帝国、動く1
大統暦六四五年二月の初め頃。ルルグンス法国のブルハーヌ枢機卿から、枢密院を代表してジノーファに書簡が届いた。通商条約を結び直すことに法王ヌルルハーク四世が同意したことを伝える内容で、今後の事について相談したいと書かれていた。
それに対し、ジノーファは「国内もようやく落ち着いてきたので、法王猊下への挨拶もかねてこちらから使節団を送りたい。通商条約については大使に一任するので、その者と協議して欲しい」との旨、返信する。法国側はそれを了承し、四月の中頃にイスパルタ朝から使節団を出すことになった。ちなみに団長たる大使に任命されたのはフスレウである。
ジノーファが使節団を出すことにしたのは、法王ヌルルハーク四世への挨拶だけが理由ではなかった。この機会に法国の様子を見てきて欲しかったのだ。特に、新領土では僧職者の取り締まりが断行されている。それに伴ってイスパルタ朝への悪感情が高まっていないか、そのあたりのことを知りたかったのだ。
結論から言えば、イスパルタ朝とジノーファに対するルルグンス法国国民の感情は、決して良いとは言えなかった。理由はやはり、新領土で行われている僧職者の取り締まりである。法国の国民にとって僧職者とはつまり「偉くて立派な人」であり、それを「正当な理由もなく」国外へ追放するのは、とんでもない所業に映ったのだ。
無論これには、法国による世論操作の痕跡が窺えた。法王や枢機卿の立場からすると、僧職者を犯罪者にはできないのだ。国外では犯罪とされることが国内では横行していると国民に知られるわけには行かないのである。となればイスパルタ朝やその国王、あるいは総督が悪い、というふうにするしかない。
「イスパルタ朝に対する国民感情が悪化して、最終的に困るのは自分たちだと分かっていないのでしょうか?」
「目先のことで、頭がいっぱいなのだろうね」
フスレウから届いた中間報告に目を通しながら、ユスフとジノーファはそう言葉を交わした。国民感情が悪化すれば、当然両国関係も悪化する。最大の後ろ盾であるはずのイスパルタ朝との関係を悪化させ、法国には何か得るものがあるのだろうか。二人は揃って肩をすくめた。
とはいえ、このままイスパルタ朝への悪感情が募るのも都合が悪い。通商条約が結び直されれば、法国もまた新たな市場の一つとなるのだ。友好的な雰囲気の中の方が商売がしやすいのは自明である。
またルルグンス法国には恵まれた貿易港がある。さらに西の国々と交易する上で、良い足がかりとなるだろう。つまり今後、イスパルタ朝の交易はますます拡大する。その最前線とも言うべき法国でイスパルタ朝への悪感情が増大するのは見過ごせない。
「やはり、こちらで世論操作をするべきかな」
「はい。隠密衆を動かしましょう。新領土で行われている本当のことを流布してやれば、悪感情の増大には歯止めがかかるでしょう」
ユスフの言葉にジノーファも頷く。それからスレイマンとも相談した結果、通商条約の改正に先んじて隠密衆を動かすことになった。さらに総督府にも協力を命じる。正確な情報が広まれば、法国民の悪感情の矛先はイスパルタ朝から逸れるだろう。それが次にどこへ向かうのかは、ジノーファらのあずかり知らぬところである。
□ ■ □ ■
時間はいくぶん遡る。イスパルタ軍の西征を注視している国があった。イスパルタ王国の同盟国にして後ろ盾たる、ロストク帝国である。
ロストク帝国としても、この西征の必要性は理解している。西征の開始当時で、イスパルタ王国と南アンタルヤ王国の国力差は二倍近い。仮にガーレルラーン二世が軍勢を率いて東へ進むような事があれば、帝国としては最悪、イスパルタ王国を併合してでもこれに対抗しなければならない。
そうなれば、ロストク帝国が計画しているイブライン協商国への本格的な遠征も先延ばしすることになる。この遠征が帝位の継承とも関連していることを考えると、かなり面白くない事態だ。それを避けるためにも、西征を成功させて国力差を縮め、南アンタルヤ軍の脅威を遠ざける必要があったのだ。
戦況と前線の様子は、ルドガーの報告という形で帝都ガルガンドーへ届けられていた。最初のころは、イスパルタ軍が順調に西征を進めている様子が窺え、ダンダリオン一世も周囲の者たちと一緒に喜んでいた。そしてジノーファがガーレルラーン二世に手傷を負わせたとの報告が入るに至り、彼らの歓喜は最高潮に達したと言っていい。
