西へ1
大統暦六五八年五月二一日。ジノーファ率いるイスパルタ軍五万は、新領土にて総督ロスタム率いる二万の軍と合流した。これでイスパルタ軍の総戦力は七万になった。予定されていた戦力が揃ったところで、ジノーファは軍議を開いた。ちなみにその軍議にはベルノルトも出席した。
軍議ではまず、これまでに得られた情報とその分析結果が報告された。予想される敵の戦力はおよそ十万。十万のうち一万は騎兵として雇った遊牧民らしいが、それでも九万程度は動員したことになる。百国連合の版図は合計で六〇州程度だから、ほぼ総力戦と言っていい。
イスパルタ軍の上層部は敵の戦力について、「最低でも五万」と予想していた。百国連合は成立してからまだ日が浅い。これまで散々争い合ってきた西方諸国の歴史を鑑みても、このタイミングで全力の対外戦争は難しいに違いない。そう考えての「最低でも五万」という予想だったのだ。
だが前述した通り、マドハヴァディティアは十万を動員するという。その統率力たるや大したものだ。また予想の倍の規模を繰り出してきたわけだから、予想は外されてしまったと言わねばなるまい。
「ハザエル、ここはマドハヴァディティアのほうが一枚上手だったかな?」
「ははっ。どうやら侮りがたい敵のようでございます」
ジノーファとハザエルはそう言葉を交わした。もっとも、二人の様子は悲観的ではない。他の幕僚たちも表情には余裕がある。その理由は幾つかあった。
第一に、ルルグンス法国も一万ほどの兵を用意している。これが合流すれば、味方の戦力は八万になる。八万対十万なら、悲観するほどの劣勢ではない。
第二に、百国連合がこれ以上兵を出すことは無理だろうが、イスパルタ朝はまだ出そうと思えば兵を出せる。新領土だけでもさらに二万は動員が可能だ。国力で勝る以上、数的な不利はいくらでも挽回できる。
また第三に、いかに十万と言えども、敵は所詮寄せ集めに過ぎない。当然、士気には差がある。全軍がマドハヴァディティアのために死力を尽くして戦うわけではないだろう。となれば数ほどの圧力は受けないに違いない。
そして第四に、イスパルタ軍はかなりの程度敵の動きを掴んでいる。一方でマドハヴァディティアは、イスパルタ軍がすでにルルグンス法国のすぐ近くにまで来ていることを、まだ知らないに違いない。手持ちの情報量が違うのだ。イスパルタ軍は優位に戦えるだろう。
さて敵戦力についての報告が終わると、次に彼らが買い入れた兵糧について報告が成された。それによると百国連合が用意した食料は、「十万人で一ヶ月分」とされている。それを聞き、ジノーファは「ふむ」と呟いた。そしてこう続ける。
「どうやら、マドハヴァディティアの狙いは法国だけらしい」
「左様ですな。今はまだ、イスパルタ朝へ直接踏み込んでくるつもりはないと見えます」
ジノーファの言葉に、ロスタムがそう応じた。一ヶ月分では、決戦を制してルルグンス法国を抑えるだけで精一杯だろう。
もっとも、戦略としては妥当だ。いざイスパルタ朝へ踏み込んだ時、後方のルルグンス法国で混乱が起これば、連合軍は敵国で孤立しかねない。さらに東へ向かうためにも、まずは法国を固めるのはむしろ必然と言っていい。
十万の戦力をもってイスパルタ軍を排除し、しかる後にルルグンス法国を平らげる。それがマドハヴァディティアの基本戦略であろう。そして法国を平らげれば、百国連合の版図は八〇州弱になる。イスパルタ朝とも十分に戦うことができるだろう。
ただ、そう上手く行くかは分からない。仮に最初の決戦でイスパルタ軍が敗れたとして、マドハヴァディティアが法国の併合に手間取ることは十分に考えられる。そして彼が手間取れば、イスパルタ軍は態勢を立て直すことができるだろう。そして兵糧が足りなくなれば、彼は撤退するより他になくなる。
「まあ、負けた時のことを考えても仕方がないでしょう。まずは最初の決戦で勝つ。それでマドハヴァディティアめの野望を打ち砕くことができます」
幕僚の一人がそう発言すると、賛同する声が上がった。その中にはベルノルトの姿もある。ジノーファは小さく笑って片手を上げ、その場を鎮めてから報告を続けさせた。
