伏毒、王を嗤う
一人になった部屋の中で、イスファードはカルカヴァンからの書状を読み返していた。書状に書かれているのは、主にハムザがシュルナック城でカルカヴァンに説明した事柄である。
イスパルタ軍の戦いぶり、ガーレルラーン二世とジノーファの一騎打ち、エルズルム城とバイブルト城の陥落、ジノーファに玉璽が譲渡されたこと、そして前王ガーレルラーン二世崩御の報。
全てイスファードには初耳である。そもそも彼はイスパルタ王国と南アンタルヤ王国の戦争は始まったばかりだと思っていたのだ。それなのに戦争はもう終わっていたなど、寝耳に水である。
いや、戦争が終わっていただけという話ではない。そういう問題ではないのだ。戦争が終わっていたとして、ガーレルラーン二世と南アンタルヤ王国が健在なら、イスファードはこんな惨めな気持ちにはならなかった。
ガーレルラーン二世は他でもない、ジノーファに玉璽を譲渡した。彼が崩御した際に喪主を務めたのもジノーファだった。つまりガーレルラーン二世は後継者としてイスファードではなくジノーファを選び、彼に王国と王権を授けたのだ。
(なぜだ、なぜ……?)
ソファーに座ったまま、イスファードは頭を抱えた。ジノーファなど、どこで生まれたかも定かではない、下賤な馬の骨ではないか。そうとも知らずに哀れに踊る、間抜けな道化ではないか。
それに引き換え、イスファードはガーレルラーン二世の実の子供である。確かに彼はガーレルラーン二世に叛旗を翻した。ガーレルラーン二世は彼を廃嫡し、親子の縁を切った。あまりに当然の対応であるから、そのことにはイスファードも納得している。
だが二人は親子なのだ。今際の際ともなれば、これまでの確執を水に流し、手と手を取り合うのが親子の情というものではないのか。そして二つに分かれた国は一つに纏まり、最後に帝国の尖兵を打ち倒して全てあるべき姿に戻る。それこそが天下の正道ではないか。
イスファードはそう思う。いや、そう期待していたといった方が良いか。言い方を変えれば、彼は自分が父王にまだ愛されていると、心のどこかで期待していたのだ。しかしその期待はあえなく打ち砕かれた。
(やはり父上は、私を愛してなどいなかったのか……)
炎帝ダンダリオン一世に言われた言葉がよみがえる。思えばあの時からずっと、イスファードはその言葉を否定するために生きてきたような気がする。しかし結局否定することはできず、今日かかる事態を迎えた。
ガーレルラーン二世にとって自分は一体どういう存在だったのか。イスファードがそれを確かめることはもうできない。だがこれまでのことを考えれば、彼は息子のことを道具の一つくらいにしか思っていなかったのだろう。そう考えると、イスファードは途端に自分がひどく滑稽に思えてきた。
イスファードの脳裏に、冷然としたガーレルラーン二世の姿が浮かぶ。なぜ自分はあの男に愛などと言う人間らしい感情を期待したのか。ガーレルラーン二世は徹頭徹尾、王であり親ではなかった。彼は国家を動かす歯車の一つであり、だからこそ他の者も同じように扱ったのだ。そう、実の子供でさえも。
「ふふ、ふはは、父上、貴方は愚かだ」
イスファードは低く暗い声で笑った。王とは歯車を動かす側のはず。それが自ら進んで歯車の一つになろうとは。その上、最期の最後にその歯車は狂った。歯車を自認するなら最後までそれを貫けばよいものを、これが笑わずにいられようか。
ガーレルラーン二世は取り返しのつかないミスを犯した。それは後継者にジノーファを選んだことだ。イスファードでないのなら、せめてアンタルヤ王家の血を引く者を選ぶべきであったのに、彼はそうしなかった。
後継者となったのがルトフィーであれば、イスファードも歩み寄ることができる。ファリクであっても、筋は通っていると認めることができただろう。正しき血筋の下に、南北のアンタルヤ王国は力を合わせることができたかもしれないのだ。
