イスパルタ朝
――――玉璽を譲渡する。
ユリーシャが持ってきたガーレルラーン二世からの親書には、確かにそう書かれていた。玉璽とはすなわち王権の象徴。これを譲渡するとはつまり、王権を譲渡すると言っているに等しい。要するに、ガーレルラーン二世はジノーファに国を譲ると言ってきたのだ。
その理由も親書に書かれていた。曰く「反逆者であるイスファードに玉璽を託すことはできない。かといってルトフィーやファリクでは、後ろ盾が貧弱で国内に混乱を招く。ヌルルハーク四世のような脆弱な王では国を滅ぼすだけであり、玉璽を託すに足るのはイスパルタ王だけであると考える」。要約すると、そのような事が書かれていた。
ただし、ユリーシャは遠征軍の本陣へ玉璽を持参したわけではなかった。玉璽はあくまでクルシェヒルの王宮にある。「欲しければ取りに来い」、というわけだ。そしてクワルド以下、遠征軍の将軍たちはそれを危険視ししていた。
玉璽に釣られてのこのこ王宮まで行けば、たちまち敵に取り囲まれてしまうのではないか。彼らはそれを危惧していた。少なく見積もっても、クルシェヒルには二万以上の戦力が残っている。これを軽視するわけにはいかない。
その上、玉璽を手にすればそれでクルシェヒルの南アンタルヤ軍を掌握出来るのかと言えば、必ずしもそういうわけではない。法的に命令権者となるだけであり、例えば事前にガーレルラーン二世からジノーファの暗殺を厳命されていれば、南アンタルヤ軍の将兵はそれに従うだろう。
ただ、南アンタルヤ王国を治めようとするのであれば、どのみち王宮を押え、クルシェヒルを押えなければならないのだ。何よりここでまごつく姿を、ガーレルラーン二世や南アンタルヤ軍の将兵に見せるわけにはいかない。
軍議の結果、ジノーファは騎兵一〇〇〇、歩兵四〇〇〇、計五〇〇〇の兵を率いてクルシェヒルへ入ることになった。兵を率いるのはクワルドで、その下にロスタムが付く。さらにラグナとアヤロンの民がジノーファの護衛に付いた。
加えてこれとは別に、一隊を回してクルシェヒルの正門を確保させた。ここさえ確保しておけば、クルシェヒルに閉じ込められて袋のネズミになることはない。また万が一の場合には全軍が速やかに突入し、ジノーファを援護することができるだろう。
「では姉上。案内をお願いします」
「畏まりました」
準備が整うと、ユリーシャの乗った馬車に先導されて、ジノーファはクルシェヒルの王宮へ向かった。正門から続く大通りを、ジノーファは双翼図を掲げて進む。恐らくは指示が出ているのだろう。沿道の人影はまばらだ。
十四歳だったあの日、ジノーファはこの道を通って出陣した。そして全てを失い、戻ってこなかった。彼自身、二度とこの通りを歩くことはないだろうと思っていた。しかし今日、彼はここへ帰ってきた。
しかも、玉璽を受け継ぐ者として、である。この道を通って出陣したとき、ジノーファは王太子だった。そしてガーレルラーン二世に血縁を否定され、その身分を失った。だが今、他ならぬガーレルラーン二世がジノーファに国を託そうとしている。そのことを考えると、彼は少し不思議な気分になった。
道中で敵に襲われることもなく、ジノーファたちは王宮へ到着した。ユリーシャが案内するのはここまでだ。王宮では書記官のハムザがジノーファを出迎え、彼女から案内を引き継ぐ。彼は恭しく一礼して、ジノーファにこう挨拶した。
「お久しゅうございます、ジノーファ陛下」
「ああ、久しぶりだ。ハムザ卿」
ジノーファは小さく笑みを浮かべてそう応じた。リュクス川の戦いで停戦交渉をした時以来だから、およそ二年ぶりである。あの時と比べ、ハムザは白髪が増えたようにジノーファは思った。
ハムザに先導されて、ジノーファは王宮の中を進む。王宮の中は閑散としているように思えた。思えばメルテム王妃はおらず、王子も王女もいないのだ。その上、主であるガーレルラーン二世は危篤の身。寂しく静まり返るのは、当然のことかも知れない。
