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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国
208/364

降伏勧告


 大統暦六四四年五月の初め頃、北アンタルヤ王国の要害シュルナック城を、ジノーファの使者が訪れた。使者として遣わされたのは、ガーレルラーン二世の時代から仕えていた書記官のハムザ。彼はイスファードに宛てたジノーファからの書簡を携えていた。


 生憎、イスファードは不在であったため、彼の名代としてカルカヴァンがその書簡を受け取る。書簡の内容を読み進めていくと、カルカヴァンはたちまち顔色を失った。事実上の降伏勧告であったからだ。


「ハ、ハムザ卿。ここに書かれていることは真なのか?」


「全て、うそ偽りなく、真実でございます」


 はっきりとそう断言され、カルカヴァンはもう一度書面に目を落とした。そこに書かれていることは、にわかに信じがたい。ガーレルラーン二世がすでに崩御しており、南アンタルヤ王国の王権はジノーファの手中にあるなど、一体どうして信じられようか。だが署名されているのは確かにジノーファの名前だし、何より玉璽が押印されている。否定できる材料はどこにもなかった。


「一体、一体何があったのだ? 南アンタルヤ王国とイスパルタ王国は、戦争の真っ最中ではなかったのか……?」


 あえぐようにしながら、カルカヴァンはそう尋ねた。ハムザは彼に戦争の推移を語って聞かせる。その話を聞いているうちに、徐々に彼の顔色は回復していく。ただしそれはハムザの話を信じたからではなく、時間と共に冷静さを取り戻したからだ。


「公爵閣下。事ここに至れば、北アンタルヤ王国に残された道は降伏か滅亡かのいずれかにございます。なにとぞ、より良い道を選ばれますように……」


「……卿の話は分かった。だが私の独断で降伏することはできない。陛下の判断を仰ぐことになる」


「では私が直接参りましょう。イスファード陛下は今、どこにおられるのですか?」


「いや、卿が行くには及ばない。この書簡は私が陛下にお渡しする。如何するか決まり次第こちらから使者を出すので、卿は一度クルシェヒルへ戻られるが良かろう」


「いいえ、そういうわけには……」


「戻られよ。それが卿のためだ」


 カルカヴァンは言い聞かせるようにそう告げた。それを聞いて、ハムザもハッとする。イスファードが降伏勧告に応じる可能性は極めて低い、とイスパルタ朝の首脳部は見ている。そして彼が降伏を拒絶した場合、ハムザの命も危ないだろう。


 ハムザ自身、命の危険があることを承知した上で、使者の役に手を上げた。ジノーファは引き留めようとしたが、クワルドら周囲の人間がそれを止めた。使者を送らないわけにはいかないし、送るのであれば相応の人選をしなければならない。何より、使者を斬らせればそれを開戦の理由とすることができる。


 無論、ハムザが使者に立候補したのは、ジノーファへの忠誠心だけが理由ではない。彼はガーレルラーン二世に長く仕えていたため、イスパルタ朝では少々肩身の狭い思いをしている。だがジノーファはあのような性格であるから、自分がこうして死ねば残された家族に配慮を示してくれるだろう。家族のため、一族のためだった。


 自分はもうこれ以上の栄達を望めそうにはない。ならば最後に自分の命を家族のため、一族のために使おう。ハムザはそう考えてシュルナック城に赴いてきた。だがその一方で、彼とて死にたいわけではない。何よりカルカヴァンがこう言う以上、彼はハムザをイスファードに会わせはしないだろう。


 そうであるなら、イスファードから直接返答をもらえずとも、それを咎められることはないはずだ。ハムザはそう思った。そしてそう思った瞬間から、捨てたはずの命が惜しくなった。それでも顔だけは取り澄まし、彼はこう応えた。