だが選ばれたのは、王家と王国になんら受け分を持たないジノーファだった。これでは侵略者に国をくれてやったようなものではないか。しかも多くの貴族と代官たちがすでに彼を認めているという。許しがたいことであり、イスファードは憤然とする気持ちを抑えられなかった。
討たねばならない。イスファードはそう思った。降伏などもってのほかである。ジノーファも、ジノーファに与する者たちも、全て討ち滅ぼして天下に正義を示すのだ。それが自分の使命であるとイスファードは信じた。
「この国は、俺のモノだ。生まれた時から、そう決まっている……!」
イスファードは低く唸るようにしてそう呟いた。そして彼はそのまま、ジノーファとイスパルタ王国を打倒する策を考え始めた。
まず、気にくわないことではあるが、南アンタルヤ王国をのみ込んだことで、イスパルタ朝は北アンタルヤ王国に比べはるかに強大になった。版図はおよそ二.五倍。動員できる兵の数は、北アンタルヤ王国が疲弊していることを考えれば、五倍から六倍にもなるだろう。
だが、ジノーファはその広大な版図を治めるようになってからまだ日が浅い。貴族や代官らを挨拶に来させることと、彼らに戦力の供出を命じることとでは、意味合いがまるで違う。ジノーファがそれを命じたとして、中には渋る者たちもいるだろう。
となれば、実際に相手をするべき戦力は、三倍から多くても四倍程度だろう。イスファードはそう見積もった。だがそれでも十分に大軍だ。となれば兵法の基本に立ち返り、これを分散させる必要がある。
(オズデミルとダーマードを使おう)
イスファードはにやりと狡猾な笑みを浮かべつつ、胸中でそう呟いた。ジノーファからの書簡やカルカヴァンからの書状で気付いたことだが、この二人は戦争が始まってからもしばらくの間は私貿易を続けていた。しかも軍需物資まで流していたのだ。
そうである以上、二人がジノーファとイスパルタ王国に不満を抱いているのは確実だ。あるいは最初から乗っ取るつもりでジノーファに建国させたのかも知れない。いずれにしても、これを使わない手はない。
イスパルタ王国元来の主力は、現在クルシェヒルにいる。ということは、マルマリズは手薄だ。そしてマルマリズにはジノーファの妻子がいる。それでまずは、ダーマードとオズデミルにマルマリズを強襲させるのだ。
二人がマルマリズをすぐに落とせるかは分からない。だが本拠地が攻撃されたと知れば、ジノーファは慌ててそちらへ向かうに違いない。自ら動くかは分からないが、ある程度の兵は差し向けるはずだ。
そうなれば今度はクルシェヒルが手薄になる。そこをイスファード率いる北アンタルヤ軍が強襲するのだ。クルシェヒルの城壁がいかに堅牢であろうとも、彼はこれを素早く落とせる自信があった。
クルシェヒルにジノーファがいればそれでよし。そのまま討ち取るまでだ。いなかったとすれば、その場合はマルマリズへ向かっているはず。クルシェヒルより出陣すれば、イスパルタ軍の背後を襲えるだろう。上手くすれば、ダーマードらと挟み撃ちにできるかも知れない。
それができなかったとしても、クルシェヒルを失えばジノーファの求心力は弱まる。イスファードが一度号令をかければ、貴族や代官たちも彼の下へはせ参じるだろう。そうしてから改めて、ジノーファを討伐すればいい。
やれる、とイスファードは思った。問題はどうやってダーマードとオズデミルを動かすのか、だ。私貿易においても、二人は主導権を握られることを嫌った。彼らを意のままに動かすには、よほど報酬を奮発する必要がある。
(……よし、イスパルタ王国をくれてやろう)
若干躊躇いつつも、イスファードはそう思った。一国二六州もくれてやれば十分だろう。その分、イスファードの治める版図は小さくなるが、仕方がない。それでも新領土を含めれば、分裂前のアンタルヤ王国に匹敵する。面目は立つだろう。
