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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国
191/364

遠征 -転進-


 ――――イスパルタ軍がリュクス川を越えた。


 その報せを受けても、ガーレルラーン二世が驚くことはなかった。相互不可侵条約はすでに失効している。この時期にイスパルタ軍が動くのは想定済みだ。そもそも失効前から遠征があるという噂がクルシェヒルでも流れていた。


 想定外のことがあったとすれば、それは北アンタルヤ王国のことだろう。イスパルタ王国との相互不可侵条約が有効である間に、ガーレルラーン二世は北アンタルヤ王国を滅ぼすつもりでいた。


 しかしその目論見は外れ、北アンタルヤ王国とイスファードは現在に至るまで健在である。なかなか底力があったらしい。とはいえ限界が近いことは報告で分かっている。イスパルタ軍と戦っている間に横やりを入れてくることはないだろう。


 さて侵攻してきたイスパルタ軍だが、南アンタルヤ軍の基本方針としてはエルズルム城とバイブルト城を防衛線としてこれを防ぐことになる。現在、二城にはそれぞれ二五〇〇の兵がおり、さらに今後貴族らも兵を率いて続々と合流してくるだろう。


 ただそれだけではイスパルタ軍と戦うのに足りない。主力はやはりガーレルラーン二世の手元にある近衛軍であり、これをどう使うかが重要になる。要するに、イスパルタ軍の攻撃目標が二城のどちらであるかを早急に見極め、そちらへ主力を合流させなければならない、ということだ。


 主力が二城のどちらかに入った状態でイスパルタ軍を迎え撃てれば、その時点で南アンタルヤ軍の勝利はほぼ決まったようなものだ。ガーレルラーン二世が直接指揮を執るのだから、兵の士気は高いことが期待できる。その上で十分な戦力が揃っているのだから、城は簡単には落ちない。


 そして攻略に時間がかかれば、もう一方の城から別働隊が出て、イスパルタ軍の背後か補給線を狙うだろう。そうなれば敵は攻城戦に全力を注げなくなり、遠からず撤退するより他なくなる。後はそれを追撃してやればいい。


 そのようなわけでイスパルタ軍がどちらの城を狙うのか、それを見極めるのは非常に重要だ。両方に兵を送る可能性もあるが、それは戦力の分散であり、各個撃破してやればよい。恐れることはないし、そのような愚策は敵も採らないだろう。


 だから、リュクス川を渡ったイスパルタ軍が僅かな兵を残し、全軍で北西方向へ向かったと言う報告は決しておかしいことではない。しかしその報告を受けて、ガーレルラーン二世は頬杖をついたままいぶかしげに顔をしかめた。


 北西方向へ向かったと言うことは、イスパルタ軍の攻撃目標はエルズルム城ということになる。そしてクルシェヒルでは、遠征の噂と一緒に「イスパルタ軍の目標はエルズルム城」という噂も流れていた。


 この噂を聞いたとき、ガーレルラーン二世はこれを敵の謀略であると考えた。つまりイスパルタ軍の真の目標は、バイブルト城だと考えていたのだ。それでリュクス川を渡った後、イスパルタ軍がどう動くのか、彼は斥候を出して監視させていたのである。


 そしてその斥候の報告は、前述したとおりイスパルタ軍が北西方向、つまりエルズルム城方面へ向かったというものだった。謀略と疑った噂と敵軍の実際の行動が、しかし一致している。これをどう考えればよいのか。


「あの位置から北西方向へ向かったと言うことは、最短距離でエルズルム城を目指すと言うことでしょうか? まずは西へ、両方の城を狙えるルートを進み、ギリギリまで攻撃目標を隠蔽するものと考えていましたが……」


 南アンタルヤ軍の幕僚の一人が、思案げな顔をしながらそう発言する。確かにイスパルタ軍がそういうルートを選ぶ可能性は高いと考えられていた。とはいえ最短距離を征くのも、それはそれで合理的だ。


 ガーレルラーン二世率いる主力が、後詰めのためにクルシェヒルから出てくるのは分かっている。ならばそれより早くエルズルム城を落とす。そのつもりなのだろう。噂も、南アンタルヤ軍を混乱させ足止めすることが目的であったと考えれば辻褄があう。実際、こうしてイスパルタ軍の動向がはっきりするまでは出陣することができなかった。


「今から出陣したとして、敵に先んじてエルズルム城へ入ることは可能か?」


「恐らくは難しいでしょう。敵軍の足は遅いですが、しかし報告を受けるまでにも時間がかかりました。距離的にも向こうの方が近いですし、三日から四日、ともすれば五日程度遅れることになるかと」


