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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国

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別れ


 ファティマの口から、シャガードの交渉の結果を聞く。その間ずっと、イスファードは重苦しく黙り込んでいた。室内にはジャフェルをはじめ、他に数名の者たちがいたが、皆一様に口を硬く閉じている。


「……よって私貿易の再開は絶望的であると結論せざるを得ません」


 そう言ってファティマが説明を終えた後も、イスファードはしばらくの間なにも話そうとしなかった。彼の手を見れば、手の甲に指が食い込みそうなほど、強く握り合わされている。取り澄ました表情も僅かに歪んでいて、奥歯をかみしめているものと思われた。


「……陛下、その、如何いたしますか……?」


 沈黙に耐えかね、一人の参謀がイスファードにそう尋ねた。イスファードはその参謀にギロリと激烈な感情の浮かぶ眼を向ける。彼が「ひっ」と悲鳴を漏らして視線を逸らすと、イスファードは組んだ両手で額を叩きながらこう唸る。


「あの道化は、どこまで俺を虚仮にすれば気が済むのだ……!」


 指が皮膚に食い込み血が流れる。今にも爆発しそうなイスファードの気配に、部屋の中にいた者たちは身構えた。だがファティマが後ろから抱きしめると、彼はしばらく全身を(りき)ませたまま動きを止め、やがてふっと力を抜いた。そしてファティマの腕を軽く叩いて抱擁を解かせ、それから比較的落ち着いた声でこう言った。


「かくなる上は、もはや一刻の猶予もない。ジャフェル、防衛線から引き抜けるだけの兵を引き抜いてシュルナック城に参集しろ。その到着を待って、南進を開始する」


「陛下っ!」


「ダーマードとオズデミルを動かす事はできん。ファティマの報告でそれは明らかだ」


 感情の抜け落ちた声でイスファードはそう告げる。私貿易がジノーファの指示であったということは、「二人はジノーファに不満を持っているので私貿易を始めた」という、北アンタルヤ王国側の大前提が崩れたことを意味する。


 それどころか、ダーマードとオズデミルはジノーファに忠誠を誓っていると見るべきだ。二人をそそのかしてマルマリズを攻めさせるという計画は成立しない。さりとて他に味方になりそうな貴族や勢力もなく、北アンタルヤ王国は孤立してしまった。


「味方を得られないのですっ。拙速に動くべきではありませぬっ!」


「阿呆、現実を見ろ! 時間がないのだ!」


 悲鳴じみた声で意見した参謀を、イスファードはそう怒鳴りつけた。言葉は乱暴だったが、時間がないのは事実だ。私貿易を再開できなかったということは、すなわち塩の供給が断たれたことを意味する。備蓄が残っている間に行動を起こさなければ、文字通り身動きが取れなくなってしまう。


「動くなら今だ。今しかない。年が開けてからクルシェヒルに入ったのなら、ジノーファはまだ国内を完全に掌握したわけではあるまい。表向き従っているだけの者も多いはず。今ならまだ隙があるっ」


 イスファードはそう言い切った。その言葉に参謀たちもぎこちなく頷く。南アンタルヤ王国はイスパルタ王国の倍近い版図を持っていたのだ。ジノーファがいかに優秀であったとしても、これを津々浦々まで掌握することは難しい。そのことは権力中枢の近くにいる者ほど同意するだろう。


 そして国内を完全に掌握しきれていない以上、何かにつけて兵を出すことを拒む貴族が出てくる。徴兵が上手く行われない可能性もあり、つまりジノーファが動員できる戦力はそれだけ少なくなる。


 だが時間を与え、ジノーファの支配が行き渡るようになれば、それだけ彼が動かせる戦力も増えるだろう。イスパルタ朝の国土は七六州。十万を超える大軍であっても編成は可能だ。短期決戦での勝利は難しい。だが長期戦を戦うとなると、今度は塩の問題が出てくる。


 ゆえに、戦うなら今しかない。イスファードはそう断じたのだ。幸い、これまでに検討を重ねていたおかげで、防衛線からどれくらいの戦力を引き抜けるかはすでに判明している。決断さえ下せば、すぐに動き出せるだろう。