かつて暮らした場所ではあるが、ジノーファは懐かしさを覚えなかった。閑散としていることも相まって、寂しかった事ばかりが思い出される。ここにいるときは気付かなかった。だが今ならはっきりと分かる。やはりここは冷たい場所だったのだ。
中庭に面した回廊を歩いていた時、ジノーファはふとそこで立ち止まった。季節は冬。中庭に花は咲いていない。だが春になれば、見違えるほどに色とりどりの花が咲く。ユリーシャからその花の名前を教えてもらったことを思い出し、彼は小さく微笑んだ。冷たい場所ではあったが、冷たいだけの場所ではなかった。
さて、ハムザに案内されてジノーファが向かったのは、ガーレルラーン二世の執務室だった。ここはガーレルラーン二世だけでなく、歴代のアンタルヤ王国国王が執務を行ってきた部屋である。極端なことを言えば、この部屋の主が玉座に座るのだ。
「お待ちしておりました。ジノーファ陛下」
執務室では初老の男が一人、ジノーファを待っていた。ガーレルラーン二世の侍従長である。彼は立派な宝物箱を両手で持っていた。宝物箱の蓋はすでに開いており、そこには黄金の印章が収められている。
「玉璽にございます」
侍従長はジノーファに恭しく跪き、玉璽を宝物箱ごと差し出した。ジノーファは一つ頷くと、宝物箱を受け取った。
同時に、一枚の書類がジノーファに差し出される。それはガーレルラーン二世が退位し、そしてジノーファに王位を譲ることが記された公文書だった。すでにガーレルラーン二世のサインは入っている。後はジノーファが署名して玉璽を押せば、この公文書は効力をもつことになる。
ジノーファは譲位に関する公文書を受け取ると、執務机に向かってペンを取り、そこに署名を行う。そして玉璽を取り、書類に押印する。この瞬間、ジノーファは正式にアンタルヤ王国の国王となった。
余談になるが、南アンタルヤ王国は北アンタルヤ王国の主権を認めていない。南アンタルヤ王国にとって北アンタルヤ王国はあくまで「北の叛徒」であり、その国土は「アンタルヤ王国」の一部なのだ。
その認識もまた、玉璽と一緒にジノーファに受け継がれることになる。つまりこの瞬間、ジノーファは北を含め、アンタルヤ王国を治める法的な権利を得たのだ。
さて、ここで言う「アンタルヤ王国」にイスパルタ王国を含めるべきかは、微妙な問題だ。かつて(南)アンタルヤ王国はイスパルタ王国と相互不可侵条約と通商条約を結んだ。つまり少なくともその時点では、イスパルタ王国を(南)アンタルヤ王国とは別の主権国家として認めたと言うことだ。
正確に言えば、ジノーファはイスパルタ王とアンタルヤ王を兼務している格好だ。だが歴史的に見れば、その地域はアンタルヤ王国の一部であった期間のほうがずっと長い。どのみちジノーファが王をやっているわけであるし、アンタルヤ王国に含めてしまった方が収まりは良いとも言える。そもそもアンタルヤ王国の方が圧倒的に大きいのだ。
また、少し先の話になるが、玉璽の譲渡について、南アンタルヤ王国の国内から大きな異論はでなかった。理由は主に二つ。一つは、これがガーレルラーン二世の勅命であったからだ。つまり法的根拠があったわけである。形式が整っている以上、表だって文句は言えない。
もう一つは、これがアンタルヤ王国の再統一事業の一環であると受け取られたのだ。つまりジノーファは外敵ではなく、この戦争もアンタルヤ王国という大きな囲いの中の内戦であると認識されていたのだ。
そのような背景もあり、玉璽を受け取ったこの瞬間に、「ジノーファはアンタルヤ王国の国王となった」とする歴史家は多い。ただその一方で、「彼が建国したのはイスパルタ王国である」と主張する声も根強い。
実際、この時点で支配権はアンタルヤ王家からイスパルタ王家に移っている。それでこの国のことは「アンタルヤ王国イスパルタ朝と呼ぶべき」と考えるのが、後年、歴史学のスタンダードになった。妥当な落し処と言っていい。
まあそれはともかく。こうしてアンタルヤ王国イスパルタ朝が、歴史上に姿を現したのである。
□ ■ □ ■
