遠征 -空城-
遠征軍はバイブルト城を攻略した。抵抗が完全に鎮圧された後、ジノーファは城内に入ったが、それほど喜びはわいてこない。遠征は終わったわけではなく、むしろまだまだ半ば。しかも次の戦いでは、恐らくガーレルラーン二世率いる南アンタルヤ軍の主力と戦うことになる。気を抜くことなどできない。
降伏したバイブルト城の将兵のうち、いわゆる農兵については、武装解除した後、一日分の食料を持たせて家に帰らせた。一日では家に帰れない者もいるだろうが、金子まで取り上げたわけではない。自分でなんとかするだろう。それに、配給した食料はバイブルト城に備蓄されていたものだが、今後は遠征軍も使うのだ。あまり大盤振る舞いするわけにもいかない。
農兵以外の、部隊指揮官や参謀と言った者たちについては、ひとまずまとめて地下牢に放り込んだ。扇の要となる者たちを自由にするわけにはいかないのだ。またこの中には多数の貴族も含まれていて、遠征が終わったあかつきには身代金が期待できた。
諸々の戦後処理をひとまず片付けると、時刻はすでに夜になっていた。いつもより少し豪華な夕食を食べた後、ジノーファは司令室に幕僚たちを集めて軍議を開いた。今後の方針を定めるためである。
軍議ではまず、敵の参謀らを尋問して得られた情報が報告された。それによると、当初バイブルト城に参集した戦力はおよそ九〇〇〇。つまりこの城を落としたことで、南アンタルヤ軍はその戦力を丸ごと失ったことになる。
もちろん、九〇〇〇人がことごとく討ち死にしたわけではない。だが生き残った者たちはすでにバラバラに離散してしまった。武装解除もさせられているし、再び彼らを兵として集めるのは難しい。少なくとも、この戦争中は無理だ。それが分からない者は軍議の席にはおらず、それで彼らの表情は明るかった。
「九〇〇〇の損害と言えば、かなりのインパクトがあります。ガーレルラーンめも、知れば肝を冷やすことでしょう」
一人の幕僚の発言に、他の者たちも頷く。ただ、ジノーファは内心で「どうだろうか」と思っていた。あのガーレルラーン二世が肝を冷やすだろうか。その様子がどうにもジノーファには想像できない。それともそれを表に出さないだけで、彼も内心では冷や汗を流しているのだろうか。もしそうなら、多少は親近感が湧くというものだが。
ジノーファがそんなことを考えている間にも、報告は続く。自決した城砦司令官は、二人目の伝令をすでにエルズルム城へ送っていた。夜陰に紛れさせてのことであり、遠征軍はこれに気付かなかった。
伝令から報せを受ければ、ガーレルラーン二世は動くだろう。南アンタルヤ軍の主力を率いて出陣し、バイブルト城を目指して南下してくるに違いない。次の戦いはいよいよ決戦になる。
だが遠征軍の幕僚たちは楽観的だった。一般に、城を攻め落とすには敵に対して三倍の戦力が必要とされている。そして彼らはすでにバイブルト城を掌中に収めているのだ。
遠征軍の戦力は三万弱。そしてガーレルラーン二世の手元にある戦力は、多く見積もっても四万には届くまい。つまりバイブルト城を頼みにして戦えば、負けることはほぼあり得ない。幕僚たちはそう考えているのである。
ここが自国の領内であれば、ジノーファもそう考えただろう。だがここは敵国である。それで彼はそこまで楽観的にはなれなかった。それで彼の次の発言は幕僚たちを唖然とさせることになる。彼はこう言ったのだ。
「バイブルト城を、放棄しようと思う」
□ ■ □ ■
ガーレルラーン二世が二万五〇〇〇の手勢を率いてエルズルム城に到着したとき、イスパルタ軍はまだ姿を見せていなかった。南アンタルヤ軍の幕僚たちは敵軍に先んじたことを喜んでいたが、彼は到底そのような気分にはなれぬ。嫌な予感を覚えて、眉間にシワを寄せた。
「斥候を出し、周辺の様子を探らせろ」
ガーレルラーン二世はそう命じた。ただちに数十騎の斥候がエルズルム城の周辺に放たれる。およそ一日かけて探索が行われた。しかし彼らの内の誰も、イスパルタ軍を発見することはできなかった。
その報告を受け、ガーレルラーン二世は眉間に刻まれたシワをさらに深くした。斥候が発見できなかったということは、本当にエルズルム城の周辺にイスパルタ軍はいないのだろう。だが確かに「イスパルタ軍はエルズルム城方面へ向かった」と報告を受けている。では彼らはどこへ行ったのか。
