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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国
178/364

戦火をともす


 イスパルタ王国と南アンタルヤ王国の間で結ばれた相互不可侵条約の失効が、あと四ヶ月ほどのところに迫っていた。しかしこの期に及んでまだ、ガーレルラーン二世は北伐を行っていない。彼はクルシェヒルで沈黙を保っている。その理由は大きく分けて二つあると思われた。


 一つは、北アンタルヤ王国が思ったほどに弱っていない、ということだ。ガーレルラーン二世の基本戦略では、「北アンタルヤ王国を陸の孤島とし、十分に弱らせたところで止めをさす」ことになっていたはず。


 だが北アンタルヤ王国はぎりぎりのところでいまだ粘っている。イスファード率いる北アンタルヤ軍は、南アンタルヤ王国の貴族らの軍勢を払いのけ続けているのだ。北アンタルヤ王国は建国以来、三〇州の国土を守り続けている。


 ガーレルラーン二世の目にこの奮戦はどう映ったのか。「北アンタルヤ王国は未だ余力を残している」。彼はそう考えたはずだ。余力があるとなれば、北伐を迅速に終えられるかは不透明だ。手間取ればイスパルタ軍の侵攻を招きかねない。


 ガーレルラーン二世にとっては計算違いだったろう。その計算違いは言うまでもなく私貿易のためであり、ジノーファは謀略によって彼の足を止めたと言える。


 もっとも、懸案が北アンタルヤ王国だけなら、ガーレルラーン二世はもっと早くに動いていたに違いない。彼がクルシェヒルから動けなかったのは、そこへもう一つ別の理由が絡んでくるからだ。


 その理由とは、新領土とルルグンス法国のことだった。アンタルヤ王国の分裂に乗じ、法国は勢力の拡大を図り、そして惨めにも失敗した。その結果、四二州あった国土は一気に十七州まで減らされてしまったのである。


 そこに目を付けたのが、法国よりさらに西にある国々だった。彼らの目に、法国は弱った獲物に見えたのである。それらの国々は、早い者勝ちと言わんばかりに、法国へ軍を差し向けた。


 敗戦の直後だったこともあり、ルルグンス法国はこれに抗することができなかった。彼らが頼ったのは、言うまでもなく南アンタルヤ王国のガーレルラーン二世である。彼らは必死だった。だがどれだけ必死であろうとも、客観的に見た場合、滑稽で醜悪であることもまた事実だった。


 それを最も強く感じていたのは、他でもないガーレルラーン二世であったろう。とはいえ南アンタルヤ王国の立場からすれば、これを捨て置くことはできない。ちょうど新領土に留まっていたこともあり、彼は手元にあった二万五〇〇〇の兵を用い、法国に対する侵略者を撃退した。ちなみにこのとき、彼は合計で金貨三万枚の賠償金を得ている。


 侵略者は撃退した。法王ヌルルハーク四世はガーレルラーン二世を「救世主」と讃えたが、彼の眉間に刻まれたシワは深い。この勝利が一時凌ぎにしかならないことは明白だったからだ。ルルグンス法国は弱った獲物のままであり、いずれ戦力が回復すれば彼らはまたやって来るだろう。いや南アンタルヤ軍が退いたと知れば、すぐにでも動きかねない。


 つまり南アンタルヤ王国は新領土を得た一方で、新たな紛争地帯をも抱え込んでしまったのだ。ガーレルラーン二世はこれに備えざるを得なかった。ルルグンス法国が地図上から消えてしまうことは、彼も望んでいなかったのである。


 それで、彼はカスリム将軍に二万の兵を与え、新領土の総督に任じた。つまりこの戦力は新領土統治のためというより、ルルグンス法国を狙う外敵に備えるためのものだったのである。


 カスリムは有能な将軍だ。しかし万が一の時には、後詰めせねばならぬ。何しろ新領土の二五州は、すべて天領なのだ。北アンタルヤ王国を降すより、これをしっかりと保持する方が、ガーレルラーン二世にとっては旨みが多い。その優先順位が、彼の動きを封じているのだ。


 また付加的な要因として、兵の質という問題があった。ガーレルラーン二世が自由に動かせる戦力は、現在のところおよそ四万五〇〇〇ある。これはもともと、イスパルタ軍と戦うために集められた戦力だ。かなり無理をして集めたこともあり、新兵や老兵も少なくない。


