帝国の事情2
王統府にあるジノーファの執務室には、少々重苦しい空気が満ちていた。ジノーファをはじめ、スレイマンもクワルドも、険しい表情をしている。その原因は、援軍に関するロストク帝国の回答だった。
イスパルタ王国は現在、南アンタルヤ王国に対する遠征を計画している。イスパルタ王国は同盟国であるロストク帝国に対し、援軍の派遣を要請したのだが、その回答が今日届けられたのだ。
「援軍は一万、か……」
「しかも『その内五〇〇〇は王都マルマリズに留めること』とある。これでは、実質的な援軍は五〇〇〇と言うことになりますな」
スレイマンはそう言って、力なく首を左右に振った。腕を組むクワルドの顔には、明らかに失望の色が浮かんでいる。ジノーファも彼らの気持ちはよく理解できた。たしなめる気にはなれない。
マリカーシェルの輿入れの際、ロストク帝国は直轄軍三万を動かした。マリカーシェルとイスパルタ王国のためなら三万の兵を動かすと、世に知らしめたわけだ。であれば、援軍の上限もそれくらいであろうと考えるのは当然のことだ。
もっとも上限であるから、それ以下と言うことは十分にあり得る。事実、三万を動かしたとは言え、あのとき国内に入ったのはその内の一万だけだった。それでジノーファらも実際の援軍は一万程度であろうとは思っていたのだ。
しかし現実にはさらに厳しい結果となった。数は確かに一万。ただし遠征のために使えるのは半分の五〇〇〇のみ。残りの半分はマルマリズに置かれることになる。無論、まったく意味がないわけではないが、期待していたほどのインパクトはない。
もちろんジノーファらとて、ロストク軍に頼り切って遠征を行うつもりはない。自力で何とかできるだけの準備はしてきたつもりだ。だが戦力を充実させることは、それとは別問題である。
戦力が余るならむしろ望むところ。予備戦力が必要になったとき、それがなければ取り返しが付かないのだから。そう言う意味ではロストク帝国に、そしてダンダリオン一世に裏切られたという想いが拭えない。
「……マルマリズには、二〇〇〇ほどの兵を残すつもりでした。これを使えるようになった、と考えることはできますが……」
クワルドが険しい表情のままそう発言する。彼の言うようにすれば、確かに遠征のための戦力はもう少し増やせるだろう。しかしいくら同盟国とはいえ、他国の軍に王都を全く任せてしまうわけにはいかない。最低でも一〇〇〇は自国の兵を残す必要がある。積み増し出来るのはたったの一〇〇〇だ。
一方でマルマリズには六〇〇〇の兵が詰めることになる。後方に置く戦力としてはいささか過剰だろう。無論、遠征に失敗して撤退する場合のことを考えれば、この戦力をアテにできるのは心強い。だが最初から失敗した時のことを考えるくらいなら、投入する戦力を増やして成功率を上げるべきではないか。
「この件に関するロストク帝国の思惑を、どう見る?」
「……優先するべきは交易。戦線の拡大は望まない、ということでしょうなぁ」
難しい顔をするジノーファに、スレイマンがそう答えた。イスパルタ王国の建国を認めた以上、ロストク帝国は西方への領土的野心は捨てたと思って良い。帝国の関心は交易。要するにイスパルタ王国が現状のままでも、帝国はあまり困らないのだ。
むしろ戦線が拡大し、本格的な軍事支援をしなければならなくなることの方が、ロストク帝国は困るのだ。差し引きがマイナスでは、イスパルタ王国を建国させた意味がない。ロストク帝国にとってイスパルタ王国は、安全保障上のパートナーではなく、交易のための窓口なのである。
本音を言えば、ロストク帝国は援軍など出したくなかったのかも知れない。しかし援軍を出さなければ大国としての面目を失うし、何よりマリカーシェルの立場が微妙なものになる。加えてイスパルタ軍が敗北すれば、交易にまで影響が及びかねない。
だから、数の上では一万を出す。前述した通り、輿入れの際に国内に入ったのは一万だから、この数に不自然さはない。だがロストク軍をアテにして戦線を拡大されても困る。だから半分はマルマリズに置く。