可能性としては二つ。一つはバイブルト城だ。エルズルム城へ向かうと見せかけ、途中で方向転換してバイブルト城へ向かった可能性がある。噂を含め、全てはバイブルト城を手薄にするための策略であったと考えれば、筋は通る。
二つ目の可能性としては、エルズルム城からバイブルト城への道中、あるいはその周辺に潜んでいることが考えられる。この場合、イスパルタ軍の狙いは二城のいずれでもない。彼らが狙っているのは南アンタルヤ軍の主力であり、またガーレルラーン二世の首そのものだ。
「ですがそう見せかけた上で、我々が出陣した後に改めてエルズルム城を狙う、ということも考えられるのではないでしょうか?」
軍議の席で参謀の一人がそう発言し、三つ目の可能性を指摘する。現在、エルズルム城には三万一五〇〇の戦力がある。イスパルタ軍の戦力もおよそ三万。バイブルト城へ向かうとして、野戦を警戒するなら、最低でも三万は連れて行かなければならない。
そうなると、エルズルム城に残るのは一五〇〇。主力が出陣した後に敵軍に強襲されたら、半日であっても耐えるのは難しい。さらにエルズルム城が落ちたら、バイブルト城へ向かう主力は背後を取られたことになる。背後から同数の敵に襲われたら、ひとたまりのないだろう。
「馬鹿な。三万と言えば大軍だぞ。そんな隠密行動じみたことができるものか!」
「しかし現に我々は敵軍がどこにいるのか、分からないではありませんか。あり得る可能性を無視するべきではありませぬっ」
「索敵の範囲を広げてはどうか? 人の目はどこにでもある。遠からず見つけることができよう」
「どれだけ時間をかけるつもりだ!? その間にも敵は動いているのだぞっ。敵をみつけたとして、バイブルト城が落ちていては意味がないわ!」
意見は出るものの、議論はいっこうに煮詰まらなかった。挙句、「イスパルタ軍は二城を無視し、王都クルシェヒルへ向かったのではないか?」という意見まで出て、軍議はさらに混沌とした。
「エルズルム城には一万ほどの兵を残し、残りをバイブルト城へ向かわせてはどうでしょう? これならば、敵軍がエルズルム城、バイブルト城、主力のいずれを狙ったとしても対処できます」
「戦力の分散は愚策である」
若い参謀が得意げに述べた案を、ガーレルラーン二世は冷ややかな声で否定した。途端に若い参謀は顔色を失う。ガーレルラーン二世はそれを気にもとめず、頬杖をついて思案を重ねる。数秒してから、彼は幕僚らにこう尋ねた。
「バイブルト城には、どれほどの戦力がある?」
「こちらへ参集したのが四〇〇〇程度ですから、一万弱かと」
「であれば、敵がそちらへ向かったとして、そう簡単には落ちるまい。また敵の姿を見つければ、報せを寄越すであろう」
ガーレルラーン二世の意見に、幕僚たちは揃って一つ頷いた。敵がバイブルト城方面に現われたとして、その報せを受けてから主力を動かしたとしても、味方は持ちこたえられるだろう。
そしてバイブルト城を落とされる心配がないのなら、今急いで主力を動かす必要も無い。それでガーレルラーン二世は索敵の範囲を広げるよう命じた。あり得ないとは思うが、敵軍がクルシェヒルへ向かっていたとして、それも明らかになるだろう。
もっとも結論から言えば、この索敵は無駄になった。二日後、バイブルト城からイスパルタ軍襲来の報が届いたのだ。しかもそれより前に、「メルースィン伯爵らが強引に出陣して惨敗を喫した」ともある。「城内の戦力は、負傷者を含めて四五〇〇に満たない」と書かれているのを読み、ガーレルラーン二世は顔を険しくした。
「ただちに出陣する」
ガーレルラーン二世はそう命じた。彼の声は相変わらず冷ややかで平淡だったが、それでもそこには隠しきれない焦燥が滲んでいた。だが焦っているのは幕僚らも同じだ。そのなかで言えば、最も平静を保っているのはやはり彼だった。
さて、ガーレルラーン二世は三万の兵を率いてエルズルム城から出陣した。城に残ったのは一五〇〇のみ。敵がバイブルト城を攻めている以上、エルズルム城が狙われることはない。ならば多数の兵を置いておいたところで無駄になるだけだ。