ルルグンス法国も百国連合軍の侵攻に備えて準備を進めている。すでに二万の兵を法都ヴァンガルに集結させているという。イスパルタ朝が求めたのは一万の兵だったのだが、その二倍の兵を集めた格好である。
そこには法王ヌルルハーク四世の強い意向があった。彼はおよそ十年前、ガーレルラーン二世によって当時四一州あった国土のおよそ六割をふんだくられるという、大変苦い経験をしている。「これ以上国土を減らしてなるものか」と唾を飛ばして贅肉を揺らしながら、二万の兵を集めるよう枢密院に指示したという。
もっとも、この内イスパルタ軍に合流するのは、事前に求めていた一万のみ。もう一万はヴァンガルの守りにつくという。自分の身の守りを固めたいという気持ちは分かる。だがその備えが役に立つ時というのは、イスパルタ軍が敗れて法国国外へ退却した時だ。その時、一万の兵を残して置いてどれほど役に立つだろうか。
「どうせなら、二万の兵を丸ごとこちらへ回してもらいたいものですな」
「左様。そうすればさらに戦力差が縮まります。法都で遊ばせておくより、よほど有効な戦力の使い方でありましょう」
イスパルタ軍の幕僚たちもやはり少々不満げだった。「兵の使い方が分かっておらぬ」とこぼす者もいる。確かに中途半端な感じは否めない。恐らくだが実際に兵を割り振る段になって、自分を守る兵が十分にいないことがヌルルハーク四世は恐ろしくなったのだろう。それでもジノーファはこう言って幕僚らを宥めた。
「マドハヴァディティアが別働隊によって法都を強襲することもありえる。備えておくに越したことはないだろう」
そう言いつつ、ジノーファは「別働隊はおそらくない」と考えていた。ヴァンガルを強襲してこれを落としたとなれば、その功績は大変に輝かしい。マドハヴァディティアはその功績を自分以外の誰にも与えたりはしないだろう。これは彼の自尊心だけの問題ではない。百国連合内で自分に比肩する発言力を誰にも与えないようにするためだ。
しかしマドハヴァディティアが別働隊を率いるとなれば、本隊は彼を欠いてイスパルタ軍と戦うことになる。各国の寄せ集めの軍隊を、彼以外の誰が統率できるだろうか。そして本隊が敗れれば、マドハヴァディティアもヴァンガルを放棄して撤退しなければならなくなる。彼にとってはこの上もない屈辱に違いない。
それならば最初から全力でイスパルタ軍と戦ったほうが良い。そうすればマドハヴァディティアは二つの栄誉を独占することができる。すなわちイスパルタ軍を撃破した栄誉と、法都ヴァンガルを陥落させた栄誉だ。功名心の強い彼は必ずやそれを望むだろう。
とはいえその確証があるわけでもない。またイスパルタ軍が求めていた一万の兵は用意されているのだから、それ以上を求めるのは筋が通らないだろう。ましてヌルルハーク四世がどうしても必要だと言い張るのなら、そこで無用な議論をしても仕方がない。それで幕僚たちもジノーファの言葉に頷き、軍議を続けることになった。
ルルグンス法国においては兵糧の準備も進んでいる。ただイスパルタ軍の全てを養うほどの兵糧はさすがに用意できない。それはイスパルタ側も承知していて、法国側の同意と協力を得た上で独自に兵糧の備蓄を進めていた。
その際に使われたのが海路だった。つまり船で兵糧を運んだのだ。それらの兵糧は法国の貿易港ヘラベートに集積された。ヘラベートではもともとヴェールールの商人たちが大量の食料を買い込んでいる。それを隠れ蓑にした格好だ。
それどころか、一部の兵糧を流して軍資金を稼ぐような真似もした。発案したのは近衛軍兵站計画部のある士官で、「この機会に古くなった兵糧の備蓄を入れ替える」ことが目的だった。ジノーファも若干呆れ気味だったが、許可したのだから彼も同罪である。
ちなみに、そうやってマドハヴァディティアが用意した大量の食料は、遊牧民への報酬としても使われている。十分な食料があれば遊牧民が略奪を働くことも少なくなる。ルルグンス法国への大規模な略奪がなくなればイスパルタ軍が出張る必要もなくなり、結果的に軍事費を抑えることに繋がる。兵糧を流した背景にはそういう思惑もあった。
まあそれはともかくとして。海路を用いた兵糧の輸送は、幾つかの課題を残しながらもおおよそ上手くいったと言っていい。今後、仮にイスパルタ軍が百国連合へ攻め込むようなことがあったとして、補給線を維持する目途はついたと言えるだろう。その意味でも有意義な実験だったとジノーファは思っている。
