懐妊の報せ
スレイマンが寄越した補給部隊がリゼ城に到着してから、少し経ったある日の事。ジノーファはユスフを伴ってエルビスタン公爵領へ向かっていた。護衛は騎兵を一〇〇騎ほどで良いと彼は言ったのだが、クワルドに「馬鹿なことをおっしゃらないで下さい」と怒られ、五〇〇〇の部隊を押しつけられた。
おかげで、公爵領まで片道二日の小旅行である。その時間を捻出するのもなかなか大変で、一番多くの仕事を押しつけられたのは他でもないクワルドなのだが、それでも彼は「護衛として五〇〇〇」を譲らなかった。
北アンタルヤでジノーファが動き回るには、まだそれくらいの警戒が必要なのだ。それでも彼が公爵領へ行くことにしたのは、それがどうしても必要だと思ったからだった。いや、必要と考えたと言うよりはそれが義務だと感じたのだ。
きっかけはシャガードだった。彼はリゼ城を訪ねて、内密にジノーファとの謁見を望んだ。彼にはメフメトの手紙など、幾つか報いるべき功がある。それでジノーファは会うことを了解し、彼の希望通り執務室で謁見した。
『それでシャガード卿。何のようだろうか?』
『今日はファティマ殿下のことでお願いがあり、こうして参上いたしました』
『ファティマ殿下、か。そう言えば体調を崩しておられると聞いたが、もう回復されたのだろうか?』
『……そのことを含め、一度ファティマ殿下とお会いしていただきたいのです。公爵領へ行幸賜ることはできないでしょうか?』
そう言われ、ジノーファは「ふむ」と呟いた。ファティマがジノーファに会いたがっているというのなら、本来彼女の方から出向くのが筋である。しかし実際にはこうしてシャガードが来た。つまり何か事情がある。それでジノーファは返事をする前にこう尋ねた。
『なぜ殿下本人が来られないのだ? 本来はそれが筋のはず』
『実は……』
シャガードは事情を説明した。それを聞き、ジノーファは彼が内密の謁見を望んだことに納得した。そして同時にファティマに会うべきだと思ったのだ。そして今、彼は五〇〇〇の兵に守られながら馬車に揺られている。
馬車の中、ジノーファは思案を巡らせていた。考えているのは言うまでもない、ファティマのことである。選択肢は幾つかある。だが簡単に答えはでない。いや、おそらく正解などないのだろう。だからこそ、彼は悩んだ。
そう言う意味では、片道二日間の時間は彼にとってありがたかった。ゆっくりと考える事ができる。だが考えれば考えるほど、悩みが深まるような気もした。ユスフとも相談しながら、ジノーファは自分の考えをまとめた。
さて、ジノーファがエルビスタン公爵家の本邸に到着すると、家令が彼を出迎えた。ジノーファはユスフと十人ほどの護衛を伴い、屋敷の中にはいる。ジノーファは客間に案内され、そこでファティマが彼を待っていた。
「ようこそおいで下さいました。ご足労戴き、恐悦至極に存じます、陛下」
ファティマが片膝をついて挨拶をする。ジノーファは小さく微笑むと、すぐに彼女を立たせた。立ち上がった彼女の姿を見て、事情を知らなかった護衛の兵士たちがジノーファの後ろで息を呑む。彼女はお腹が大きくなっていたのだ。
シャガードの要件とは、要するにコレだった。ファティマが妊娠していたのである。父親は言うまでもなくイスファード。北アンタルヤ王家の血を引く子供が、今まさに彼女のお腹の中で育っているのだ。
だが今の情勢下で、この懐妊が非常に繊細な問題となることは言うまでもない。極端な話、この子供を旗頭にして叛旗を翻す者が出てくるかも知れないのだ。そうでなくとも、北アンタルヤにイスファードの血筋を残せば、将来に火種を残すことになりかねない。
冷徹に考えれば、殺してしまうのが一番簡単だ。ファティマもそう考えた。だが母親として、自分の子供を死なせることなど容認できない。ひとまず体調不良を理由に領地へ戻りこうして屋敷に引きこもったが、それが問題の先送りでしかないことは彼女も分かっていた。
『ユリーシャ様にお口添えを願っては如何でしょう?』
家令はそう提案したが、逡巡した末、ファティマは首を横に振った。確かにユリーシャの取りなしがあれば、ジノーファも配慮してくれるだろう。だがヘリアナ侯爵家は政治に関わらない家だ。そしてイスファードの子供というのは、存在それ自体が政治的である。巻き込んでしまうのはまずい。
『本当にどうしようもなくなったときには、ユリーシャ様を頼りましょう。メルテム王太后殿下も、お力になってくださるはず。ですがまずは、わたし達がやるべきことをやりましょう』
ファティマは腹をくくった。妊娠したことをジノーファに報告することにしたのだ。危険だと言う者は当然いたが、いきなり命を狙われることはないだろうと彼女は思っていた。
降伏交渉において、ファティマはジノーファの意を汲んで動いた。であればその分、何かしらの配慮を期待できるだろう。少なくとも会うことはできるはずだ。来てもらって直接言葉を交わせば、あるいは説得できるかもしれない。ファティマはそこに賭けた。