さらに言えば、マルマリズは交易の中心地だ。ここが陥落し、交易路が寸断されるような事態は、ロストク帝国も望んでいない。むしろ絶対に避けなければならないと思っているのだろう。それでここを守ることには、帝国にとっても意味がある。
「だとすると、帝国は二城の奪取にも否定的なのかも知れません。一度落とした後、返還を条件にまた相互不可侵条約を結ぶ。それが帝国の描く落としどころかもしれませぬ」
スレイマンの話を聞いてから、クワルドは自分の意見をそう述べた。エルズルム城とバイブルト城の奪取が、今回の遠征の目的である。この二城を落とせば、クルシェヒルは目と鼻の先と言って良い。少なくともその間に防衛拠点はない。
ガーレルラーン二世の立場からすれば、非常な圧力を受けるに違いない。何としても二城を奪還しようとするだろう。それによって遠征が長引くことを、ロストク帝国は懸念している。それでジノーファらが和睦に傾くよう、あえて戦力を少なくしたのではないか。そう考えることも出来るわけだ。
もちろん、タダで二城を返してやるわけではない。相応の対価は支払ってもらうことになる。だが今回の遠征におけるイスパルタ王国の目的は、戦線の押し上げなのだ。果たしてそれが達成できるのか、微妙なところになってきてしまった。
「こうなると、ダーマードの持ってきた話が、重要性を増したな」
「北と足並みを揃えて南と休戦交渉をするという、アレですな」
ジノーファの言葉に、スレイマンがそう応じた。クワルドも一つ頷いて同意する。もともと二城を落とした段階で南アンタルヤ王国と講和することは考えられていた。そこへ北アンタルヤ王国を絡めることができれば、ガーレルラーン二世にさらなる圧力を加えることができる。交渉をまとめることも容易になるだろう。
「今一度、ダーマードに手紙を書きましょう。決して糸を切るな、と」
「頼む」
スレイマンにそう告げて、ジノーファは小さく頷いた。もともとダーマードには「すぐに返事をするな」と命じてある。遠征の結果次第で方針は変わるからだ。指示が変わるわけではないが、重さは増した。
その後、ジノーファらはさらに幾つかの点を話し合った。近衛軍の改革は進んでいるが、未だ十分ではない。今回の遠征ではやむを得ず徴兵を行うことになる。ただし徴兵した農兵は後方、物資の運搬などに用いる予定だ。そして話し合いが進み、お昼が近づいた頃、執務室の扉がノックされた。
「失礼いたします」
入って来たのは、シェリー付きのメイドであるリーサだった。彼女がこちらに来るのは珍しい。ジノーファが要件を尋ねると、彼女は遠慮がちにこう答えた。
「シェリー殿下が、ぜひ昼食をご一緒したい、と……」
「シェリーが? 分かった。昼食はシェリーのところで食べよう。そう伝えてくれ」
ジノーファがそう答えると、リーサはホッとした表情をし、一礼してから下がった。もともと今日は執務室で昼食を取るつもりだったから、ジノーファの予定に支障はない。ただ「なぜ急に?」という疑問はある。
(もしかしたら……)
もしかしたら、シェリーの方にダンダリオンから何か手紙が来ているのかも知れない。ジノーファは直感的にそう思った。特に援軍に関するようなことなら、マリカーシェルよりもシェリーのほうに連絡が来るだろう。ジノーファがクワルドとスレイマンに視線をやると、二人も揃って頷いた。
「ひとまずここまでにしよう。続きは昼食後だ」
ジノーファがそう言うと、二人は一礼してから退席する。二人の背中を見送ってから、ジノーファはシェリーの部屋へと向かった。
「父上!」
シェリーの部屋に入ると、たちまちベルノルトがジノーファの足にじゃれついてくる。ジノーファは小さく微笑んで腰をかがめると、息子を抱き上げて腕に座らせた。そして視線を合わせてこう尋ねる。
「午前中は勉強を頑張ったかな、ベル?」
ベルノルトは元気よく「はい!」と答えた。ジノーファが息子の頭を撫でると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。そうしていると、ベルノルトに少し遅れて今度はエスターリアがやはりジノーファの足にしがみつく。彼はもう片方の腕で彼女も抱き上げた。
