ファティマの提案
「そうか。近衛軍は撤収するのか……」
誘引作戦が始まって二ヶ月弱。私貿易の取引現場で、近衛軍がいよいよ撤収することをメフメトが伝えると、シャガードは名残惜しそうにそう呟いた。近衛軍が撤収すれば、誘引作戦の戦力は半減する。当然、これまでと同じようには戦えない。
「残りの戦力はどうするのだ?」
シャガードはそう尋ねた。それを機に一緒に撤収してしまうのか、それとも規模を縮小しつつも作戦は継続するのか。それによって、北アンタルヤ王国が守る防衛線の負担も、ずいぶん変わってくる。
当初、北アンタルヤ王国には誘引作戦に懐疑的な声もあった。モンスターを誘引すれば、かえって防衛線を危険にさらすのではないか、というわけだ。いや、それさえも結局は見せかけの反対論に過ぎない。彼らは一万という戦力が恐ろしかったのだ。その牙はモンスターではなく自分たちに向けられるのではないか。それを恐れたのである。
だが実際に誘引作戦が始まり、そして効果が現れ始めると、これを危険視する声は消えていった。代わりに大きくなったのが安堵の声である。防衛線の負担が減ったことで、ようやく一息付けるようになったのだ。四二トンもの煌石を支払ったのは大きな出費ではあったが、それ以上の成果があったと言って良い。
正直に言えば、このまま一万の戦力で誘引作戦を続けて欲しい、というのが北アンタルヤ王国の本音だ。今まで通りは無理だとしても、せめて誘引作戦そのものは続けて欲しい。完全に終了してしまえば、遠からず防衛線は元の状態に戻ってしまうだろう。それで続けるように働きかけよ、というのがシャガードに与えられた命令だった。
「兵たちは良く戦った。休息を与える必要がある」
「それは、そうだが……」
メフメトの答えに、シャガードは少しだけ表情を険しくした。言っていることは理解できる。だが答えをはぐらかされたような気がした。
「兵たちを休ませた後で良い。誘引作戦を続けてもらうことはできないか?」
シャガードは単刀直入にそう切り込んだ。要件を察していたのだろう。それを聞いてもメフメトは意外そうな顔はしなかった。「ふむ」と呟き、顎先に手を当てる。それから、彼は逆にこう尋ねた。
「武器を渡した。モンスターも間引いた。防衛線はまだ安定しないのか?」
「一時よりは落ち着いた。そちらのおかげだ。だが何もしなければ、また元に戻ってしまう。それでは意味がない」
シャガードの声は沈痛だった。一息つけたとは言え、余裕が生まれたわけでは決してない。綱渡りのような状況は依然として続いている。それがいつまで続くのか、いつまで続けられるのか、見通しは暗い。
「煌石を二十トン用意しよう。兵を休ませた後で良い。誘引作戦を続けてくれないか?」
「作戦を続けるにしても、近衛軍はもう動かせない。だが五〇〇〇だけでは心許ない。さらに兵を集める必要がある。二十では少ないな。四十だ」
「前回は一万で四二だった。いくら増員するとはいえ、一万も集めるわけではないだろう。四十は多すぎる。二五だ」
交渉の末、煌石を二九トンで決着した。ただし、今度は全て先払いである。その後は、通常の取引を行う。支払いの合計にシャガードが眉をひそめ、ほとんど物々交換と化した取引にメフメトが眉をひそめたが、それももういつものことだ。
イスパルタ王国から引き渡される物品の中には、ロストク軍の装備更新に伴う廃棄品も含まれている。ちなみにコレを渡すのは、ひとまず今回が最後の予定だ。
私貿易を通じて北アンタルヤ王国へ渡された装備は、全部で二万六〇〇〇人分。当初は二万人分の予定だったが、北側からさらなる要望があったので、六〇〇〇人分が追加されていた。もっとも、これでもまだ十分とは言いがたいらしいが。
閑話休題。部下たちが物品の確認作業を行っている間、シャガードとメフメトは特にすることがない。それで作業を見守りながら、シャガードはメフメトにこう声をかけた。
「……ところでメフメト。イスパルタ王国は、そろそろ相互不可侵条約の失効が近いはずだな?」
「ああ。あと一〇〇日ほどだな。それがどうかしたのか?」
平静を装いつつ、メフメトはそう答えた。正直、その話がここで出てくるとは思っていなかった。「まさか遠征計画に勘付いたのか」と彼は内心で身構えたが、しかしシャガードの要件はそれとは別だった。
「知っての通り、北アンタルヤ王国は今、南アンタルヤ王国と戦争状態にある。正直な話、我々は休戦を求めているが、ガーレルラーンがそれを認めない。そこでイスパルタ王国と足並みを揃えて休戦を求めたい、というのがファティマ殿下のお考えだ」
「なんだと……」
メフメトは驚いた様子でそう呟いた。話の内容にも驚いたが、シャガードが王妃ファティマの名前を口にしたことにも彼は驚いている。私貿易における北アンタルヤ王国側の窓口は、あくまでもエズラー男爵のはず。それなのにここでファティマの名前を出すと言うことは、実際には彼女が差配を行っていると認めるようなものだ。