「もはや退路はない。前に進むより他に、我々が生き残る術はないのだ!」


 イスファードがそう熱弁を振るうと、ジャフェルが率先して片膝をついて拱手した。彼はもともとも、南進を強行に主張していた。そのためには防衛線を手薄にしても構わない、と言っていた程である。


 その彼の目に今のイスパルタ朝は、王位継承に伴う混乱の只中にあるように見えていた。内が混乱している時に、外へ強く出ようとするのは、歴史上ありがちなことだ。ジノーファもその類いに違いないとジャフェルは思ったのだ。ならば今はむしろ好機と言っていい。


 ジャフェルの様子を見て、他の者たちも慌ててそれに倣う。ファティマもまた、腰を低くして恭順の意を示した。彼女の内心に高揚はない。こうなることは分かっていた。分かっていて黙認した。だから自分も同罪なのだ、と彼女は思った。


 反論が出ないのを見て、イスファードは満足げに頷いた。そんな彼にジャフェルが「陛下」と声をかける。彼が「なんだ?」と尋ねると、ジャフェルはさらにこう言葉を続けた。


「陛下は先ほど南へ進むと仰いました。ですが東へ進まれては如何でしょう。今なら、イスパルタ王国に残っている戦力は少ないはず。ダーマードとオズデミルも我々を謀っていたのですから、この機会に踏み潰してやれば良いのです」


 南へ進むより東へ進んだ方が敵の数は少ない、というのは事実だろう。敵の弱いところを狙うというジャフェルの進言は理にかなっている。イスファードは少し考え込み、しかしゆっくりと首を横に振った。


「シュルナック城から兵を動かせば、またぞろ南の略奪隊が蠢き始めるだろう。本拠地をつつかれては、貴族どもが騒ぎかねん」


 やや嘆息しつつ、イスファードはそう応えた。彼の言う「貴族ども」とは、北アンタルヤ王国の貴族たちのことである。


 北アンタルヤ軍とは言っても、その兵の半分以上は国内の貴族たちが供出した兵によって構成されている。また部隊指揮官を務める者たちも、貴族やその縁者らが大半を占める。また国外へ打って出るとなれば、さらに貴族らの兵を集める必要があるし、当主自らが従軍することもあるだろう。当然、その声は無視できない。


 つまり北アンタルヤ軍というのは、貴族の影響力が強い軍隊なのだ。そして彼ら、特に当主の地位にある者たちにとって一番大切なのは、国そのものではなく、そこに含まれる自分の領地。そこを無視すれば、たちまち軍内部に不協和音が響くだろう。


 それを避けるためには、南へ進むより他にない。つまりジノーファの首を最短距離で狙うのだ。イスファードがそう言うと、ジャフェルはやや躊躇いがちに頷いた。そんな彼にイスファードはさらにこう告げる。


「心配するな。野戦で直接相対できれば俺が勝つ。そして敵がクルシェヒルに籠もったとしても、秘策がある」


 秘策とは何なのか、ジャフェルは尋ねなかった。だがイスファードにはよほど自信があるように見える。ならばそういうことなのだろうと思い、彼はこう応えた。


「……では問題は略奪隊の方ですな」


「ああ、手間取らされて戦力を消耗するのは避けたいが……。まあ、その辺りの事はカルカヴァンにも相談してみよう。先ほども言ったとおり、ジャフェルは一刻も早く防衛線から戦力を連れてくるのだ」


「承知いたしました」


 そう言って一礼すると、ジャフェルは早速動き始めた。参謀たちを引き連れ、慌ただしく公爵家の屋敷を後にすると、馬を駆って防衛線へ向かう。これまでに検討した限りでは、防衛線から引き抜ける戦力はおよそ三〇〇〇。もう少し何とかならないものか、とジャフェルは馬上で考え続けた。


 ジャフェルの背中を見送ってから、イスファードもまたシュルナック城へ戻るべく、周囲の者たちに準備を命じる。一通り指示を出し終えて、自らも旅装を整えると、彼はファティマを抱きしめて彼女にこう言った。