譲位に関する公文書を有効なものにし終えると、ジノーファはすぐに王としての仕事を始めた。まずクルシェヒルに駐留する南アンタルヤ軍への命令書をしたため、そこへ玉璽を押してからクワルドに託す。彼にそれを掌握させるためだ。
次に彼は四通の手紙を書く。最初の手紙は、マルマリズにいるスレイマンに宛てた手紙だ。事の次第を説明した上で、クルシェヒルへ来て内政の掌握を手伝って欲しいと書く。本来の予定を大幅に上回り、ジノーファは南アンタルヤ王国全てを掌中に収めることになった。やらなければいけない仕事は膨大で、ジノーファには彼の補佐がどうしても必要だった。
二通目と三通目はそれぞれシェリーとマリカーシェルに宛てた手紙で、そのなかでジノーファは二人を気遣い、もう少しマルマリズで待っていて欲しいと頼んだ。要するにこの時点ではまだ混乱の火種が残っている、と彼は考えていたのだ。
四通目の手紙は、ダーマードへ宛てたものだった。内容は私貿易に関するもので、武器やポーションなどの軍需物資を北アンタルヤ王国へ流さないように命じた。経緯の是非は別として、南アンタルヤ王国の王権を手にした以上、次は北アンタルヤ王国。その意識の表れだった。
「……すまない。待たせた」
四通の手紙を書き終え、本国へ送る分の手配をユスフに頼むと、ジノーファは待たせていたハムザと侍従長のほうへ視線を向けた。そして二人から現在の南アンタルヤ王国の状況について説明を受ける。それを聞いてから、ジノーファは二人にこう尋ねた。
「貴族たちの支持を取り付けなければ、国を掌握したとは言いがたい。何か良い方法はないだろうか?」
「恐れながら、イスパルタ王国では貴族たちから人質を取っていないとお伺いしております。それで人質制度を廃止し、彼らを家族のところへお返しになりますように。そうすれば、陛下がイスパルタ王国の貴族とアンタルヤ王国の貴族を差別なさらないことが、はっきりと分かることでしょう」
「ハムザ卿の言われる通りかと。致し方なかったこととはいえ、アンタルヤ王国の貴族たちは、ジノーファ陛下と敵対してしまいました。かかる事態になったからには、彼らは報復を恐れましょう。その不安を取り除いてやれば、彼らも陛下を国王として認めるはずでございます」
ハムザと侍従長は口を揃えてそう答えた。それを聞いてジノーファは「ふむ」と頷き、顎先に手を当てて少し考え込む。
ジノーファはこの先、イスパルタ王国の貴族たちに人質を要求するつもりはない。人質を要求すれば、彼らは猛反発するだろう。ジノーファの権力基盤はいまだ盤石とはいえず、それを揺るがすようなことは避けなければならない。
またそもそも、人質を取ったからといって謀反を防げるわけではない。一定の抑止力にはなるだろう。だが謀反を決意した人間は、人質がいようが謀反を起こす。そう考えると、あまり意味はない。
そうであるなら、このタイミングでガーレルラーン二世の始めた人質制度を廃止するのは一つの手だ。アンタルヤ王国の貴族たちは、ジノーファのことを仕えやすい王だと思うだろう。ただ、形式はしっかりと整えておく必要がある。
「アンタルヤ王国の貴族たちに、新王への挨拶に来るよう布告を出そう。そして挨拶を受けた後で、人質を連れて帰ることを許可する。どうだろうか?」
ジノーファがそう尋ねると、二人は揃って頷いた。季節的にも、新年の挨拶を行う頃だ。ジノーファも一つ頷くと、布告を出すための書類を作成する。ただし挨拶に来るべきは、当主か世子のいずれかのみとした。
それからふと思い出し、彼はもう一枚布告のための書類を作成した。ガーレルラーン二世が貴族らに出した、「北アンタルヤ王国の領土は切り取り自由」とする布告の効力を停止させるための布告だ。
貴族らの力を使って北アンタルヤ王国を抑えるため、ガーレルラーン二世はこの布告を出した。東にはイスパルタ王国があり、西の新領土を安定させるには時間がかかる。そのような状況下では、北にまで手が回らなかったからだ。
だがジノーファが玉璽を手にしたことで、東に備える必要がなくなった。遠征軍の戦力もある。余力が生まれたのだ。仮に北アンタルヤ軍が南下してきても、十分に迎え撃つ事ができるだろう。
