野望
大統暦六四三年五月のある日のこと、ネヴィーシェル辺境伯家世子メフメトは父である当主のダーマードから呼び出された。ダーマードはつい先日、王都から帰ってきたばかりである。つまり王都で何かあった、ということなのだろう。メフメトはそう考えつつ、父の執務室の扉をノックした。
「父上、メフメトです。参りました」
「来たか。入れ」
促され、メフメトは入室する。彼はソファーに座り、ダーマードはテーブルを挟んでその向かいに座った。メフメトは父の顔色を窺うが、それほど険しくは見えない。どうやら悪い話ではなさそうだ、と思いつつ彼はこう尋ねた。
「父上、王都の様子はどうでしたか?」
「うむ。マリカーシェル殿下にお子が生まれた。男児だ」
「それは目出度い。それで、お名前は?」
「アルアシャン殿下だ。すでに王太子として冊立されている」
これでイスパルタ王国も安泰だな、とダーマードは喜んだ。メフムトも表面上は和やかに同意し、「真に」と応じる。それから話題を変えて、彼はこう尋ねた。
「スレイマン大叔父上はお元気にしていらっしゃいましたか?」
「ああ。お元気だったぞ。溌剌としておられた。部下が増えて仕事が減ったと笑っておられたが、それでもお前より働いておられるだろうな。若いのだから、お前も頑張らねばならんぞ」
「精進いたします」
メフメトがそう応えると、ダーマードは満足したように「うむ」と頷いた。そしてすぐに彼は表情を引き締める。これから本題を話そうというのだ。メフメトも気を引き締め、心持ち背筋を伸ばして、父の次の言葉を待った。
「メフメト、オズデミル卿が北のエズラー男爵と、私貿易を行っていることは知っているな?」
「はい。父上から教えていただきましたし、私も物資の買い付けに関わっておりますので」
「うむ。それでな、オズデミル卿の言うところでは、向こうが少々不審に思い始めているらしい」
私貿易を通じて北アンタルヤ王国へ流している物資は、イスパルタ王国のほぼ全域から集めている。場合によってはロストク帝国から輸入した物品も含まれており、オズデミルが一人で手配しているとは思えない。仮にそうだとして、ジノーファに勘付かれているのではないか、と言うわけだ。
実際、物資の手配はオズデミルが行っているわけではない。物資の手配はダーマードが行っている。防衛線を抱えている関係上、普段から大量の物資が必要であり、それを賄うための伝手やノウハウ、物流網を持っているからだ。
ただ、これまで私貿易の矢面に立ってきたのはあくまでオズデミルだった。ダーマードが関わっていることは、彼もエズラー男爵には告げてはいない。その方が都合が良かったからなのだが、しかしそのために疑念を持たれてしまった。
いや、疑念や不審それ自体は、北アンタルヤ王国も以前から抱いていたのだろう。何しろ私貿易はすでに二年以上も行われている。この間に北へ流れた物資は膨大だ。それを本当にオズデミルの裁量で揃えることができたのか、疑問に思ったとしても無理はない。
だがこれまでは、北アンタルヤ王国も踏み込んではこなかった。北にとって私貿易は、重要な補給線であり生命線。何より重要なのは、これを維持して兵站を確保すること。確証もないのに疑念だけでこれを切ることなどできるはずもない。何より、これまで私貿易は継続されてきたのだ。それ自体が、問題がないことの何よりの証拠と言える。
そもそもオズデミルはこの私貿易でかなりの富を得ている。それを失うのは彼も避けたいはずだ。私貿易に関わる物事は厳重に管理しているはずで、その彼が「大丈夫」と言うのだから、北アンタルヤ王国もそれを信じていたのだ。
そして実際、ジノーファに差し止められることなく、これまで私貿易は続けられてきた。ただしそれはジノーファに知られていないからではなく、彼こそが私貿易の発案者だからなのだが。
