戦後の動乱
イスパルタ軍をルルグンス法国の領内へ引き上げさせると、ジノーファは法都ヴァンガルへ使者を送った。今回の戦争の一連の顛末について、法王ヌルルハーク四世に報告させるためである。
ヌルルハーク四世は新たな国土を得られなかったことは残念そうだったが、五年間の相互不可侵条約が結ばれ、さらに賠償金として金貨二万枚を得られることを聞くと、太った身体を揺らして喜んだ。新たな国土については、もともと無理筋だと思っていたのかも知れない。
「イスパルタ王の果断にして勇敢な戦いぶりには、ただただ感服するばかりじゃ。加えてこのように敵を払いのけてもらえたこと、どのように謝意を示せばよいのか、皆目見当もつかぬ」
ヌルルハーク四世は機嫌良くそう語った。今回、イスパルタ朝は金貨三万枚を得ているし、百国連合との間に多少有利な通商条約を結ぶこともできた。得るものは得ているわけだが、実は使者はジノーファからある指示を受けていた。それで、せっかくヌルルハーク四世がこう言ってくれたので、使者はそこに便乗することにした。
「さすれば、ジノーファ陛下より法王猊下に一つ提案がございます」
「ほう、どのような提案じゃ?」
「今回、我々は幸運にも、マドハヴァディティアとその軍勢を法国へ踏み込ませることなく撃退することができました。しかしマドハヴァディティアがこれで東進を諦めたとは到底思えません」
「むむぅ。確かにマドハヴァディティアめは欲心と野心の塊じゃ。その通りかも知れぬ」
「マドハヴァディティアは必ずやまた襲来するでしょう。無論、ジノーファ陛下はお勝ちになられます。ですがだからこそ、彼の襲来は二度三度と続くことになりかねません。そして一度ならばともかく、大軍を何度も国外へ派遣するとなると、イスパルタ朝にとっても決して軽くない負担となります」
「で、ではイスパルタ朝は我が法国を見捨てると言うのか!?」
「いいえ。まさか、そのような。ですが我々は近い将来に起こりえる危機に対して、現実的な対策を講じる必要があります。それでジノーファ陛下からのご提案なのですが、ヘラベートにイスパルタ軍を駐留させては如何でしょうか?」
「ぬ、ぬう……。ミールワイスよ、どう思う?」
ヌルルハーク四世に下問されて、一人の男が進み出る。三年ほど前に、前任の枢機卿が高齢を理由に引退したのを機に、枢密院の一員となった男だ。彼はにこやかな笑みを顔に貼り付けて、使者にこう尋ねた。
「一つお伺いしたい。ジノーファ陛下のご提案はつまり、ヘラベートに大軍を駐留させたいという意味であろうか?」
「言葉が足りず、申し訳ありません。決して、大軍をそこに置きたいという意味ではないのです」
マドハヴァディティアが再び襲来する際、彼は必ずや大軍を率いてやって来るだろう。これを撃退するためには、イスパルタ朝もまた大軍を動員する必要がある。そして大軍を動かす際に足かせとなるのが、兵站だ。
仮にイスパルタ朝本国から補給線を伸ばそうとすると、その長大な補給線を維持することはかなりの負担になる。だが十分な補給物資なくして大軍を戦わせることはできない。そこで重要になってくるのが、ルルグンス法国の南端に位置する貿易港、ヘラベートだ。
ヘラベートまでなら、海路で物資を輸送することができる。船が使えるのだ。陸路と比べて輸送量は段違いであり、つまり補給線にかかる負担は軽くなる。そしてヘラベートからなら、法国の西の国境へ物資を運ぶのもそれほど大変ではない。少なくともイスパルタ朝本国から陸路で運ぶのと比べれば。
実際、今回の戦争でもまったく同じ事をやっている。ジノーファの提案とは要するに、その態勢を恒久化して平時から補給のための準備を整えておく、ということだ。今回なかなか上手く行ったので、さらに洗練すれば今後の西方への備えとして十分に機能する、とジノーファは判断したのだ。
