譲歩
ダーマードに手紙で諸々の指示を出した、その少し後。北アンタルヤ王国へ降伏勧告の使者を出す直前に、ジノーファはお忍びでヘリアナ侯爵家を尋ねた。お忍びとは言え、事前に予定の調整はされており、要するに非公式の会談だった。ただしその相手はオルハンではなくユリーシャだ。
激動する昨今の情勢の中、彼女には気がかりなことが多々あった。だがヘリアナ侯爵家は政に関わらない家であるし、またそもそも彼女にはどうしようもないこともある。しかしながら先延ばしにしたり、他人任せにしたりするわけにはいかない問題もあり、こうして“私的なお茶会”を開くことになったのだ。
「……それで姉上。何か気がかりなことがあるとか? ヘリアナ侯爵家の事でしたら、これまでどおり国立図書館の館長をお願いしようと考えていますが……」
しばらく他愛もない雑談に興じた後、ジノーファはティーカップをソーサーに戻してから、穏やかな声でそう尋ねた。ユリーシャもティーカップを戻してから、少々硬い表情で一つ頷く。そして意を決して、彼女は口を開いた。
「侯爵家のことは、どうぞご随意になさって下さい。陛下にお願いしたいのは、ファリクのことです」
ファリクはガーレルラーン二世の庶子である。母親はすでに他界しており、父親もつい先日崩御したため、彼は二親を失っていた。もっとも、それ以前からファリクはヘリアナ侯爵家で養育されていたので、彼の周辺で何か大きな変化があったわけではない。
ただ、彼の立場は非常に不安定だ。イスファードが謀反を起こしたことで、ファリクはアンタルヤ旧王家に残された最後の王子となった。仮にこの先、イスパルタ朝に叛旗を翻す者が現われたとして、ファリクは絶好の旗頭になり得る。そしてそれを考えている者は、すでにこの国のどこかにいるだろう。
ガーレルラーン二世の血を引く男児といえば、もう一人ユリーシャの息子のルトフィーもいる。だがジノーファとユリーシャの関係が極めて良好であることはすでに周知の事実。ファリクがいるのに、あえてルトフィーを担ぎ上げる者はいないだろう。
そう考えると、ジノーファがクルシェヒルに入城して以来、ファリクの周囲が騒がしくならなかったのは、彼がヘリアナ侯爵家で養育されていたからだと言える。そうであればこのまま侯爵家にいるのが、彼にとっては最も安全なのだろう。
だがヘリアナ侯爵家の跡取りはルトフィーだ。この先もずっと侯爵家にいるわけにはいかない。いずれは侯爵家を出なければならず、その時ファリクを待っているのは、前述した通りアンタルヤ旧王家に残された最後の王子という現実だ。
新たな支配者が以前の支配者の血筋を根絶やしにしてしまうのは、歴史的に見て珍しいことではない。その血筋を利用して、自分に叛旗を翻す者が現われるのを防ぐためだ。
ただジノーファがそのような真似をするとは、ユリーシャも思っていない。だがファリクを利用する者が現われれば、ジノーファも穏当に済ませることはできなくなってしまう。ユリーシャが危惧しているのは、要するにそういう事だった。
「ファリクのこと、何か考えてはいただけませんか?」
「ガーレルラーン陛下は、何か言っておられたのですか?」
「いいえ、何も」
少しだけ悲しげに目を伏せて、ユリーシャはそう答えた。彼女は宣言通り、病床のガーレルラーン二世にファリクをお目通りさせていた。その時もガーレルラーン二世は多くを語らず、ただ侍従長に命じて用意していた品物を二人に渡しただけだった。
『余の私物である。もはや無用のものなれば、好きに処分せよ』
彼が口にしたのはただその一言だけだった。ユリーシャとしては不満の残るお目通りだったのだが、後でオルハンに「陛下も気恥ずかしかったんじゃないかな」と言われ、妙に納得してしまった。ファリクも十分満足している様子で、下賜された父の私物を頻繁に取り出しては丁寧に手入れを行っている。
ただ、このお目通りでは、ファリクの将来に関する話は何もなかった。尤もガーレルラーン二世としても、玉璽をジノーファに譲った後であるし、何も言えなかったのだろう。となればやはり、ジノーファが諸々決めなければなるまい。彼は「ふむ」と呟き、顎先に手を当てて考え込んだ。
