手紙の行方
『我が辺境伯家が王権を握れば、北アンタルヤ王国にはさらなる援助ができるだろう』
メフメトのその言葉が、耳の奥に残って消えない。シャガードは唸りそうになるのを堪え、代わりに表情が険しくなった。彼は今、一人で私貿易の取引の様子を見守っている。だが頭の中では別のことを考えていた。
ネヴィーシェル辺境伯家が王権を握る。まさかイスパルタ王国から独立するつもりではないだろう。ということは、現在の王家を打倒してそれに成り代わるということだ。つまりメフメトはジノーファへの謀反を企んでいると言ったのだ。
「なぜそんなことを」とも思うが、しかしシャガードはそれほど意外には思わなかった。アンタルヤ王国が三つに分かれたことで、時代は騒乱期に突入したのだ。そして他でもないジノーファが自分の力で一国を興した。「ならば自分とて」とメフメトが思ったとしても不思議ではない。
(だが、可能なのか……?)
シャガードは考え込む。今回の遠征では、恐らくイスパルタ王国の戦力の大半が動員されることになる。相手があのガーレルラーン二世では、中途半端な戦力を出しても意味がない。やるならば全力だ。そうなれば必然、王都マルマリズは手薄になる。メフメトはそこを突くつもりなのだ。
メフメトから押しつけられた手紙は、宛名を確かめる事もまだしていない。だが「イスファード陛下に伝えてくれ」と言われた。彼が北アンタルヤ王国に望んでいるのは、戦力面での協力であろう。
例えば北アンタルヤ軍を五〇〇〇ほども動かせば、現在誘引作戦を継続している七五〇〇と合わせ、一万二五〇〇の戦力になる。手薄になったマルマリズを落とすには、十分な戦力であろう。
マルマリズを掌握し、全国の貴族や代官に号令を下す。彼らがそれに従えば、王権を手中に収めたと言っていい。北アンタルヤ王国の協力によって王権を得たとなれば、ネヴィーシェル王家は大きな借りを作ったことになる。報償はもとより、その後の協力も惜しむまい。
だが話はそれほど簡単ではないだろう。ジノーファの手元には大軍が残っている。謀反を知れば彼は急いで引き返して来るはずで、これを打ち倒さなければ誰もネヴィーシェル辺境伯家の王権など認めはするまい。
またロストク帝国のこともある。マルマリズを強襲した際、首尾良く王妃マリカーシェルと王太子アルアシャンの身柄を押さえられれば良い。だが逃してしまった場合、帝国は決して謀反人を許さないだろう。例えジノーファを討ったとしても、帝国はアルアシャンを旗頭に大軍をもって襲来する。
その際、イスパルタ王国は混乱しているだろうし、北アンタルヤ王国にもそれほど余裕があるわけではない。南アンタルヤ王国がこの好機を逃すとも思えず、結局、両国は滅ぶだろう。特にネヴィーシェル辺境伯家は無残な最期を遂げるに違いない。
(要するに……)
要するに謀反を成功させるには、ジノーファと戦って勝ち、さらには炎帝ダンダリオン一世と戦って勝つ必要がある、ということだ。ジノーファに対しては奇襲を仕掛ける事になるから、それほど分は悪くないだろう。だがダンダリオン一世とは正面切って戦うことになる。果たして勝てるのか。シャガードは楽観的にはなれない。
(そもそも……)
