帝国の事情1
ある日のこと。この日、ジノーファはマリカーシェルの屋敷で夕食を食べた。和やかに食事を終えた後で、二人は部屋を移して談笑する。マリカーシェルはジノーファの隣に座り、息子のアルアシャンをあやしている。彼女ももう、立派な母親だ。
「ほら、鼻の形はジノーファ様にそっくりです。将来はきっと、凜々しい貴公子になりますわ」
「そうかなぁ。目元はマリーに似ていると思うけど」
そう言ってジノーファは人差し指でアルアシャンの頬を撫でる。アルアシャンは「きゃっきゃ」とはしゃぎ、小さな手を伸ばしてジノーファの指を掴む。彼は小さく微笑むと、そのまま息子の好きにさせた。
アルアシャンが生まれてから、まだ一年も経っていない。乳飲み子の彼が自分に似ていると言われるのは、ジノーファにとって少し不思議な気分だった。とはいえ、ベルノルトの時にはシェリーも同じように言っていたので、母親というのは息子には父親に似て欲しいと思うものなのかもしれない。
ただ周囲の人々は、「アルアシャンはジノーファ似だ」と言っている。その理由は髪の毛だ。アルアシャンの髪の毛はアッシュブロンドで、つまり灰色がかっている。マリカーシェルの髪の毛はピンクブロンドだから、ジノーファの方の血を強く受け継いだと見られているのだ。
余談だが、アルアシャンのアッシュブロンドの髪は、特に国内の貴族たちから評判が良かった。別にその髪を美しいと賞賛しているわけではない。赤毛ではなかったことに、安堵しているのである。
ロストク帝国の皇帝ダンダリオン一世は燃えるように赤い髪を持つ。彼の息子たちもその髪の色を受け継いでおり、マリカーシェルも同系統の髪の色をしている。つまり赤はロストク帝室の色なのだ。
もしもアルアシャンが赤毛であったなら、世の人々はそれをどのように考えただろうか。まるでイスパルタ王家がロストク帝室の分家でもあるかのように受け取ったのではないか。いくら根拠のない噂とは言え、イスパルタ王国の貴族たちにとって面白いことではない。
しかしアッシュブロンドであったことで、その懸念は払拭された。ロストク帝国が最大の後ろ盾であることは事実だが、イスパルタ王国は決してその属国ではないのである。歴とした主権国家であり、そしてこれからもそう有り続けるのだ。
このようにアルアシャンがジノーファ似だと言われるのは、ある意味でイスパルタ王国の貴族や民衆がそう望んでいるからだった。他国のルーツを色濃く持つ王子様というのは、アイデンティティーに引っかかりを覚えるものなのかもしれない。これがお姫様であれば、また話は違ったのかもしれないが。
閑話休題。ジノーファは自分の本当の両親を知らない。当然、両親のどちらに似ているのかも知りようがない。ただ、彼はもうそのせいで寂しいとは思っていなかった。その寂しさを埋め合わせてくれる、大切なものがたくさんできたからだ。
その中にはもちろん、マリカーシェルやアルアシャンも含まれている。だからジノーファはこうして妻子と穏やかな一時を過ごせることが、何よりも幸せだった。ただ彼が国王であり、マリカーシェルが王妃であることは、いつ何時であっても変わらない。それでこういう話題が出るのは、むしろ自然なことなのだろう。
「ところでマリー。最近、帝国の様子はいかがだろうか?」
ジノーファは「帝国の様子」と言ったが、実際のところロストク帝国の動向は、大使であるバーフューズを通じてかなり詳細な情報がマルマリズへ届けられている。それで彼が知りたがっているのは、「帝国の様子」というよりむしろ「帝室の様子」なのだ。
「変わった様子はあまりないようです。シュナイダー兄様があれこれ理由をつけてはお見合いをしたがらないと、お母様が手紙でこぼしていましたわ」
マリカーシェルが楽しげにそう話すのを聞き、ジノーファも小さく笑った。シュナイダーはしぶとく逃げ回っているらしい。とはいえダンダリオンもそれを黙認しているのだろう。だからこそアーデルハイトはやきもきしているのかもしれないが。
(もしかしたら……)
もしかしたら、ユスフがまだ結婚したがらないのは、シュナイダーの真似事でもしているからだろうか。ジノーファはふとそんなことを考えた。だとしたら由々しき問題である。今度手紙に苦情を書くべきだろうか。彼がマリカーシェルにそう尋ねたら、彼女は一瞬ぽかんとした後、声を立てて笑った。