何より、イスパルタ王国を二人にくれてやれば、ロストク帝国と国境を接しなくて済む。逆に二人は炎帝と戦わなければならなくなり、勝つためにはどうしてもイスファードの助力が必要になる。ならばそれを利用して、実質的な属国にしてしまうことも可能だろう。それを考えると、一国くれてやるのはむしろ妙案のように思えた。
さて、当然のことながら、ここまでイスファードは自分に都合のいいことを考えている。本当に実現可能なのかはこの際おいておくとして、主観的な視点で物事を眺め、そして考えているわけだ。
だがこのとき彼が考えた策は、かつてメフメトが考えた策と良く似ている。もちろん二人は立場が違うし、策を考えたときの情勢も異なる。だがマルマリズへの強襲が肝となっていることや、そのままイスパルタ王国を乗っ取ってしまうなどという部分はそっくりだ。
歴史に「もしも」はない。だがもしもこの時まだメフメトが生きていて、イスファードの策について知ったら、歴史はどう変わっていただろうか。それを想像して楽しむくらいのことは許されるだろう。
閑話休題。ある程度考えがまとまったところで、イスファードはジャフェルらを呼んだ。そして彼らにジノーファの書簡とカルカヴァンの書状を見せる。急転直下の情勢変化に顔面蒼白となる彼らに、イスファードは語気を強めてこう言った。
「ジノーファを討つ! それ以外に我々が生き残る道はない!」
実のところ、それ以外にも彼らが生き残る道はある。ジノーファに降伏すればよいのだ。しかしイスファードがその選択を良しとすることは断じてあり得ない。そのことはジャフェルもファティマも、他の全員が分かっていた。そして降伏しないのであれば、彼の言うとおりジノーファを討つより他にない。
「御意に従いまする」
そう言って、ジャフェルが片膝をついて頭を垂れる。他の者たちがそれに続き、ファティマもそれに倣った。それを見てイスファードは満足げに頷いた。
反対意見が出なかったことで、そのまま作戦会議へ移る運びとなった。その冒頭で、イスファードはまず自分の考えた策を披露する。無論、ついさっき考えたばかりの策であるから、抜けや穴も多い。だが現実問題として敵の数は味方よりも多いのだ。偏った天秤を多少なりとも正すため、ダーマードとオズデミルを使うというのは悪くない手であるように思えた。
基本的な方針がまとまったところで、イスファードはカルカヴァンに宛てて手紙を書く。南進の準備をさせるためだ。その手紙を使者に預けてシュルナック城へ走らせた後、彼はさらに数日かけてジャフェルらと作戦について話し合った。
しかし結論から言えば、その話し合いは無駄になった。シャガードが戻ってきたのである。彼は私貿易を再開させるべく、オズデミルのところへ赴いていた。だが戻ってきた彼の顔色は芳しくない。彼は交渉の結果を、まずは直接の上司であるファティマにこう報告した。
「申し訳ありません。私貿易を再起させることはできませんでした」
「……それは、交渉に失敗したということ?」
表情を険しくして、ファティマはそう尋ねた。下手を打って相手を怒らせてしまったのだろうか。だとしたらこの先、厄介なことになる。だがダーマードとオズデミルには動いてもらわなければ困るのだ。
どういう交渉をして、なぜ失敗したのか。それをはっきりさせる必要がある。それによって今後どれだけ譲歩するかも決まってくるだろう。ファティマは短時間の間にめまぐるしく頭を回転させていた。だがシャガードの次の一言で、その全ては吹き飛ぶことになる。
「失敗というか、そもそも交渉は成立しませんでした。ダーマード卿やオズデミル卿にとって、私貿易の停止と窓口の封鎖は確定事項であり、交渉の余地はないのです。ですから今後どれだけ交渉を重ねたとしても、お二人が考えを変えることはないでしょう。いえ、それ以前に交渉にすら応じてもらえないかと」