正面突破である。勝算はあるつもりだった。ただしそれは、ジノーファの性格的に赤子を殺すようなことはするまいと思っただけのこと。特別、彼に要求を呑ませるためのカードがあるわけではない。
だがそれでも。退くわけにはいかない。あるいは子供を生かすために公爵家としてはより厳しい状況に追い込まれるかも知れない。だがもうこれは理屈ではないのだ。母親の本能である。
さて、リゼ城に赴く使者の役に手を上げたのはシャガードだった。彼はジノーファにファティマのことを告げると、その足下にひれ伏してこう懇願した。
『ジノーファ陛下。某からもお願いいたします。ファティマ殿下とお子様のこと、どうか何卒、何卒ご慈悲を……!』
『シャガード卿。卿がそれを願うとはどういうことなのか、分かっているのか?』
『承知しているつもりでございます。むしろ、これ以上の望みはございませぬ』
『分かった。その分も考慮に入れるとしよう』
ジノーファがそう応えると、シャガードは「ありがとうございます」と言ってさらに深く頭を垂れた。前述した通り、シャガードにはメフメトの手紙などのことで功がある。防衛線が落ち着き、北アンタルヤ王国の仕置きが終わったら、ジノーファはそれに報いるつもりでいたのだ。
その彼がファティマと子供のことで慈悲を願う。それはつまり「自分の報償はそれにして欲しい」と言っているに等しい。そして彼もそれを承知した。というより、もともとそのつもりで使者になったのだろう。
ともかくこれで、性別に関わりなくファティマの子供の命は保証された。もっとも、ジノーファは最初から子供を殺すつもりはなかった。イスファードを生かしておくと約束したのに、戦争中にまだ生まれてもいなかった子供を殺すのは道理に合わない。
だが生かしておくのであれば、諸々考えなければならない。どういう形で生かしておくのが最善なのか、公爵領へ向かう馬車の中でジノーファはユスフと相談しつつそれを考え続けた。
『女の子であれば、それほど気にする必要はないでしょう。何でしたら、年頃になってから陛下の側妃に、ということもできます』
『いや、側妃にはしないぞ』
『ああ、ファティマ殿下の方をご所望ですか』
『冗談ではない』
そう言ってジノーファが顔をしかめると、ユスフはニヤニヤと笑った。まあ、このあたりはじゃれ合いである。
『ですが真面目な話、ファティマ殿下を側妃にお迎えすれば、男の子であったとしてもひとまず問題はなくなります』
『……イヤだ。断固拒否する』
ふてくされたような顔をして、ジノーファは窓の外へ視線を逃がした。それを見てユスフがまたニヤニヤと笑う。窓に映ったその顔を見て、ジノーファはますます憮然となった。というかユスフも人に側妃を押しつけるより、まずは自分の嫁取りの心配をするべきだろう。
すでに二三を越えたというのに、彼はまだ独身なのだ。そのせいでクワルドも彼の母もやきもきしていると聞くが、彼自身はのらりくらりと縁談の話をかわしているという。いっそジノーファ主導で嫁を世話してやろうかと思ったが、なんだか負けた気がするのでやめておいた。
まあそれはともかくとして。ユスフも言ったとおり、ファティマの子供が女の子であれば何も問題はない。何なら、ベルノルトの婚約者にするという手もある。問題があるのは男の子だった時だ。イスファードの血を引く王子。それだけで十分に厄介な存在である。
『半年ほど誕生を遅らせる、という手もあります』
ユスフが真面目な顔をしてそう提案する。半年遅らせれば、時系列的にファティマが妊娠したのは降伏交渉がまとまってからと言うことになる。その時点でイスファードはすでにイスパルタ軍の捕虜になっていた。つまり子供の父親はイスファードではない。そういうことにできる。
実際に妊娠期間を半年延ばすことなどできないから、半年のあいだ子供の誕生を秘匿することになる。ただエルビスタン公爵家の本邸にいるわけだし、半年隠すだけならそれほど難しくはないだろう。
『そしてその間、わたしが足繁くファティマ殿下のところへ通えば、晴れて子供の父親はこのわたしというわけだ』
ジノーファは自虐的にそう語った。実際には父親の分からない子供、と言うことになるだろう。だがそこは暗黙の了解、公然の秘密というやつで、多くの者がそのように認識するようになるはずだ。
「本当はイスファードの子供なのではないか?」。そう勘ぐる者も当然現われるだろう。だがジノーファがその子供に目をかけてやれば、やはりジノーファの子供と言うことになる。少なくともイスファードの子供とは考えるまい。
そして多くの者が「イスファードの子供でない」と考えるようになれば、その瞬間に火種は消えたと言っていいだろう。ファティマにしても周囲は「国と家を守るために取引をした」と考えるに違いない。ジノーファもその理屈は分かる。だが彼はユスフにこう言った。
『子供に余計な業を負わせるべきではないと、わたしは思う』
彼の言葉の響きは深かった。ジノーファ自身、出生の秘密に苦しんだ。その経験が彼にそう言わせたのだ。ユスフもそれを理解し、軽く頷いて彼に同意した。