「そ、そう言えば、お母様の手紙と一緒に、お父様とお兄様方の手紙も来たのでした。カミラ、持ってきてくれる?」
ひとしきり笑った後、マリカーシェルはカミラにそう頼んだ。カミラは折り目正しく一礼してから部屋を出て行く。戻ってきたのはおよそ十分後で、彼女は銀色のトレイの上に三通の手紙を載せて持ってきた。
マリカーシェルはカミラから手紙を受け取ると、それをそのままジノーファに手渡した。彼が確認すると、確かにそれぞれダンダリオンと、ジェラルドと、シュナイダーからの手紙だ。最後に彼はマリカーシェルにこう尋ねた。
「わたしが読んでも良いのだろうか?」
「はい。きっとお父様もお兄様方も、そのつもりでしょうから」
マリカーシェルがそう言ってくれたので、ジノーファは礼を言ってから手紙を読み始めた。まずはシュナイダーからの手紙だ。
彼の手紙には、主に交易のことが書かれていた。イスパルタ王国とロストク帝国の間には、非常に開明的な通商条約が結ばれている。そのおかげで今では、ウファズからマルマリズを介してガルガンドーへ、そしてさらに北海の北へと続く交易ルートができあがっていた。言うまでもなくこのルートは双方向のものであり、人とモノと金の流れは非常に活発である。
『最近では、ガルガンドーでも南方の産物が増えた。それを目当てに、ランヴィーア王国からも商人が来ている。あそこはまだ、貿易港を手に入れていないからな。親父殿の判断は正しかったと思う。帝都は以前にも増して活気に満ちているぞ』
シュナイダーの手紙にはそう書かれていた。ガルガンドーで南方の産物が増えたように、マルマリズでは北方の産物が増えている。いや、北方だけではない。ウファズには西方や東方、さらにははるか南方からも船が集まってきている。
少々大げさな言い方をすれば、世界中から人とモノが集まってくるのだ。マルマリズもまたガルガンドーと同じく大変な賑わいで、少々手狭にさえなってきている。北マルマリズがいよいよ必要かとも思うが、予算の目途が立っておらず、悩ましいところだった。
ジノーファはシュナイダーの手紙を読み終えると、つぎにジェラルドの手紙を読み始めた。彼の手紙の文字は、シュナイダーのそれと比べて几帳面な印象を受ける。それぞれの性格がにじみ出ているようで、ジノーファにはそれが少し面白い。
ジェラルドの手紙には、まず彼の家族の事が書かれていた。特にツェツィーリア皇太子妃はマリカーシェルとも仲が良かったらしく、大層アルアシャンの誕生を喜んでいるという。いずれ改めて祝いの品を送ると書かれていた。
家族の話が終わると、ジェラルドの手紙は少し雰囲気が変わった。書かれていたのは、ランヴィーア王国が行っている、イブライン協商国への遠征のことだ。この遠征はジノーファがイスパルタ王国を建てるより前から続いている。開戦からすでに四年近くが経過しているのだが、未だに終わる気配がない。彼はそのことに幾分焦れている様子だった。
『慎重なのはいい。占領地の統治が上手く行っているのは喜ばしいことだ。だが睨み合いと小競り合いを続けるだけで、何ら進展がないのはいかがなものか。さっさと休戦条約をまとめれば良いと思うのだが、双方にそのつもりはないらしい。困ったものだ』
ジェラルドは手紙の中でそう嘆いていた。何しろロストク帝国はこの遠征に三万もの援軍を出している。ロストク軍にも占領地が割り当てられ、そこの税収で派兵の費用はかなりの程度賄われていると聞く。それはそれで良いことなのだが、しかしそのために帝国は兵を撤収させられないでもいるのだ。
ロストク帝国が、そしてジェラルドが何より懸念しているのは、遠征が泥沼化した挙句に長引き、そこに帝国が巻き込まれてしまうことである。いやそもそもこれほど長い間、三万もの戦力を他国に派遣しっぱなしにしていることそのものに、不満や不快感を持っているのかもしれない。「困ったものだ」というのは、彼の偽らざる本心だろう。
「そう言えば、マリーはフレイミース殿下とも手紙のやり取りをしていたね?」
ジェラルドの手紙を読み終え封筒に片付けると、ジノーファはマリカーシェルにそう尋ねた。フレイミースはダンダリオンの三男なのだが、ランヴィーア王国のシルフィエラ王女と結婚し、今はフォルメトに居を構えている。そして何を隠そう、彼こそがロストク軍三万の司令官だった。
