遠征 -挟撃-
遠征軍本隊と南アンタルヤ軍主力の攻防。その様子をジノーファが視認できたとき、すでに趨勢は南アンタルヤ軍のほうへ傾きつつあった。敵が勢いに乗って攻めかかり、味方が小高い丘の頂上付近に固まっているのを見て、ジノーファは「危なかった」と内心に冷や汗をかいた。
時刻は正午を過ぎた辺りか。敵の攻撃はよほど激しかったようだ。ジノーファとしてはもう少し余裕があると思っていたのだが、斥候が「敵の勢いが強い」と報告を持ってきたので、急ぐことにしたのだ。結果としてそれが良い方向に転がった。別働隊はギリギリのタイミングで間に合ったのである。
「援軍だ!」
「味方が来たぞ!」
別働隊が現われたことに気付き、遠征軍本隊の将兵は歓声を上げた。もう少し、もう少しだけ耐えれば良い。そうすれば別働隊が敵の背中を突く。それで戦局はひっくり返る。勝ち戦だ。本隊は息を吹き返した。
ほぼ同時に、ガーレルラーン二世も後背に現われた遠征軍の別働隊に気付いた。このとき彼がどんな顔をしたのか、記録には残っていない。だが内心では盛大に舌打ちしていたことだろう。勝利を掴み損ねたのを感じたに違いない。
ただ、内心の落胆がどれほど深かろうとも、ガーレルラーン二世の決断は早かった。彼はまずゆっくりと兵を後退させる。付け入る隙を与えないためだ。もともと手痛い損害を被っていた事もあり、遠征軍本隊は南アンタルヤ軍を追撃することが出来なかった。ただし、クワルドも後退する敵を黙って見送ったわけではない。
「弓を射かけろ! 陣形を立て直せ!」
これからガーレルラーン二世がどう動くのは分からない。だがどう動くにせよ、本隊と別働隊が連携して動かなければ、勝利は得られない。そのためには動くべき時に動けるよう、態勢を整えておかなければならないのだ。
さてガーレルラーン二世の動きだが、彼は全軍を後退させつつ、ゆっくりと北へ動いた。遠征軍本隊から見ると左翼の側だ。左翼の突破を狙っているわけではない。目的はクルシェヒルへの退路を確保することだ。
遠征軍本隊の左翼は損害が大きく、目の前を敵が横切っても防御を固めて見送るだけで、手出しできなかった。あるいは、ガーレルラーン二世はそれも計算に入れて左翼を集中的に叩いたのかもしれない。いずれにしても退路の確保に目途が立ったところで、彼は次の行動に移った。
ガーレルラーン二世は一隊を引き連れ、その矛先を東へ向けた。つまり別働隊の方へ向かったのである。本隊は手痛い損害を受けており、今は防御を固めつつ立て直しに必死だ。つまりすぐに動ける状態にはない。彼は新たな敵戦力であるこの別働隊こそが、撤退における最大の障害と見なしたのだ。
客観的に見れば、国王自らが殿を買って出た格好である。普通ならば暴挙以外の何物でも無い。しかしガーレルラーン二世にしてみれば、ここが踏ん張り処だった。
ここで彼が我先に逃げ出せば、その瞬間に南アンタルヤ軍は瓦解しただろう。そしてこの場の戦力を失ってしまえば、クルシェヒルを守ることすらままならない。彼が王都を棄てて新領土へ逃れなければならなくなる。
また初手から総攻撃を仕掛けたため、南アンタルヤ軍の将兵には疲労が溜まっている。殿を任せるには不安がある。見たところ敵の別働隊は約一万。これを確実に足止めするには、予備戦力としておいたおかげで消耗の少ない、ガーレルラーン二世の直属部隊を動かすより他にないというわけだ。
いや、あるいはここで別働隊さえ蹴散らせば、改めて本隊を攻めることができると考えているのかも知れない。そしてそれが可能だとすれば、それはやはりガーレルラーン二世が指揮する彼の直属部隊だけであったろう。
そして後世の歴史家の視点からしても、このときのガーレルラーン二世の選択は起死回生を賭けた妙手だった、と言って良い。なぜなら遠征軍別働隊には、他でもないジノーファその人がいたからだ。
別働隊を蹴散らすまでもない。ジノーファ一人を討ち取れば、その瞬間にイスパルタ王国は瓦解する。南アンタルヤ王国がそれを吸収できるかは別として、少なくともこの戦争における劣勢はひっくり返すことができるだろう。そしてそれを成すためには、やはり彼自身が動くより他にない。
ガーレルラーン二世の動きは、小高い丘の山頂付近に本陣を置く、遠征軍本隊からも確認できた。あるいはこの時、戦場で最も焦っていたのはクワルドであったかも知れない。まさか南アンタルヤ軍がこうもはっきりと別働隊に狙いを定めるとは、思っていなかったのだ。
(陛下……!)
