王太子の憂鬱
旧フレゼシア公国の首都ストルーア。そこにはかつては大公家が暮らし、フレゼシア公国の政治の中心であった城がある。決して大きな城ではないが名城とされ、この城を題材にした絵画は数多い。その城の一室に、アンタルヤ王国の王太子イスファードが軟禁されていた。
三階にある部屋で、日当たりは悪くない。室内はそれなりに広く、調度品も良いものが揃えられている。ただ、窓には鉄格子がはめ込まれている。ロストク軍の捕虜となってから、イスファードはずっとこの部屋に軟禁されていた。
身体の拘束はされていない。部屋の中では比較的自由に過ごすことができているものの、外を気ままに出歩くことは許されていない。部屋の外には監視をかねた護衛もいて、逃げ出す事はまず不可能だった。
まあそもそも、逃げ出そうなどとはイスファードも思ってはいない。アンタルヤ王国とロストク帝国の間で結ばれた講和条約の中身は、イスファードにも知らされていた。アンタルヤ王国は賠償金として金貨十万枚を支払うことになっており、その中には捕虜達の身代金も含まれている。
賠償金が支払われれば、イスファードの身柄も解放されるだろう。待っていれば自由になれるのだ。仮に脱走が成功したとしても、異国の地にただ一人では祖国へ帰ることもままならない。大人しくしているのが、一番の得策だった。
捕虜とはいえ、イスファードは王太子。扱いは丁重だし、食事も日に三度ちゃんと出てくる。部屋の外を自由に出歩けないことと、暇をもてあまし気味であることを除けば、余暇と大差のない日々だ。だがイスファードはふってわいたこの長期休暇を楽しむことはできなかった。彼はそこまで図太くはなかったのだ。
(父上は、なぜまだ……)
むしろイスファードの精神は歳相応に繊細だった。待っていればいずれ解放されると頭では分かっている。分かってはいるのだが、その日を日一日と待ち続ける日々は彼の心を疲弊させた。
(なぜ父上は、まだわたしの身代金を支払ってくださらないのか……)
気付けば、そんなことを考えている。カーブロの戦いが終わり講和条約が結ばれてから、すでに三ヶ月近くが経過している。しかしイスファードの身柄は、まだ自由になっていない。
頭では分かっている。金貨十万枚というのは大金だ。そう簡単に集められるものではない。加えて王太子イスファードは最も高貴な捕虜。賠償金を確実に支払わせるためにも、解放されるのは一番最後になるだろう。そう、分かってはいるのだ。
しかし心と感情がそれに追いつかない。どうしても悪い方へ考えてしまう。父王ガーレルラーン二世は戦に負けた自分のことを疎み、そのために身代金の支払いを渋っているのではないのか。そんなふうに考えてしまう。
(失望されただろうか……?)
王太子に冊立されたことで、イスファードにはジノーファを過去のものとすることが求められていた。イスファードの才覚はジノーファなどとは比較にならぬのだと示し、それゆえに彼が王太子となったからにはアンタルヤ王国は安泰であると、国内外に知らしめることが求められていたのだ。
そのためには、しかし二人であれこれと競い合うわけにはいかぬ。なによりジノーファは大きな結果を残していた。たった一〇〇〇の寡兵を率いて本隊を逃がすための殿軍となり、その役目を全うした。しかもスタンピードであふれ出したモンスターの大群を撃滅し、かの炎帝ダンダリオン一世と互角の一騎打ちをしている。これが初陣だったとはとても信じられない働きだ。
この業績を、イスファードは超えなければならなかった。そしてそのためには、勝利が絶対の条件だった。炎帝ダンダリオン一世を破ったと言う、輝かしい勝利の栄光。それこそがジノーファのことを人々の記憶から消して忘却の彼方へと押しやり、イスファードの未来を明るく照らしてくれるはずだったのだ。
