北アンタルヤ王国の事情
「そう、メフメト卿が……」
報告のためにやって来たシャガードの話を聞き、ファティマは小さくため息を吐いた。彼女は現在、エルビスタン公爵家の領主代行を務めている。ただしそれとは別に、私貿易に関する北アンタルヤ王国側のまとめ役もこなしていた。要するに、北アンタルヤ王国側の私貿易に関する采配は、事実上彼女が行っているのだ。
シャガードは彼女の父であるカルカヴァンが公爵家で召し抱えた人材だ。ただ、彼を私貿易で使うことにしたのはファティマだった。足りない人手を補うためであり、また私貿易の様子を直接自分に報告させるためでもある。そしてその彼から、今日彼女は無視できない報告を聞くことになった。
私貿易の取引現場に、ネヴィーシェル辺境伯家世子のメフメトが現れたというのだ。しかも話を聞く限り、私貿易で主導権を握っているのはバラミール子爵ではなくネヴィーシェル辺境伯ということになる。
「『物資の手配は、最初から辺境伯家が行っていた』か……。確かにその方が色々と納得できるけれど……」
ファティマは報告書を読みながらそう呟いた。引っ掛かる部分は多々ある。だがこうしてメフメトが出てきた以上、それは事実なのだろう。何より、「本当にバラミール子爵が全て取り仕切っているのか?」という疑問は彼女自身も抱いていた。
きっかけは私貿易で入手した物品のリストである。よくよく考えてみれば、それらの物品を入手するためには、イスパルタ王国全土から買い付けなければならない。それを秘密裏に行うだけの力がバラミール子爵にあるのか。私貿易のかなり初期の頃から、ファティマはそれを疑問に思っていた。
だからバラミール子爵家の背後にネヴィーシェル辺境伯家がいたと知らされても、それほど大きな驚きはない。そもそもアンタルヤ王国時代から両家は同じ派閥に所属しており、歴史的に見ても結びつきが強い。最初から両家が結託していたと考える方が自然だ。問題はなぜこのタイミングで辺境伯家が出てきたのか、ということである。
「ねえ、シャガード。一応聞いておくけど、辺境伯家が前に出てきた理由について、メフメト卿は何か言っていた?」
「『必要になったからだ』、と」
「まあ、そうよねぇ」
ため息を吐いてそう呟くと、ファティマは椅子の背もたれに身体を預けた。これまでネヴィーシェル辺境伯家が前に出てこなかったのは、私貿易を大げさにしたくなかったからだろう。しかしそれを翻してまで、辺境伯家は前に出てきた。
私貿易の主導権を握るべく、イスファードが圧力を掛けたからだ。ダーマードはそれを不愉快に思い、反発したのだろう。だから世子であるメフメトを派遣してきた。絶対に主導権は渡さないという意思表示だ。実際、ネヴィーシェル辺境伯家が相手では、圧力を掛けて屈服させるというのは難しい。
そもそも物資の流れが著しく偏っている以上、私貿易における北アンタルヤ王国の立場は弱い。この上、ネヴィーシェル辺境伯家にまで出てこられては、主導権を握ることはほぼ不可能だろう。それどころか、今後はますます足下を見られかねない。まさに藪をつついて蛇を出した格好だ。
それでもこの件について、ファティマはイスファードを非難できない。「圧力を掛けて主導権を握れ」というのは彼からの指示だが、それを了解して実際に動いたのはファティマだからだ。悩みはしたが、必要だと判断し、異論を唱えなかったのだ。
その背景には、北アンタルヤ王国の厳しい実情があった。人的資源が払底しかけており、それが国内の生産能力の低下に繋がっている。かろうじて戦力は維持されているが、どこもかしこもギリギリだ。
それだけではない。国内から金がなくなりつつあるのだ。ファティマは私貿易を采配している関係上、こちらをより深刻に捉えていた。イスファードは補給線の維持を第一に考えていたようだが、彼女が考えていたことは少し違う。