多少の疑念や不審に思うところはあれども、現時点で何か問題があるわけでもない。この私貿易に代わる物資調達手段があるわけでもなく、余計なことをしてチャンネルを閉じられるようなことだけは避けるべき。要するに北アンタルヤ王国はこれまでそういう方針でいたのだ。
それがなぜ、ここへ来て疑念や不信感を表に出し始めたのか。一言で言えば、北アンタルヤ王国の情勢がいよいよ厳しくなってきたからだ。防衛線のことも合わせ、そろそろ限界に近いと言うのがスレイマンやクワルドの見解であり、ジノーファもそれを支持している。
ガーレルラーン二世の北伐はまだ行われていない。だが切り取り自由を許可された貴族らの軍が、この二年間、入れ替わり立ち替わり北の領土を脅かしている。イスファードも必死に迎撃しているが、いよいよ疲弊が隠せなくなってきた。
その状況は、北アンタルヤ王国が求める物品のリストに如実に表れている。武器や食料、ポーションなどの医薬品など、戦の為の物資の注文はずっと右肩上がりだ。さらには衣服など、日用品の注文も増えている。これは国内の生産能力が払底してきていることを示していると言って良い。
要するに私貿易で扱う物資の総量が増えているのだ。これが疑念や不信感を表に出すことに繋がっている。オズデミルの能力を超えているのではないか、と北アンタルヤ王国は指摘してきているのだ。求める品物を手に入れられるのはありがたいが、しかしそのために私貿易それ自体を危険に曝すのは止めて欲しい、と言うのが彼らの言い分である。
さらに、北アンタルヤ王国の情勢は厳しくなっているわけであるから、相対的に見て私貿易の重要性は増している。それで特にイスファードが、強く出てみせることで私貿易の主導権を握りたがっていた。重要な補給線を人任せにせず、自分たちでしっかりと管理したいと考えているのだ。
「まあ何のかんの言って、要するに主導権を握りたいというのが、北の本音だろう」
「同感です」
ダーマードの言葉に、メフメトはそう言って同意した。これまでの実績として、私貿易は問題なく続けられてきた。それをいきなり疑うような真似をし始めたのは、私貿易を取り巻く環境が変化したからではない。北アンタルヤ王国の情勢が悪化しているからだ。
今後、北アンタルヤ王国は圧力を強めてくることが予測された。バラミール子爵領に北から人を入れることさえ、要求してくるかも知れない。オズデミルはもちろん、ダーマードにとってもそれは受け入れられない要求だ。
「……チャンネルを閉ざし、私貿易を止めることは簡単だ。だがジノーファ陛下は今の時点で北に倒れられては困るとお考えであるし、私や叔父上も同じ意見だ。つまり私貿易は続ける必要がある」
妙な話だがな、とダーマードは苦笑しながら付け加えた。北アンタルヤ王国から圧力を掛けられた場合、「私貿易を止めるぞ」と脅すのが一番手っ取り早くて効果的だ。しかしその結果、相手が自暴自棄になって暴発してしまっては、イスパルタ王国としても大変困る。ゆえに例え圧力を掛けられようとも、私貿易それ自体は維持しなければならない。
「では父上、どうされるのですか?」
「うむ。ネヴィーシェル辺境伯家をもう少し前に出すことになった。バラミール子爵家では難しくとも、ウチならば北の圧力もはね除けられよう」
ダーマードがそう言うと、メフメトは大きく頷いた。取り繕ってはいるが、彼の顔は少し得意げだった。「強大なネヴィーシェル辺境伯家」というのは、彼にとって誇りそのものと言うべきものなのだ。
「なるほど。その通りでしょう。では父上。私貿易の窓口は、子爵家から辺境伯家に移るのですか?」
「いや、そこまではせぬ。だが関与は強める。そこで、だ。メフメト、お主にはオズデミル卿のところへ行って、私貿易の仕事をしてもらいたい」