そもそも、時間が足りない。北アンタルヤ軍をイスパルタ王国へ送るための準備は、当然だが全く行われていない。イスパルタ軍の遠征に合わせて動くとして、準備が間に合うという保証はない。もろもろ現地調達という手もあるが、それにしたって最低限の準備は必要なのだ。
またそれ以前の問題として、それだけの余力があるのかも定かではない。例えば五〇〇〇の兵を用意したとして、その戦力は当然別のところから引き抜くことになる。そして引き抜けるとすれば北の防衛線か、南のシュルナック城しかない。だがどちらも慢性的な戦力不足。この上さらに兵を減らせば、それだけで戦線が崩壊しかねない。
(だが……)
だがこのまま何もしないでいても、遠からず南北の戦線は限界を迎えるだろう。なら例えば、マルマリズの掌握まで協力するのはどうか。報償として金貨を二万枚程度もらい、さらに今後の貿易では手形や証書の使用を認めさせる。これなら少ない労力で一定程度は国内事情を好転させられるはずだ。
その後の協力は、状況を見ながらになるだろう。ネヴィーシェル王家がしっかりと王権を確保できるようなら、本格的に同盟を結ぶこともできる。だが国内をまとめられず、ジノーファに敗北するようなら、見捨てるより他にあるまい。
その場合であっても、イスパルタ王国は混乱しているはずであるから、北アンタルヤ王国に手出しをする余裕はないだろう。南アンタルヤ王国の矛先も、イスパルタ王国へ向くかも知れない。そうなれば北アンタルヤ王国は態勢を立て直す時間を得られる。
そこまで考え、シャガードは「ふう」と一つ息を吐いた。頭を回転させたおかげで、少し冷静になれた気がする。取引の方に意識を向けると、作業はまだ続いている。物々交換的な支払いが多く、確認作業に時間がかかるのだ。だが今はその方が都合がいい。シャガードはまた考えを巡らせた。
(メフメトは本気なのか?)
シャガードはまずそこを疑ってみた。乱世の中、有力貴族が王権の奪取を目論むのは、歴史的に見て決して珍しいことではない。だがそれを口にしたからと言って、本当にそのつもりであるのかは分からない。確かに謀反は珍しくないが、敵を貶めるために嘘をつくのはもっとありふれている。
仮にこの話が全て謀略であったとしたら、北アンタルヤ軍はイスパルタ王国へ足を踏み入れた瞬間に撃滅されるだろう。そして逆にイスパルタ軍の侵入を許すに違いない。最悪、そのまま滅亡だ。滅亡は回避できたとして、国土は大きく切り取られることになる。
(もしや誘引作戦はそれを見越して……!?)
その可能性を思いつき、シャガードは慄然とした。北アンタルヤ王国の国土を切り取れば、それだけ防衛線の負担も増えることになる。だが誘引作戦のおかげで、北アンタルヤ王国の防衛線の、特に東側は落ち着いて来ている。つまり新たに管理することになっても、負担はそれほど大きくない。
それを考えると、罠である可能性が高くなったように、シャガードには感じられた。加えて謀反を口にした話の中で、メフメトはロストク帝国の援軍のことを何も話さなかった。やはり彼は全てのことを話してくれたわけではないのだ。もしかしたら本当に知らないのかも知れないが、それで謀反を起こそうというのはいかにも危うい。
(やはり、罠か……?)