「公爵閣下がそのように言われるのであれば、致し方ありませぬ。ジノーファ陛下には、正直に事の次第をご報告いたしましょう」


「うむ。私からも書状を書かせていただく。ジノーファ陛下にお渡し願いたい」


「畏まりました」


 そう言ってハムザは恭しく頭を下げた。カルカヴァンの思惑は、ハムザにも分かっている。彼がやっているのは時間稼ぎだ。イスファードがシュルナック城にいないのは恐らく偶然だが、仮にいたとしても彼は同じような対応を取ったのだろう。


 降伏を要求されれば、イスファードは必ずや激昂する。使者のハムザは殺されるに違いない。そして彼の首が送り返されてきたのを契機として、いよいよ北伐を開始する。それがイスパルタ朝首脳部の大まかな方針だった。


 だが実際には、イスファードがシュルナック城にいなかったことで、カルカヴァンは明確な回答を避けた。それどころかイスファードの意思を確かめた上で、返答の使者は自分たちの方から出すという。逆を言えば、使者を出すまでの間、彼らは十分に時間を稼ぐことができる。いや、そもそも来るのは使者ではなく軍勢かもしれない。


 それを承知の上でハムザが引き下がったのは、自分の命が惜しかったからだけではない。彼はジノーファが私貿易を停止させたことを知っている。それにより北アンタルヤ王国は塩の供給を止められた。彼らに残された時間的猶予はそれほど多くない。そのことを承知していたので、彼は黙って引き下がったのだ。


 食事の歓待を受けた後、ハムザはカルカヴァンからの書状を受け取り、シュルナック城を後にした。数時間前、この城を見たとき、彼は生きてそこから出てこられるとは思っていなかった。だから今自分が生きていることが、彼はなんだか不可思議に思えた。


(さて、これからどうなることやら……)


 馬に揺られながら、ハムザはそんなことを考える。恐らくは戦争になるだろう。だがその戦争がどんなふうに推移していくのか、彼にはまったく見通しが立たない。唯一分かっていることと言えば……。


(預かった書状には、大したことは書かれておらんのだろうな)


 そのくらいなものだった。



 □ ■ □ ■



 北アンタルヤ王国の北方戦線、つまり魔の森に対する防衛線の指揮を任されているのは、ジャフェルという男だ。彼はファティマの従兄弟であり、カルカヴァンには彼女以外に子供がいなかったので、将来的にはエルビスタン公爵家を継ぐことになっている。イスファードにとっては最も頼りになる股肱の臣、と言っていい。


 そのジャフェルがイスファードに呼び出されて公爵邸へやって来たのは、シャガードがバラミール子爵領へ向かってから一〇日後のことだった。ジャフェルとイスファードは幼馴染みでもあり、二人は久方ぶりの再会を喜ぶ。それから二人は早速、南北の戦線の状況をすりあわせた。


「では、南方戦線は小康状態なのですね」


「ああ。略奪隊の襲撃はピタリと止んだ。尤も、戦力は保持されている。いつ動いてもおかしくはない」


 イスファードは少々不機嫌そうにそう説明した。北アンタルヤ王国が独立してからこれまで、彼はずっと南アンタルヤ王国の略奪隊に悩まされてきた。何とか国土は守ってきたものの、被った被害は甚大である。


 略奪隊の動きが止んでいる今は、これまでの鬱憤をはらす絶好の機会だ。しかし諸々の事情があり、北アンタルヤ軍は動くことができない。イスファードが不機嫌な理由は、ようするにそれだった。ただその代わり、情報収集に力を割くことができるようになり、以前と比べてずいぶん情報が入って来るようになったことには、彼も満足している。


「……それで、防衛線のほうはどうだ?」


「現在のところは、比較的安定しています」


 言葉とは裏腹に、ジャフェルは少々渋い顔をしながらそう答えた。イスパルタ側の表層域で行われていた誘引作戦のおかげもあり、現在のところ防衛線は安定を見せている。装備も行き渡っており、兵士の損耗率は低く抑えられている。


 だが結局のところそれは、一時的にモンスターの数が減ったと言うだけで、魔の森が沈静化したという意味ではない。装備品にしても私貿易で手に入れたロストク軍の廃棄品を、さらに修理して使い回さなければならない状況であり、いつまた不足し始めてもおかしくはない。