 カスリム将軍に二万の戦力を与えた際、ガーレルラーン二世はこれに新兵を多く配備した。新兵は経験を積むことで一人前の兵士になる。また体力があるので、国外遠征にも耐えられるだろうと考えてのことだ。


 しかしその一方で、ガーレルラーン二世の手元には老兵が多く集まることになった。老兵はただ老いていくばかりで、精強さを増すことは期待できない。だがクルシェヒルにいる分には、戦力として計算できる。それがまた、彼の足を重くしていた。


 無論、ガーレルラーン二世も手は打っている。つまり兵の入れ替えだ。数は変わらずとも、中身を入れ替えることで、軍の精強さを増そうとしている。ただ新たに集まるのは当然新兵で、一人前に育てるには時間がかかる。それもまた、彼が動くに動けない理由の一つだった。


 そして、そういう南アンタルヤ王国の内情を、ジノーファとクワルドはおおよそ把握していた。クルシェヒルや新領土へ潜り込ませた、隠密衆からの情報である。無論、送られてくる情報は断片的なものが多いのだが、それをつなぎ合わせることで真実の輪郭くらいは見えてくる。


「クワルド、どう思う?」


「好機、と言えるかもしれません。南アンタルヤ王国は五〇州。国土だけを見れば、確かに我が国の二倍近い。ですがすでに二つも戦線を抱えております。東に差し向ける事のできる戦力は、決して多くないでしょう」


 クワルドの言う「二つの戦線」とは、つまり北と西のことだ。南アンタルヤ王国の貴族らの戦力は北に投入されている。西にはカスリム将軍麾下二万が置かれた。ガーレルラーン二世が自由に使える戦力は、それほど多くない。


「クルシェヒルを、落とせると思うか?」


「クルシェヒルは難しいでしょう。ですが、エルズルムとバイブルトの二城ならば、あるいは」


 クワルドがそう答えると、ジノーファは一つ頷いた。エルズルム城とバイブルト城は、クルシェヒルから見てそれぞれ北東と南東に位置する城砦だ。東方、つまりイスパルタ王国を睨む重要な軍事拠点である。


 南アンタルヤ王国にとって、リュクス川を第一防衛線とするなら、この二城を結んだラインは第二防衛線と言える。そして王都クルシェヒルを含めた三つの拠点で描く三角地帯が、南アンタルヤ王国東域の重石となっているのだ。


 逆に言えばこの二城を奪うことで、イスパルタ王国は対南アンタルヤ王国戦線を一気に押し上げることができるのだ。国土も六州程度増える。イスパルタ王国の版図は三二州となり、一方で南アンタルヤ王国の版図は四四州となる。


 これくらいの国力差ならそれほどの圧力は感じずに済むし、何よりその後はクルシェヒルを狙う位置に兵をおけるのだ。安全保障上の主導権は、イスパルタ王国が握ったと言って良い。


 ただ当然、ガーレルラーン二世もエルズルム城とバイブルト城の戦略的重要性は理解している。もともと二城にはそれぞれ五〇〇の兵が詰めていたのだが、二ヶ月ほど前に二〇〇〇ずつ増強された。言うまでもなく、相互不可侵条約の失効を視野に入れてのことだ。


 つまりそれぞれに二五〇〇ずつ、合計で五〇〇〇の兵が第二防衛線を守っていることになる。それにイスパルタ軍がリュクス川を越えたとなれば、当然ガーレルラーン二世は後詰めをするだろう。これを破るのは、決して容易なことではない。


 だがこれ以上待っても、状況がイスパルタ王国優位に傾く見込みはない。むしろ南アンタルヤ王国優位となっていくだろう。北アンタルヤ王国がいつまで保つか分からないし、ガーレルラーン二世麾下の兵の質も徐々に改善されていくと予想される。そもそも新領土から徴兵を行えば、それだけで三万以上の戦力を積み増し可能だ。


 結局のところ、ガーレルラーン二世が動かないのはこのためであろう。つまり待てば待つほど自分が優位になっていくことを、彼は知っているのだ。だから焦らない。焦る必要がない。三年で諸々ケリを付けられなかったのは計算違いかもしれないが、だからと言って彼が追い込まれているわけでは決してない。