「兵糧については、十分な量がヘラベートに備蓄されています。我々が法国へ入り次第、一隊を回して輸送させる手筈になっています」
その報告にジノーファは満足げに頷いた。兵糧に不安がなければ兵たちは安心して戦える。これは重要なことだ。これでジノーファも兵を飢えさせた愚将にならずに済む。
報告は次へ移る。百国連合軍がどのようなルートでルルグンス法国へ攻め込むのか、それはまだ判明していない。しかし十万の大軍が隊列を組んで移動できるルートは限られている。法国側も斥候を出して国境際の監視を強めているとのことなので、遠からず次の情報がくるだろう。
「マドハヴァディティアがどこに連合軍を集結させるつもりなのか、それは分からないのか?」
「その点に関しては、まだ報告は上がっていません。総領事館の分析では、宣戦布告の際に公表される可能性が高いとされています。ただその一方で、すでに内々に通知されている可能性も指摘されていて、『今後の情勢を注視していく』とされています」
それを聞いてジノーファは一つ頷いた。まあ、分からないことをあれこれ気にしても始まらない。それにこれまでの様子からして、いずれは情報が上がってくるだろう。ジノーファがするべき事は、その時に動ける状態を整えておくことだ。
その後も軍議は続いた。今後、イスパルタ軍はルルグンス法国との国境近くで待機し、法国から要請があり次第越境することになる。ルルグンス軍とどこで合流するのかを含め、法国との連携が確認された。
さらに幾つかの議題が扱われ、軍議が終わった時には、空はすっかり夕焼けに染められていた。軍議が行われていたテントから外に出ると、ベルノルトはまず大きく伸びをする。彼はほとんど軍議を聞いているだけだったのだが、それでもいろいろと疲れる。外の新鮮な空気を吸って、彼は少し身体がほぐれた気がした。
「殿下、お疲れ様でした」
ベルノルトにそう声をかけたのは一人の近衛軍士官だった。名をメフライルという。歳はベルノルトの二つ上で、今年で十七になる。金髪で、貴公子然とした風貌をしている。
彼はもともと、北アンタルヤ地方に領地を持つエヴェレン子爵家の跡継ぎだった。いや、順当にいけば当主となっていたはずなのだが、家督は彼の手をすり抜け、彼の叔父のものとなった。
どういうことかというと、それを語るためにはまずエヴェレン子爵家の背景を説明しなければならない。子爵家はもともと伯爵家だったのだが、例の仕置きの際に領地を削られ、爵位を子爵へと下げられた。そしてその際、当時の当主が隠居させられ、代わりに当主となったのが世子に指名されていたメフライルの父でである。
しかしこの父が、早世してしまう。当時メフライルはまだ十にも満たない子供で、しかもまだ世子として正式に指名されていたわけではなかった。その上、子爵家はいろいろと厳しい状況にあり、要するにメフライルが当主ではこの難局を乗り切れないと多くの家臣が思ったのだ。
メフライルの父が死んだ時点で前当主、つまりメフライルの祖父はまだ生きていた。しかし彼はジノーファの仕置きの一環として隠居させられたのだ。葬式を理由に引っ張り出し、当座の混乱を収めてもらうだけですでにギリギリと言っていい。
そこで家臣や親族一同に白羽の矢を立てられたのが、当時近衛軍の兵站計画部にいたメフライルの叔父だった。当時まだ独身だった彼は未亡人となった兄嫁を娶ることで子爵家の当主となったのである。なおこの時、祖父の意向でメフライルは正式に世子として指名された。その後の混乱を防ぐためである。
ただメフライルが長ずるにつれ、自分の置かれた状況に危機感を持つようになったのは、一般論で言えば当然だろう。そして叔父と母の間に男の子が生まれると、その危機感はより一層強くなった。叔父は自分の子供に子爵家を継がせたいに違いない。そのためには自分が邪魔になる。彼はそう考えたのである。
メフライルには四つ年下の妹がいる。叔父から見れば姪であり義理の娘だ。男ではないから家督の相続順位は低いし、なにより政略結婚の駒として使える。ことさら邪険に扱う理由はないし、それなりに大切に育てるだろう。