「無論、今すぐにというわけではありません。ですが将来的にヘラベートに軍を駐留させ、平時から兵站の管理をさせておけば、いざという時にイスパルタ軍は素早くルルグンス法国へ駆けつけることができます。それは法国の民の命と財産を守ることに繋がりましょう」
使者はそう力説した。またヘラベートにはイスパルタ朝の総領事館があり、そこは西方監視の拠点ともなっている。軍を駐留させれば、その機能はさらに強化されるだろう。マドハヴァディティアが動く兆候を見逃すことはあるまい。
加えて、マドハヴァディティアは今回の戦争でヘラベートがイスパルタ軍の重要な後方拠点となっていたことを遠からず知るに違いない。となれば今後、ヘラベートが攻撃目標とされる可能性は頭に置いておく必要がある。だがイスパルタ軍が駐留していれば、そういう事態にも対処できるだろう。
「むう。なるほど、のう……」
説明を聞き、分かったのか分からないのか、ヌルルハーク四世はそう呟いた。そして少し考え込んでから、「枢密院で検討したいので、返答は少し待って欲しい」と応えた。使者は恭しく一礼した。
そして枢密院で話し合われたわけだが、当初は否定的な意見が多かった。いくら友好国とは言え、他国の軍を国内に駐留させることには拒否感が強かったのである。
またルルグンス法国はアンタルヤ王国、ガーレルラーン二世によって国土のおよそ六割をふんだくられている。イスパルタ軍を駐留させれば、彼らはたちまち残りの国土を奪う尖兵と化すのではないか。そういう懸念もあった。
「大軍を置く気はないという話でしたが、どれほどの規模を大軍と見なすかは、結局のところイスパルタ王の胸三寸です」
ミールワイスがそう発言する。例えばジノーファが三万を「大軍ではない」としてヘラベートに置いたとする。それだけの戦力がしかも法国国内にあれば、イスパルタ朝は好きなときにルルグンス法国を征服することができるだろう。ヌルルハーク四世や枢機卿らにとっては愉快ならざる事態である。
「……今回、イスパルタ軍は極めて迅速に動いた。であれば、わざわざヘラベートに軍を駐留させる必要などないのではないか」
そういう結論が出そうになったとき、挙手して発言を求める枢機卿がいた。ブルハーヌである。貢納金の一件以来、彼は枢密院の中で親イスパルタ派として知られている。彼はこう発言した。
「ヘラベートに軍を駐留させるのは、万が一の時にイスパルタ軍を迅速に動かすため、というのがイスパルタ王の主張です。と言うことはこれを拒否した場合、我々は『万が一の時にも、イスパルタ軍は迅速に動いてくれなくても良い』と回答したことになります」
その場合、マドハヴァディティアの東進に際し、いつ救援に来るかはそれこそジノーファの胸三寸ということになる。極端なことを言えば、マドハヴァディティアが法国を平らげるのを待ち、それから彼を討って法国をイスパルタ朝に併合してしまう、と言うことさえあり得るのだ。
その可能性を指摘され、ヌルルハーク四世は震え上がった。もちろん、ジノーファは彼の目から見てもお人好しであるから、そのジノーファが意図的に来援を遅らせるとはヌルルハーク四世も思っていない。
しかしマドハヴァディティアがジノーファの予測を上回る速度で動くことはあり得る。そしてイスパルタ軍の到着が遅れれば、その分だけ法国の国土は荒らされてしまう。ヌルルハーク四世自身の命さえ危ないかもしれない。その危険を少しでも低減したいのなら、イスパルタ軍が動きやすい環境を整えるしかない。
マドハヴァディティアの脅威があるからには、ルルグンス法国はイスパルタ朝に庇護を求めるより他にないのだ。そうである以上、庇護者の機嫌を損ねるような真似はするべきではない。それが枢密院の結論となった。
もっとも、「ヘラベートに兵を置きたい」というジノーファの提案は、マドハヴァディティアのことだけを念頭に置いたものではなかった。軍を駐留させれば、ルルグンス法国におけるイスパルタ朝の影響力はさらに強くなることは間違いない。第一の狙いはそれだった。