もっともこの人事は、ロストク軍を顎で使わせないための、政治的な意味合いが強い。実質的な指揮を執っているのは、別の将軍である。ただしだからといって、フレイミースが完全なお飾りというわけでもない。彼は彼なりに励んでいると、ジノーファも聞き及んでいる。それで彼からまた別の情報が来ているのではないかと思ったが、マリカーシェルの返答はあまり芳しいものではなかった。
「はい。ですが遠いので、そう頻繁には……。あ、でもシルフィエラ様とは、相変わらず仲がよろしいようですわ」
「そう。それは良かった」
ジノーファはマリカーシェルを責めることなく、笑顔でそう応えた。目立った情報がないということは、やはり戦線は膠着状態が続いているのだろう。両国の戦争の行方はイスパルタ王国にも関わってくる。今後も注視していく必要があるだろう。
ジノーファは最後に、ダンダリオンの手紙を読み始めた。彼は手紙の中で娘を気遣い、また孫の誕生を喜んでいた。「シェリーには実の姉のように接し、困ったことがあればなんでも相談するように」と書かれているので、この二人の間でも手紙のやり取りはされているのだろう。
ダンダリオンの手紙には、交易のこともランヴィーア王国のことも書いてあった。そこからイスパルタ王国との関係に結びつけられており、マリカーシェルには「両国の架け橋となれ」と言葉があった。
今のところ、両国の国民が互いに抱く感情は、決して悪いものではない。むしろ交易が活発になるにつれ、双方の国民感情は良い方向へ向かっている。ほんの数年前まで敵国同士であったことを考えれば、大幅な関係の改善と言って良い。
そしてその基盤となる部分に、マリカーシェルの輿入れが関係していることは言うまでもない。そして最近ではアルアシャンが誕生したことで、両国の同盟関係と国民感情に、さらにプラスの影響があった。そのほかにも、彼女が果たしてきた役割は大きい。彼女は確かに、両国の架け橋となってきたのだ。
さらにダンダリオンの手紙には、帝位の継承について匂わせる内容も書かれていた。次の皇帝になるのは、当然皇太子のジェラルド。今すぐにどうこうと言うわけではないのだろう。だがジノーファには、ダンダリオンがタイミングを見計らっているように思えた。
『ジェラルドは優秀だ。仮に今すぐ帝位に就いたとして、そつなくこなすことだろう。まして余の死後に帝位に就くとなれば、葬儀と即位の両方を同時期に行わねばならなくなる。それを考えれば生前に押しつけてしまうのが良いのだろうが、困ったことに至極健康でな。失政もないものだから、退位の理由がない。あとは周辺諸国の情勢を見ながらということになるが、こちらも完全に条件が揃うことなどそうそうあるまい。今しばらくは窮屈な椅子に座り続けることになりそうだ』
嘆いているのか、それとも自慢しているのか。よく分からずジノーファは苦笑してしまった。ただこうして退位の話題を持ち出す時点で、ダンダリオンがそれを気に掛けていることが窺える。
(健康状態に問題がないのは喜ばしい。大きな失政がないのも事実。だからこそ、周囲が陛下を離さないのかもしれない……)
ジノーファはそう思った。客観的に見て、ダンダリオン一世は名君と呼ばれるに相応しい人物だ。ロストク帝国の版図を拡大し、外敵を打ち払い、国を富ませた。民に重税を強いることはなく、スタンピードや自然災害への対応もそつがない。
加えて、ダンダリオン一世は仕えやすい主君だ。気性はからりとしていて爽やか。指示は明快で分かりやすく、決して自分の責任を投げ出さない。人の話を良く聞き、反対意見を言っても嫌な顔をせず、裁量を与えて仕事をさせてくれる。諫言する者を遠ざけず、失敗してもことさら咎めることはせずに再起の機会を与えてくれる。
何より彼は、身分にこだわらずに人材を登用した。彼に見いだされた者たちは多い。当然、その者たちは彼に忠誠を誓う。おまけに聖痕持ちだ。人心を惹きつける要素には事欠かないと言って良い。
トップの交代によって組織が大きく変化することは良くある。国家も例外ではない。まして国王や皇帝が握る権力は、文字通り桁違いである。その影響は広範に及ぶ。だからこそどの国、あるいは領地でも、権力の継承には細心の注意を払うのだ。
繰り返しになるが、ダンダリオン一世は名君と言って良い。その治世が長く続くことを、多くの人が願っているだろう。だがそれは同時に、次の皇帝に対する不安の裏返しでもあるのかもしれない。
(つまり、ジェラルド殿下は実績が足りないと、ダンダリオン陛下は考えている……?)
