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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国
184/364

囁く


 シェリーと昼食を食べた後、ジノーファの執務室にはまたスレイマンとクワルドが来ていた。ジノーファは二人にシェリーから見せてもらった手紙のことや、帝位継承の問題について説明する。彼の話を聞くと、二人は揃って唸った。


「なるほど、そのような事情がありましたか……」


「まあ、帝位継承うんぬんはわたしの憶測だが」


「いえ、十分にあり得ましょう」


 スレイマンの言葉にクワルドも頷く。ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争が長引き、そのために援軍を出しているロストク帝国が苛立ちを強めているのは事実だ。「大軍をもって介入し、戦争を終結させつつ貿易港を確保するべし」と主張する一派がいることも、彼らはバーフューズからの報告で知っている。


 ただ、その一派の勢力は思った以上に強かった。ダンダリオン一世にもそういう気持ちが少なからずあったということだ。こうなると戦争への介入が現実味を帯びてくる。そして恐らくはこの時点で、この問題が後継者の問題と結びついたのだろう。


 ロストク帝国は必勝を期さねばならなくなった。もしも手こずれば、次期皇帝たるジェラルドの器量に疑問符が付くことになる。帝位継承にともない、国内に混乱が生じかねない。だからこそ時勢を見極め、十分以上の兵を用意する必要がある。正直イスパルタ王国のことにまで構っていられない、というわけだ。


「これ以上の援軍は、無理でしょうな。むしろ『兵を出せ』と言われないだけ僥倖かと」


 スレイマンがそう言うと、クワルドは「不承不承」といったふうながらも一つ頷いた。大軍を催すのであれば、当然そこに同盟国であるイスパルタ王国の兵を加えるという選択肢もあったはずだ。


 しかしダンダリオン一世はそれを要請しなかった。むしろ一万の援軍を出した。実際に動くのがいつになるのか分からないとか、まかり間違ってもウファズを失うわけにはいかないとか、いろいろ理由はあるのだろう。だが形ばかりの援軍にすることもできたはず。しかし彼はそうせず、むしろできる範囲内で最大限の配慮をしたのだ。


 クワルドが不満そうにしながらもそれを口に出さないのは、その辺りの事情を慮っての事だろう。どの国も戦力には限りがある。そうである以上、優先順位を設けるのは当然だ。そして他国よりも自国を優先するのもまた。


 加えてイスパルタ王国としても、帝位継承の問題は決して人ごとではない。ロストク帝国が揺らげば、その影響は確実にイスパルタ王国にも及ぶからだ。後ろ盾が頼りなくなるのは、イスパルタ王国にとって死活問題と言って良い。


 また年齢的なことを考えても、ジノーファが国王として長く付き合うのは、ダンダリオン一世ではなくジェラルドの方だ。となれば、帝位継承が滞りなく行われて彼の治世が安定することは、イスパルタ王国にとっても望ましい。


「もともと、これはイスパルタ王国の問題だ。ロストク帝国の力ばかり借りるわけにはいかない。我が国は帝国の属国ではないのだから」


 ジノーファがそう言うと、スレイマンとクワルドは畏まって一礼した。幸い、ガーレルラーン二世が東にさける戦力はそれほど多くない。勝利することは十分に可能だ。


 もちろん、戦場に絶対はない。だが近衛軍を中心とした編成で遠征を成功させれば、イスパルタ王国内におけるジノーファの発言力はさらに強まる。そうなれば最上の結果、と言って良いだろう。


「相互不可侵条約の失効まで、まだ多少の時間はある。修正できる範囲で、計画を練り直そう」


「「ははっ」」


 畏まって答える二人の顔に、不満の色はもう無くなっていた。無論、完全に納得したわけではないだろう。だがロストク帝国にも無視できない事情があることは分かった。不満を飲み込むことはできる。


 その後、三人は顔を突き合せて遠征計画の修正を行った。もちろん、大幅な修正はできない。だが手持ちの戦力でいかにして戦うのか、その部分はかなりの程度洗練されたように思う。


「勝てる、かな?」


「勝てますとも。必ずや」


 クワルドは力強くそう答えた。相互不可侵条約の失効まで、あと二ヶ月。ガーレルラーン二世もその期限を意識しているに違いない。決戦の時が、近づいていた。



 □ ■ □ ■



 その日、私貿易の取引現場にはピリピリとした空気が流れていた。この日だけの話ではない。少し前からこの状況で、日増しに緊張の度合いは高まっている。イスパルタ王国と南アンタルヤ王国の間で結ばれた相互不可侵条約。その失効があと一ヶ月のところにまで迫っているのだ。