「あまり長い時間ではなかったが、一緒に過ごせて良かった」


「はい、陛下」


「慌ただしく出立することを許して欲しい」


「いいえ、陛下。お気になさらないで下さい」


「次に会うのはクルシェヒルだ。報せを待っていてくれ。……そうだ、落ち着いたら、姉上も招いて晩餐会でも開こう」


「はい。わたしもユリーシャ様にお会いしとうございます」


 最後に口付けを交わすと、イスファードは抱擁を解いて馬車に乗り込んだ。走り去る馬車を、ファティマは切なげな眼差しで見送る。これが二人の、今生の別れとなった。


「……陛下は、勝てるのでしょうか?」


 遠ざかる馬車を見送りながら、シャガードがポツリとそう呟く。イスファードには自信があるようだった。しかし客観的に見て、追い詰められているのは北アンタルヤ王国だ。シャガード自身は軍事に疎いが、それでも勝つことは至難の業であるように思える。


「……祈りましょう」


 胸のところで手を組みながら、ファティマはやはり呟くようにしてそう答えた。そして小さくなる馬車を一心に見つめながら、こう言葉を続ける。


「それしかもう、わたし達にできることはないわ」


「……はっ」


 シャガードは短くそう答えた。彼女のその言葉が、全てを物語っているように思えた。それでも彼はまだ、逃げ出すつもりはない。


(いざという時には……)


 いざという時には、彼はファティマのことをジノーファに直談判するつもりでいる。懇願を聞き入れてもらえるかは分からない。だが恐らく会うことくらいはできるはず。彼にはその自信があった。


 なにせ私貿易がジノーファの指示であったというのだから、そしてオズデミルのあの口ぶりからしても、彼はメフメトの手紙のことを知っている。ならばシャガードのことも、名前くらいは覚えているはずだ。


 そのことに気付いた時には、腰が抜けそうなくらい動転した。だがジノーファに伝手ができたとなれば、当初考えていたよりもはるかに大きな保険になる。言い方は悪いが、だからこそシャガードはまだここにいる。そしてここにいる以上は、敬愛する上司のために働こうと思うのだった。



 □ ■ □ ■



 イスファードがシュルナック城へ帰還すると、そこにはすでに北アンタルヤ王国の有力貴族たちが参集し始めていた。イスファードは事前に手紙で「南進の準備を進めるように」とカルカヴァンに指示を出していたのだが、彼がそれに沿って動いていたのだ。


 もっとも、だからといってシュルナック城の戦力が劇的に増えたわけではない。そもそも最初から、使える戦力はシュルナック城へかき集められている。それでこの時点でまだ、北アンタルヤ軍の戦力は二万三〇〇〇に届いていなかった。


「カルカヴァン。あれから何か新しい情報は入ったか?」


「そうですな……」


 イスファードに尋ねられ、カルカヴァンは収集した情報を彼に伝えた。それを聞く限り、ジノーファが着実に国内を固めている様子が窺える。期待していたよりも混乱が少ないように思えて、イスファードは舌打ちを漏らした。


 ただその一方で、やはりジノーファは国内を完全に掌握しきれていないようだった。彼は国内の貴族たちに人質を返してしまっている。そのおかげで大半の貴族たちは彼の前に頭を垂れたが、その反面、貴族たちに対する統制は弱まったと言わざるを得ない。


 その結果が、現在如実に表れているようにイスファードには思えた。どういうことかというと、旧南アンタルヤ王国の貴族はまだ誰一人として、兵を率いてジノーファの元に参集してはいないのだ。


 これは無論、彼らがジノーファに反抗している、という意味ではない。そもそも彼はまだ、「兵を率いて集まるように」という命令を出していない。まさか勝手に動くわけにもいかないだろうし、貴族たちが沈黙を保っているのはある意味で当然だ。


 しかしながらカルカヴァンによれば、貴族たちの側から派兵を申し出る動きも見られないという。イスファードにとっては大変不愉快なことながら、イスパルタ朝と北アンタルヤ王国の国力差は歴然だ。本来ならば勝ち戦と思い、我先にとジノーファの元へはせ参じているはずではないだろうか。


 しかしそうしないと言うことは、旧南アンタルヤ王国の貴族たちの目から見ても、ジノーファの支配体制は盤石とは言えないということだ。それどころか内心では、イスファードとジノーファを天秤にかけているのかも知れない。