彼は臍をかんだ。まずい状況である。しかし動こうにも動けない。味方は立て直しの真っ最中だ。今動かしても、軍隊としては機能しない。また、半ば撤退に移行しているとはいえ、敵戦力は健在である。遠征軍が動けば、南アンタルヤ軍も動くだろう。泥沼の乱戦となってしまっては、別働隊の援護どころではない。
(見たところ……)
見たところ、別働隊に向かった殿軍は五〇〇〇から六〇〇〇程度。つまり別働隊の方が多い。「大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、クワルドは何とか平静を保った。再編成が終われば、打って出ることができる。左翼は動けないかも知れないが、主翼と右翼さえ動ければ、それで十分だ。
(陛下、持ちこたえて下され……!)
クワルドは内心でそう祈った。果たしてその祈りは届いたのか、それとも届かなかったのか。遠征軍別働隊を率いるジノーファからも、南アンタルヤ軍の動きは見えていた。全体としてはすでに撤退に移っているが、旺盛な戦意をたぎらせる一団が、別働隊の方へ向かってきている。
殿だ。すでに敵が撤退を始めている以上、無理にこれを撃破する必要は無い。ただしここで敵を逃せば、彼らはクルシェヒルで再起を期するだろう。エルズルム城攻略のことだけを考えるならそれでもいい。だが後々のこと、具体的には和睦交渉のことも含めて考えれば、ここではっきりと勝っておいた方が有利だ。
ジノーファは馬上でスッと目を鋭くした。殿を突破しないことには、敵に大きな損害を与えることはできない。であるならばそれをやるだけだ。主君の決意を感じ取り、ユスフは手綱を握り直し、ラグナは獰猛に笑った。
何にせよ、これで舞台は整った。ジノーファもガーレルラーン二世も、互いがそこに、手の届く場所にいるとは思っていなかっただろう。しかし彼らはそこにいた。それが偶然であったのか、それとも必然であったのか。それは後の世の人々が考えればよい。
「全軍突撃!」
「突撃!」
ほとんど同じタイミングで、二人は突撃を命じた。これは偶然ではない。間合いを計っていれば、似たようなタイミングになるのだ。
突撃を命じられ、両軍の兵士たちは雄叫びを上げて駆け出した。遠征軍別働隊のうち、まず敵にぶつかったのはロスタム将軍が率いるイスパルタ軍だった。両軍は激しくぶつかり合う。押し合いになった。
その間にルドガー将軍率いるロストク軍がイスパルタ軍の後ろから動いて横に並ぶ。そしてそのまま敵殿軍に攻撃を仕掛けた。それに合わせてロスタムは一旦兵を退かせる。イスパルタ軍とロストク軍は交互に突出して敵に出血を強いた。
イスパルタ軍とロストク軍の連携は抜群だった。遮二無二に攻めることはせず、敵が硬いと思えばすぐに退く。そしてもう一方がそれを援護するのだ。右から攻めたと思えば、今度は左から攻めかかる。殿軍はその連携に翻弄された。
ガーレルラーン二世もやられっぱなしではない。ロストク軍が突出する気配を見せると、すかさず二〇〇〇ほどの兵を回してこれを防ぐ。そしてイスパルタ軍が退こうとするのに合わせ、残りの兵を率いて一気に前に出た。
退いた場所に踏み込まれ、イスパルタ軍は押し込まれた。しかしそれだけならイスパルタ軍は持ちこたえただろう。だが実際にはずるずると押し込まれていく。その様子は、まるで濁流が土手を削っていくかのようだった。
「陛下、お下がりください!」