 ガーレルラーン二世の問いに、幕僚の一人がそう答える。それを聞いて彼は重々しく頷いた。周辺の貴族の戦力も合流しているのだ。その程度の時間であれば、エルズルム城は十分に耐えられる。そしてそこへ主力が後詰めすれば、勝負あり、だ。


 とはいえ、あまりゆっくりしているわけにもいかない。ガーレルラーン二世はただちに出陣の準備を命じた。そしてその日のうちに、南アンタルヤ王国近衛軍二万五〇〇〇がクルシェヒルより出陣した。


 少し余談になるが、エルズルム城とバイブルト城を守るそれぞれ二五〇〇の部隊は、いずれも近衛軍の戦力だ。つまりガーレルラーン二世が動かせる戦力は、全部で三万あったことになる。彼もまた戦力を増強していたのだ。


 ガーレルラーン二世がエルズルム城に入れば、彼が指揮する戦力は三万を越えるだろう。それだけですでにイスパルタ軍の戦力を越えている。さらに彼にはバイブルト城の戦力もあるのだ。


『ガーレルラーン二世はこの時点ですでに、勝利を確信していたに違いない』


 後世のとある歴史家はそう書いている。それが事実であったかどうかは、本人だけが知っている。



  □ ■ □ ■



 リュクス川を渡った遠征軍は、エルズルム城方面を目指して行軍を続けていた。今日で行軍三日目だ。遠征軍の移動速度は、お世辞にも速いとは言えない。だが兵糧に加え、攻城兵器の類いも解体した状態で運んでいる。足の速い兵だけで先に行くわけにはいかないのだ。


 今のところ、遠征軍はまだ一度も敵と遭遇していない。この辺りに、というより南アンタルヤ王国の東側に領地を持つ貴族たちは、その戦力をすべてエルズルム城かバイブルト城に結集させているのだ。


 これは、彼らが臆病風に吹かれた、というわけではない。むしろ逆であろう。自暴自棄になって仕掛けてこないのは、南アンタルヤ王国が全体としてしっかりとした戦略を持っているからだ。つまり彼らの戦意は高い。


 だがジノーファは少しも焦っていなかった。遠征は順調に進んでいる。敵と遭遇しないことも想定されていた。二城の戦力が多くなるのは確かに厄介だが、悪いことばかりではない。攻城戦の前に戦力が損耗するのを避けることができる。


 そしてこの日の午後、ジノーファのもとへある報告がもたらされた。「ガーレルラーン二世が二万五〇〇〇の兵を率いてクルシェヒルから出陣した」という報告だ。彼らが向かうのは、言うまでもなくエルズルム城である。ジノーファはそれを聞き一つ頷くと、全軍に休憩を命じた。


 兵たちが腰を下ろして身体を休め始めると、ジノーファは幕僚たちを集めて軍議を開いた。その中でガーレルラーン二世の動向も幕僚たちに報される。想定通りの動きではあるので驚く者はいなかったものの、多少顔をしかめる者が散見される。その一人であるクワルドが腕を組みながらこう発言した。


「二万五〇〇〇か……。想定よりも少々多いですな」


 その言葉にジノーファも頷く。ガーレルラーン二世が兵の入れ替えを行っていることは、クルシェヒルに送り込んだ斥候からの報告で知っていた。それは老兵を新兵に入れ替えることが目的だと思っていたが、どうやら数それ自体も増やしていたらしい。


「エルズルム城には、すでに五〇〇〇以上の兵がいるはず。合流すれば三万以上の兵がガーレルラーンの下で戦うことになります。これを落とすのは骨が折れましょうな」


 幕僚の一人がそう発言すると、同意する声が幾つか上がった。ただ発言者も含め、彼らの声音は決して暗くない。


「とはいえ、悪いことばかりではありますまい。敵はこちらの流した噂を信じたのです」


「左様。それに、新兵は行軍に不慣れなはず。敵軍の移動速度は決して速くはないはずです」


 その発言に、ジノーファやクワルドは大きく頷いた。現在、南アンタルヤ軍は兵を三つに分けている。エルズルム城とバイブルト城の二城と、ガーレルラーン二世が率いる本隊だ。これを全て合わせた南アンタルヤ軍の総戦力は遠征軍よりも多い。


 よって敵が戦力を分散させている間に、少しでもその差を縮めることが重要になってくる。そのための戦略を、ジノーファは用意してきたつもりだ。そして幕僚たちの視線が集まる中、彼はこう命令を下した。