「よくおいで下さいました。ジノーファ様」
「ああ。ご相伴に預かりに来たよ、シェリー」
柔らかく一礼して出迎えたシェリーに、ジノーファは二人の子供を抱き上げたままそう応じた。室内のテーブルには、すでに美味しそうな料理が幾つも並べられている。用意させたのはシェリーだが、実際に作ったのは王統府の料理長ボロネスだ。
ボロネスはもともとガルガンドーのジノーファの屋敷で働いていた料理人だ。マルマリズの王統府で腕を振るうようになってから早二年。日々研究を怠らず、レパートリーを増やしていた。アンタルヤ風の料理も自分のものにしているし、土地の食材も上手に使いこなしている。今日の料理も、その研鑽の成果がはっきりと現われていた。
シェリーがただ一緒に昼食を食べたかっただけだとは、ジノーファも思っていない。彼女は何か用事があったので、昼食にかこつけてジノーファを呼んだのだ。とはいえ、美味しい料理を食べながら小難しい話をするのも無粋というもの。二人は子供たちも交え、まずは食事を楽しんだ。
「……それで、シェリー。今日はどうしたんだい?」
楽しい食事を終えると、食後の紅茶を一口啜ってから、ジノーファはシェリーにそう尋ねた。シェリーは「実は……」と言って立ち上がり、ベッドの脇の棚の引き出しから、一通の手紙を取り出す。それをジノーファに差し出しながら、彼女はこう言った。
「ダンダリオン陛下から、こちらの手紙が」
「わたしが見ても良いのかい?」
シェリーが一つ頷いたので、ジノーファは封筒を開いて手紙に目を通した。手紙に書いてあったのは、思った通りと言うべきか、援軍の派遣に関するロストク帝国側の裏事情だ。それを読み、ジノーファはそっとため息を吐いた。
ロストク軍の援軍があのような形になった理由。そこにはランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争が関係していた。ただしそれは「戦線をもう一つ抱えたくない」というような理由ではない。
いや、それがないとは言わない。しかし事情はそう単純ではないのだ。まず前提条件として、ロストク帝国は大洋に面する自前の貿易港を持っていない。だがイスパルタ王国との間で自由な交易が保証され、ウファズの恩恵を受けられるようになった。現在、両国で交易が好調なのは、ジノーファもよく知るところである。
この好調な交易状況を見て、ロストク帝国上層部では、「やはり大洋に面する貿易港を自前で持つべきだ」という意見が強まった。そもそもこれは帝国長年の悲願。現実の利益を手にしたことでその声が強まるのは、決して不思議なことではない。
そしてそこへ、ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争が関係してくる。この戦争におけるロストク帝国の立場は、あくまでも「ランヴィーア王国の同盟国」だ。つまりなんら主導権を握れる状況にはない。
だが戦争が長引く中で、帝国側にも「いつまで続けているのか」という意見が多くなった。嫌気が差してきた、と言ってもいい。そこへ「貿易港を手に入れるべし」という主張が加わる。そうすることで以下のように主張する一派が現われたのだ。
曰く「大軍を催してイブライン協商国へ攻め込むべし。これによって戦争の主導権を握り、早期決着を図り、貿易港を手に入れるのだ」
この一派は急速に勢力を拡大した。ダンダリオンもこれを無視できない。何より彼自身、この主張には一理あると考えていた。要するにロストク帝国は今、ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争へ介入する機会を窺っているのだ。
その好機がいつ到来するのかは分からない。だがその時、大軍を催すだけの余力を残しておく必要がある。そうなると、あまり多くの援軍をイスパルタ王国に回すことは出来ない、というわけだ。
