王太子アルアシャン
「兄上ばかりずるい! 父上、わたしもお連れください!」
そう駄々をこねているのは、イスパルタ朝の王太子アルアシャンだ。ジノーファは今マリカーシェルのところへ来ている。そこには彼女の子供たちも集まっていて、そこでベルノルトの初陣のことを話したところ、アルアシャンが上のように言い出したのである。
アルアシャンは今年で十歳になる。その年齢で初陣というのは、よほどの事情がなければあり得ない。つまり世間一般にもまだまだ子供と見なされるわけだが、本人はもう十分に大人のつもりでいるようで、しきりに初陣をせがんだ。
「父上、お願いします! 父上!」
アルアシャンは拳を握りしめてジノーファに詰め寄った。アルアシャンの顔には必死さがにじみ出ている。
「アル。貴方はまだ九歳ではありませんか。何も初陣をそんなに急がなくても……」
娘のミフリマーフを抱きながら、母親であるマリカーシェルがそう言ってアルアシャンを宥める。だがアルアシャンは説得されなかった。彼は甲高い声でこう言い返す。
「母上。わたしは今年でもう十歳です。ダンジョンの攻略もしています。初陣が早すぎると言うことはありませんっ!」
息子にそう反論され、マリカーシェルは困惑を顔に浮かべた。それが伝わったのか、事の成り行きを見守っていたフェルハトが所在なさげにオロオロと視線を彷徨わせる。母親の腕に抱かれたミフリマーフも、表情が硬くなってしまっている。
「父上! わたしも行きたいのですっ、父上!」
アルアシャンはまたジノーファに詰め寄った。彼は父王の服を掴んで、それを引っ張ったり横に揺らしたりする。その仕草は駄々をこねる子供そのものだ。ジノーファから見れば微笑ましい限りである。
だがマリカーシェルはともすればジノーファの機嫌を損ねかねないと思ったのだろう。彼女は少々焦りつつ、息子の振る舞いを「無礼ですよ」とたしなめた。だがアルアシャンは言うことを聞く気配を見せない。
ついにマリカーシェルは立ち上がろうとしたが、それをジノーファ自身が留める。彼の目が穏やかなのを見て、彼女は浮かせかけた腰をソファーに戻した。
「アルアシャン」
息子の頭に手を置いて、ジノーファは優しい声でそう呼びかけた。たちまち、アルアシャンは目を輝かせる。そんな息子に、ジノーファはまずこう言い聞かせた。
「アル。マリーの、母上の言うことはちゃんと聞きなさい。聞き分けのない子供を戦に連れて行くことはできない」
「父上……。で、ではちゃんと言うことを聞けば連れて行っていただけますか?」
アルアシャンが期待の籠もった目でジノーファを見上げる。ジノーファは息子の頭を撫でながら、苦笑を浮かべつつ首を横に振った。
「ダメだ。お前はまだ幼い。今回は王宮で待っていなさい」
「父上、わたしはもう大人ですっ」
「自分で大人だと言い募っている内は、まだまだ子供だということだ」
はぐらかされたと思ったのだろう。アルアシャンは目に見えてむくれた。ジノーファは小さく笑いもう一度彼の頭を、今度は少し乱暴に撫でてから手を離す。それを見計らい、マリカーシェルがこう言い聞かせる。
「アル、父上を困らせてはなりません」
「はぁい」
母親の声に険しいモノを感じ取ったのだろう。不満を残しつつも、アルアシャンはようやく頷いた。その後、ジノーファは子供たちをそれぞれ抱き寄せて団欒を楽しんだ。そして子供たちがそれぞれの部屋に下がると、マリカーシェルは気遣わしげな顔をしながらジノーファの隣に座った。
「ジノーファ様。その、アルのことですが、ご不快ではありませんでしたか?」
「いや、そんなことはないよ」
ジノーファは小さく首を横に振りながらそう答えた。そして「マリーは心配しすぎだ」と付け足す。だがマリカーシェルは納得しきれなかったのか、「あとでもう一度言い聞かせておきます」と呟いた。そしてさらにこう付け加える。
「あの子は、将来王座につかねばならないのですから……」
その声には、自負と言うよりは不安と焦燥が滲んでいた。アルアシャンは将来王座に就くのではない。就かねばならないのだ。この二つは同じようでいて全く違う。少なくともマリカーシェルはそう捉えていた。
マリカーシェルの長男である彼は、生まれながらにして父王の後継者となることが定められていた。それを如実に物語るかのように、ジノーファは賢武皇アルアシャンの名前を彼につけた。
ジノーファが生まれたばかりの子供に過大な期待を寄せていたとは、マリカーシェルも思わない。だがアルアシャンが彼の後継者でなければ、ジノーファは子供にその名前をつけることはしなかっただろう。
また当時の国内外の情勢からして、ジノーファの後継者はアルアシャン以外にはあり得なかった。そしてそのことを明確に世に示す必要があった。だからこそ彼はアルアシャンであり、誕生と同時に王太子として冊立されたのだ。
アルアシャンはどうしてもジノーファの跡を継がねばならない。だが決定に際し、彼の能力や資質はなんら考慮に入れられていない。血筋だけで選ばれた後継者。それが今の彼の肩書きである。