『いやはや、流石は聖痕持ち。ジノーファ陛下の武勇は、人並みはずれたものがありますな!』
『まことに。陛下、良き義息子を得られましたな!』
『これならば、当面ガーレルラーンも動けまい』
『いや。それどころか、ガーレルラーンめをさらに西へ追いやることもできるのではないか!?』
この時点で、ダンダリオンを含めた多くの者たちはイスパルタ軍の西征の成功を確信した。しかしここから、事態は彼らの予測を上回って推移していくことになる。なんとガーレルラーン二世がジノーファに国を譲ったのだ。この瞬間、南アンタルヤ王国の脅威を遠ざけることが目的であった西征は、突如としてアンタルヤ王国の再統一戦争へとその様相を転じたのである。
『……下手をすると、アンタルヤ王国は群雄割拠の戦国時代へ突入しますぞ、これは』
ある高官が呟いたその言葉に、ダンダリオン一世は重々しく頷いた。ジノーファが上手く国内を掌握できなければ、そういうことになる。その中で北アンタルヤ王国が勢力を伸ばしてくる可能性は十分にあり、ロストク帝国にとってはそれもまた面白くはない。
『いずれにしても、今ルドガーらを引き上げさせるわけにはいかんな。今しばらく、情勢の推移を注視することにする』
ダンダリオン一世がそう方針を決めると、他の者たちは頭を垂れてそれに同意した。果たしてジノーファは南アンタルヤ王国を首尾良く掌握できるのか。ガルガンドーの宮廷はハラハラしながら見守った。
幸いにして、南アンタルヤ王国のほぼ全ての貴族や代官はジノーファの布告に従った。つまり彼を王として認めたのだ。無論、心底臣従している者は少ないだろう。だが王と貴族の関係などそんなものだ。今後どのように貴族を統御していくのか、ジノーファの手腕が問われるわけだが、ともかく彼は出だしをつまずくことなく乗り切ったのである。
そして新領土にロスタムが新総督として着任し、前職のカスリムが大人しく帰参したことで、ジノーファはルドガー率いるロストク軍五〇〇〇をマルマリズへ移した。この時、ジノーファはルドガーにダンダリオン一世に宛てた手紙を託しており、その手紙はマルマリズから伝令兵の手によってガルガンドーへ運ばれた。
手紙にはこれまでの経緯と、援軍を出してもらった事への感謝の気持ちが書かれていた。さらに、「北アンタルヤ軍がどう動くか見通せず、マルマリズが襲われる可能性を否定できません。今しばらく、ルドガー将軍らのお力をお借りしたく思います」と書かれていた。ただ、ダンダリオン一世の周囲の反応は少々否定的だった。
南アンタルヤ王国を併呑したことで、イスパルタ王国の国土は七六州となった。これは北アンタルヤ王国の三〇州に対して二倍以上である。さらに北アンタルヤ王国は建国以来南北に戦線を抱えており、かなりの程度疲弊しているとも聞く。
『北アンタルヤ王国の平定は、イスパルタ王国の戦力だけで十分に可能でしょう。援軍は引き上げさせてもよろしいのではありませんか?』
そう言う意見が公然と提起された。これ以上イスパルタ王国に力を貸す必要はない、というわけだ。このような意見の背後には、主に二つの要素があった。
一つは、イブライン協商国への遠征を視野に入れた戦力の回収だ。ルドガー率いる皇帝直轄軍一万は遠征のために是非とも必要な戦力。これを国元へ戻し、早急に遠征軍の編成を本格化させたい、と考える一派がいた。
もう一つは、イスパルタ王国への嫉妬である。建国当時、イスパルタ王国の国土は二六州だった。ロストク帝国の八八州に比べていかにも小国である。しかし南アンタルヤ王国を併呑したことで、その国土は七六州へと大幅に伸長した。
この時点ですでに帝国に肩を並べたと言っていい。さらにその上、北アンタルヤ王国までも平定すればその国土は一〇六州を数えることになる。イスパルタ王国はロストク帝国を越える大国となるのだ。
ロストク帝国の高官や官僚の間に、これを快く思わない者は多い。彼らが何か不利益を被ったわけではない。だが彼らにしてみれば、帝国が踏み台にされたかのように感じているのだろう。帝国の身丈を越えようとしている国に、どうして帝国の戦力を貸さなければならないのか。そう考えているのだ。