(足下を見られているのは最初から分かっていた。せめてそれを適正価格に戻せれば、と思っていたのだけれど……)
結果的には大失敗である。今後はネヴィーシェル辺境伯家を相手に、ますます厳しい舵取りを迫られることになる。余計なことをしてしまったと思い、さすがにファティマも徒労感が募った。
「シャガード。あなた、メフメト卿とは親しいのよね? あなたの方からメフメト卿に口添えをお願いできない?」
「話すだけなら、まあ聞いてもらえるとは思いますが……」
シャガードは言葉を濁した。メフメトが口添えしたとして、最終的に判断するのはオズデミルでありダーマードだ。そしてこの二人は間違いなく、圧力を掛けられたことに不快感を持っている。上手くいくかは不透明だ。
「それでも、お願い」
ファティマは背もたれから身体を起こし、言葉に力を込めた。ネヴィーシェル辺境伯家が前に出てきたのは誤算だったが、実際にやって来たのがメフメトであったのは不幸中の幸いだ。オズデミルとは別に、今後は彼も窓口として考えることができる。
「分かりました。やるだけやってみます」
「よろしく頼むわ。それから……、ああでも、魔石での支払いは感触が良かったのね。助かるわ」
「はい。それとその件について、報告書にも書いたのですが、煌石ならもっと高値で計算できる、と」
「煌石、かぁ……」
苦笑の滲む声で、ファティマはそう呟いた。煌石を外へ出すと言うことは、つまりその分だけ経験値を外へ出すに等しい。特に軍事力への影響は大きいだろう。イスファードやカルカヴァンは反対するかもしれない。
ただファティマに限って言えば、それほど悪い案だとは思わなかった。魔石は魔石で需要が大きい。煌石を私貿易の支払いに使えるのなら、魔石の供給に大きな影響を与えずに済むだろう。
「シャガード、あなたはどう思う?」
「魔石だけではかさばります。集めるのも手間でしょう。その辺りの事も考える必要があるかと」
シャガードの意見を聞き、ファティマは「なるほど」と思った。現場で関わっている人間だからこその意見だろう。手間がかかると言うことは、つまりその分、労力や手間賃がかかるということ。これを無視することはできない。
「わたしの方から陛下とお父様にお尋ねしてみるわ」
「お願いします」
「ええ。本当は、手形か証書で何とかなれば、それが一番なのだけど、ね」
「正式に交易を行っているならともかく、私貿易では無理でしょう。オズデミル卿もダーマード卿も、認めるとは思えません」
「分かっています。言ってみただけです」
唇をとがらせ、少々拗ねたようにしてファティマはそう言った。手形も証書も、要するに「後でちゃんとお金を支払いますよ」という約束だ。だが北アンタルヤ王国が相手では、いつ踏み倒されるか分からない。オズデミルもダーマードもそう思っているだろう。何しろ、ファティマでさえそう思っているのだから。
だが現実問題として、北アンタルヤ王国からは金がなくなりつつある。金がなくなれば、国内の経済が回らなくなる。そして経済が破綻すれば、軍事力を維持できなくなる。極端なことを言えば、金貨が尽きるときが国の滅ぶときだ。
(いざとなったら……)
いざとなったら、金目のものは何でも使うしかないだろう。絵画、高級酒、乳香、没薬、香油、ガラス細工、磁器、銀食器。国内で換金するのは無理だから、そのまま持って行くことになる。
バラミール子爵が買い取ってくれるなら良し。ただ、そのお金は私貿易の支払いに回されるわけだから、実質的に物々交換と変わらない。小麦と絵画の物々交換。その様子を想像し、ファティマはげんなりとした。成立すればむしろ僥倖という状況が、彼女をますますげんなりとさせる。気分と話題を変えるべく、彼女はこう尋ねた。
「……ところで、シャガード。何か新しい情報はある?」
「ガーレルラーンは、まだ新たな王太子を立ててはいないようです」
