短期決戦のために1
大統暦六四五年二月末、イスファードが王都クルシェヒルから新領土の僧院に向けて出立した。朝日が昇る前のまだ薄暗い時間に裏門からの出発で、見送る者はなく寂しい門出だった。
イスファードが送られるのは、新領土の奥まった山地にある由緒正しい僧院だ。厳しい戒律で知られ、他の僧院で行われていたような、信者に対する強引な寄付集めはしていない。それがまた、この僧院の信頼と格式を高めている。
僧院では周辺を切り開いて農地とし、半ば自給自足の生活をしている。もっともそれで全てを賄えるわけではなく、あとは純粋な寄付で成り立っているという。ちなみにイスファードが存命の間は、毎年金貨五〇枚がクルシェヒルの王宮から寄付されることになっている。
この、世俗から切り離された僧院で、イスファードは残りの人生を過ごすことになる。手紙のやり取りや年に一度の面会は許されているが、外界との接触はそれだけだ。傍から見れば、まさに生きているだけ。飼い殺しである。
尤も、イスファード本人は淡々とした様子であったという。ジノーファに負けたことで憑きものが落ちたのかも知れない。実際、彼はこの後、歴史から忘れ去られたかのように僧院で過ごした。
イスファードを大人しくさせた要因はもう一つある。子供が生まれたことを、ファティマからの手紙で知ったのだ。しかも男の子である。自分が何か余計なことをすれば、その子にまで累が及ぶ。そのことが彼を自制させたのだ。
実際、彼が残した日記からは、手紙で伝えられる我が子の成長を楽しみにしていたことが窺える。彼が生きている間に父と子が面会を果たすことはなかったが、それでも間違いなくイスファードは我が子のことを愛していた。元来、情の深い性質なのだ。
さて、そのイスファードの子供だが、生まれたのは大統暦六四五年の四月中頃のことだった。前述した通り、生まれたのは男の子で、ファティマは彼をイドリースと名付けた。世が世なら、アンタルヤ王国を受け継いだはずの男児である。ファティマから彼の誕生を手紙で報されたとき、ジノーファは思わずこう呟いた。
「まさか、男の子が生まれたことを正直に報せてくるとは……」
「『女の子が生まれた』という報告が来ると、そう思っておられたのですか?」
ユスフがそう尋ねると、ジノーファは苦笑して頷いた。ジノーファはファティマに対し、「男の子であれば、クルシェヒルで養育するように」と命じていた。これはイスファードの子供を北アンタルヤの貴族たちに利用されないようにするための措置だが、同時に人質的な意味合いも生じてしまう。
だが「女の子なら手元で育てて良い」とジノーファは言った。それで男の子が生まれても性別を偽るのではないかと彼は思っていたのだ。あとは「病弱」という設定にしておけば、クルシェヒルに連れてこなくても不自然ではない。大切な子供を人質に取られることもない、というわけだ。
だがファティマはそうしなかった。理由は幾つかある。第一に、クルシェヒルにはイドリースの叔母にあたるユリーシャがいる。彼を王都で育てることに人質としての側面があるのは事実だが、ユリーシャが気にかけてくれれば、滅多なことにはなるまい。ファティマはそう確信していた。
第二に、ファティマがイスファードに送る手紙は、全て検閲されている。となると、子供の性別を偽った場合、イスファードに本当のことを教えるわけにはいかなくなる。生涯彼に嘘をつき続けなければならず、それはあまりにも惨いと思ったのだ。
そして第三にして最大の理由は、イドリースをエルビスタン伯爵家の世子とするためだ。無論、そのためにはジノーファの承認が必要で、確実に世子に指名できるのかは分からない。だが性別を偽ればその可能性はゼロになる。ファティマは将来に賭けたのだ。
加えて、第四の理由として、性別を偽ればまたその業を子供に負わせることになる。ファティマ自身は出生にまつわるゴタゴタの当事者になったことはない。だがイスファードという実例を間近で見守り続けてきた。その子供にまた宿業を負わせるのは、彼女にとってあまりにも心苦しい事だったのだ。
ただ、性別を偽らなかった以上、イドリースを待ち受けているのはイスファードの長男としての人生だ。周囲の目もある。彼が歩むのが平坦ならざる道であることは、想像に難くない。