そう言ってユスフがジノーファを後方へ下げようとする。しかしジノーファは動かなかった。視線を鋭くして、敵の猛攻の要を見定めようとする。特別な戦術を用いているわけではない。愚直に真正面からぶつかり、そのまま押し込んで来る。その勢いが衰えない。
兵の数でも、蓄積された疲労の点でも、イスパルタ軍の方が有利なはずなのだ。しかしそれを上回るほどに、敵殿軍の士気は高い。文字通り死兵となって攻めてくる。彼らにそこまでさせるのは、一体何なのか。
「あ……!」
ジノーファは目を見開き、そして思わず声を上げた。彼は見つけたのだ。騎乗し、槍を振るってイスパルタ兵をなぎ倒す、大柄な鎧武者。距離があるし、兜を被っているので顔はよく見えないが、間違いない。それはガーレルラーン二世その人だった。
ジノーファがその姿を直に見るのは、果たして何年ぶりか。懐かしさは覚えない。不思議と、憎しみも。ただ背中がぞわりと粟立った。呑まれたわけでも、まして臆したわけでもない。ただ容易ならざる相手であることは、少年だったあの日以上にひしひしと感じた。
(少し、老いただろうか……)
彼は内心でそう呟いた。年月はガーレルラーン二世のうえにも平等に流れている。年齢で言えば、壮年を越えて老年へさしかかっているはずだ。しかしその巌のような身体は健在で、武威にも陰りは見えない。今また一人、騎兵がたたき落とされた。
ともかく、敵の士気が高い理由はこれで分かった。ガーレルラーン二世自身が陣頭に立ち、槍を振るって味方を鼓舞しているのだ。だからこそ、南アンタルヤ兵は死力を尽くして戦っている。命を賭けているのは自分だけではない。他ならぬ主君が同じように命を賭けている。これで士気が上がらないはずがない。
「……っ」
一瞬、ジノーファはガーレルラーン二世と目が合ったように思った。普通に考えれば気のせいだ。そもそもジノーファを見つけたのであれば、ガーレルラーン二世はこれ幸いと脇目も振らずに突っ込んでくるだろう。
後ろに下がるべきだ。ジノーファの冷静な部分は必死にそう主張している。人間の体力は無尽蔵ではない。今は猛攻を行えているが、いずれ息が上がるだろう。それまで耐え、タイミングを見計らって反撃に移ればいい。
ロストク軍の方も、いつまでも足止めされているわけではない。そう時間をかけずに目の前の敵を突破し、こちらへ加勢してくれるだろう。そうなれば数の差は圧倒的だ。押しつぶされる前に、ガーレルラーン二世も退却しなければならなくなる。
そしてその頃には、本隊も動けるようになっているはず。本隊と連携し、あるいは合流し、南アンタルヤ軍を追い立てる。敵は損害を堪えつつ、クルシェヒルへ逃げ込むしかない。戦争はイスパルタ軍の勝利で終わるだろう。
ジノーファはちゃんとそこまで分かっていた。少なくとも勝利への道筋は見えていた。しかしそれでも、彼は下がらなかった。
彼の内心で様々な思いと感情が渦巻く。しかしどんな感情もあやふやなままで言葉にならない。やがて心が凪いだとき、ジノーファはポツリとこう呟いた。
「…………わたしの門出だ。祝ってもらうぞ、父上」
そしてジノーファは馬を駆けさせた。周囲を固めていた騎士たちが慌てて彼のあとを追う。引き留めようと幾人かが声を上げたが、彼が聖痕を発動させるとその声も消えた。彼が腹を決めたことを理解したのだ。
代わりに、もう一つプレッシャーが膨れ上がるのを、ジノーファは感じ取った。ラグナも聖痕を発動させたのだ。彼はきっと獰猛な笑みを浮かべていることだろう。その様子を思い浮かべ、ジノーファは心強く思った。