だがメフライルは違う。前当主の嫡子である彼は、そもそも子爵家を継ぐべき立場だった。また叔父と彼の母が再婚したことで、義理とはいえ彼は叔父の長子になった。そして同時に世子に指名されている。叔父の実子は彼の弟であり、つまりどう考えてもメフライルの方が家督の相続順位は高い。
別の言い方をすれば、メフライルがいる限り叔父は自分の子供に家督を相続させることはできない。「であれば排除してしまえ」というのは、権力を握った人間にありがちな思考だろう。そして似たような例は、歴史上、枚挙に暇がない。
『このままでは殺される』
メフライルがそう思ったのかは分からない。いずれにしても彼はエヴェレン子爵家を出ることにした。相続権の放棄と引き換えに叔父から紹介状を書いてもらい、近衛軍に入隊することにしたのである。
このときメフライルがまず入隊したのは、近衛軍の特に北方方面軍だった。ちなみに彼の叔父の古巣でもある。当時の北方方面軍司令官はハザエルで、彼は当然、エヴェレン子爵家の事情について把握していた。それで、
『このままメフライルが北にいては、お互いにやりづらいだろう』
と考え、メフライルをクルシェヒルの部隊に転属させたのである。こうして彼はクルシェヒルで勤務することになったのだが、そこから彼の運命は思わぬ方向へ転がっていくことになる。歳が近かったこともあり、第一王子ベルノルトの学友兼護衛兼従者のような立場になってしまったのである。
要するに、第一王子の最側近と言っていい。ダンジョン攻略も、当然のようにパーティーを組んでいる。ちなみにベルノルトのパーティーで固定のメンバーは彼とメフライルだけで、時には二人だけで攻略を行うこともあった。
そのようなわけで、ベルノルトの初陣にメフライルも同行していた。先ほどの軍議も、ベルノルトの後ろに控える形で参加していた。当然、発言は一言もしていないが。ずっと後ろにいたので、ベルノルトが緊張していたことも承知しているのだろう。彼の声音には労るような響きがあった。
「うん。肩が凝るっていうのは、こういうことを言うんだな」
「殿下、五十肩にはずいぶん早いかと」
「当たり前だ。というか、五十肩になるのはライルの方が先だろう」
ベルノルトがそう反論すると、メフライルはしれっと視線を逸らした。それを見てベルノルトはやれやれと言わんばかりに肩をすくめる。そしてこう話題を変えた。
「それにしても、せっかくの初陣だというのに、歩いてばかりだ」
「殿下は騎乗しておいででしょうに」
「そう言う意味じゃない」
「分かっております。まあ、真面目な話をしますと、兵士の仕事は第一に歩くことです。私も防衛線での任務に就いたことがありますが、戦っている期間より往復の期間の方が長かったくらいです」
メフライルの経験を聞いて、ベルノルトは神妙な顔をして頷いた。戦というのは華々しいばかりではない。むしろその大部分は地味で泥臭い。そのことは散々シェリーからも言われていたが、こうして実際に体験してみるとその意味がよく分かった。
「殿下。食事の用意ができたようです。明日もまた移動です。ちゃんと食べて、しっかりとお休みください」
「分かっている。あまりうるさく言うな」
「シェリー殿下から、自分の分も口を酸っぱくして言い聞かせてやってほしい、と言われておりますので」
ベルノルトはそれを聞いて「うげっ」という顔をしたが、メフライルは華麗にそれを無視して歩き始めた。ベルノルトは慌ててその背中を追う。メフライルの後ろ姿を見ながら、彼はふと顔を曇らせた。
メフライルの事情は、ベルノルトもおおよそ知っている。他でもない、彼自身から聞いたのだ。彼はさばさばとした様子で話していたが、しかし普通に考えて、エヴェレン子爵家の家督に未練がないわけではないだろう。
だがこのままベルノルトに仕え続けたとして、メフライルが家督を取り戻せるかは不透明だ。何しろ、ベルノルトは王になれない。彼に子爵家の家督をどうこうする力はないのだ。
(王になれない王子に仕えることを、ライルはどう思っているのだろう……?)
ベルノルトはその疑問の答えを、まだ確かめることが出来ずにいる。
メフライル「つまり私がどれだけベルノルト殿下をからかったとして、全てシェリー殿下のお墨付きということです」
ベルノルト「イヤすぎる!」