(だがそれでも……)
だがそれでも、彼が自分の出生について、不当にねじ曲げられたと感じることはないはずだ。無論、彼の立場は微妙なものにならざるを得ないが、それでも前を向いていて欲しいとジノーファは願った。
まあそれはそれとして。前述した通り、イドリースは今後クルシェヒルで育てられることになる。だがファティマはエルビスタン伯爵家の当主として政を行わなければならない。代官を立てるという手もあったが、彼女はそうはしなかったのだ。
そうなると、幼いイドリースを養育する保護者が必要になる。ファティマはその役をユリーシャに頼むつもりだった。ジノーファもその人選が最適であると思うが、肝心のユリーシャにまだ何も話をしていない。ヘリアナ侯爵家の受け入れ準備にも時間が必要だ。それでジノーファは「乳離れするまでは伯爵家で育てて欲しい」と手紙を返した。
「陛下はお優しい」
「いっそ、甘いと言ってくれてもいいぞ」
ジノーファはやや脱力しながらユスフにそう応えた。本来であれば、すぐにでもイドリースをクルシェヒルへ連れてこさせるべきだろう。だがそれでは、生まれたばかりの赤子を母親から引き離すことになる。彼はそのことに躊躇いを覚えたのだ。
偽善だな、とジノーファは内心で自嘲する。結局、母と子は離れて暮らすことになるのだ。乳離れまで待ったからといって、一体どれほどの意味があるだろうか。だがガーレルラーン二世のような冷徹な王になりたいとは、彼は思わなかった。
さて、そうこうしている内に、今度は東で情勢が大きく動こうとしていた。ロストク帝国がイブライン協商国に正式に宣戦布告したのだ。動員された戦力は十万。総司令官は皇太子ジェラルド。帝国はいよいよ本気で協商国を叩くつもりらしい。イスパルタ朝の首脳部はそう受け取った。
「いよいよ、ダンダリオン一世は譲位されるのかも知れませんな」
「この遠征が成功裏に終われば、そういうことになるのだろう」
フスレウの言葉に、ジノーファはそう応えて同意した。ロストク帝国の悲願、貿易港の奪取をもって、ついにジェラルドが帝位に就くのだ。ロストク軍にとっては負けられないだけではない、勝利が絶対条件の戦いと言えるだろう。
だからこそ勝利を確実なものとするために、ロストク帝国はイスパルタ朝に対しても支援を要請した。一部の高官は、要請に応じさせることで、改めて両国の上下関係を世に示したいと思っているらしい。
国内にそういう考えがあることに、ダンダリオン一世は当然気付いている。ただ安定した帝位の継承を実現させるには、やはりどうしても勝たなければならない。ダンダリオン一世も苦慮したらしく、「兵と食料を可能な範囲で」と言ってきた。
「援軍を出してもらったのは事実です。応じないわけには行きますまい」
スレイマンの発言をジノーファも首肯する。実際、独立戦争や西征の際にロストク帝国の援軍がなければ、かなり苦しいことになっただろう。その借りは返さなければならない。加えて、イブライン協商国が国境近くに部隊を配置する可能性がある。越境してくることはないと思うが、放置するわけにもいかないので、どのみちある程度の戦力を動かす必要があるだろう。
それで、実際にどの程度の支援をするのか。それを決めるためには、ロストク軍の基本戦略を知る必要がある。そして支援を求めるダンダリオン一世からの親書には、大まかにだがそのことも書かれていた。
「まさかアイフェルン山地を越えるルートとは……」
「確かに成功すれば、敵の意表を突けるのでしょうが……」
「アイフェルン山地は特別険しいというわけではない。だが十万の大軍でとなると……」
フスレウ、スレイマン、クワルドの三人がそれぞれ顔に困惑を浮かべる。仮に成功すれば、それだけで歴史的な偉業だ。ただし三人の反応からも分かるように、少し考えただけでも大変困難な事業である。
だがジノーファはこれが失敗するとは思わなかった。親書には「この計画を主導したのはジェラルドである」と書かれていた。彼なら、事前に入念な準備をして成功させる筋道を付けているに違いない。実際に彼と共に戦った経験が、ジノーファにそれを確信させた。
「まあ実際、成功することを前提に我々も準備するより他にないわけですが……。それで陛下、どれほど動かされますか?」