また法国がマドハヴァディティアに蹂躙されたとして、ヘラベートだけはイスパルタ朝の管理下に置き、その貿易港と権益を確保する。そう言う思惑もあった。だからミールワイスの懸念も、当たらずも遠からずであったわけだ。
まあ、それはともかく。帰参した使者から報告を受けると、ジノーファは満足げに頷いた。イスパルタ朝にとって、第一次西方戦争は満足のいく結果になったと言って良い。今後、西方の動向にさらなる注意を払う必要はあるが、それは時代の流れであろう。
さて、戦争のもう一方の当事者である、マドハヴァディティアはどうしていたのか。いわゆる「第一次西方戦争」は終わってしまった。しかし彼にとっての本番はむしろこれからだった。
無論、東へ進むつもりはない。マドハヴァディティアが矛先を向けようとしているのは、むしろ百国連合の身内である。オリッサ平原の決戦においてほとんど戦うことなく兵を退き、そのまま国へ帰ってしまった者どもを討伐するつもりなのだ。
彼らはいわば、マドハヴァディティアのことを無視したのである。いや、「見捨てた」と言っても良い。そのために彼は十分な戦力を得ることができず、イスパルタ軍との間に不利な講和条約を結ばざるを得なかった。
『せめて、あと一万五〇〇〇の戦力があれば……!』
マドハヴァディティアは交渉の間、何度もそう思った。見捨てられたこと、そしてそのために負けてしまったこと。彼には大変に屈辱であった。必ずやその報いをくれてやらねばならぬ。彼はそう心に決めていた。
彼のそういう想いが、講和条約締結後の軍事行動に繋がった。ただし彼は感情にのみ突き動かされていたわけではない。イスパルタ朝やルルグンス法国との間には相互不可侵条約が結ばれた。今ならば東方を気にする必要はない。何より彼の手元には、無傷のヴェールール軍三万がすでにある。事を行うべき条件は揃っていた。
また、この軍事行動がマドハヴァディティアの復讐であることは事実だったが、それを抜きにしても彼には動くべき理由があった。今回討伐の対象とした者たちは、要するに彼の権威を心底認めてはいないのだ。むしろ「倒れれば良い」とさえ思っているに違いない。
いわば、獅子身中の虫である。そのような者たちを討伐してこそ、マドハヴァディティアの権威は確たるものとなるのだ。また討伐に伴いヴェールールの版図が広がれば、百国連合内における彼の発言力はまさに不動のものとなる。今後イスパルタ朝と戦うことを考えれば、それはどうしても必要なことであるように思われた。
条件が揃い、なすべき理由があり、そして感情的にもそれを望んでいる。マドハヴァディティアが躊躇うべき理由は何もなかった。交渉前に合流してきた二人の王を伴い、彼は合計で三万六〇〇〇の兵を率いて軍事行動を開始した。
マドハヴァディティアのこの動きは、西方諸国を驚愕せしめた。度肝を抜かれた、と言っていい。「イスパルタ朝との交渉がまとまれば、彼はもう軍事行動を終えて国へ帰るに違いない」。西方諸国においてはそのように考えられていたのである。しかしその予想は裏切られた。
「な、なぜだ!? なぜマドハヴァディティアは攻めてくるのだ!?」
「東へ進むのではなかったのか!?」
「奴め、最初からこれが目的であったのだな!?」
「非常識だ!」
特に、標的とされた国々は悲鳴を上げた。彼らには攻撃される心当たりがあった。それはもちろん、戦うことなく兵を退き、そのまま国へ戻ったことである。
前述したように、マドハヴァディティアがこうもすぐに軍事行動を起こすとは、彼らは予測していなかった。予定されていた東進が失敗に終わったのだから、ともかく一度国へ戻り今後の方策を練るに違いない。何にしても、いきなり攻撃されることはないだろう。
それどころか、この敗戦はマドハヴァディティアの権威を失墜させる絶好の機会だ。もともと百国連合内において、〈王の中の王〉を自称し、まるで盟主のように振る舞う彼を快く思わない者は多い。一度彼の資質に疑義が呈されれば、その流れは一気に加速するだろう。彼らはそう考えていたのだ。