あるいは、そう見られていると考えている、か。とはいえ手紙にはっきりとそう書いてあるわけでもなく、これ以上のことは考えても仕方がない。ジノーファは手紙を丁寧に折りたたみ、封筒にしまった。
「ありがとう、マリー。参考になった」
ジノーファはそう言って、三通の手紙をテーブルの上に置かれたトレイに戻した。すると、彼の手が空いたのを見たからというわけではないのだろうが、マリカーシェルの腕に抱かれていたアルアシャンが、父親のほうに向かって手を伸ばす。
ジノーファは小さく微笑むと、マリカーシェルからアルアシャンを受け取って抱き上げた。子供を抱く彼の様子は、なかなか様になっている。アルアシャンの上にもう二人いるのだから、当然と言えば当然だ。
「アルは重くなったなぁ」
子供を抱っこしながら、ジノーファはしみじみとそう呟いた。ベルノルトもエスターリアもそうだったが、この時期の子供は一日ごとに成長する。だがジノーファは仕事が忙しく、いつも一緒にいられるわけではない。それどころか、二、三日顔を合わせないことも普通だ。それが少し寂しくもあり、それ以上に申し訳なく思う。
子供たちに寂しい思いをさせていないか、あるいはこれからさせることにならないか、ジノーファは心配だった。アンタルヤ王国の王太子だったころ、彼は両親から全く関心を示されなかった。ユリーシャがいてくれたおかげで孤独ではなかったが、それでも寂しかったのだと今なら言える。
その同じ寂しさを子供たちに味わわせることになるのだろうか。そう思うとジノーファはいたたまれない。それが顔に出ていたのだろう。マリカーシェルが彼にこう声を掛けた。
「大丈夫ですわ、ジノーファ様。ジノーファ様が家族を愛しておられること、ちゃんとみんなに伝わっておりますわ。わたくしやシェリー様はもちろん、ベルノルト様もエスターリア様も。この子は、まだ分からないかもしれませんが……」
そう言ってマリカーシェルは微笑みながらアルアシャンの頭を撫でた。彼がはしゃぐのを見て、ジノーファの顔もほころんだ。それから、少しお酒も飲みながら、二人は他愛もない話に興じる。そして談笑が一段落したところで、少し伏し目がちになりながら、マリカーシェルがこう切り出した。
「そ、それで、その実はお母様からも手紙が来ているのですが……」
「そう言えば、さっきそんな事を言っていたね。シュナイダー殿下のことを愚痴っておられたとか」
「はい。でも、その、他にも色々と書いてあって……」
「うん。アーデルハイト殿下は、何と?」
「その、早く二人目を、と……」
蚊の鳴くような声でそう答えると、マリカーシェルは顔を真っ赤にしてとうとう俯いてしまった。ジノーファも、気恥ずかしくなって苦笑する。それから、なんとなくアルアシャンの方へ視線を逃がした。
「…………今夜は、こちらで休んでいっても大丈夫かな?」
十数秒の静寂の後、ジノーファはマリカーシェルにそう尋ねた。彼女はまた小さな声で「はい」と答える。カミラがスッと近づいて来て、ジノーファからアルアシャンを受け取った。
ジノーファがマリカーシェルの手を取ると、二人は揃って立ち上がった。そして二人は寝室へと下がる。カミラは一礼してその背中を見送った。
カミラ(ウチのお姫様が母親になるとは……。わたしが歳をとるはずですね)