「今日はここで野営する。食事は多めに用意するように。薪は必要なだけ使っていい」


「「「はっ」」」


 短い、しかし気合いの籠もった声が響く。ジノーファの命令はすぐさま全軍に通達された。休んでいた兵士たちは、そのまま野営の準備を始める。その様子を見守りながら、ジノーファはクワルドにこう話しかけた。


「ハザエルとルドガー将軍は、上手くやっているのだろうか」


「二人とも有能な将軍です。兵も精兵ですし、きっと大丈夫でしょう」


 クワルドの言葉に、ジノーファは一つ頷く。ハザエル率いる近衛軍五〇〇〇とルドガー率いるロストク軍五〇〇〇は、今この場にはいない。彼らは計一万の兵を率いて別行動をしている。作戦行動のなかでも特に重要な部分を、ジノーファは二人に任せたのだ。


 兵たちは手際よく野営の準備を進めている。食事の準備のため、あちらこちらで火が焚かれている。そこで燃やされているのは、実はただの薪ではない。解体した状態で運んできた、攻城兵器の類いである。そのまま運んできた破城槌を、斧で細かくしている兵の姿もある。足かせになっていた荷物はこれでなくなった。明日からは行軍速度もあがるだろう。


 この日、遠征軍は早々に移動を切り上げ、早めに休息を取った。そして次の日、彼らは夜明けと共に移動を開始する。彼らが目指すのはエルズルム城、ではない。遠征軍はバイブルト城方面へと、大きく進路を変えたのである。


 遠征軍の目標は、最初からバイブルト城だった。だが普通にこれを狙っても、ガーレルラーン二世が主力を率いて後詰めすれば、遠征軍にはほぼ勝ち目がない。


 無論、彼が来援する前に落とすことも不可能ではないだろう。だが確実に援軍が来るのだから、城を守る兵たちの士気は高い。これを短時間のうちに攻略するのは難しいだろう。それが近衛軍の参謀らが出した結論だった。


 そこでジノーファとクワルドは一計を案じることにした。「遠征軍の第一攻撃目標はエルズルム城」と噂を流したのである。だが噂だけを根拠にしてガーレルラーン二世が動くとも思えない。そこで噂に信憑性を持たせるため、遠征軍は最初実際にエルズルム城方面へ進路を取ったのである。


 この噂の目的は言うまでもない。ガーレルラーン二世が率いる主力をエルズルム城の方へ向かわせ、遠征軍がバイブルト城を攻略するための時間を稼ぐことだ。敵が戦力を分散させている間に、なるべく各個撃破するのである。


 彼がどのタイミングで遠征軍の真の狙いに気付くのか、それは分からない。だが噂と実際の行動が一致した以上、彼は遠征軍の狙いについて疑いを持たないはずだ。そしてエルズルム城方面へ進めば進むほど、彼は大回りをすることになる。


 そしてガーレルラーン二世はジノーファの狙い通りに動いた。ただ最初にエルズルム城方面に向かったことで、遠征軍もまたバイブルト城へ向かうには大回りをしている。行軍速度が遅かったのは、なるべく大回りしないようにするためだったのだ。攻城戦の装備は、それを不審に思わせないための、良いカモフラージュだった。


 ここから先は時間との勝負だ。急いでバイブルト城へと向かう必要がある。そのために足かせとなる攻城戦の装備を、ジノーファは薪として処分させたのだ。さらに食事を多めに用意させることで、翌朝はすぐに移動を始められるようにした。


 とはいえ攻城兵器がなければ、バイブルト城の攻略もおぼつかない。そこでジノーファは攻城戦の装備をもう一セット用意することにした。遠征軍本隊がエルズルム城方面へ移動を始めた後、これらの装備を渡河させ、先にバイブルト城方面へ送っておくことにしたのである。


 そして、その装備を受け取る任務を託されたのが、ハザエルとルドガーだった。二人は途中で本隊から離れて来た道を戻り、リュクス川のほとりに残していった後方部隊と合流。本命の装備を受け取り、バイブルト城方面へと向かったのである。


 ちなみに別働隊の主将はハザエルだった。いくら有能とは言え、本来客分であるルドガーに主将の責を負わせる訳にはいかないのだ。


 ただ、彼らは最短距離でバイブルト城へ向かったわけではなかった。それだと本隊と合流するまでに時間がかかるからだ。そこで彼らはやや北寄りに弧を描くようにしながら、バイブルト城へと向かった。