『陛下、どうなさいますか?』
『今しばらく必要だというのだ、貸しておいてやれ。余としても、マリーやアルアシャンの身に危険が迫るとすれば捨て置けぬ』
苦笑を浮かべながら、ダンダリオン一世はそう命じた。もっとも非公式の場で親しい人たちに語った内容によると、彼は「マルマリズが強襲されることはない」と見込んでいたらしい。
「半分休暇のようなものだな。戻ってきたらこき使ってやろう」とも話していたらしく、彼の意識としてはある種の保険だったのだろう。実際、北アンタルヤ軍はクルシェヒルに狙いを定め、イスファードが捕らえられたことで彼らは降伏した。
ジノーファがイスファードを捕らえ、北アンタルヤ軍の主力を降伏させたのを機に、マルマリズを守っていたロストク軍は本国へ帰還した。その際、王妃マリカーシェルから丁重にねぎらわれたと聞き、ダンダリオン一世は口元をほころばせた。娘がしっかりとやっているのを聞いて安心したのだろう。
さて、ガルガンドーに戻ってきたルドガーはジノーファからの手紙を預かっていた。その手紙の中で彼はイスファードを捕らえた経緯を説明し、今後の見通しについても書き記している。また援軍を含めたこれまでの支援に感謝していることや、近いうちに礼をしたいとも書かれていた。
『ふむ、次は魔の森か。なかなか落ち着かぬな』
ジノーファの手紙を読みながら、ダンダリオン一世はそう呟いた。とはいえ、それが必要だと言うことも彼は分かっている。シェリーからの手紙にもあったように、万が一、防衛線が決壊してイスパルタ朝が混乱するようなことがあれば、それはロストク帝国の貿易政策にも影響を与えるだろう。
せっかく交易で潤っているのだ。それが台無しになるのは面白くない。また今後、イスパルタ朝それ自体がロストク帝国にとって重要な巨大市場となるだろう。マリカーシェルが求めるようにまた新たな援軍を送ることはできないが、ダンダリオン一世としても余計な横やりが入らないようにする心づもりだった。
さて、ルドガー率いる一万の戦力が戻ってきたことで、いよいよイブライン協商国への遠征軍が本格的に編成され始めた。だらだらと続いているランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争を、ロストク帝国主導で終わらせるためである。
国内の準備は滞りなく進んだと言っていい。ロストク帝国はここ十年弱、全力での対外戦争は行っていない。皇帝直轄軍はほぼ万全の状態で待機しており、下された命令に従って彼らは粛々と準備を進めた。
問題が起こったのはランヴィーア王国との間にだった。イブライン協商国との戦争は、これまでランヴィーア王国が主体となって行ってきた。同盟国とはいえそこに割り込みをかけるのだから、事前にそれを伝えておくのは当然である。
しかしロストク帝国から本格的な遠征軍の派遣を打診されたランヴィーア王国の反応は芳しいものではなかった。彼らはロストク軍が自国の領内を通ることを渋ったのである。
『我々は同盟国だぞ!? 略奪を働くとでも、そう言いたいのか!?』
この対応にはロストク帝国の首脳部も怒りを露わにした。もちろん、ランヴィーア王国が心配しているのはロストク軍に領内を荒らされることではない。戦争の主導権と成果をロストク帝国に横取りされるのではないか。彼らはそれを恐れているのだ。もっともロストク帝国の狙いはまさにそれであるから、彼らの懸念は正鵠を射ていたと言っていい。
ただ、ランヴィーア王国としても、ロストク帝国が長引く戦争に苛立っているのは承知している。戦争が膠着状態に陥っているのは事実で、その状況を打開を名目とした増派の打診を断るのは難しい。それであれこれ理由を付け、ロストク軍が自国の領内を通ることに難色を示したのである。
余談になるが、ロストク軍がイブライン協商国へ進攻するのに、ランヴィーア王国国内を通るルートを考えていた訳だが、これは援軍の体裁を取ることや占領地に入って先に派遣していた二万の部隊と合流することを考えての事だ。
ただし、それだけが理由ではなかった。ロストク帝国とイブライン協商国の間には、広大な山地が広がっているのである。その名をアイフェルン山地と言う。この山脈があるために、これまでロストク帝国はイブライン協商国ではなくアンタルヤ王国の貿易港を狙っていたのだ。大軍でアイフェルン山地を越えるのは難しいと思われていたからである。