しかし、結果は惨敗。しかもただ負けただけではない。逃げ出すこともできず、イスファードはこうして捕虜となってしまった。捕囚の辱めを受けることは、貴族や王族にとって最大級の恥辱と言っていい。
ジノーファも同じく捕虜となっていたが、しかし彼の場合は事情が違う。そもそも彼は戦力的に最初から劣勢だった。その中で殿の任を果たし、その上で生き残った味方を逃がすため、彼はあえて自らが囮となったのだ。そしてそのためにダンダリオンと一騎打ちまで演じている。ある意味では炎帝をさえ手のひらで転がしたのだ。
一方のイスファードはどうか。十分な戦力があったにも関わらず敗北。味方を逃がすどころか、真っ先に逃げ出した。しかも撤退の合図さえ出さず、劣勢の中で戦い続けていた味方をいわば囮にしたのだ。彼自身にその意識がなくとも、あの戦場にいたアンタルヤ兵はそう感じるに違いない。
その上、捕虜となったのはイスファードだけではない。エルヴィスタン公爵カルカヴァンを筆頭に、従軍した貴族家当主のほとんどが捕虜となっている。戦死者の数も多く、アンタルヤ王国史上稀に見る大敗と言っていい。
後世の歴史家が、とは言わない。今の世を生きる人々はこの結果をどう評価するだろうか。結果を残せなかった者への評価はいつの時代も厳しい。自分を嘲弄する声がイスファードには聞こえるようだった。
『イスファードはジノーファに及ばない』
『イスファードは王太子に相応しくない』
『ジノーファ様が次の国王になってくださればよいのに』
『イスファードが次期国王では、アンタルヤ王国もおしまいだ』
きっと、好き放題に言われていることだろう。暗い愉悦に顔を歪め、したり顔で論評する“友人”の姿を、イスファードは何人も思い浮かべることができた。
(追従するほか能のない、口先だけの無能どもめ……!)
イスファードは胸中でそう罵った。しかしそれこそ無意味だ。どれだけ罵ったところで、“友人”たちの口を閉じさせることはできない。そしてだからこそ彼らが調子に乗っているのだと思うと、イスファードは腸の煮えくり返る思いだった。
すぐにでもこの悪評は払拭しなければならない。そのためには、やはり結果が必要だった。内政、外交、あるいは軍事。何でもいいから結果を残さなければ、失敗の記憶はいつまでも残り続け、陰口を叩く輩は絶えないだろう。
逆を言えば、結果さえ出せばいいのだ。失敗は成功によって贖われる。今回は失敗したが、これから結果を出していけば、人々はイスファードを認めざるを得なくなるだろう。そして彼にはそれをなす自信があった。
そしてイスファードの名声が高まるにつれ、人々はジノーファのことなど忘れていくだろう。そもそも彼はもう何者でもない。仮に能力があったとしても、国政に関わるだけの地位や権力を持っていない。彼は確かに大きな功績を残したが、しかしこの先、さらに新たな功績を残す事はできないだろう。記憶は薄れ、全ては過去の事になり、時の流れの中で忘れ去られていくのだ。
最後に勝つのはイスファードである。そのことを自分に納得させると、彼は「ふう」と大きく息を吐いた。しかし腹の中のムカつきは完全にはなくならない。どこかで誰かが自分のことを嗤っている。それを完全に黙らせるまでは、このムカつきがなくなることはないだろう。
だからこそ、イスファードは早く何かをしたかった。しかしそれは不可能だった。今の彼は捕虜だからだ。この一室に閉じ込められ、自由に出歩くこともままならない。何もできないこと、今の彼にとってそれが一番の苦痛だった。
(本当に、早く、自由に……!)