「……それは、なぜ?」
話の雲行きが怪しくなってきたのを察し、ファティマが表情を曇らせる。そんな彼女に、シャガードはついに決定的な真実を告げた。
「私貿易そのものが、イスパルタ王の命令によって行われていたからです。今回のことも、イスパルタ王の命令だとか。『自分たちに再開する権限はない』とオズデミル卿は仰っていました」
「ちょっと待って! シャガード、貴方、何を言っているの……!?」
ファティマは目を大きく見開いてわなないた。シャガードの言っていることが理解できない。私貿易そのものがイスパルタ王の、つまりジノーファの命令によって行われていた? それは一体何の冗談だ。
「そもそも、ジノーファは何のために……」
混乱するファティマに、シャガードはオズデミルから聞かされたジノーファの意図を説明する。確かに合理的な理由だ。しかしやはり、感情の部分で受け入れがたい。
「証拠は、証拠はないの……?」
「物証は何も。オズデミル卿がそう仰っていたことを、そのままお伝えしているだけです。ですが裏を取るために、まさかイスパルタ王に問い合わせるわけにもいきますまい」
シャガードにそう言われ、ファティマはとうとう黙り込んだ。確かに彼の言うとおりである。そんなことをすれば、二重の醜態を曝すことになる。北アンタルヤ王国の面子は地に落ちるだろう。
それにいま重要なのは、オズデミルがジノーファの名前を出して「交渉の余地なし」と回答してきたことだ。彼らは今後、本当に一切の交渉に応じないだろう。つまり私貿易の再開は絶望的だ。
「……実は、オズデミル卿から交易を再開する方策が一つだけあると言われました」
「……それは、なに?」
「北アンタルヤ王国がイスパルタ王国に降伏すればよい、と。同じ国の一部になれば、誰に憚ることもなく、自由に交易が行える、と」
「で、しょうね」
力なく笑い、ファティマはため息を吐いた。そんな彼女に、シャガードはこう訴える。
「殿下。事ここに至れば、真面目に降伏を考えるべきではないでしょうか?」
彼の主張は、ファティマも理解できる。北アンタルヤ王国は孤立しており、味方はどこにもいない。その上、塩の供給を止められた。戦って活路を開くことも難しい。ならば決定的な破滅を迎える前に降伏するというのは、賢い選択だろう。だが彼女はこう応えた。
「無駄よ」
「なぜですか!? ジノーファ陛下はガーレルラーンとは違います。いま降伏すれば……」
「違うの。そういうことじゃないのよ、シャガード」
そう言ってから、ファティマはジノーファからの書簡のことをシャガードに説明する。彼女の話を聞いて、今度はシャガードが絶句した。そんな彼に、ファティマはさらにこう告げる。
「戦うより他に道はない。それが陛下のお考えよ」
「……それでも、降伏するべきであると考えます。殿下が説得されれば、陛下も……!」
シャガードはそう詰め寄ったが、ファティマはただ悲しげに首を振った。ファティマが説得しても、イスファードは聞き入れない。今回のことで南進戦略の根幹が崩れ落ちたが、それでも彼は戦うことを選ぶだろう。ファティマにはその確信があった。
「ご苦労様でした。下がって休みなさい。陛下には私のほうから報告しておきます」
「……いえ、私もご一緒します。その方が良いでしょうから」
「そう。では行きましょうか」
そう言ってファティマは立ち上がった。そしてシャガードの傍を通り過ぎるとき、小声で「ありがとう」と彼に告げる。彼はただ、深々と一礼した。
ダンダリオン「引きずりすぎだな」
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というわけで。
今回はここまでです。
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