シャガードはそう答えた。それを聞き、ファティマは「そう」と呟く。ファリクもルトフィーも、国王となるには後ろ盾が貧弱だと、ガーレルラーン二世は思っているのかも知れない。
ただ何にしても、南アンタルヤ王国の後継者が決まっていないというのは、北アンタルヤ王国にとっては数少ない朗報だ。ガーレルラーン二世一人を打ち倒すことができれば、活路は開ける。もっとも、現状その目処はまったく立たないわけが。
(後継者、かぁ……)
ファティマは内心で嘆息した。後継者の問題は、北アンタルヤ王国にとっても人ごとではない。イスファードには未だ、一人の子供もいないからだ。彼女自身、この問題では耳が痛い。彼に子供を産んでやるのは、まず第一にファティマの仕事であるのだから。
北アンタルヤ王国の建国が宣言されてからと言うもの、イスファードとファティマはそれぞれが仕事を抱えて別居状態だ。手紙のやり取りはしているから、夫婦仲はそれなりである。だが顔も合わせられないような状況では、子供など望むべくもない。
(わたしも……)
自分もシュルナック城に行くべきだったろうか。領主代行の仕事をするようになってから、ファティマは時折そんなことを考えてしまう。自分のしていることが無駄だとは思わない。やりがいも感じている。だが王妃として、国母としてするべきことは、また別にあったのではないか。
カルカヴァンもこの件については何も言わない。もっとも、イスファードに年頃の娘をあてがうなどしているらしいので、彼なりに後継者がいないことを危惧はしているのだろう。ファティマもそこに関しては何も言わない。言ってはならないのだと、自分を戒めている。
(せめて……)
せめて南アンタルヤ王国と休戦できれば、とファティマは思う。休戦が実現すれば、国内の情勢はもう少し良くなるだろう。軍需品の需要が減れば、財政赤字は確実に圧縮される。イスファードが前線に張り付いている必要がなくなれば、子供をもうける余裕も生まれるに違いない。
危機的な財政状況と後継者の問題。その二つをいっぺんにどうにかする方策が、南アンタルヤ王国との休戦なのだ。せめて二年、時間が欲しい。ファティマは切実にそう思う。それだけ時間があれば、解決できるとはいわないが、状況はかなり違ってくるはずだ。
しかしながら現状、北アンタルヤ王国が単独で休戦を呼びかけても、南アンタルヤ王国が応じる可能性は低い。むしろガーレルラーン二世はいつ北伐を行うのか、そのタイミングを図っていることだろう。
休戦交渉を行うのであれば、イスパルタ王国も巻き込む必要がある。イスパルタ王国と北アンタルヤ王国の国土を合わせれば、五六州に達する。南アンタルヤ王国の五〇州を上回っており、さらに兵の質でも優位に立てる。両国が足並みを揃えて休戦を求めれば、ガーレルラーン二世と言えども無視し得ないはずだ。
イスパルタ王国がこの話に乗る可能性は高い、とファティマは思っていた。もう半年もすれば、南アンタルヤ王国との間に結ばれた相互不可侵条約の有効期限が切れる。だがイスパルタ王国とて、本音を言えばもう少し時間が欲しいと思っているはず。休戦交渉によってその時間を稼げるなら、歩調を合わせてくれる可能性は十分にある。
問題はむしろ北アンタルヤ王国の方だろう。南アンタルヤ王国に休戦を認めさせるには、それを蹴った場合、イスパルタ王国が北アンタルヤ王国寄りの姿勢で参戦する、という脅しが必要だ。
そのためにはどうしても、両国間である程度の協力関係を築く必要がある。イスファードは果たしてジノーファと歩調を合わせられるのか。例え憎い相手であっても、必要とあらば握手をする。彼にその器量があるのか。
言いにくいことだが、ファティマは少し自信がなかった。イスファードは決して無能ではない。むしろ優れた才を持っている。それはこれまで、兵を率いて国を守ってきたことからも明らかだ。