彼はその日を渇望する。しかし待てども待てども、解放の報せはこない。それはすなわち、ガーレルラーン二世がまだ身代金を含めた賠償金を支払い終えていないことを示唆していた。
待つだけの日々は長い。これほど長い日々を、イスファードは過ごしたことがなかった。ほんの一〇〇日にも満たない軟禁の日々だが、彼にとっては何十年もの時間に匹敵するように感じる。
捕虜であることの息苦しさや不安は、無為の日々の中で膨張していく。何もできない日々は、まるで血を流し続けているかのようにイスファードには感じられた。血を流しているのは磨り減った心で、治療のために必要なのは自由と名声だった。
一日も早い解放を。イスファードが願うのはそれだけだ。しかし彼は今日も自由にはなれなかった。父王が、ガーレルラーン二世が金を支払ってくれないからだ。彼はそのことに落胆や怒りが混ぜこぜになった感情を覚える。しかし次に湧き起こってくるのは不安や怖れ。思い出すのはダンダリオン一世の言葉だった。
『……それにしても息子の身代金を値切るとは。そなた、実は疎まれているのではないのか?』
戯言だ。しかも悪意のある戯言だ。イスファードとてそれくらいのことは分かっている。しかし軟禁されたまま時間が経つにつれ、彼の中でこの戯言は信憑性を増していった。なによりダンダリオンの言葉が頭から離れない。
『……十五年も他人として接してきた子供を、いまさら我が子として愛せるものなのか? そもそも王族や貴族が富や権力をめぐり、その血縁内にあってどれほど醜く争ってきたのか、お前とて良く知っているであろうに』
ああ、まったくその通りである。イスファードはそれを認めなければならなかった。王族が、そして貴族が、富と権力のために、肉親とどれほど醜悪に争ってきたのか、歴史書を紐解けばその愚かな事例がいくつも載っている。
いや、歴史書に載っているだけではない。これまで生きてきた間にさえ、イスファードはそういう事例を耳にしたことがある。子が父を殺し、そして父が我が子を殺す。人にとって最大の禁忌の一つであるはずの肉親殺しは、しかし貴族社会においてはその頻度を増すらしい。富と権力がどれだけ人を狂わせるのか、その証左であると言っていいだろう。
狂人がどれだけ愚かしく振舞おうとも、それが他人事であるならば、イスファードは冷笑を浮かべることができた。しかし当事者として舞台に蹴り上げられてしまった今、彼の冷笑は引き攣るばかりだ。
(そんなことはない。そんなことはないんだ……!)
イスファードは必死になってダンダリオンの言葉を否定する。しかしそうするとまた、彼の言葉が甦るのだ。
『……考えてもみよ。今回の遠征に際し、なぜガーレルラーン二世は王家としてそなたの率いる戦力を用意しなかったのだ?』
『思うにガーレルラーン二世は、そなたらがこうして惨敗する事をむしろ望んでいたのであろうよ』
『ガーレルラーン二世の目的は、自らの権勢の強化であろう。そのために有力貴族であるエルビスタン公爵家と、公爵が率いる派閥の力を削ぎたかったのではないか』
『自らの権勢を維持するため、息子に汚点を負わせるか。ともすれば命を落としていたかも知れぬと言うのに。ガーレルラーン二世も食わせ者だな』
真実であるかどうかは別として、筋は通っている。イスファードはそれを認めざるを得なかった。そしていわゆる王太子派の力を削ぐことがガーレルラーン二世の目的であるのなら、今のこの状況はひどく都合がいい。派閥の旗頭と首魁が揃って失態を犯し、さらに捕虜となって身動きできずにいるのだから。
もしもダンダリオン一世の言ったとおりだったとして、ガーレルラーン二世はどう動くだろうか。敗北だけでよしとすることはないだろう。せっかく犬が川に落ちたのだ。ここぞとばかりに棒で叩くに違いない。
(もしや、身代金を一括で支払うのもその一環なのか……!?)