「五万。食料は十五万人の一ヶ月分を頼む」
クワルドの問い掛けにジノーファはさらりとそう答えたが、他の三人は一様に険しい顔をした。可能か不可能かと言われれば可能だろう。だが基本的にこれは他所様の戦争だ。結果はどうあれ、それがイスパルタ王国の国体に関わってくることはまずない。
兵は一万。食料は十万人の十日分。クワルドとしては、これくらいが適当だと思っていた。だがジノーファはそれをはるかに超える規模を指示した。そしてその意図について、彼はこう説明する。
「戦争を早く終わらせるためだ。そうしないと、結果的にイスパルタ朝の負担は増える」
今回、ロストク軍はアイフェルン山地を越えてイブライン協商国へ進攻する。奇襲としては効果的だが、その一方で山地を越えて補給線を維持するのは難しいはずだ。維持できないことはないのだろうが、潤沢な物資を使うことはできないだろう。
もちろん、ジェラルドもその辺りの事はちゃんと考えて手を打っているに違いない。そもそもイスパルタ朝にも支援の要請が来ている。だが戦争に予想外の事態はつきものだ。戦いが長引き、物資が足りなくなる可能性は考慮しなければならない。
まして相手はイブライン協商国。優良な貿易港を幾つも持ち、補給能力はずば抜けて高い。彼ら自身、その点には自信を持っているだろう。またどう考えても正面戦力では拮抗できない。守りを固めて長期戦へ誘導し、敵が疲弊するのを待つ、と言う可能性は高い。
加えて言えば、ロストク軍もランヴィーア軍も、狙いは貿易港だ。つまり街を焼き払って攻略することは彼らの望むところではない。そしてそれを、協商国は見透かしている。なにしろそれが、戦争が長引いている理由の一つなのだ。
そしてロストク軍の参戦後も戦争が長引いた場合、ロストク軍は兵站の問題を露呈することになる。現地調達にも限界があるだろう。となれば、不足分は別の所から補うよりほかにない。つまりイスパルタ朝だ。
「戦争が長引けば、ロストク軍の兵站は我が国が支えることになる。それは是非とも避けたい。だが実際問題、求められれば応じるより他にない。ならばいっそ積極的に関与して、短期決着を目指す」
ジノーファがそう話すと、クワルドらは険しい顔をしながら頷いた。長期間、ロストク軍の兵站をイスパルタ朝で受け持つ、というのはできないことはない。だがやらずに済むならそれが一番だ。
「分かりました。陛下の言われる方向で検討しましょう」
「それから、指揮官はクワルドに頼む。わたしは出ないことにするよ」
ジノーファがそう言うと、クワルドは「了解しました」と言って頷き、あとの二人は苦笑を浮かべた。ジノーファはイスパルタ朝の国王だ。その彼が出張っては、ジェラルドもやりにくいだろう。
ともすれば戦争の主導権をジノーファが奪うことになる。ジェラルド個人はもちろん、ロストク帝国としても面白いはずがない。余計な軋轢を生まないためにも、今回ジノーファは動かない方が良いのだ。
さてその後、援軍の編成をどうするのかなどが話し合われた。一番の問題は十五万人を一ヶ月養うだけの食料だが、これは海路を最大限に使ってまずはマルマリズに集積させることになった。
「それにしても、五万も動かすとなると、我々が囮になりそうですな」
クワルドがそう言って苦笑する。イスパルタ朝とロストク帝国が同盟関係にあることは周知の事実だ。そのイスパルタ朝が五万もの兵を動員するとなれば、イブライン協商国にとっては間違いなく大きな脅威に違いない。
当然、国内には入れたくないはずで、国境近くで押しとどめることを考えるはずだ。しかしそのためにはある程度の部隊を動かさなければならず、するとアイフェルン山地を越えて進攻するロストク軍は動きやすくなるだろう。なるほど、囮と言えないこともない。
「であれば、展開だけは早めにしておき、実際に攻め込むのは、ロストク軍がアイフェルン山地を越えてからの方が良いでしょう」
クワルドが顎先を撫でながらそう思案する。上手く行けば、イスパルタ軍は戦うことなく進軍することができるだろう。ジノーファもその方針に同意したことで、実際に攻め込む時期はともかく、宣戦布告と部隊の展開だけは早めに行うことにした。