シャガードはそう思った。しかしその一方で、引っかかりを覚える。眉間にシワを寄せて考え込み、そしてはたと気付いた。先ほどの話の中で、メフメトはダーマードの名前を一度も口にしていない。
ネヴィーシェル辺境伯家とは言っていた。だが辺境伯家の当主はダーマードだ。罠にしろ本気で王権の奪取を目指すにしろ、それを主導するべきはダーマードであるはず。だがメフメトは彼の名前を出さなかった。
(乗っ取る気なのか……? いや……)
あるいは、先走ったか。いずれにしてもダーマードが何も承知していないのであれば、話は全く違ってくる。そんな不確実な話、イスファードはもちろん、ファティマにも伝えることはできない。ネヴィーシェル辺境伯家の当主が相手でなければ、どんな話も法螺と大差はないだろう。
仮にメフメトの先走りだとすれば、これは面白いカードになるかも知れない。シャガードは唐突にそう思った。どんな思惑があるにせよ、表面上メフメトが企てているのは謀反だ。これが外へ露見すれば、ネヴィーシェル辺境伯家としては苦しいことになる。彼の急進的な動きを、ダーマードは快く思わないだろう。
であれば逆に、メフメトを売るという選択肢が出てくる。つまりこの手紙を、イスファードではなくダーマードに届けるのだ。自分の指示を越えて動いた息子を、彼は許さないだろう。少なくとも私貿易の担当からは外すはずだ。
一方でシャガードに対しては、今後遠慮しなければならない部分が出てくる。恩着せがましくしては反感を買いかねないが、上手くやれば多少なりとも譲歩を引き出すことができるかも知れない。
現在の私貿易では、足下を見られているのは分かっている。これをせめて適正価格に正すことができれば、北アンタルヤ王国の負担はかなりの程度軽くなるだろう。限界を迎えるその時を、先延ばしできるに違いない。
加えていざという時には、ダーマードとネヴィーシェル辺境伯家を頼ることができる。シャガードはいま北アンタルヤ王国のために働いているわけだが、しかし彼に国と心中するつもりはさらさらない。いざとなれば国を捨てて逃げるつもりであり、その際に頼れる伝手があれば心強い……。
そこまで考えると、シャガードは一つ息を吐いてから視線を上げた。確認作業もそろそろ終わりそうだ。彼がぼんやりとその様子を眺めていると、不意にその中の一人と目が合った。その者の視線は鋭く、そして冷徹だ。その瞬間、シャガードは心臓を捕まれたのではないかと錯覚した。
視線が外れる。目が合ったのは一瞬だったが、シャガードの背中はゾワリと粟立った。気のせいだと考えるのは簡単だが、しかしそうではないと彼は直感する。表面上は平静を保ったが、彼の心臓の鼓動は大きくて早い。背中に冷たいものを感じ、彼は焦りを覚えながら記憶を探った。
(あの者は、確か……)
バラミール子爵側の人間であったはずだ。私貿易の割と最初の頃から、ずっと関わっていたように記憶している。名前は分からない。下っ端で、これまでは気にしていなかった。だがあの目は、ただの小間使いの目ではない。
(まさか……!)
隠密や密偵と言った類いの人間なのか。その可能性に思い至り、シャガードは首筋に冷たいものを感じた。彼は「ネヴィーシェル辺境伯家は密偵を抱えている」と聞いたことがあるのを思い出す。まさか、あれがそうなのか。
思えば、ネヴィーシェル辺境伯家は私貿易の最初から関わっているのだ。当初は表に出てこなかったものの、しかしバラミール子爵に全く任せきりにしていたとも思えない。取引の様子を知るため、また勝手なことをしていないか監視するため、密偵の一人や二人送り込んでいたとしても不思議ではない。
(気付かれた、のか……?)
シャガードは懐に隠したメフメトの手紙に意識を向ける。二人が何事かを小声で話し、それからメフメトがいかにも秘密と言った様子で手紙を渡した。その一部始終を見られていたとすれば、辺境伯家の密偵が危機感を覚えてもおかしくはない。
(殺される……!?)