イスファードは慄然とした。普通、身代金と言うのは個別に交渉して支払われるものだ。それを国が一括して支払うと言う事は、見方を変えれば債権を買取ったということでもある。その買取った債権を、ガーレルラーン二世はどう使うつもりなのだろうか。
(過大に請求するのか……? いや……)
イスファードはそれを否定する。ガーレルラーン二世はそのようなまどろっこしい真似はするまい。それよりはむしろ、敗戦の責任を追及するはずだ。債権を買取ったのは、いわばそのついでであろう。
一体、どのような沙汰が下されるのであろうか。多くの貴族家が罰則金の支払いを命じられるだろう。当主の身代金を含むと言われれば、どの家も支払いを拒む事はできない。さらに何かしらのお役目を持っている者なら、左遷や降格、更迭もありえる。爵位を降格させられたり、領地を召し上げられたりといったこともあるかも知れない。ともすれば当主の処刑すらありえるのだ。
中でも一番の標的は、やはりエルビスタン公爵家だろう。ガーレルラーン二世の目的が自らの権勢の強化なら、イスファードの後ろ盾たる公爵家は目障りに違いない。一体どれほど力をそがれるのか、イスファードは心配になった。
(ようやく、ようやく王太子として表舞台に立つことができたというのに……!)
イスファードは自分が本当は王子であることを、十歳になる前にはすでに知っていた。それ以来、その事を隠しながら彼は生きてきた。偽者を「王太子殿下」と呼ばなければならないその日々は、彼にとって窮屈であり、そして屈辱的だった。
王太子としての身分を回復し、その正当な地位に返り咲くこと。それはイスファードの悲願であったといっていい。そしてその悲願は果たされた。ただ、地位について終わりではないことを彼は理解している。
むしろそれは始まりなのだ。王太子となり、公子ではできなかった多くのことができるようになる。しかしその矢先に後ろ盾たるエルビスタン公爵家の力をそがれては、それは手足をもがれるに等しい。実行力が限られ、影響力がなくなり、旗を振っても誰も見向きもしなくなるのだ。
(……っ)
こうして考えてみると、王太子の地位と言うのはいかにも軽いもののようにイスファードには思えてきた。なるほど、確かに次期国王である。しかし今現在において王権を握っているわけではない。しかも極端なことを言えば、ガーレルラーン二世の一言でその地位はどうにかなってしまうのだ。そう、ジノーファのように。
ジノーファの例を思い浮かべたとき、イスファードは血の気が引くのを感じた。ジノーファは王太子の地位を追われた。であれば、イスファードがそうはならないとどうしていえるだろうか。
(いや、しかし、父上の子で男子はわたしだけだ……!)
ということは、他に王子が生まれればイスファードの廃嫡もありえるということだ。現在、ガーレルラーン二世は四二歳。メルテム王妃との間にはもう子は作れないだろうが、しかし別の女性との間にであれば、この先彼に新たな子供が生まれる可能性は十分にある。いや、もしかしたらもう、その子供は生まれているかもしれないのだ。
一般に、老いらくの子は可愛いという。十五年間他人として過ごしてきた子供と、老いてできた子供。ガーレルラーン二世は一体どちらに王位を継がせたいと思うだろうか。そしてもしもこの敗戦がその思惑の一部であるとしたら……。
(どうする……? どうする……?)
イスファードは混乱した。足元がグラグラと揺れ動いているように感じ、何もかもが不確かに思えてくる。何もしなければジノーファのように全てを失うのだと、彼は漠然と悟った。
(自由になったら、ファティマとの結婚を急ごう)
イスファードはまずそれを考えた。確実に味方となってくれるエルビスタン公爵家との結びつきを強めるのだ。さらに公爵家が敗戦の責任を追及されていたとしても、結婚に伴う恩赦のような形で実害を防ぐことができるだろう。結納などの形を取れば、さらに力を増すこともできるかもしれない。いずれにしても公爵家さえ磐石であれば、イスファードの地位もまた揺るがないだろう。
(他に、どんな手がある……?)
己が権勢を守るための手段を、イスファードは必死になって考える。彼は気付いていない。それが父王ガーレルラーン二世と対決する道であることを。あるいは気付いていたとしても、それ以外には選べなかったのかもしれぬ。解放の遅れが、少なくとも遅れていると考えることが、父王への不信感を強めているのだ。いずれにしても、ダンダリオンが盛った毒は彼を静かに蝕んでいた。
賠償金の支払いが完了しイスファードが解放されたのは、大統歴六三五年九月七日のことだった。誕生日をおよそ一ヶ月後に控えてのことである。
イスファードの一言日記「ひまー」