「……ファリクには、やはり旧王家を相続してもらいましょう。侯爵位を用意しておきます。領地は難しいと思いますが、いずれはヘリアナ侯爵家のような形で、家を存続させていけばよいでしょう」
要するにジノーファはファリクを、そして旧王家の血筋を丁重に扱う、と応えた。領地は無理だが名誉を与え、由緒ある名家として尊重する。そうすることで、自らの支配権の正当性を主張するのだ。
またファリクがアンタルヤ旧王家の当主となれば、その瞬間にイスファードはこの家に何の権利も持たなくなる。もともとガーレルラーン二世によって親子の縁を切られてはいるが、ジノーファはファリクを旧王家の当主とすることで、イスファードをそこからさらに遠ざけることにしたのだ。
「ありがとうございます。陛下のご配慮に感謝いたします」
「いえ。姉上の弟であれば、わたしにとっても弟も同じ。当然のことです」
ほっとした様子で頭を下げるユリーシャに、ジノーファは穏やかに微笑みながらそう応えた。ちなみに後日ファリクがジノーファに謁見した際、彼は同じ言葉をこの“弟”にかけた。その瞬間、イスパルタ朝におけるファリクの立場は確たるものになった、と言っていい。
さて、楽しい時間が過ぎるのは早い。ユスフが予定の時間になったことを告げると、ジノーファは名残惜しそうにしながら立ち上がった。ユリーシャも立ち上がって彼を見送る。外に出て馬車に乗り込もうとしたところで、ジノーファはふと思い出したように振り返り、彼女にこう言った。
「そうそう。北アンタルヤ王国には降伏勧告の使者を出すつもりです。どうなるかはわかりませんが、受け入れてもらえれば、これ以上誰も死なずにすみます」
「……そうなることを、願っております」
何とかそれだけを口にして、ユリーシャは深々と一礼した。彼女にはもう一人弟がいる。結果は変わらないことが明白であっても、ジノーファはその弟にも配慮を示したのだ。
ジノーファは一つ頷いてから馬車に乗り込む。その馬車の姿が見えなくなるまで、ユリーシャは頭を下げ続けた。
□ ■ □ ■
時間は少し遡る。ジノーファが遠征を始める少し前のことだ。体調を崩していたシャガードが私貿易の現場に復帰すると、そこにメフメトの姿はなかった。話を聞くと、ダーマードから急な呼び出しがあり、ネヴィーシェル辺境伯領へ戻ったという。
その後しばらくして、「メフメトが急病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった」という話が伝えられる。当然ながら、シャガードはその話を信じなかった。あの手紙のことを知ったダーマードが、息子を秘密裏に処断したのだ。
悲しいとは思わない。そもそも二人の間に固い友情があったわけではないのだ。結果的に旧友を売る形になってしまったことには、シャガードも多少は思うところがないわけではない。だが初めから二人で共謀していたわけではなく、言ってみれば彼は一方的に巻き込まれた側だ。咄嗟に自己保身に走ったとして、責められる謂われはないだろう。
さて、メフメトの代わりに送り込まれてきたのは、ネヴィーシェル辺境伯家に仕える文官だった。メフメトの後任であるし、またシャガードを相手にすることが分かっているのだから、ある程度の事情は聞かされているはず。そう思い、シャガードは彼に思い切って値引きを打診した。
「もう少し安くならないか? 具体的にはこのくらいで……」
「安すぎます。そもそもこの値段も、以前とほぼ変わらない水準のはずです」
「それはそうなのだが。メフメト卿とも話していたのだが、付き合いも長くなってきたし、今後もいろいろあるだろうと言うことで、な。多少の割引を利かせてくれるという話だったのだが、聞いておられないか?」
シャガードが思わせぶりにそう話すと、文官は眉間にシワを寄せて険しい顔をした。もちろん、メフメトと割引云々の話をしたというのは全てウソだ。だが彼の名前を出したことで、あの手紙のことを匂わせることができた。
文官が険しい顔つきのままシャガードを睨む。彼は何も知らないと言わんばかりに、作り物の笑顔を浮かべて見せた。出来の悪い笑みだったが、文官の男は視線をそらして深々とため息を吐く。そしてこう言った。