 そうなると、イスパルタ王国が動くのはやはり今だ。今ならまだ北アンタルヤ王国が健在で、南アンタルヤ王国は北と西にそれぞれ兵を置かなければならない。誘引作戦のおかげで、防衛線の負担も軽減が見込まれている。決壊の心配は少ない。ロストク帝国との関係は極めて良好。イブライン協商国のことは心配しなくていい。これだけの条件が揃うことは、今後そうそうないだろう。


「陛下、動かれますか?」


「…………動こう。相互不可侵条約が切れたら動く。スレイマンとも相談する必要があるが、クワルドは近衛軍の準備を進めてくれ」


 ジノーファは数秒瞑目してから、重々しくそう決断した。ガーレルラーン二世が、そしてイスファードが、イスパルタ王国とジノーファを認めることは決してない。そうである以上、弱いままでいることはできない。戦い、そして勝たねばならないのだ。


「御意」


 クワルドは静かに一礼した。しかし彼の血は滾っている。王の意向は示された。近衛軍は建国以降初めての遠征に向けて、これからその歯車を動かしていくことになる。平和だった三年間の成果が試されることになるだろう。


「ハザエルの部隊を、呼び戻しますか?」


「いや。計画通り一ヶ月は誘引作戦に従事させる。呼び戻すかは、それから考えよう」


 ジノーファはそう答えた。誘引作戦でもしものことがあれば、ハザエル率いる五〇〇〇の部隊が使い物にならなくなるかもしれない。それは遠征にとって大きな痛手だ。だがそもそも誘引作戦で十分な成果を出さなければ、遠征の前提条件が崩れかねない。クワルドも反対はせず、一つ頷いて了解した。


 その後、幾つかの打ち合わせをしてから、クワルドは退席する。その背中を見送ってから、ジノーファは壁際に控えていた秘書官にこう命じた。


「スレイマンを呼んでくれ」


 ちなみにいつも傍にいる従者のユスフは、今は誘引作戦のために表層域へ赴いている。カイブはそのお供だ。彼が戻ってきたら、色々な仕事をさせようとジノーファは思っている。今すぐには無理でも、十年後くらいには留守役を任せられるくらいになって欲しい。ジノーファはそう思っているのだ。


 秘書官を見送ってからスレイマンが来るまでの間、ジノーファは別の書類仕事をして彼を待つことにした。目を通し、問題がなければサインをして印を押す。気になる点があれば、それを指摘して差し戻す。論外と思えるものはほとんどない。仮にも国王のもとへ上げる書類。事前のチェックはきちんとされている。


「陛下。宰相閣下をお連れしました」


「入ってくれ」


 書類を四枚ほど片付けたところで、秘書官がスレイマンを伴い戻ってきた。ジノーファは二人を中に入れ、それからお茶の用意をさせる。そしてスレイマンに席を勧めてから、彼にクワルドと話し合ったことを説明する。そして最後に、ジノーファは彼の意見を求めた。


「スレイマン、どう思う? 卿の意見を聞かせてくれ」


「弱いのは北だと思いますが……。なぜ先に南を?」


「北は弱りすぎた。平定は簡単かもしれないが、得るものがない。なにより北を平定すれば、防衛線の負担も抱え込むことになる。それよりは南の矛先をそらす、盾代わりにしておいたほうが良い」


 ジノーファはそう答えた。それを聞いてスレイマンも頷く。イスファードにとっては不本意なことだろう。しかしこれこそが、イスパルタ王国の北アンタルヤ王国に対する認識だった。


「それに、北は交渉材料になるかもしれない」


 ジノーファの言う交渉とは、つまり南アンタルヤ王国との交渉である。エルズルム城とバイブルト城を首尾良く奪取したとして、ガーレルラーン二世がそれをそのままにしておくはずがない。必ずや奪還のために兵を、それも何度でも動かすだろう。そうなるとイスパルタ王国は防衛ラインを押し上げる代わりに紛争地帯を抱え込むことになってしまう。


 そこで北アンタルヤ王国だ。北アンタルヤ王国を分割し、それぞれ切り取ることを和睦の条件に織り込んでしまうのだ。そうすれば、ガーレルラーン二世の目は北を向くことになる。


 加えて、イスパルタ軍と南アンタルヤ軍が北アンタルヤ王国で激突するという事態も避けられる。何より二カ国による同時侵攻だ。平定は速やかに行われ、防衛線への影響は最小限で済むに違いない。