『決して、イスパルタ王国を軽視しているわけではない。だが国軍を動かす以上、国益が追求されなければならぬ。そして帝国内の意見は、自前の貿易港を持つことが、国益の最大化に繋がると考えている。となれば、国軍の矛先はそちらへ向けなければならない。この辺りの事情、良くよくジノーファに説明しておいてくれ』
ダンダリオンからの手紙にはそう書かれていた。彼自身、期待に応えるような援軍の規模でないことは承知しているのだろう。そしてジノーファらが不満を持つことも当然と考えた。それでこうして、シェリーにフォローを頼んだのだ。
「……わたしが読んでしまって、本当に良かったのかい?」
手紙を読み終えると、ジノーファは少々悪戯っぽくシェリーにそう尋ねた。彼女はこうして、手紙をジノーファに直接読ませた。事情の説明にはなるかもしないが、それではダンダリオンから頼まれたフォローにはならないだろう。しかしシェリーは悪びれることなくこう答えた。
「大の大人が養娘にフォローを頼むなんて、みっともないとは思われませんか?」
ジノーファは苦笑を浮かべて肩をすくめた。きっとダンダリオンにも「すまない」という気持ちがあったのだろう。だからこうして手紙を書いた。だがシェリーにはシェリーで思うところがあった。だから手紙を直接見せるという方法を取った。
彼女もだんだんダンダリオンに遠慮がなくなってきたな、とジノーファは思う。それは彼の養娘になったからなのか、それとも母親になったからなのか。いや、マリカーシェルの義姉になったから、というのが一番大きいのかも知れない。
「……まあ、何にしても向こうの事情が分かって良かった。どうやら思っていた以上に、帝国は貿易港を重視しているらしい」
「そうでございますね……。長年の宿願ですから、当然と言えば当然なのかも知れませんが……」
「うん。それもそうだけど、多分今回は帝位継承の問題が絡んでいる」
「帝位の継承、でございますか?」
シェリーは意外そうな顔をして首をかしげた。長引く戦争を終わらせ、同時に貿易港を確保する。そこに帝位継承の問題まで絡んでくると言うのが、ピンとこないらしい。そんな彼女に一つ頷いてから、ジノーファはさらにこう言葉を続けた。
「ジェラルド皇太子殿下には、武功が足りない。いや、普通ならもう十分なのかも知れないけれど、炎帝ダンダリオン一世の後を継ぐには物足りない」
ジノーファはそう言い切った。そしてシェリーもそこに異論を差し挟まない。彼と同じ意見なのだ。ただしこれは、二人が特別厳しいわけではない。多くの者がそう思っている。恐らくはダンダリオンやジェラルド本人でさえ。
そこで貿易港だ。貿易港の確保は、ロストク帝国長年の悲願。そして何より、炎帝ダンダリオン一世でさえなしえなかった偉業である。これを果たすことができれば、ジェラルドの求心力は一躍高まるだろう。武功が物足りないと懸念する声もなくなるに違いない。
「それにね、戦争への介入はとても都合がいいんだ」
ジノーファはそう指摘する。もしロストク帝国が戦争に介入して主導権を握ろうとするのであれば、ただ大軍を催すだけでは足りない。ランヴィーア軍の総司令官は王族だからだ。加えてフレイミースがロストク軍三万の司令官になっている。これを越えるか、最低でも並ぶ格の人物を出さなければ、主導権は握れない。
そしてその条件に該当する人物は、ロストク帝国に二人しかいない。皇帝ダンダリオン一世か、皇太子ジェラルドである。つまりジェラルドに任せても不自然さはない。むしろ適任と言って良いだろう。
戦争の早期決着をはかり、貿易港を手に入れ、それをもって後継者に大きな功績を上げさせる。ダンダリオン一世は戦争への介入を、一石三鳥の妙手と考えているのではないか。ジノーファにはそう思えてならない。
「だとすると、帝国としては絶対に失敗できない。十分以上の大軍を用意するだろう。こちらに構っている余裕はない、ということかな」
ジノーファは肩をすくめてそう呟いた。ダンダリオンを責めることはできない。どの国だって、自国第一なのは当然だ。少しロストク帝国に頼りすぎていたかな、とジノーファは心の中で反省するのだった。
シェリーの一言報告書「手紙は直接お見せしておきました」
ダンダリオン「おいぃ……」