しかしその一方で、感情的になりやすく、人の好き嫌いが激しい。待つことが苦手で、結果として軽率に動いてしまう。結果論ではあるが、今の北アンタルヤ王国の状況がそれを如実に物語っている。
(ジノーファのほうから歩み寄ってくれれば、あるいは……)
ファティマはそう考え、しかしすぐに頭を振った。イスパルタ王国にはロストク帝国の後ろ盾がある。その状況で、敵対的な姿勢を取る北アンタルヤ王国に、わざわざ歩み寄ったりはしないだろう。
もし歩み寄ってくれるとすれば、状況が大きく変化した場合だ。一縷の望みを抱き、ファティマはこう尋ねた。
「シャガード。イスパルタ王国については、何かないの?」
「……マリカーシェル王妃が、男の子を出産されたそうです。名前はアルアシャン。すでに王太子に冊立されたと聞きました」
シャガードは少し言いにくそうにしながらそう報告した。ファティマは表面上取り澄まして「そう」と応えたが、内心は大きくざわついている。彼女とイスファードの間に子供はいない。だがジノーファには、これで三人目の子供が生まれた。しかもイスパルタ王国にとって待望の後継者だ。ロストク帝国の炎帝も喜んでいるに違いない。
どうして、とファティマは内心で呟いた。どうしてこんなにも違うのか。ジノーファは何もかもが順調に見える。一方で自分たちは何もかもが上手くいかない。内心に憎悪がわきそうになるのを、しかし彼女はため息一つで散らした。
私貿易で得る情報は、すべてイスパルタ王国からのもの。自分たちに不都合な情報は遮断しているに違いない。それで問題が何も無いように見えてしまうのだ。国を運営していく上で、問題が何も無いなどあり得ない。
(それに……)
それに、ファティマまでジノーファを憎んでしまったら、だれが彼とイスファードの間を取り持つのか。そもそもファティマにはジノーファを憎む理由も資格もありはしない。人間とは理由も資格もなしに誰かを憎む生き物なのかも知れないが、為政者の端くれである以上、そのような私情は許されないのだ。
ファティマは深呼吸して気持ちを落ち着けた。アルアシャン王子の誕生により、イスパルタ王国とロストク帝国の同盟関係はより一層強固になるだろう。マリカーシェル皇女の輿入れの際、帝国は三万の軍を動かした。今後有事とあらば、帝国は喜んで同程度の軍を動かすに違いない。
しかしその一方でイスパルタ王国はなお一層、ロストク帝国の意向を無視できなくなったはずだ。今後、帝国はどう動くのか。やはり自前の貿易港を求め、イブライン協商国に矛先を向けるというのは、あり得ないことではあるまい。
その場合、炎帝ダンダリオン一世はジノーファにも兵を出すことを求めるだろう。そうなると、イスパルタ王国の西の国境は安定していることが望ましい。休戦交渉のため、ジノーファが北アンタルヤ王国に歩み寄る可能性はある。
「シャガード。メフメト卿とは、上手くやりなさい」
「はっ。イスパルタ側との窓口になってもらうため、でございますね?」
シャガードがそう尋ねると、ファティマは「そうよ」と言って大きく頷いた。以前にイスファードが連携を呼びかけた時にも、メフメトを介することでスレイマンやジノーファの所にまで話を持って行くことはできた。ファティマはそれを重視している。話を持って行かないことには、歩み寄りも連携も成りはしないのだから。
もっとも、今すぐ動くつもりはファティマにもなかった。ひとたび動けば、私貿易のことまで発覚しかねない。情勢を見極める必要がある。それに、実際にイスパルタ王国へ休戦交渉の話をするのであれば、最低でも事前に父であるカルカヴァンの同意を得ておく必要がある。その辺りの事も考えねばなるまい。
その後、ファティマはシャガードからさらに幾つかの報告を受けた。それが終わり彼を見送ってから、ファティマはこう呟く。
「さて、と。陛下とお父様には、どこまで報告するべきかしら?」
ファティマ「石女ではないのよ。断じて。そう断じて!」