 合流地点はあらかじめ定められている。もっとも、全てが計画通りに進むと過信するのも危険だ。それで本隊と別働隊の間で頻繁にやり取りをしつつ、合流地点は柔軟に変更することになっていた。


 さて、ジノーファ率いる遠征軍の本隊二万は、進路を大きく変えてバイブルト城へと向かった。ガーレルラーン二世はもちろん、南アンタルヤ軍の将兵はまだ誰一人としてこの動きに気付いていない。そのことがこの戦争にまた新たな局面をもたらそうとしていた。


 そもそものきっかけは、ジノーファが流した噂である。「遠征軍の第一攻撃目標はエルズルム城」。その噂を耳にし、さらに遠征軍が実際にエルズルム城方面へ向かったのを見て、この地域に領地を持つ南アンタルヤ王国の貴族たちは噂は真実だったと判断した。


 その結果、エルズルム城よりもバイブルト城のほうへ、貴族たちはより多く参集することになった。記録によれば、エルズルム城にはおよそ四〇〇〇の兵が合流し、一方でバイブルト城には六五〇〇の兵が合流している。つまり合計で、エルズルム城には六五〇〇、バイブルト城には九〇〇〇の兵がそれぞれいたわけだ。


 このように戦力的不均衡が生じたわけだが、その原因である貴族たちの思惑は生々しい。第一に遠征軍の矛先を逃れるためであり、第二にガーレルラーン二世の指揮下に入るのを避けるためであり、また第三に敵の補給線を寸断するか、あるいはその背中を襲って手柄を立てるためだ。


 要するに、自由気ままにやりつつ、労せずに大きな戦功を手にしようと考えたのだ。いかにもアンタルヤ貴族らしいと言える。そして彼らは早速行動を開始しようとしていた。遠征軍の補給線を襲うことを考えたのだ。


 軍規上、バイブルト城に参集した貴族たちとその兵らは、城砦司令官の指揮下に入ることになる。そして城砦司令官の方針は、防備を固めつつ、ガーレルラーン二世の命令を待つことだった。


 しかし貴族たちにしてみれば、それでは面白くない。遠征軍がエルズルム城方面へ向かっていることを、彼らはすでに知っている。つまり自分たちは攻撃目標になっていないのだ。それなのに城に籠もって守りを固めておくというのは、愚かで無駄なことであるように彼らには思えた。


 さらに言うと、地政学的な条件もあり、彼らは北アンタルヤ王国へ兵を向けることがあまりできていない。つまり彼らはこれまで、新たな領地を獲得するチャンスに恵まれなかったのだ。


 しかしこうしてイスパルタ王国との戦争が始まった。この戦争で功績を挙げれば、新たな領地を得ることもできるだろう。そしてその絶好の機会が、いま目の前にあるのだ。貴族たちが目の色を変えても不思議ではない。


 貴族たちは一団となって城砦司令官に詰め寄り、バイブルト城から出陣して敵の補給線を襲うよう進言した。いや、進言と言うより脅迫と言った方が正確かも知れない。何しろ貴族たちの方が兵の数は多いのだ。彼らが武力蜂起をほのめかすに至り、ついに城砦司令官は折れた。


「……分かった。出陣を許可する。ただし志願者だけだ」


 それが城砦司令官にできる精一杯の譲歩だった。それを聞き、貴族たちは満足げに頷く。そして意気揚々と司令室を後にした。


「よもや出陣を躊躇う臆病者はおるまいな!?」


 仲間の貴族らを前にして、彼らを煽るかのようにそう話したのはメルースィン伯爵という一人の貴族だった。彼は貴族たちの中では最も多い、二五〇〇の兵を率いている。爵位が最も高かった事もあり、貴族たちの中では自然と彼がまとめ役になっていた。


 そのメルースィン伯の檄を受け、バイブルト城に参集した貴族たちは「おうっ!」と威勢の良い声を上げる。メルースィン伯は満足げに頷いた。


 こうして主に貴族らの領軍からなる、南アンタルヤ軍六五〇〇がバイブルト城から出陣した。彼らは東を目指して進む。「脆弱なイスパルタ軍の後方部隊を襲う」。彼らの頭にはそれしかなかった。


クワルド「高い薪だな……」

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― 新着の感想 ―
[一言] 後方を脅かすどころかいるのは敵のトップが率いる主力とは悲惨だ…。
[良い点] ヒャッハー新鮮な更新ダァ! [一言] 「命と比べたらとても安い薪だ」
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