ヴェールールに成り代われれば、それは最上の結果である。しかし彼らもそこまでは望んでいなかった。マドハヴァディティアの専横を咎め、同時に自分たちの発言力を確保する。それが彼らの狙いだった。
しかしマドハヴァディティアの素早い動きが彼らを一挙に窮地へ追い込んだ。標的とされた国々は、どこも単独ではマドハヴァディティアに抗し得ない。だが連携し連合するだけの時間もない。そう言う計画もあったが、マドハヴァディティアがその時間を与えなかったのだ。
「ヴェールール王よ、なぜこのような暴挙をなさるのか。東進は貴方が主導したことで、我々がその指示に従ったではないか。つまりオリッサ平原での敗北は、貴方自身に責任がある。それを……」
「やかましい。無駄にさえずるな。帰ってそう伝えろ!」
中にはマドハヴァディティアの非を訴えて時間を稼ごうとした国もあったが、彼は使者の長々しい口上をばっさりと切り捨てて追い返した。また反対に下手に出て和を乞おうとした国もあったが、彼はやはりけんもほろろに使者を追い返した。
この段に至り、標的とされた国々は自分たちが鬼札を引いてしまったことに気付いた。マドハヴァディティアの側に交渉の余地はない。どうあっても彼はそれらの国々を叩くつもりなのだ。時間があるなら、周囲と連携して迎撃の準備を整えることができる。だが今回、その時間はなかった。
「降伏するよりほかにあるまい」
標的とされた国々はそう決断した。それで降伏の使者を送ったのだが、しかしマドハヴァディティアはその使者を追い返した。彼は降伏を認めなかったのである。
標的とされた国々は絶望的な戦いを戦わねばならなくなった。戦力差は圧倒的である。結果など、戦う前から分かっていた。
「奪え。奪い尽くせ」
攻め落とした街々で、マドハヴァディティアは略奪を許した。兵士たちは狂喜乱舞して家々に押し入り、奪えるものを奪い、目についた女をさらったり犯したりした。邪魔する者は全て殺した。
マドハヴァディティアは全部で三つの小国と八つの都市国家を攻め滅ぼした。それらの国土は全てヴェールールに併合された。これによりヴェールールの版図は三〇州を超えた。百国連合において、いわば単独過半数を占めたのだ。
滅ぼされた国の王家やそれに連なる血筋の男子は赤子に至るまで皆殺しにされた。マドハヴァディティアは彼らの首を曝し、身体は犬に喰わせた。一方、生き残った妃や王女たちは、マドハヴァディティアの後宮に収められた。褒美として臣下に下げ渡された姫もいたという。彼に協力した二人の王も、それぞれ望みの美姫を手に入れた。彼にとって女は戦利品だった。
「姫様、どうかもう少しだけご辛抱下さい。必ずや、姫様をイスパルタ朝へお連れいたします」
「爺や、わたしは大丈夫だ」
さてそのなかでたった一人だけ、マドハヴァディティアの手を逃れた王女がいた。小国アースルガムのサラ王女である。彼女は僅かな供回りと一緒に国を脱出し、一心不乱に東を、イスパルタ朝を目指した。そしてクルシェヒルにてジノーファに謁見し、イスパルタ朝へ亡命したのである。
百国連合内において、サラ王女は死んだことになった。マドハヴァディティアがそうしたのである。彼はイスパルタ朝に彼女の身柄を引き渡すよう求めることはしなかった。拒絶されることは目に見えていたし、その場合まさか武力を用いるわけにもいかぬ。死んだことにするのが、最も収まりが良かったのだ。それを人々が信じるかは別として。
こうしてマドハヴァディティアもまた軍事行動を終えた。再び物語が動き出すには、およそ二年の時間を要することになる。
マドハヴァディティア「単独過半数……。良い言葉だ……」
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マドハヴァディティアさんがうっとりしたところで、今回はここまでです。
続きはまた気長にお待ち下さい。