「世子様は急なご逝去でしたので、十分な引き継ぎをすることができませんでした。いずれにしても、口約束ですので……」
「それは困った。ファティマ殿下にも、今回こそは、良いご報告ができると思っていたのだが……」
「……分かりました。このくらいでどうでしょう?」
そう言って文官の男が示したのは、最初にシャガードが提示したのより幾分大きな数字だった。だが私貿易でイスパルタ側から譲歩を引き出したのはこれが初めて。それだけでも北アンタルヤ側にとって大きな進歩と言える。
とはいえシャガードもここですぐに飛びつくような真似はしない。せっかく相手が一歩退いたのだから、ここはさらに踏み込む場面だ。それで彼が思わせぶりに考え込む素振りを見せると、文官の男は少々苛立ったような口調でこう釘を刺した。
「言っておきますが、私の権限ではこれが限界です。これ以上を求めるなら、今回の取引はなかったことにさせていただく」
「了解した。ご厚意に感謝する。……それから、次からはこのくらいでお願いしたい」
慇懃に礼を述べてから、シャガードはさらに図々しい数字を示した。それを見て文官の男は流石に不快感を示す。だがシャガードは譲らない。彼はまた出来の悪い笑みを浮かべると、さらにこう言った。
「是非、ダーマード閣下にお口添え願いたい」
「……お話だけはしておきましょう。ですがあまり期待されないように」
シャガードは作り物ではない笑みを浮かべて一つ頷いた。ちなみにこの次の取引でイスパルタ側が提示した価格は、シャガードが求めた水準ではないにしろ、今回以上に割り引かれていた。適正価格からみれば少々割高だが、足下をみてぼったくるというレベルではない。これでかなりの程度、金貨の節約になる。
さて、この日の取引の結果を報告すると、ファティマはたいそう驚き、そして喜んだ。割り引いてもらえるとは思っていなかったからだ。彼女は取引の明細を見て何度も頷く。こんなに嬉しそうな様子のファティマを見るのは、シャガードも久しぶりだった。
「良くやってくれたわ、シャガード。お手柄ね」
「ありがとうございます、ファティマ殿下」
「メフメト卿のことは残念だったけど、彼にも感謝しなければいけないわね」
ファティマは少々しんみりとした口調でそう話す。彼女にはあの文官の男に告げたように、値引きの話はメフメトとの間で決まったこと、とシャガードは説明していた。まさかあの手紙のことを表に出すわけにはいかないからだ。
「どうして今まで何も教えてくれなかったの?」
「殿下を驚かせたかったからというのもありますが。まあ、口約束ですし、実際に値引きが実現するのかも、定かではありませんでしたから」
シャガードが冗談を交えてそう答えると、ファティマはクスクスと笑いながら納得の表情を浮かべた。そしてひとしきり笑ってから、彼女は表情を引き締める。そしてシャガードにこう尋ねた。
「それで、シャガード。イスパルタ軍の遠征に関して、何か新しいことは分かった?」
「いえ、今回は何も。やはりメフメトの死が大きかったようで、話題はそればかりでした」
シャガードがそう答えると、ファティマは「そう」と呟いて一つ頷いた。イスパルタ王国と南アンタルヤ王国が結んだ相互不可侵条約の失効はもう目前に迫っている。遠征の情報が確かなら、そろそろ動いていてもおかしくはない。
(実際に遠征が始まれば、噂くらいは聞こえてくると思うのだけど……)
胸中でそう呟きながら、ファティマは取引の明細をもう一度確かめる。そこには武器や防具、医薬品などの項目も載せられている。数量も以前とほぼ同じだ。仮に遠征が始まっているか、始まる直前だとすれば、これらの物資は国内への供給が優先されるはず。ということは、近々に遠征が始まるわけではないのかも知れない。
「イスファード陛下には、まだ遠征の事はお伝えになっていないのですか?」
「ええ。確たる情報がまだないもの。それに、この時期になってまだ軍需物資をこちらへ回してくれるということは、遠征それ自体が虚報なのかもしれないわね」
ファティマがそう呟くのを聞き、シャガードは内心で冷や汗を流した。彼はメフメトが虚報を伝えてきたとは思っていない。根拠はあの手紙だ。メフメトは遠征に乗じて謀反を画策していた。そうであるなら、やはり遠征は行われるはずだ。