 もちろん、北アンタルヤ王国が条約の失効に直接関係しているわけではない。だが期限を迎えれば、イスパルタ王国と南アンタルヤ王国を取り巻く状況は大きく変化する。そしてその影響は、多かれ少なかれ北アンタルヤ王国にも影響を及ぼすだろう。シャガードらが懸念しているのは要するにそれだった。


「それでメフメト、例の件はどうなっているんだ?」


 少々苛立った様子で、シャガードは旧友にそう尋ねた。北アンタルヤ王国とイスパルタ王国で足並みを揃え、南アンタルヤ王国に対して休戦交渉を迫る。彼がメフメトにその方針案を伝えたのは、もう二ヶ月近く前のことだ。


 だが現在に至るまで、明確な返答がない。ダーマードがマルマリズへ赴き、スレイマンに話をしたことは聞いている。ということはジノーファにもこの話は伝わったはず。それなのに何の回答もないのはどういうことなのか。そのことにシャガードだけでなく、彼の上司であるファティマもまた、最近は苛立ちを見せるようになっていた。


「どうなっていると私に言われてもな。こちらも王都からの回答待ちだ」


 メフメトは肩をすくめてそう答えた。実際、休戦交渉に乗るのか乗らないのかの判断はまだ示されていない。だがその一方でこの件に関する現時点での方針は定まっている。「時間を稼ぎつつ、糸は切るな」。それが王統府から伝えられた指示だった。


 その指示に従い、メフメトはこれまでずっと明確な回答を避けてきた。というより、彼もはっきりとしたことは分からないのだ。そもそも答えようがない。ただその一方で、彼は苛立つシャガードやファティマを宥めるようなことは何もしてこなかった。


 私貿易が続く以上、糸が切れてしまうことはあり得ない。メフメトがそう考えていたのは事実だ。だが同時に、彼にとっては何もしない方が都合が良かった。シャガードやファティマが苛立つのは、要するにジノーファに対してだ。つまり反ジノーファとも言うべき感情が、二人の中で育つことになる。


「ジノーファはアテにならない」。メフメトはそう思わせたかったのだ。ジノーファは北アンタルヤ王国をぞんざいに扱っている。シャガードやファティマにそう印象づけることで、ジノーファを頼っても無駄だと思わせたいのだ。


 では頼りになるのは誰か。それは私貿易によって北アンタルヤ王国の生命線を保ち、さらに数々の便宜を図ってきた存在。つまりネヴィーシェル辺境伯家だ。北アンタルヤ王国が生き残るにはネヴィーシェル辺境伯家と手を組むしかない。そう思わせることがネヴィーシェル王家の再興に繋がると、メフメトは信じている。


「なぜだ……」


 シャガードが険しい顔をしてそう呟いたのを聞き、メフメトは内心でほくそ笑んだ。やはり不満が溜まっている。そしてそれは不信につながるだろう。いや、つなげるのだ。そのためにメフメトは小声でこう囁いた。


「実は、な……」


 そう言ってメフメトは周囲を窺う様子を見せた。それを見て、シャガードがいぶかしげな顔をする。顔を近づけてきた彼の耳元で、メフメトは小さな声でこう告げた。


「近々、遠征が計画されている。目標はクルシェヒルだ」


「……!」


 シャガードは思わず息を呑んだ。相互不可侵条約の失効と同時に兵を動かす。おかしな事ではない。そしてその目標がクルシェヒルであることも、イスパルタ軍の立場からすれば当然であろう。


「では回答がないのは……」


 あえぐようなシャガードの言葉に、メフメトは険しい表情を作り頷いて答えた。これから戦争をするつもりでいるのに、休戦交渉の話になど乗るわけがない。シャガードはすぐにそれを理解した。


 だがはっきりと断れば、イスパルタ王国は何か行動を起こすつもりであると、北アンタルヤ王国に勘付かれる事になる。ジノーファが明確な返答を寄越さないのは、それを嫌ったからに違いない。


(いや、それだけではないな……)


 シャガードは素早く頭を巡らせる。イスパルタ軍の目標はクルシェヒルだとメフメトは言った。だがクルシェヒルの手前にはエルズルム城とバイブルト城がある。この全てを攻略するのはかなり難しい。