そう思ったのは彼だけではなかっただろう。ここには聖痕持ちが二人もいる。それがどれだけ心強いことか。まるで勝利が約束されているかのように、周囲の騎士たちは威勢を強めた。そしてそれは徐々に周囲へと伝搬していく。
「ジノーファ陛下だ!」
「陛下が出られるぞ!」
「陛下の前で無様な戦いは出来ぬぞ!」
「者ども、死力を尽くせっ!」
ジノーファが動いたのを見て、イスパルタ兵たちは次々に声を上げた。敵殿軍の猛攻の前にイスパルタ軍は押されっぱなしだったが、ジノーファが前に出たことで踏みとどまった。そして僅かながらも押し戻していく。
敵が手強くなったことに、ガーレルラーン二世はすぐに気付いただろう。後から考えれば、このときが退却するべきぎりぎりのタイミングであったのかも知れない。しかし彼は退却しなかった。騎兵の一団が前で出てくるのを見つけたのだ。そしてその中にはジノーファの姿があった。
ガーレルラーン二世もまさかここにジノーファがいるとは思っていなかっただろう。仮にいたとして、前に出てくるとは思っていなかったに違いない。だが彼は前に出てきた。千載一遇の好機である。
「ジノーファだ! 討ち取れ! 恩賞は思いのままだぞ! 奴の首を獲った者は、たとえ一兵卒であっても伯爵にしてやるぞ!」
ガーレルラーン二世はそう檄を飛ばした。欲望を刺激され、南アンタルヤ兵たちが「おお!!」と声を上げる。彼は周囲の兵たちを素早く掌握すると、ジノーファが率いる騎兵の一団に向かって突撃した。
ジノーファもまた、ガーレルラーン二世が自分の方へ向かってくるのを認めていた。彼は右手で手綱を操り、僅かに軌道を修正する。そしてタイミングを見計らい、槍を掲げてこう命じた。
「突撃!」
騎兵たちは一斉に速度を上げた。ジノーファの兵とガーレルラーン二世の兵で、速度において優勢なのは間違いなく前者だった。なぜなら前者は全て騎兵で、後者には歩兵が混じっていたからだ。後者は歩兵に速度を合わせなければならず、その上、全力で駆け出すタイミングが遅れた。
その結果、勢いに乗って突撃したのは、ジノーファに従う騎兵たちだった。その上、ジノーファの護衛だけあって、彼らはイスパルタ王国近衛軍の中でも最精鋭の騎士たち。たちまち敵兵を弾き飛ばし、敵に大きな出血を強いた。
ガーレルラーン二世は初手で痛撃を喰らったわけだが、しかし彼はそれを意に介さなかった。彼は損失に構わず、兵を駆り立てて前へ進ませる。彼の狙いはただ一人。その一人さえ討ち取れれば、例え南アンタルヤ軍の将兵ことごとく討ち死にしようとも、彼の勝利である。
もっとも、同じ事はジノーファにも言えた。それで自然と両軍は互いの大将首を狙い、またそれを妨げるという展開になった。そしてジノーファとガーレルラーン二世の距離が縮まるにつれ、戦闘は密度と激しさを増していった。
「ぬはははは! 下がれ、雑兵ども!」
ラグナが六角棒を次々と敵を払いのけていく。彼の戦いぶりは、ガーレルラーン二世にとっても脅威であったろう。しかし彼の首を狙っているわけではない。兵を使って牽制しつつ、ガーレルラーン二世は彼を抜いた。
そしていよいよ、ジノーファとガーレルラーン二世の二人が互いの眼をはっきりと認識できる距離まで近づいた。今度こそ間違いなく、二人は目が合った。互いに笑みは浮かべない。代わりに厳しい表情で火花を散らした。
ユスフ「陛下も意外と感情的」