それにジノーファとしても、戦線を整理したいという意図がある。南北アンタルヤ王国の争いは、ほとんど泥沼化している。貴族たちはバラバラに北アンタルヤ王国を攻めて略奪を働き、イスファードは駆けずり回ってそれを撃退する、という構図だ。
ジノーファからすれば、時間と血と金の無駄遣いにしか思えない。また彼自身としても、次は北アンタルヤ王国に対処しようと考えている。いや、まったく予定外の事ではあるものの、対処せざるを得ないというべきか。それで混乱する北方戦線を整理し、見通しが立つようにしようと思ったのだ。
さらにジノーファは、天領を任されている全国の代官や太守に対しても、新年の挨拶に来るよう布告を出した。全国をしっかりと治めるためには、代官らも統御しなければならない。これはそのための一手だった。
「さて、次は西だな……」
三つの布告に関する命令を出し終えると、ジノーファは次の懸案に取りかかった。新領土のことである。新領土は全て天領であり、貴族はいない。だが総督が置かれ、その強権の下で統治が行われている。
強い権限を持つとは言え、総督も役人の一人だ。国王の権限で解任し、新たな総督を任命するのは可能である。しかしその命令がどこまで実行力を持つかは不明だ。新領土の総督であるカスリム将軍のもとには、二万五〇〇〇の戦力があるからだ。
それだけの戦力を持つカスリムが、クルシェヒルにおける情勢の激変をどう見ているのか。ジノーファを王とは認めず、叛旗を翻すことは十分に考えられる。あるいは内に秘めていた野心を解き放ち、新領土の独立を宣言することもあり得るだろう。それに同調する者も現われるかも知れない。つまりカスリムの動向次第で、今後の展開は大きく変わってくる。
ジノーファが出すことにした、代官や太守らに対する布告は、総督であるカスリムもまた対象に含んでいる。だから彼が挨拶に来れば、ひとまずジノーファの王権を認めたものと思って良い。
では挨拶に来なければ、ジノーファの王権を否定した事になるのかというと、カスリムに関してはそうとも言い切れない。なぜなら新領土の統治に注力すべしとして、ガーレルラーン二世が「当面は新年の挨拶に来るに及ばず」と、それを免除しているからだ。
よって、カスリムが「新領土が未だ安定していない」と言えば、挨拶に来なくてもそれが王権の否定に直結することはない。無論、ジノーファが「どうしても来い」と命じれば、王命を上書きすることは可能だ。ただ彼としては、最初からあまり強硬な姿勢はとりたくない。それこそカスリムの反発を招く恐れがある。
ジノーファはまず、カスリムがクルシェヒルに送っていた、新領土の統治に関する報告書を持ってこさせた。彼の働きについて知るためだ。報告書が来るまでの間、ジノーファはふと思い立ってロスタムを執務室に呼んだ。そして彼にこう尋ねる。
「ロスタム。卿はカスリム将軍と面識があっただろうか?」
「はっ。彼はもともとロストク帝国との国境にあるセルチュク要塞を任されておりましたし、私も東方におりましたから、まあそれなりには存じ上げております」
ロスタムの返答を聞き、ジノーファは一つ頷いた。そして彼にカスリムの人となりについて尋ねる。彼は少し考え込んでからこう答えた。
「……実直な男であったと思います。少々融通の利かないところはありますが、命令に対しては忠実に従う。そういう男でした」
「野心や出世欲については、どう思った?」
「さて……。将軍にまでなったわけですから、人並み以上に野心も出世欲もあるとは思いますが……。何でしたら、カスリムの下にいたことのある者が部下にいないか、探して見ましょうか?」
「そうだな。よろしく頼む」
ジノーファがロスタムを見送ると、入れ違いに頼んでいた書類が運ばれてきた。ジノーファはそれを手に取り、素早く目を通していく。ただ書類は膨大だ。目を通すには相応に時間がかかるだろう。長い一日になりそうだった。
ハムザ「苦労の多い生涯を送ってまいりました」