後から考えれば、それは突拍子もない考えだったのだろう。しかしシャガードはこのとき、本気でそう思ったのだ。メフメトから聞いたのが謀反の話であったことも関係しているに違いない。
このままでは、遠からず自分は殺される。そして手紙を奪われるだろう。手紙を失うのは仕方ないとして、命を失うのはごめんだ。ではどうすれば良いのか。シャガードは知らず知らずのうちに、白くなるほど手を強く握りしめていた。
「先に行っていてくれ」
取引が終わり帰路に就くと、シャガードは商隊の者たちにそう声を掛けた。部下がいぶかしげに首をかしげ、こう尋ねた。
「どうされたのですか、シャガード卿」
「しょんべんだ。すぐに戻る」
部下たちが笑うのを聞きながら、シャガードは雑木林の中に入った。そして十分に距離を取ってから、彼は誰にともなくこう話しかけた。
「……いるのだろう? 出てきてくれないか?」
一拍の後、シャガードの斜め後ろから“ジャリ”と土を踏む音がした。彼は内心でびくりとしたが、それでも何とか平静を保ち、さらに一拍おいてからゆっくりと振り返る。そこには先ほどの、鋭い視線の男がいた。
特徴のない顔つきをした男だ。密偵としてはその方が優秀なのだろう。今は温厚そうな笑みを貼り付けている。もっとも作り笑いだと、シャガードはすぐに分かった。そしてその男が、シャガードにこう尋ねる。
「……どうして私がいると気付かれたのか、お伺いしても?」
「勘だ。いてくれて良かった」
「これはこれは。参りましたな」
シャガードの答えを聞き、男は苦笑を浮かべた。今度は演技ではないな、とシャガードはなんとなく思った。とはいえ、それで緊張がとけたわけではない。彼は手が震えないようにしながら、懐に隠していたメフメトの手紙をその男に差し出した。
「目的はコレだろう?」
「……よろしいので?」
「ああ。私はまだ死にたくないからな」
シャガードがそう答えると、男はまた苦笑を浮かべた。そして「では遠慮なく」と言ってシャガードから手紙を受け取る。それを大事に懐にしまってから、男はシャガードにさらにこう尋ねた。
「他に何か、我が主にお伝えすることはありますかな?」
「ならば、シャガードをよろしく、とダーマード卿にお伝えしてくれ」
それを聞いて男は僅かに眉を動かしたが、しかし何も言わずに一礼した。そして音もなく立ち去り、雑木林の木々に紛れて姿をくらませた。
男の姿が見えなくなると、シャガードはようやく安堵の息を吐いた。今更のように身体が震え出す。彼は荒い呼吸を繰り返してそれを鎮めた。指先に感覚が戻ってくる。最後に深呼吸をしてから、彼は部下たちのところへ戻った。
結果的にシャガードの独断で全てを判断してしまった形になったが、彼はそれを後悔していない。密偵はこうしていたのだ。どのみち、奇襲は成功しなかっただろう。もともと勝算もそれほど高くはないように思えたわけだし、北アンタルヤ王国にとってもこれが最善の道であったはずだ。
(メフメトは……)
メフメトを売る形になってしまった。そのことにシャガードは多少なりとも罪悪感を覚える。だが謀反を口にした以上は、それなりの覚悟はあってしかるべきだろう。いきなり巻き込まれたシャガードは被害者であるとも言える。もっとも、慰謝料はふんだくったが。
今回の一件で、シャガードはダーマードに名前を覚えてもらうことができた。北アンタルヤ王国がいよいよ危なくなった時には、彼を頼ることができるだろう。それを考えれば、彼個人としてもこれは悪い結果ではない。
(まあ、これは最後の保険だな……)
シャガードは内心でそう呟き苦笑した。彼とて、北アンタルヤ王国が滅亡しても良いとは思っていない。上司であるファティマは何とか良い落し処を探ろうとしているし、彼はそれを助けたいと思っている。
だがそれでも、北アンタルヤ王国の限界が近いのは歴然たる事実だ。この点に関しては、メフメトよりもむしろシャガードの方が厳しい認識を持っている。だからこそ、保険は必要なのだ。
もっともこのとき、シャガードは勘違いをしていた。彼はあの密偵の主がダーマードだと思っていたが、実は違う。あの密偵を送り込んだのはジノーファだ。だからあのメフメトの手紙も、ジノーファの手元に届くことになる。彼がこの勘違いに気付くのは、もうしばらく先のことだ。
何にしても、メフメトには不本意な事であったに違いない。彼はもとより、シャガードなど眼中になかった。そのシャガードに足を取られて、彼は転ぶことになる。得意げな絶頂のその瞬間に、彼の笑みは凍り付く。
そしてこの日を最後に、メフメトとシャガードが顔を合わせることは二度となかった。
シャガード「ヘタレと言いたければ言うがいい! 安定志向万歳!」