要するに、ランヴィーア王国国内を通れないと、ロストク帝国はイブライン協商国へ遠征軍を送れないのだ。少なくとも想定していたルートを潰された格好になる。いかにロストク軍が精強と言えども、戦場にたどり着けないのでは、働きようがない。
戦況を見れば、今のところランヴィーア王国が優勢だ。それで彼らとしては、例え時間がかかったとしても、自分たちが主導権を握ったままイブライン協商国を寄り切りたいと思っている。ロストク軍はあくまでも援軍でいて欲しいのだ。そうでなければ、散々苦労した挙句に、最も甘い果実をかっさらわれかねない。
ランヴィーア王国の言い分は、ロストク帝国も理解できる。だが帝国にも言いたいことがあるのだ。帝位継承を見据えたこの時期に、いかに同盟国と言えど、成果の出ないままダラダラと戦争を続けられては困るのだ。
特に、皇太子ジェラルドは炎帝ダンダリオン一世から帝位を継承することになる。炎帝の名はあまりにも偉大だ。ジェラルドの治世を安定させるにも、可能な限り状況を整えた上で帝位の継承を行いたい。それが帝国上層部の考えだった。
『こうなっては、もはや道は一つしかありませぬ。イスパルタ王国の領内を経由し、ランヴィーア王国とは反対側からイブライン協商国に攻め込みましょう!』
『それしかありませぬっ。我らで協商国を平らげてやるのです!』
『イスパルタ王国にも協力させましょう。これまで散々支援してきたのです。イヤとは言いますまい』
『兵糧を供出させれば良いでしょう。兵は、出してもらうにこしたことはありませぬが、直轄軍だけでも協商国の平定は可能でしょう』
話が妙な方向に向き始めたな、と思いダンダリオン一世は苦笑を浮かべた。ランヴィーア王国経由のルートが使えないならイスパルタ王国経由のルートで、となるのはある意味当然の話だ。だがそれを良いことに、今の時点でイスパルタ王国に協力を求めるのは上手くない。
『……卿らは此度の遠征の意義をはき違えている』
おもむろにそう発言したのは、ダンダリオン一世ではなかった。発言者はジェラルドである。それで自然と視線は彼に集まった。そのなかで彼はさらにこう語った。
『今回兵を動かすのは、貿易港を手に入れるためではない。貿易港を手に入れ、それをもって交易を拡大させるためだ。だが新たな貿易港とここガルガンドーは、陸路でしか行き来することができない』
つまりアイフェルン山地を通ることができなければ、商隊はランヴィーア王国かイスパルタ王国を経由することでしかガルガンドーへは行けないのだ。他国を経由しなければならないというのは、通商政策上、大きな足かせになるのは自明だった。
『またそもそも新たな国土を得たとして、アイフェルン山地に阻まれるために大軍を送り込めないと言うのであれば、それはもはや飛び地に等しい。安全保障上、厄介な問題を抱えることになるのは明白である』
ジェラルドの指摘を受け、そこかしこでうなり声が上がった。確かに他国を経由してでなければ大軍を送り込めないと言うのであれば、一度内乱が起こった際にそれを迅速に鎮圧することは不可能である。それでは新たな国土をしっかりと保持していくことはできない。
通商政策上の不都合と安全保障上の懸念を合わせて考えれば、遠征軍がアイフェルン山地を越えられない場合、ロストク帝国はランヴィーア王国とイスパルタ王国に弱味を見せることになる。商隊にしろ軍隊にしろ、行き来するためにはどちらかの国を経由しなければならないからだ。
現在は両国とも友好国だ。だがその友好関係が亡国のその瞬間まで続くのか、それは分からない。むしろこれまでの歴史を鑑みれば、友好国が敵国に早変わりした例などいくらでもある。その場合、ロストク帝国はせっかくの貿易港を失いかねない。
『陛下。此度、遠征軍はアイフェルン山地を越えなければならぬ、と私は考えます。遠征軍がアイフェルン山地を越えて初めて、帝国は新たな国土と貿易港を保持することができ、それによって国を富ませることができるのです。確かにアイフェルン山地を越えるのは難事でしょう。ですが兵を出すそもそもの意義を忘れてはなりませぬ』
ジェラルドはそう熱弁を振るった。
ジェラルド「山越えだ!」