エルズルム城からバイブルト城へ、南アンタルヤ軍は急いで南下した。バイブルト城がどれだけ持ちこたえられるか分からない。だが間に合えば、城と主力で敵軍を挟み撃ちにできる。戦況は一気に南アンタルヤ軍有利となるだろう。
だが、彼らは間に合わなかった。南アンタルヤ軍主力が到着したとき、バイブルト城はすでに陥落していたのである。城に双翼図が掲げられているのを聞くと、ガーレルラーン二世はたちまち眉間に深いシワを刻んだ。
ガーレルラーン二世がバイブルト城へ近づくと、城壁の上には何人もの敵兵が並んでいた。彼の姿を見て「あわよくば」と思ったのか、城壁の上から数十本の弓矢が放たれる。だがそのいずれも彼には届かない。次々と地面に突き刺さる矢を見て冷笑を浮かべると、彼は踵を返して南アンタルヤ軍の陣中に戻った。
その日、南アンタルヤ軍がバイブルト城へ攻撃を仕掛けることはなかった。エルズルム城から急いで南下してきたため、兵を休ませる必要があったのだ。バイブルト城から十分離れた場所に陣をしき、彼らは夜を過ごした。
一方のバイブルト城はというと、いくつものかがり火を焚いている。城門は硬く閉ざされており、城壁の上には人影が多数見えた。静寂を保ってはいるが、厳戒態勢を敷いていることは明白だ。緊張に包まれて、冬の夜はふけていった。
そして次の日、辺りが十分に明るくなってから、ガーレルラーン二世はバイブルト城へ総攻撃を仕掛けた。攻撃を始めてすぐ、彼は戦況に違和感を持った。まったく反撃がないのだ。南アンタルヤ兵はあっという間に城壁に取りつき、よじ登って城壁の上に登った。
「なんだ、これは!?」
城壁の上にあがった南アンタルヤ兵たちは、そこの様子を見て困惑の声を上げた。何とそこには、一人の敵兵もいなかったのである。兵士がいるように見えたのは、実は人形だった。鎧を着せ槍を持たせた人形を並べて、あたかも兵士が警戒しているかのように見せかけていたのだ。
「クソッ、馬鹿にして!」
南アンタルヤ兵の一人が、怒鳴りながら人形の一つを蹴り倒す。しかしすぐに気を取り直し、彼らは城壁の上を走り出した。城門の裏へと回り込み、そこに積み上げられていた土嚢をどかす。そして城門を開き、味方を城内へ招き入れた。
この間、一切敵兵の姿はない。不気味なまでにバイブルト城は無抵抗だ。南アンタルヤ兵が城内に散っていくが、やはり敵兵の姿はどこにもない。その報告を聞き、ガーレルラーン二世は不審げに顔をしかめる。それは幕僚たちも同じで、彼らは口々に疑問を口にした。
「棄てたのか……? バイブルト城を……?」
「いや、昨日確かに矢が放たれたではないか」
「昨夜のうちに逃げおおせたのであろうよ。だが、逃げてどこへ向かったのだ……?」
「ジノーファめ、一体何が狙いなのだ……?」
幕僚たちの呟きを聞きつつ、ガーレルラーン二世は馬上で思案を重ねた。そして報告を持ってきた伝令に、前線指揮官へ次のような命令を伝えさせた。
『敵が潜んでいないか、城内をくまなく探るべし』
無抵抗を装って敵を城内におびき寄せ、油断したところで潜んでいた兵が大将首を狙う。ガーレルラーン二世はそのような計略を警戒したのだ。彼に万が一のことがあれば、どれだけ戦力が残っていようとも意味はない。南アンタルヤ王国は丸ごとジノーファの手に落ちるだろう。敵がそれを考慮に入れていないはずはない。
もっとも結論から言えば、彼の心配は杞憂だった。城内には本当に、ただの一人もイスパルタ兵はいなかったのである。ただしまったくの無人だったわけではない。行軍の足手まといになると判断されたのだろう。イスパルタ軍の捕虜となった者たちが、地下牢にそのまま置き去りにされていたのである。そして彼らは、ある重要な情報を持っていた。
「敵はクルシェヒルへ向かった、だと?」
「はっ。地下牢に残されていた者たちの内、幾人かがそのように話しているとのことです」
敵の襲撃はないだろうということで、ガーレルラーン二世は床几に座りながらその報告を聞いた。そして太い指で顎先を撫でながら考えを巡らせる。それから彼は報告を持ってきた参謀にこう尋ねた。
「なぜ、捕らえられていた者たちがそんなことを知っているのだ?」