 ジノーファはまだ、真の王として認められていない。イスファードはその確信を強めた。そうであるなら戦いようはある。イスパルタ朝の全てを敵に回す必要はないのだ。ただ一人、ジノーファを討ち取ればいい。


 イスファードは野戦ならば例え三倍の敵であろうとも打ち破る自信がある。北アンタルヤ王国を建国して以来、彼は常に南からくる略奪隊に悩まされていた。しかし同時に、それを防ぎ続けてもきたのだ。その経験値が、彼の自信を裏打ちしている。


 それで、ジノーファを野戦に引っ張り出せれば、イスファードには彼を討ち取る自信があった。逆に彼がクルシェヒルに立て籠もるというのなら、それはそれで構わない。ジャフェルにも言ったとおり、イスファードには攻略のための秘策がある。


 よってジノーファを相手にするだけなら、イスファードはむしろ望むところだ。しかしジノーファが戦場に出てこず、さらに略奪隊をはじめとする有象無象が蠢動して北アンタルヤ軍の消耗を強いるような展開になると、イスファードとしても苦虫をかみ潰さねばならぬ。補給能力の払底は、今や軍隊のみならず、北アンタルヤ王国そのものにとって大きな問題だった。


「短期決戦で勝負をつける。それしかない。だがあの道化がそれに乗ってくるとも限らない。カルカヴァン、何か良い方策はないか?」


「さすれば、クルシェヒル以北の貴族どもを調略いたしましょう」


 それを聞いてイスファードは眉をひそめた。クルシェヒル以北の貴族どもというと、要するに略奪隊の親玉どもだ。これまでに散々煮え湯を飲まされ、あるいは飲ませてきた相手であり、今更交渉や調略が成立するとは思えない。不審げな表情をするイスファードに、しかしカルカヴァンはこう語った。


「味方に引き込むことは無理でしょう。しかし我々がジノーファと一戦するまでの間、その動きを封じておくことは可能かと存じまする」


 彼らはイスファード率いる北アンタルヤ軍の強さをよく知っている。また略奪隊の一つ一つはせいぜい数千の単位であり、北アンタルヤ軍には及ばない。ならば彼らは、少なくとも単独で北アンタルヤ軍と戦うことはしたくないはずだ。


「『こちらからは仕掛けないので、そちらからも仕掛けるな』。そういう風に話を持って行きます」


「それで、成るのか?」


「成ります。少なくともジノーファとの決戦が終わるまで、彼らは日和見を決め込むでしょう」


 ただし、クルシェヒル以北の貴族たちもジノーファが負けるとは思っていない。むしろイスパルタ軍が勝利を収めることを期待している。そして敗走する北アンタルヤ軍に追い打ちをかけ、あわよくばそのまま北へ踏み込んで新たな領地を切り取ること。それが彼らの目論見である。


 ついで言えば、イスパルタ軍は辛勝であるほうが彼らにとっては都合がいい。勝ったは良いものの、すぐに動ける状態でなければ、彼らは思う存分北の領地を切り取れる。またジノーファとしても彼らの戦力をアテにせざるを得なくなるだろう。その分だけ彼らの発言力は強まる、というわけだ。


 カルカヴァンがそう語ると、イスファードは嫌そうな顔をした。自分が負けると思われているのが癪なのだ。王たる者、そのように見切られていては面目が立たない。畏れられてこそ王は王なのだ。


「陛下。陛下は勝つのでございましょう? ならば気にすることはございますまい」


「……そうか。そうだな。よし、カルカヴァン。やってくれ」


 一つ頷き不満をのみ込んでから、イスファードはカルカヴァンにそう命じた。ジノーファとイスファード。二人の対決の時は、刻一刻と近づいていた。



シャガード「報告について行ったが、特に何もせず空気になっていた」

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― 新着の感想 ―
[良い点] イスファード… なんかこの人最後はモブに謀反起こされて捕まりそう
[一言] 調略ねぇ。仕掛けるのはいいけど、自分たちの方が気を付けるべきじゃないかな。
[一言] イスファード君が無事に出陣出来て嬉しい。武田勝頼のように決戦出来ずに滅亡すると思った。
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