余談になるが、生まれで後継者を選ぶことは、決して悪いことではない。というより王制国家において安定的に世代交代をするためには、生まれで後継者を選ぶしかない。極論を言えば、どれほど愚かな王であってもそれを支えて国を成り立たせていく。それが出来なければ国は長続きしないだろう。
『より優れた者が国を治めるべきだ』
そういう主張は古来よりある。だがより優れているとどうやって判断するのか。そもそも「優れた者、強い者が上に立つ」という考え方は下克上そのものであり、それがまかり通れば国は乱れる。特に、それが王である場合には。
そういうわけで、ジノーファとしてはアルアシャンの能力や資質は二の次で良いと割り切っていた。もちろん父親としては、息子には立派な大人になって欲しいと思っている。そのために一流の教師を揃えたし、必要とあらば厳しいことも言おう。彼が名君になってくれれば、これほど喜ばしいことはない。
だが国家の歴史において名君賢君ばかりが現われるわけではないことをジノーファは知っている。それで仮にアルアシャンがどれだけ愚鈍であったとしても、イスパルタ朝という国家は問題なく運営されていくよう組織を整えること。それこそが国王としてのジノーファの仕事なのだ。
あと二十年もすれば、イスパルタ朝は十分に成熟するだろう。ジノーファの進めた中央集権化が国になじみ、それが社会通念になる。しっかりとした官僚機構が国を支え、王が何もかもを決める必要はなくなる。
「わたしがわたしの仕事をきちんとすれば、アルもそれほど苦労せずに済むだろう。だからマリー、そんなに心配することはないよ」
「でも、あの子は王にならねばならないのです」
マリカーシェルは不安げにそう反論した。彼女は母親であるから、ジノーファのようには割り切れない。王にならねばならぬのなら、それに相応しい人物に育てなければ、と思っている。いや、思い詰めていると言うべきか。
イスパルタ朝は特殊な国だ。北で魔の森と接し、長大な防衛線を守らなければならない。別の見方をすれば、イスパルタ朝は蓋であり盾であると言える。人類を守る使命を課せられた、世に二つとない国家なのだ。
言い方を変えれば、イスパルタ朝は常に危機にさらされている。そのため、許容できる混乱の程度が他国に比べて小さい。国の乱れはそのまま防衛線の決壊に直結する。それを憂慮する者は多いだろう。その中から実力のある者が現われ、混乱を鎮めると同時に新秩序を打ち立てるのだ。そしてその時、旧来の秩序に属するものに居場所はない。
ようするに、愚者にイスパルタ朝の王は務まらないのだ。仮に愚者が王座に就けば、たちまち淘汰されるに違いない。人の世がそれを望むのだ。誰だって愚か者と一緒に滅びたくはない。
その王たる者には、相応の器量が求められる。重責に耐えられない者は排除されるのだ。マリカーシェルが思うに、ガーレルラーン二世やイスファードは耐えられなかった。だからジノーファが現われ、彼らは滅んだのだ。
翻って、アルアシャンはどうだろうか。彼はまだ子供だ。何より父王たるジノーファが健在である。今の彼に多くを期待している者はいないだろう。だがいずれ必ず、彼は現実と向かい合わなければならなくなる。彼はイスパルタ朝の王として、その重責を担わねばならないのだ。彼はそれに耐えられるだろうか。
「あの子は、あまりにも普通の子供です……」
マリカーシェルはそう弱音を吐いた。そんな彼女をジノーファはそっと抱き寄せる。彼女は逆らわずにジノーファに身体を預けた。
「そうか、アルは普通か」
「はい……」
「それは、良かった」
ジノーファがそう言うのを聞いて、マリカーシェルは思わずまじまじと彼の顔を見上げた。その視線に気付いて苦笑を浮かべると、ジノーファはさらにこう続けた。
「わたしがアルくらいの時は、たぶん覇気のない暗い子供と思われていただろうからね。将来を心配していた者も、多かったんじゃないかな」
ジノーファが大人しい子供であったことは、マリカーシェルもユリーシャから話を聞いて知っている。少なくとも、周囲が期待を寄せるような才気を見せていたわけではない。ダンジョンを一人で攻略していたその武功は特筆するべき事柄だが、しかし一人であったために正当な評価はされなかった。
ジノーファは目立つ存在ではなかった。もっともそれはジノーファの性格の他にも大きな要因があったわけだから、「覇気がない」と言われたとしてそれは彼のせいではないだろう。マリカーシェルはそう言おうとしたのだが、それよりも先にジノーファがこう言葉を続けた。
「だからね、マリー。普通で良いんだ。それがちゃんと成長している、なによりの証拠だよ」
「……はい、ジノーファ様」
少し逡巡してから、マリカーシェルは頷いた。普通であるということは歪んでいないということ。真っ直ぐに育てば、例え名君になれずとも、暗君にもなるまい。そういう考え方もある。
マリカーシェルは少し心が軽くなるのを感じた。もっとも、完全に納得できたわけではない。また不安を覚えることもあるだろう。だがそれが子供を育てるということなのかもしれない。彼女はそう思った。