普通、どこを攻めるのかというのは、重要な戦略情報だ。いくら捕虜とは言え、その重要な情報を敵の前でペラペラと喋るはずはない。だが報告に来た参謀は次のようにその事情を説明した。
「実は、ジノーファ本人から尋問を受けたようなのです」
もちろん、最初からジノーファが捕虜を尋問したわけではない。最初に尋問した結果、気になる情報が得られたので、彼が直々にそれを確認しに来たのだ。その際、彼はぽつりとこう呟いたという。
『ということは、クルシェヒルは今、かなり手薄なのだな……』
ジノーファがそう呟いたのは一度だけで、それを聞いたのも捕虜のうちの一人だけだ。だが彼が直接尋問した捕虜は十人以上いて、その半分以上が「ジノーファはクルシェヒルの様子をしきりに聞きたがった」と証言している。
「ふむ」
参謀の説明を聞き、ガーレルラーン二世はそう呟いた。バイブルト城を落としたイスパルタ軍は、次にどこを狙うのか。彼らが狙うべき価値のある場所は二つ。エルズルム城と王都クルシェヒルだ。
エルズルム城を狙うのであれば、必然的にガーレルラーン二世率いる南アンタルヤ軍の主力と戦うことになる。だがクルシェヒルであれば、今は僅かな守備兵しかいない。弱いところを狙うという意味では、理にかなっていると言えるだろう。
「その、捕虜となっていた者たちから直接話を聞く。案内せよ」
「ははっ」
参謀に案内させ、ガーレルラーン二世はバイブルト城へ向かった。同時に、クルシェヒル方面へ斥候を出して様子を探らせる。敵軍の姿は見つけられないだろう。だが大軍が移動したのであれば、必ずやその痕跡がどこかに残っているはずだ。
さて、ガーレルラーン二世が捕虜になっていた者たちから話を聞くと、やはりジノーファは南アンタルヤ軍主力の動向と王都クルシェヒルの様子を気にしているようだった。エルズルム城のことも聞いていたが、なおざりな様子であったという。
三万以上の兵が守るエルズルム城を、同数程度の兵で落とすのは極めて難しい。仮に野戦で南アンタルヤ軍の主力を破ることができたとしても、エルズルム城へ逃げ込まれたら、やはり勝ちきることは難しいだろう。
そうであるなら、クルシェヒルを落して、それを交渉材料にして和睦する、というのはあり得ない話ではないだろう。クルシェヒルには差し出させた人質たちもいる。ガーレルラーン二世が抗戦を望んでも、貴族たちがそれを望まなければ、彼としてもその意見には配慮せざるを得ない。
またイスパルタ軍がエルズルム城を狙うなら、南下してきた南アンタルヤ軍と遭遇していなければおかしい。大軍同士が互いに気付くことなくすれ違うなど、そんな奇跡は起こるはずがないのだから。
イスパルタ軍はバイブルト城にはいなかった。エルズルム城へ向かったとも思えない。そうであるなら、残る候補は王都クルシェヒルだけだ。そしてこの推論を裏付ける報告が、クルシェヒル方面へ偵察に出した斥候からもたらされた。
大軍が野営した痕跡があったというのだ。荷車が通った跡や、大量の馬糞も見つかった。万を超える軍勢がクルシェヒル方面へ向かったことは、もう間違いない。そしてそれほどの大軍は、南アンタルヤ軍を除けばイスパルタ軍だけだ。
斥候が戻ってきたのが夕方だったこともあり、ガーレルラーン二世もその日はバイブルト城に留まった。そして明朝、バイブルト城に一千の兵を残すと、彼は残りを率いてクルシェヒル方面へ向かった。
ガーレルラーン二世がバイブルト城を取り戻したことで、イスパルタ軍の補給線は寸断された。後はその背中を襲えば、敵軍は瓦解する。補給がままならない状況では、再起することもかなうまい。
仮にクルシェヒルがすでに陥落していたとしても、和睦しか道がないわけではない。歴史ある王宮には、幾つもの秘密が眠っているものなのだ。ジノーファはそれを知らない。だがガーレルラーン二世は知っている。その差が運命を左右することもあるに違いない。
ユスフ「せっかく暖かいベッドで寝れると思ったのに」
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というわけで。
今回はここまでです。続きは気長にお待ち下さい。