だがその一方で、私貿易を通じて入ってくる情報をいくら分析しても、遠征の確たる証拠は掴めない。ファティマが虚報を疑うのも当然だ。そして虚報であるという前提に立つと、メフメトの行動に一貫性がないように思えて来てしまう。
「一方で虚報を流し、一方で割引に応じる。シャガード、メフメト卿の真意はどこにあったと思う?」
別にメフメトは虚報を流したわけでも、割引に応じたわけでもないのだが。しかしまさか正直にそう答えるわけにもいかず、シャガードは必死になって頭を回転させた。
「……我々に介入させること、少なくともその準備をさせることが目的だったのではないでしょうか」
「続けて」
「遠征に乗じて動くためには、相応の準備が必要になります。そして準備を行おうとすれば、やはり私貿易に頼らざるをえません。ですが私貿易に頼りすぎることは、二つの面で危険です。一つは金貨の流出に拍車がかかること。もう一つは私貿易への依存度が上がること。逆を言えば、メフメトの目的はこの二つだったのではないでしょうか?」
「割引に応じれば、金貨の流出にはむしろ歯止めがかかると思うのだけど?」
「取引量が変わらないならそうでしょう。ですが介入の準備をするためには、取引量を増やすより他にありません。ですが値段がもとのままなら、我々としては躊躇せざるを得ません。そこで値引きに応じることで、我々の心理的抵抗を少なくしようとした」
「合計金額さえ増えればそれで良し、ということね」
そう言って、ファティマはとりあえず納得したように一つ頷いた。それを見てシャガードは内心で胸をなで下ろす。何とかウソを合理的に説明することができた。メフメトの思惑などもはやどうでもよいが、あの手紙のことだけは知られるわけにはいかない。そのためならシャガードはいくらでも死人を利用するつもりだった。
さて、私貿易に異変が起こったのは、年が明けて一ヶ月半ほどが経ってからのことだった。いわゆる軍需物資がごっそりと姿を消したのである。これまでも、確かに多少量は少なくなっていた。近衛軍再編のためと聞かされていたが、しかし全く無くなってしまうなど想定外である。シャガードはさすがに驚きの声を上げ、文官の男にこう尋ねた。
「これは一体どうしたことだ?」
「申し訳ありませんが、調達できませんでした。どうも近衛軍のほうで優先的に買い集めているようでして……」
文官の男はそう説明する。それを聞いてシャガードはぴんときた。いよいよ遠征が始まったに違いない。彼はそう思った。
実際には、この時すでにジノーファはガーレルラーン二世から玉璽を譲渡され、クルシェヒルを掌握していた。要するに、遠征はすでに山場を越えていたのだ。北アンタルヤ王国はその情報を全く掴んでいなかったのだから、ダーマードらがどれだけ厳しく情報統制していたのか窺える。まあ、一度大失態を犯している以上、それも当然かも知れないが。
しかしシャガードにそのような事情は分からない。彼はこの件をただちにファティマに報告した。シャガードから話を聞き、彼女も同様にいよいよイスパルタ軍の遠征が始まったのだと結論を下す。そしてこのタイミングで彼女は遠征のことをイスファードに伝えた。
「陛下は、どう動かれるでしょうか?」
「動かれない、と思うわ」
正確に言えば、「動いて欲しくない」というのがファティマの願望だった。これまでに調達した物資の量からして、国外に打って出るだけの備蓄はない。さらに私貿易を通じて軍需物資を調達することもできなくなった。このような状態で無理に動けば、北アンタルヤ王国そのものが瓦解してしまう。
「それより、遠征が始まったのなら、ジノーファ陛下はどこかで落し処を探るはず。こちらと足並みを揃えられないか、働きかけてみて」
「分かりました」
シャガードは真剣な顔でそう答えた。その動きはずいぶん遅きに逸しているのだが、それを指摘できる者はこの場にいない。二人とも、北アンタルヤ王国を生き延びさせるためにこれからが正念場だと意気込んでいた。
ファティマ「良い言葉よね、安上がりって!」
シャガード「上司の発想が主婦な件について」