 となれば、どこかで交渉に舵を切る可能性は十分にある。その際、北アンタルヤ王国と足並みを揃えられれば、南アンタルヤ王国とガーレルラーン二世に大きな圧力を与えられるだろう。


 今すぐの交渉は望まない。だがどこかのタイミングで、北アンタルヤ王国が役立つことがあるかもしれない。それまで回答せず、選択肢をキープしておく。恐らくはそれがジノーファの腹の内であろう。シャガードはそう考えた。


「では、今は遠征の推移を見守るより他にないか……」


「本当に良いのか、それで。ジノーファ陛下は北と南を、天秤にかけておられるのかも知れないのだぞ」


 メフメトにそう言われ、シャガードは顔を強張らせた。イスパルタ王国が足並みを揃えるとして、それが北アンタルヤ王国である保証はない。南アンタルヤ王国と足並みを揃え、北アンタルヤ王国を切り分けることで、交渉をまとめてしまうかも知れないのだ。


「それに、クルシェヒルが目標となれば、遠征は長引くかもしれん。お前たちはその間、待っていられるのか?」


「イスパルタ軍が攻めてきたとなれば、ガーレルラーンも北へ差し向けている戦力を呼び戻すだろう。我々の負担は軽くなるはずだ」


「呼び戻さなかったら?」


 身も蓋もなくメフメトにそう問われ、シャガードは押し黙った。確かにその可能性はあるのだ。現在、北アンタルヤ王国を脅かしているのは、主に南アンタルヤ王国の貴族たちの軍だ。呼び戻すとなればこの戦力になる。


 だがガーレルラーン二世は手柄を立てて力を付けることを望んでいない。そしてクルシェヒルの城壁は堅牢だ。ならばそれを頼りにして、自らの力だけで戦おうすることは十分に考えられる。


 そもそも北から戦力を呼び戻すとして、北アンタルヤ王国を放置することはできないのだ。それなら北はそのままにしておき、西のカスリム将軍を呼び戻すか、もしくは新領土から新たに兵を集めるという選択肢もある。むしろそうする可能性の方が高いだろう。


 イスパルタ王国の遠征は、必ずしも北アンタルヤ王国を助けることにはならない。そして遠征の趨勢がはっきりするまでは、ジノーファも北アンタルヤ王国と足並みを揃えることはしないだろう。むしろ事と次第によっては、北を切り捨てることもあり得る。シャガードは暗澹たる気持ちになった。


 取引が終わり、戻っていくシャガードの背中を見送りながら、メフメトは内心で優越感に浸っていた。彼はまだ、北アンタルヤ王国とネヴィーシェル辺境伯家が手を組むという、肝心の話はしていない。だが着々と相手を絡め取っているという実感がある。獲物を思い通りに走らせるのは、狩りの醍醐味だろう。彼の口元には、自然と嗜虐的な笑みが浮かんだ。


(シャガードは……)


 シャガードは遠征の話をファティマにするだろう。それを聞いてファティマは、そしてイスファードはどう思うか。今、ジノーファの頭の中は遠征のことでいっぱいで、休戦交渉のことはなおざりにしている。そう思うに違いない。


 遠征の目標をクルシェヒルと偽ったのも、それが狙いだ。クルシェヒルが目標となれば、イスパルタ王国は全力を挙げて遠征に取り組まなければならない。休戦交渉の話が蚊帳の外に置かれるのは必定だ。


 そうすると、北アンタルヤ王国は選択を迫られることになる。つまり局面が変化してイスパルタ王国が休戦交渉を望むようになるのを待つのか、それとも他国には期待せず自国の力で何か行動を起こすのか。それを選ばなければならない。


 ただ前者を選ぶとしても、目標がクルシェヒルなら遠征が長引くことも十分に考えられる。勝つにしろ負けるにしろ、趨勢が決するまで北アンタルヤ王国の体力が保つのか分からない。いざ交渉に臨もうとして、発言力を確保できなければ意味が無いのだ。


 また万が一、イスパルタ軍がクルシェヒルを落としたらどうなるか。ガーレルラーン二世を討ち取れるかは別としても、イスパルタ王国の勢力は一気に広がることになる。むしろイスパルタ王国こそが、次に北アンタルヤ王国を圧迫するかも知れないのだ。ファティマは、そしてなによりイスファードは、その可能性を考えずにはいられないだろう。


 では北アンタルヤ王国単独で行動を起こすのはどうか。これも難しいだろう。そもそも単独でどうにか出来るなら、すでにしているはずだ。単独ではどうにもならないからこそ、足並みを揃えることを提案してきたのだ。