無論、これまでもエズラー男爵の背後には、イスファードに近い大物がいると思われていた。そしてそれを匂わせることで、北側はこれまで何度も圧力を掛けてきたのだ。そしてその結果、メフメトが今この場にいる。
そういう経緯を踏まえれば、ファティマの名前を明らかにすることは、バラミール子爵とネヴィーシェル辺境伯への強力な圧力であるとも受け取れる。当然、二人は反発するだろう。それをどう考えているのか。
「良いのか、そんなことを言ってしまって」
「やむを得ないことだ。こんな大それたこと、エズラー男爵が言い出したとして、そちらは本気で取り合うまい」
「それは、まあそうだが……」
イスパルタ王国と足並みを揃えるということは、つまりジノーファと足並みを揃えると言うこと。イスファードがそれを不愉快に思うのは目に見えている。エズラー男爵では彼を説得することはできないだろう。だが王妃であるファティマなら、彼を説得できる可能性はある。
「イスファード陛下は、ファティマ殿下が必ず説得する。そちらから、何とかスレイマン閣下に話してもらうことはできないか?」
「だがどう説明する? 私貿易のことを表に出すことはできないぞ」
メフメトはぬけぬけとそう言った。実際には、ジノーファは私貿易を黙認しているどころか推進している。その中でこういう話が出たと言っても、彼は「ああそう」としかいわないだろう。だが「ジノーファは知らない」という建前がある以上、これを聞かないのも不自然だ。
「アンタルヤ王国時代のパイプがなくなったわけではない。それに誘引作戦のことがある。アレのおかげで、結果的に、我が国の防衛線の負担は軽くなった。そのことでファティマ殿下が内々に感謝のお気持ちを伝えられ、その時一緒に、というのはどうだ?」
あらかじめ考えていたのだろう。シャガードはよどみなくそう答えた。若干苦しい気もするが、決してあり得ないわけではない。そもそもどのみち、この言い訳が問題になることはないのだ。それでメフメトはこう答えた。
「分かった。父上に話してみよう」
「助かる。こっちに詳しいことが書いてある。ダーマード卿にお渡ししてくれ」
そう言ってシャガードが差し出した手紙を、メフメトは一つ頷いて受け取った。その後、物品の確認作業が終わると、二人は簡単に言葉を交わしてからその場を離れた。
取引の帰り道、メフメトは馬に揺られながら、懐にしまった手紙のことを考えていた。遠征を計画している以上、ジノーファがすぐにファティマの提案に応じることはないだろう。しかしエルズルム城とバイブルト城を落とした後であれば、北アンタルヤ王国を利用して休戦交渉に臨むことは十分に考えられる。
(ふむ……。どうしたものかな……)
ファティマが休戦を考えているのであれば、北アンタルヤ軍を東へ向かわせるようメフメトが働きかけても、彼女がそれを握り潰してイスファードに伝えない可能性は高い。またメフメトも危険分子として警戒されるだろう。
遠征の計画を教えるだけなら問題はない。むしろ休戦交渉に利用しようと考えるだろう。イスパルタ軍優勢である方が、北アンタルヤ王国にとっても交渉は行いやすい。タイミングを計ろうとするはずだ。
そして休戦が成立すれば、窓口となったネヴィーシェル辺境伯家の発言力はさらに大きくなる。北アンタルヤ王国との関係も、多少は改善されるかもしれない。そうなればメフメトはもっと動きやすくなるだろう。
(しかし、な……)
メフメトは苦笑した。遠征計画を教え、同時に「軍を動かすなら味方する」と囁く。そうすることで、イスファードの心を強く掴めるのだ。休戦交渉も悪くはないが、メフメトとしてはやはりそちらの方が魅力的に思える。
「まあ、まだ時間はある」
メフメトは小さくそう呟いた。もともと彼は今回、シャガードに遠征計画のことを話すつもりはなかった。教えてやるのは、遠征が始まる直前にしようと彼は考えている。本当に北アンタルヤ軍が動いてしまうことは、彼も望んではいないからだ。
ともかく、まずは手紙をダーマードに見せる必要がある。今後のことはその反応を見てからだ。そう考え、メフメトは小さくうずいた。
□ ■ □ ■
「イスパルタ王国を巻き込んでの休戦交渉か。面白いことを考える」
ファティマからの手紙を読むと、ダーマードはそう言って小さく笑った。そして手紙をメフメトに渡す。彼は手紙を読み終えると、丁寧にたたんで封筒にしまった。それからダーマードにこう尋ねる。
「ファティマ様は、本当にイスファードを説得できるのでしょうか?」
ファティマが休戦交渉を考える理由は、メフメトにも理解できる。つまり国内経済の破綻を回避し、国力を回復させるためだ。だが国と国の関係となれば、最終的な決定権はイスファードにある。ファティマが彼に大きな影響力を持っているのは事実だろう。しかしそれでも本当に説得できるのかどうか、疑問が残る。
「さて、な。カルカヴァンがどう考えるかだろう」