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大統暦六五八年五月七日。ジノーファは五万の軍勢を催し、その進路を西に向けた。はるか西方でマドハヴァディティア率いる百国連合が見せる、剣呑な動きに対応するためである。その中には、これが初陣となるベルノルト第一王子の姿もあった。ちなみにジノーファの懐刀とも言うべきユスフは、今回は留守居役を命じられていた。
最初の報告以降、ヘラベートの総領事館からはマドハヴァディティアと百国連合の動きが漸次伝えられている。それによると、百国連合はいよいよ実際に兵を催す段階に入っているという。宣戦布告まで秒読みと言っていい。
もっとも、イスパルタ軍内部では宣戦布告が実際に成されるのか、懐疑的な意見も多かった。そこには「西方諸国は野蛮で文明の遅れた地域である」という偏見が混じっているのだが、それを抜きにしても今までに西方諸国が東へ向かう際にルルグンス法国に対して宣戦布告しなかった例は多い。西方諸国同士の戦争でも宣戦布告をしない例は数多く、今回もそういう「だまし討ち」なのではないかというわけだ。
しかしながら、ヘラベートの総領事館は「宣戦布告は高い確率で行われる」と予想していた。その理由として、情報分析を担ったチームのリーダーであるバハイルは「マドハヴァディティアが百国連合を設立させてから最初の大規模な軍事行動であるから」という点を上げている。
百国連合の設立は、歴史上初めて西方諸国をまとめ上げた偉業と言っていい。マドハヴァディティアは自分が成し遂げたその偉業に自信を持っているだろう。同時に彼は東方、特にイスパルタ朝において西方が「野蛮な未開の地」扱いされていることを知っている。肥大した自尊心を持つ彼にとっては受け入れられないことだ。
そんな中での、百国連合初の大規模な軍事行動である。マドハヴァディティアがこの機会に自身と百国連合の権威を高めようと考えるのはほぼ確実。バハイルはそう分析していた。
『少なくとも宣戦布告なしで法国へ攻め込めば、百国連合が強盗の集まりであると白状するようなもので、権威主義的なマドハヴァディティアには受け入れがたいに違いない。百国連合がイスパルタ朝と渡り合える存在であることを主張するためにも、最低限の形式は整えるものと思われる。
また百国連合を代表して宣戦布告を行い各国へ号令を下せば、彼とヴェールールの権威は高まることになる。彼がその機会を見逃すとは思えない』
バハイルは報告書にそう書いていた。もっとも、ジノーファとしては宣戦布告がされてもされなくても、基本的にはどちらでも良い。宣戦布告というのは第一にルルグンス法国と百国連合の間の話だからだ。もちろん戦争の主力を出すイスパルタ朝も無関係ではないが、関心事はむしろより軍事的な事柄の方へ向いている。
つまり、敵の規模はどれほどになるのか。また百国連合軍は各国の軍が参集して結成されるものであるから、その集合地点はどこになるか、など。ジノーファをはじめ、イスパルタ軍の参謀らはそちらの方面で頭を悩ませている。
もっとも同時に、それほど悲観はしていない。なぜなら総領事館からの報告によれば百国連合の、もしくはマドハヴァディティアの動きには、「防諜という観点が抜け落ちている」というのだ。つまり情報が筒抜けで、敵方の動きは手に取るように分かる、というわけだ。
これについてはジノーファも半信半疑だったが、実際、こうして敵が実際に兵を挙げる前にイスパルタ軍は動くことができている。物資の流れを監視することで、百国連合が戦争の準備をしていることをいち早く察知できたからだ。
また総領事館の指摘を裏付けるような報告も上がっていた。連合軍の戦力についての報告で、そこではマドハヴァディティアが各国にどれほどの戦力を出すように命じたのか、その詳細が記されていた。
それによると、動員される総戦力はおよそ十万。その内、マドハヴァディティアの直轄と言うべきヴェールール軍は三万程度が動員されるという。百国連合の版図は六〇州程度であり、ヴェールールの版図は二〇州程度と言われている。それを考えれば、最大限の戦力を動かしてきたというべきだろう。
またマドハヴァディティアは北方の遊牧民にも接触していて、生粋の騎兵とも言うべき彼らを傭兵として連合軍に組み込むつもりであるという。その数、およそ一万。十万という全体数はこれを含めたものである。
ちなみにジノーファの躍進のきっかけとなったイスパルタ王国の西征の際、彼が当初動かしたのが、予備部隊を含めておよそ三万だった。この数字は無視するべきではない。当時、イスパルタ王国は交易によって潤っていた。その富を軍部へ優先的に回した結果が三万なのだ。
それとほぼ同じ規模の軍を、今回マドハヴァディティアは動かした。無論、兵の質など考慮するべき点は多々ある。だが彼が治めるヴェールールが十分以上に栄え、相応の富を持っていることは間違いない。それを実現させた彼の手腕を含め、決して侮ってよい敵ではないのだ。ジノーファは気を引き締めた。
アルアシャン「子供じゃないもん!」