大まかな方針が決まったことで、いよいよイスパルタ朝も動き出す。クワルドはすぐに動かせる戦力として、まず二万をクルシェヒルからマルマリズへ移動させた。同時にスレイマンが中心となって大量の食料を集め始める。ユスフもジノーファに命じられて、彼の下でこの仕事に従事した。
そして大統暦六四五年四月十日。イスパルタ朝はイブライン協商国に宣戦を布告した。ロストク帝国と足並みを揃えた格好である。同日に宣戦布告できたのは、事前に帝国から予定を告げられた上で、そうして欲しいと頼まれていたからだ。
そしてこの同日の宣戦布告を受けて、イブライン協商国は次のように考えた。これはイスパルタ王国経由で進攻するための布石であろう。つまりロストク帝国とランヴィーア王国は必ずしも上手く行っていない。
考えてみれば当然ではある。ランヴィーア王国はこれまで、長期間にわたって大軍を維持し、戦争を続けてきた。ロストク帝国の動きは、彼らにとっては利益だけをかっさらう者に思えたのだろう。
とはいえ、ランヴィーア王国とロストク帝国は同盟を結んでいる。表だって対立することはない。だがそれぞれの軍勢を連動させて動かす事もおそらくはない。むしろランヴィーア王国としてはロストク軍が来る前に趨勢を決してしまいたいと考えるだろう。
そうであれば二カ国(イスパルタ朝も入れれば三カ国)の大軍を、一度に相手取る必要はなくなる。まずランヴィーア軍を撃破し、その後にロストク軍を撃破すれば良いのだ。
二カ国の、しかもそれぞれ大軍を連続で撃破しようと考えているのだから、豪儀な戦略と言っていい。だが同時に相手取るより勝率が高いのは確かだ。そしてそれができれば、イブライン協商国は主権と国土を守ることができる。
「コレより他に道はあるまい」
評議会はその方向で固まった。イブライン協商国も長引く戦争で疲弊している。ロストク帝国の宣戦布告は確かに脅威だったが、同時に膠着した状況を打開するためのきっかけにもなり得る。こうして協商国もまた決戦に向けて動き始めた。
さて、宣戦布告した翌日の四月十一日。マルマリズに駐留していた二万のイスパルタ軍がイブライン協商国との国境方面に向けて出陣した。そして国境まであと半日という距離で陣を張る。この位置でクワルド率いる本隊の到着を待つ予定なのだが、それだけでは芸がないと言うことで、これ見よがしに斥候を動かして、相手を挑発しつつ情報を集めた。
この動きに対し、イブライン協商国は三万の部隊を動かした。いや、あとで知った話では、イスパルタ軍二万はロストク軍と合流してから進攻してくるものと考えられており、この三万はそれを足止めするためのものだった。
協商国の思惑はどうあれ、三万もの兵が釣れたのはイスパルタ軍にとって望外の成果だった。これを引き留めておくため、先遣隊二万を率いる将はより活発に斥候を動かす。数千の部隊を編成して国境近くで動かすようなことまでした。
そうこうしている内に、クワルド率いる本隊三万が合流する。ロストク軍に頼まれていた物資も、続々と陣内に運び込まれていく。この動きはイブライン軍の方も確認しており、「ロストク軍の受け入れ準備が着々と進んでいる」と受け止められていた。
裏を返せば、「ロストク軍はまだ来ない」と彼らは思っていたのだ。そしてその予想は裏切られた。イブライン軍が、そしてランヴィーア軍が予想していたよりもずっと早く、ロストク軍が現われたのである。そうアイフェルン山地を踏破して。
これを受けて、イスパルタ朝との国境に睨みを利かせていたイブライン軍三万は動揺した。このままここにいては遊兵となってしまう。だがここを動けば、イスパルタ軍を防ぐ存在がいなくなる。国境近くの街々の領主らからも、引き留める声が上がっていた。
結論から言えば、このイブライン軍三万はロストク軍を迎撃するために動いた。そして敗北し、戦争の趨勢は決定的なモノになったのだ。そしてイブライン軍三万が退いたのを見て、クワルドはいよいよ兵を動かしたのである。
遮る者のいない、無人の野を行くが如くの楽な仕事、などと彼は考えていない。五万の兵を率いる彼の表情は真剣そのものだった。彼にはジノーファから、重要な仕事が託されているのだ。
(失敗するわけにはいかぬ……)
クワルドは胸中でそう呟き、手綱を強く握りしめた。
クワルド「イスパルタ朝としては初の対外遠征だな」




