいかない。ルルグンス法国を速やかに併呑してこそ、その先が見えてくるのだ。全ては時間との勝負である。
「攻撃開始!」
槍の穂先をヴァンガルに向けて、マドハヴァディティアはそう号令を下した。攻撃が始まった。
フード&デニス「不味い!」
ヴェールール兵「食えるだけでもありがたい」
ベルノルト&サラ「ステーキうま~」