「さて、そう上手く行きますかな……」


 ジノーファの見通しを聞き、スレイマンは苦笑気味にそう話した。あり得ないとは言わない。だが相手はあのガーレルラーン二世だ。あの彼がそう簡単にこちらの思惑に乗ってくるだろうか。ジノーファもその懸念は理解できる。それで彼はこう応えた。


「それは分からない。だが、北はかなりの程度、物資を私貿易に依存している。これを維持している限り、北の矛先は南へ向くはずだ」


 イスパルタ王国にとってまず脅威となるのは、北アンタルヤ王国ではなく南アンタルヤ王国。よって先に南を叩く。それがジノーファの考えだった。それを聞いてスレイマンも一つ頷く。そして彼はこう呟いた。


「まあ、極端な話、私貿易を止めさえすれば、北はいつでも取れますからな」


 その物言いに苦笑しつつも、ジノーファは一つ頷いて同意を示した。北アンタルヤ王国は塩を自給できていない。私貿易を止めれば、たちまち塩が不足するだろう。塩を持って行けば、民衆は歓呼してイスパルタ軍を迎えるに違いない。


 この危うい状況を、イスファードは果たして理解しているのだろうか。ジノーファはそれをふと疑問に思った。普通に考えれば、当然理解しているはずだ。そして対策を講じているはず。もし何もしていないのなら、それだけ北アンタルヤ王国の状況は悪いと言うことになる。


「……ともかく、北が健在なうちに南との国力差を縮めたい。それがわたしの考えだ。スレイマン、卿の意見を聞かせてくれ」


「……よろしいかと思います。南との戦は、避けては通れませぬ。ならば先に動くことで、主導権を握ることができましょう」


 さらに踏み込んでいって相手の領地で戦えば、自国の領地が荒らされることもない。スレイマンはそう語り、ジノーファも一つ頷いて同意した。そんな彼にスレイマンはさらにこう勧める。


「ロストク帝国にも、援軍を求めましょう」


「そうだな。わたしの方から、ダンダリオン陛下に宛てて親書を書く。バーフューズの方へ送ってくれ」


「畏まりました。……ところで、ダーマードとオズデミル卿はどうなさいますか?」


 一つ頷いてから、スレイマンはそう尋ねた。今回の遠征では、当然国内の貴族らの戦力も動員することになる。そこへダーマードとオズデミルも加えるのか、スレイマンはそれを確認しているのだ。


 言うまでもなく、今回の遠征はイスパルタ王国にとって総力戦になる。ロストク帝国にも援軍を求めるのだ。国内の戦力を遊ばせておく余裕はない。それを考えれば、当然両名の戦力も動員するべきだ。


 しかしながらイスパルタ軍の遠征中に、北アンタルヤ王国で防衛線が決壊するようなことがあっては困る。それを避けるため、誘引作戦を遠征中も継続するというのは選択肢として有りだ。


 そしてダーマードとオズデミルの戦力は現在、誘引作戦に投入されている。ならばこのまま誘引作戦に従事させておく、というのも一つの手だ。


 また北アンタルヤ軍のことがある。三年前の独立戦争の折り、イスファードは軍を率いてイスパルタ王国国内へ侵攻した。そして今もまだ、彼はジノーファとイスパルタ王国への敵対的な姿勢を崩していない。


 もちろん、当時と今とでは事情が異なる。だがこの脅威を軽視するべきではない。警戒のために二人の戦力を残しておくことには、十分に戦略的な意義があるだろう。それでジノーファはこう答えた。


「二人の戦力は動かさない。このまま誘引作戦を続けさせよう。二人には、わたしから直接説明する」


「御意」


 もともとこの二人は動かさないほうが良いと考えていたのだろう。スレイマンは反論することなく静かに一礼した。


 こうして、ジノーファはクワルドとスレイマンから遠征の了解を取り付けた。退席するスレイマンの背中を見送ってから、ジノーファは一つ息を吐く。これから戦争をする。自分の命令でたくさんの人が死ぬだろう。下したその決断が重い。


 ジノーファは小さく首を横に振った。何を今更、と自分に言い聞かせる。人ならもう、独立戦争の折りに死んでいる。立ち止まることは許されない。せめて少しでもマシな国を造ろう。彼は改めてそう思った。



クワルド「近衛軍は、断じて、給料泥棒ではない!」


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