ダーマードは肩をすくめながらそう答えた。確かに、北アンタルヤ王国の宰相にして義父であるカルカヴァンは、イスファードに対して強い影響力を持っている。そして彼は現在の国内事情に強い懸念を持っているに違いない。休戦を望んだとしても不思議ではないだろう。ただイスファードに対する影響力というのなら、ファティマとカルカヴァンの他に、メフメトはもう一人名前を加える必要を感じた。
「ジャフェルは、どう考えるでしょうか?」
ジャフェルはカルカヴァンの甥であり、ファティマから見れば従兄弟に当たる。このまま行けばエルビスタン公爵家を継ぐことになっており、イスファードにとっては最も信頼できる同年代の臣下と言えるだろう。その彼の判断もまた、イスファードに大きな影響を与えることは、疑問の余地がない。
「ああ、そう言えば奴がいたな。今はどうしているのだ?」
「防衛線の指揮を執っている、と聞いています」
メフメトがそう答えると、ダーマードは「そうか」と呟いた。防衛線の指揮を執っているのであれば、おそらくジャフェルはイスファードよりも、イスパルタ王国の存在を身近に感じているに違いない。
何しろ、二万六〇〇〇人分の装備を投じたのは防衛線だし、また誘引作戦で恩恵を受けたのも防衛線である。要するに軍事的な観点で見た場合、防衛線を指揮するジャフェルは、南の戦線を維持するイスファードよりも、イスパルタ王国からより多くの援助を受けているのだ。そうであるなら、休戦交渉を通じイスパルタ王国との関係が改善すれば、防衛線はより直接的な援助を受けられるようになる、と考えてもおかしくはない。
しかしこうしてみると、イスファードに影響力を持つ三人は、全てエルビスタン公爵家の縁者だ。もっともこれまでの経緯からすれば、それも当然かもしれない。そして彼らの中で最大の発言力を持つのは、言うまでもなくカルカヴァンである。
ということは、イスパルタ王国を巻き込んでの休戦交渉は、そもそも彼の発案なのかもしれない。仮にファティマの発案だったとして、実際に行動に移す前に相談くらいしているだろう。であればやはり、こうして手紙を送りつけてくる前に彼の同意は得ているはずだ。
何にしても、ファティマもカルカヴァンもジャフェルも、それぞれ休戦交渉に前向きになる理由がある。そしてこの三人が一緒になって説得すれば、イスファードも首を縦に振るだろう。もしそれで駄目なら、誰にも説得はできない。北アンタルヤ王国とイスパルタ王国の対立は決定的なものになる。
「では、イスファードを説得できる公算は高い、と?」
メフメトの言葉は、疑問と言うよりむしろ確認だった。ダーマードも一つ頷いて同意する。そして彼は少々皮肉げにこう答えた。
「カルカヴァンがよほど呆けていない限りにおいては、な」
イスファードを直接説得するのは、恐らくカルカヴァンの役割だ。ファティマとジャフェルの意見を取りまとめた上で、彼が代表して話すという形になるに違いない。つまり内堀はほぼ埋まっている格好だ。そしてイスパルタ王国が休戦交渉に同意すれば、外堀も埋まることになる。
これで本丸を落とせなければ、カルカヴァンは相当な無能であろう。無論、そんな無能が危機的状況にある北アンタルヤ王国を支えられるはずもない。であればやはり、説得は成功すると見るべきだ。イスパルタ王国が同意さえすれば。
「大叔父上には、お伝えしますか?」
「伝えねばなるまい。ともすれば、遠征の計画にも影響が出る」
ダーマードは真剣な表情でそう答えた。現在の遠征計画では、北アンタルヤ王国と歩調を合わせて休戦交渉を行うことなど想定されていない。このカードが計画にどれほどの影響を与えるのか、彼にはちょっと分からなかった。
大きな影響を与える可能性はある。しかしその一方で影響は最小限になるかもしれない。遠征計画はすでにほぼ完成しているはず。休戦交渉を前提に練り直すとなれば、相互不可侵条約の失効までに時間が足りない。ジノーファやクワルドがそれを嫌がることは十分に考えられる。
「ともかく、儂はマルマリズへ赴く。後のことは任せたぞ」
「はっ、畏まりました。……ところで、ファティマ様の名前を出した以上、向こうがそれを利用することが考えられます。いかがいたしましょう?」
つまりこれまで以上に圧力を、それも露骨にかけてくるかもしれない、ということだ。その場合、休戦交渉の主導権を握ることも、思惑の一つに違いない。ダーマードは一つ頷くと、短くこう命じた。
「はねつけろ」
「最悪、私貿易を中断することになるかもしれません」
「かまわん。主導権はイスパルタ王国のものだ。私貿易も、休戦交渉も、な」
ダーマードはそう応えた。休戦交渉にイスパルタ王国を巻き込むのはかまわない。だが主導権を握るのはイスパルタ王国だ。そうすることで、より強い立場を得ることができる。
父の言葉にメフメトも一つ頷く。ただ彼は全面的に同意していたわけではなかった。主導権を握るのはイスパルタ王国ではない。ネヴィーシェル辺境伯家だ。彼は胸中でそう呟いた。
シャガード「エズラー男爵があまりに空気な件について」