 そのような現状であるのに、私貿易は停止し、さらにイスパルタ側の誘引作戦も終了してしまった。このままでは遠からず、防衛線は以前の厳しい状態に戻るだろう。ジャフェルもイスファードも、口には出さないがその認識は共有していた。


 そしてその認識は二人だけのものではなかった。ジャフェルは防衛線の状況を説明させるために数人の参謀を連れてきていたが、その全員が認識を同じくしていた。つまりそれぞれの担当の部署は、現在は比較的安定しているが、先は全く見通せないということだ。


 さらにその場にはファティマもいた。彼女はつい最近まで、国内の物流に関して大きな責任を果たしていた。これまでどれほどの物資が防衛線につぎ込まれたのかも把握しており、それがいつ底をつくのかもおおよそ予測できる。


 やはり長くは持たない、というのがファティマの予測だ。そしてこの予測は、前倒しされることはあっても、先延ばしされることはない。魔の森の沈静化の目途は全く立っていないからだ。


 幸いにして、南方戦線は安定している。武器や兵士を優先して防衛線に送ることは可能だ。しかしながらそれをすれば、イスファードが望む南進はますます遠のくことになる。だが現実問題として、魔の森の脅威が逼迫しているのは事実だ。


「ジャフェル。なんとか、防衛線の戦力で誘引作戦を行えないか?」


「誘引作戦、ですか?」


 イスファードの提案を聞き、ジャフェルは考え込む。防衛線を維持する上で最も厄介なことの一つは、いつどこにどれだけのモンスターが現われるのか、全く分からないということだ。しかし意図的な誘引を行えば、限定的とは言え、いつどこにモンスターが現われるのかは制御できる。


 そしてそのようにして大量のモンスターを間引けば、一時的とは言え防衛線が小康を得るのはすでに実証されている。その後ならば、防衛線から多少の戦力を動かすことができるだろう。


 ただし誘引作戦を行うには、事前の入念な準備と一定以上の戦力を動員することが不可欠だ。特に戦力が足りなければ、誘引したモンスターを撃滅できず、逆に防衛線を決壊させることになりかねない。


 だがその一方で、必要な戦力を抽出したために防衛線の他の場所が決壊するようなこともまた、避けなければならない。それで、どこからどのくらいの戦力を調達するのか、それが重要だった。


「いずれにしても、このままというわけにはいきません。可能かどうか、検討してみましょう」


 ジャフェルが前向きな姿勢を見せたことで、報告会はそのまま誘引作戦の検討会議に変わった。様々なパターンを考えつつ、どうすれば十分な戦力を確保できるのかを検討する。検討は数日に及んだ。しかしその結果出された結論は期待通りのものではなかった。


「陛下。やはり防衛線の戦力だけで誘引作戦を行うのは少々無理があるかと……。シュルナック城から兵を回してもらうことはできませんか?」


「シュルナック城から、か……」


 ジャフェルがそう提案すると、イスファードは少し嫌そうな顔をした。シュルナック城の戦力は、いわば彼の子飼い。その戦力が誘引作戦で消耗することを、彼は嫌ったのだ。しかしこのままでは誘引作戦が行えないのも事実。そして防衛線の小康状態を保つ目途が立たなければ、南進はおぼつかない。


「……そろそろシャガードが戻ってくるはずだ。奴が戻ってくるのを待って、結論を下すとしよう」


 イスファードはそう答えて結論を先送りした。私貿易の再開と同時に誘引作戦も再開される、というのは十分にあり得るはずだ。そうなればわざわざ北アンタルヤ側で誘引作戦を行う必要はない。それどころか今回の検討で算出された、引き抜けるだけの戦力を引き抜いて、すぐさま南進を開始することができるだろう。


 しかし事態はイスファードの望む方向へは進まなかった。まずシャガードが帰ってくる前に、シュルナック城のカルカヴァンから使者が来た。その使者が携えていたのは、言うまでもなくジノーファの書簡である。事実上の降伏勧告であるその書簡を読み、イスファードは怒りと屈辱に打ち震えた。