さて、ジノーファに促されて立ち上がったファティマの顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。ただそれがそのまま彼女の内心を現しているとは言えない。内心を押し殺して微笑みを浮かべるのは淑女のたしなみで、それはジノーファも理解していた。
実際、お腹の子供の運命がこれから決まるのだと思えば、内心安らかではいられないだろう。むしろ胸の内にどれほどの覚悟を秘めているのか。「妖精眼が使えれば見通せるのか」とジノーファは一瞬考えたが、「分かるはずないな」とすぐに内心で嘆息した。
ただ、ジノーファの反応が比較的好意的であったことは、すでにシャガードから伝えられているはず。ジノーファは言質を与えなかったが、「最悪の結果にはならない」とはファティマも思っているだろう。だからといって緊張しないのかと言えば、それはまた別の問題なのだろうが。
「お体の具合はいかがですか?」
「疲れも取れて、最近は庭を出歩くこともできるようになりました」
二人の会談は何気ない会話から始まった。ジノーファはソファーに座り、ユスフはその後ろに立って控えている。ファティマはテーブルを挟んでジノーファの向かいに座っていた。
とはいえ、イスパルタ朝の国王と北アンタルヤ王国の王妃の会談である。話題はやはり政治的なものが多い。特にファティマは国内の経済状況を知悉しているだけあり、そちらへの関心が強かった。
さて、イスパルタ軍の作戦の進捗状況など、一通りのことを話し終えると、ジノーファはいよいよ本題に入った。ファティマのお腹の子供の処遇について、である。彼はまずファティマにこう尋ねた。
「何か、ご希望はありますか?」
「無事に産み、この手で育てることができれば、それ以上のことは望みません」
ファティマは小さく微笑んでそう答えた。無欲なように思えて、実際にはかなり難しい要望と言っていい。しかしジノーファは顔をしかめることもなく、「なるほど」と言って一つ頷いた。そしてこう言葉を続ける。
「もしお腹の子が女の子であったなら、そのままお手元で育てていただいて良いでしょう。こちらで婚約者をお世話することになるかもしれませんが、そこは良くあることですから、諦めてもらうしかありませんね」
特に後半部分をジノーファが冗談めかして話すと、ファティマは小さく笑って頷いた。ここまでは彼女もある程度予想していただろう。だがこの次、男の子であった場合はどうなるか分からない。それでジノーファがまた口を開くと、彼女も内心を押し殺してはいられないのだろう、笑みが消えて顔が強張った。
「男の子であった場合には、残念ですが北アンタルヤで育てることは容認できません。また世子として認めるかの判断も、当面は保留にしていただきます。理由はあえてお話しせずともお分かりですね」
「……謀反を未然に防ぐためと存じます。ですが、ではどこで育てることになるのでしょうか?」
「クルシェヒルが良いでしょう。王都なら、こう言ってはなんですが、監視の目が行き届きます。妙なことを考える者も現われないでしょう。……ところでその場合、ファティマ殿下はどうされますか?」
「どう、とは?」
ジノーファの意図が掴めず、ファティマはそう聞き返した。そんな彼女にジノーファはこう説明する。
「戦後の仕置きがどうなるのか、それはまだ分かりません。ですがカルカヴァン卿には隠居していただく方向で考えています」
「父が隠居、ですか……」
「はい。するとカルカヴァン卿のお子様はファティマ殿下お一人ですから、殿下に公爵家を継いでいただくことになります」
「わたしが、当主に……?」
ファティマは困惑気味にそう呟いた。アンタルヤ王国の歴史の中で女性の当主がいなかったわけではない。ただ形ばかりになることがほとんどで、たいていの場合、実権は夫が握ることが多かった。
だがファティマの場合、ジノーファは彼女を再婚させることは考えていない。本人もそれを望まないだろう。よってファティマ自身が公爵家の実権を握ることになる。代官を置くなりして人に任せることもできるが、彼女には能力があるのだし、人任せにはしないだろう。
その場合、ファティマは領地で諸々の采配を振るうことになる。だが子供を育てるのはクルシェヒルだ。彼女は身体を二つ持っているわけではないので、どちらかを選ばなければならない。ジノーファがどうするのかと尋ねたのは、要するにそう言うことだった。
「……もちろん、仕置き如何で状況は大きく変わります。またそもそも、子供の性別は生まれてみるまで分からない。諸々はっきりしてから、改めて考えれば良いでしょう」
ファティマが悩むのを見て、ジノーファは彼女にそう告げた。実際、今はまだ不確定要素が多すぎる。子供が無事に生まれるかさえ、今はまだ分からないのだ。それでファティマも小さく頷いて悩むのを一旦止めた。
(まあ、それでも……)
それでも、子供を死なせるという最悪の結末だけは回避することができた。そのことにファティマは内心で安堵の息を吐く。正面突破作戦はひとまず成功したのだ。今はそれで良しとしよう。肩の荷が下りたのを感じながら、彼女はそう思った。
ファティマ「お腹痛い……。まさか、これが陣痛……!?」