 もしも本当にどうしようもならなくなり、北アンタルヤ王国が単独で動くことを決めたとしても、それはかなり分の悪い賭けになる。防衛線からも戦力を引き抜くことになるだろう。失敗すれば、北アンタルヤ王国の全土が表層域に飲まれかねない。当然、再起を図るなど不可能だ。そこまでのことを覚悟するのは、容易ではないだろう。


 耐えるも地獄、進むも地獄。北アンタルヤ王国は完全に行き詰まっている。そこへ手を差し伸べてやれば、彼らは恥も外聞もなく縋り付いてくるに違いない。メフメトが望む状況はまさにそれだ。


 ネヴィーシェル辺境伯家と手を組むより、北アンタルヤ王国が生き残るすべはない。その状況に追い込んでから、たっぷりと恩を着せてやる。そうなれば北アンタルヤ王国はメフメトの思うがままだ。


(実際に動くのは……)


 実際に動くのは、おそらく数年後。メフメトはそう思っている。今回の遠征の目標がエルズルム城とバイブルト城であることは、彼もダーマードから聞いて知っていた。遠征が首尾良く終われば、次の遠征ではクルシェヒルを狙うことになる。逆に二城を落とせなければ、やはりまた遠征を行わなければならないだろう。


 つまりメフメトは、最低でももう一回遠征があると考えていた。そして実際に北アンタルヤ王国と手を組み、王都マルマリズを強襲するのはその時になる、というのが彼の見込みだった。


 幸いにして、と言うべきか。今回の遠征に、ネヴィーシェル辺境伯家は兵を出さない。誘引作戦を継続することになっており、例え遠征が失敗しても辺境伯家に大きな損害はでない。次の遠征までの間に準備を進め、また北アンタルヤ王国をしっかりと取り込む。そうすれば、蜂起の成功は間違いない。


(唯一懸念があるとすれば……)


 それはイスファードが今回の遠征で動いてしまうことだ。「クルシェヒルを攻略中であれば、イスパルタ軍は容易に引き返して来ることはできない。今こそマルマリズを強襲する好機である」と、メフメトは次回の取引の時にでも吹き込むつもりでいる。ネヴィーシェル辺境伯家は手を組める相手だ、と北アンタルヤ王国に認めさせるのが目的だ。


 繰り返しになるが、メフメトが実際に蜂起するつもりなのは、今回ではなく次回の遠征時だ。そしてそれは数年後になるだろうと、彼は思っている。その時までには、あるいは家督も譲ってもらえるかも知れない。それを考えればやはり、今すぐ動くよりも次回の方が都合がいい。


 私貿易を維持している限り、数年くらいは北アンタルヤ王国も保つはずだ。足並みを揃えての休戦交渉が成功すれば、国力の回復も期待できる。北アンタルヤ王国をネヴィーシェル辺境伯家にしっかりと依存させるためには、それくらいの時間は必要だろう。


 だがイスファードがメフメトの言葉を真に受けて覚悟を決めてしまった場合、彼の予定は狂うことになる。もちろん、今から動くのは準備不足もいいところで、そんなことは実際には起こらないだろうと彼も考えている。だがもしも起こってしまったらその時は……。


(その時は、私も覚悟を決めなければなるまい)


 メフメトは馬上で手綱を強く握りしめた。時勢は待ってくれない。そして時勢に乗り遅れた者に、勝利の女神は微笑まないのだ。

 

シャガード「男に囁かれてもな」

メフメト「私だって女に囁きたかったさ」


~~~~~~~~~


今回の更新はここまでです。

続きはまた気長にお待ち下さい。


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― 新着の感想 ―
[一言] 身の程を弁えているという点においてはジノーファや帝国の皇族、メフメトとイスファードなどで対称的だと思う。 イスファードに関してはそれよりも焦りが大きいとも思うけど。 アルヴェスク年代記のよう…
[良い点] メフメトの思考 自分なら出来るという根拠のない自信の上に作り上げた都合の良い考えが非常に滑稽です [気になる点] メフメトは、北アンタルヤの情報源が自分だけと思っているのでしょうね 北ア…
[一言] 上層部の意図を無視して自分のしたいように動く駒はとても厄介というか……クーデターで国を乗っ取ったところでクーデターされるだけとは分からんのか!国主になりたいならスティグマ持ってきてから来いよ…
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