「ふざ、けるなッ!!」


 イスファードは反射的に拳を握った。それを見たファティマが「陛下っ!」と悲鳴を上げる。その悲鳴が、彼にわずかな正気を保たせた。彼は目の前の使者が自分の臣下であることを思い出す。硬く握った拳は、部屋の壁に向けられた。


 ドゴンッ、と鈍い音が部屋に響く。一度殴っただけでは気が収まらなかったらしく、イスファードはさらに二度三度とさらに壁を殴りつけた。壁と拳の両方が傷ついていくが、彼の目は血走ったままだ。


 ファティマが後ろから彼を止めようとしたが、逆にジャフェルに手を掴まれて彼から遠ざけられる。ファティマは従兄弟に非難の目を向けるが、これはジャフェルの方が正しいと言っていいだろう。イスファードの拳が彼女に当たれば、最悪死んでしまうかも知れないのだから。


「はあ、はあ、はあ……」


 しばらく壁を殴り続けた後、イスファードは破壊と自傷の行為を止めて肩で息をする。彼がふと視線を落とすと、そこには背の低い棚が置いてある。彼の記憶が確かなら、その棚の上には幾つかの調度品が置かれていたはずだ。


 だが今、棚の上には何も置かれていない。「なぜ?」という疑問がイスファードの頭をよぎる。答えはすぐに出た。私貿易の支払いのために使ってしまったのだ。そのことがまた、彼の感情を逆なでする。彼は「クソッ」と悪態をつくと、もう一度壁を殴りつけた。


「陛下っ!」


 イスファードが動きを止めると、ファティマが彼に駆け寄ってその腕を取った。彼の手は何度も壁を殴りつけたせいで、痛々しく皮がずり剥けている。ファティマはハンカチを取り出して彼の手に巻いた。


「ポーションを取って参ります」


 さらにそう言って、ファティマは部屋を飛び出した。彼女の背中を見送ると、イスファードは気怠げな動きでソファーに身体を預ける。思い出したかのように手が痛み始めたが、彼はそれを庇う気にもなれなかった。


「陛下。その、実は……」


 片膝をついたまま嵐が過ぎ去るのを待っていた使者が、躊躇いがちにイスファードに声をかける。だが彼は片手を上げて使者を黙らせた。ジャフェルも小さく首を横に振るのを見て、使者は結局口をつぐんだ。


 少しすると、ファティマがポーションの瓶を手に部屋に戻ってくる。彼女がイスファードの手にポーションを垂らすと、彼の傷はたちまち癒えた。元通りになった手を眺めてから、イスファードは深々とため息をはく。それから彼は待機していた使者にこう尋ねる。


「それで、まだ何かあるのか?」


「は、ははっ。宰相閣下より書状をお預かりしていますっ」


「寄越せ」


 使者が差し出した書状を、イスファードは乱暴に受け取る。その書状を読み終えると、顔を歪めて奥歯をかみしめた。再びムカムカと怒りが沸き起こってくるが、ファティマの心配そうな顔が目に入り、彼はもう一度ため息を吐いた。


「……しばらく、一人にしてくれ」


 イスファードがそう呟くと、室内にいた者たちはぞろぞろと退室した。ファティマもジャフェルに促されて部屋の外に出る。パタリと扉が閉じられ、部屋にはイスファード一人が残った。


ファティマ「陛下っ! 修理費がっ!?」

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 読み返すたびに疑問なのですが、 イスファードは壁を殴る直前、部屋のどこに居たのでしょうか イメージする限り手が届く範囲に壁があるとは思えず 殴るためにトコトコと壁際まで歩いた……? 画…
[一言] 元々その建物にどれだけ価値があるかは不明ですが、 激高した王が二回も殴った壁となると歴史に名を遺しますよ。
[一言] 壁「お……俺にもポーション……」
2020/06/28 19:30 とあるfgoプレイヤー
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