なるほど、とメフメトは思った。彼はネヴィーシェル辺境伯家の世子。彼がそこにいれば、辺境伯家が私貿易に強く関わっていることを示せるだろう。北アンタルヤ王国としても、迂闊な手出しはできなくなるに違いない。
「やってくれるか?」
「はっ。やらせていただきます」
メフメトがそう答えると、ダーマードは満足げに一つ頷いた。それからさらに、二人は事務的な話をする。現在メフメトが行っている仕事の引き継ぎなどだ。それが終わると、彼は父の執務室を辞した。
屋敷の廊下を歩きつつ、メフメトは内心でほくそ笑んでいた。彼は私貿易の話を聞いたときから、何とかこれに関われないかと思っていたのだ。その理由はひどく個人的である。つまり彼は北アンタルヤ王国に伝手を作りたかったのだ。
イスパルタ王国と北アンタルヤ王国の関係は控え目に見ても良好とは言えない。むしろ敵対的と言った方がいいだろう。これは国王であるジノーファとイスファードの関係をそのまま反映していると言って良い。私貿易が成立しているのも、一つには需要と供給がかみ合ったからと言うのもあるが、それ以上にこの二人が矢面に立たなかったから、と言うのが大きい。
今は南アンタルヤ王国が北へ矛先を向けているため、イスパルタ王国と北アンタルヤ王国の間に武力衝突はない。しかし情勢が変化すれば、どう転ぶかは分からない。戦端が開かれるかはともかくとしても、緊張が高まることは十分にあり得る。
そしてその時重要になるのが、いわゆる外交チャンネルだ。いずれ戦争状態に突入するのだとしても、偶発的にそうなることはどちらも望んではいないはず。となれば両国の間で意思の疎通を行う者が必要になる。メフメトが欲しいのはその伝手だった。
北アンタルヤ王国に対していわば顔が利けば、両国の緊張が高まったときにメフメトは重宝されるだろう。それはネヴィーシェル辺境伯家の立場を強化することはもちろん、彼個人のステータスにもなる。強い影響力を持てるようになるに違いない。
(その上で、上手くすれば……)
上手くすれば、それ以上のことさえ可能かも知れない。イスパルタ王国内での立場を強めることに、当然メフメトは強い関心を持っている。しかし結局の所、それは手段であって目的ではない。彼の野心が目指すところは、さらに先にあった。
ネヴィーシェル辺境伯家はもともと、この一帯を治める王の家系だった。アンタルヤ大同盟のなかでも有力な存在であり、他の者たちから一目も二目も置かれていたのだ。しかしアンタルヤ王家が台頭したことで、王権を捨てて一介の貴族の地位に甘じることを余儀なくされた。
それが不当なことであったとは、メフメトも思っていない。要するに当時のネヴィーシェル王家は、権力闘争に敗れたのだ。その結果は甘受せねばなるまい。そもそも大昔のことであるし、今更何を言ったところで歴史は変えられない。メフメトにもそこを正したいという気持ちはなかった。
それに王権を失ったとは言え、辺境伯家はアンタルヤ王国内で常に一定の力を保持し続けていた。それはイスパルタ王国内においても変わらない。むしろ相対的な影響力は増していると言ってもいい。
一方のアンタルヤ王家はどうか。分裂し、かつての権勢は失われている。ガーレルラーン二世は大きく国土を広げて力を回復させているが、しかし薄氷を踏むかのような危うい状況は変わっていない。何かが一つ狂えば、瞬く間に瓦解してしまうだろう。
つまりアンタルヤ王家は舵取りを間違えたのだ。しかしネヴィーシェル辺境伯家は舵取りを間違えなかった。歴史ある辺境伯家は、かつての栄光を取り戻しつつある。それがメフメトの野心を刺激していた。
ネヴィーシェル王家を復活させ、そしてイスパルタ王国を乗っ取ること。それこそが、メフメトが胸の奥底に隠した野心である。もちろん、現状でそれが可能であるとは彼も思っていない。だが決して不可能ではないはずだ。いずれは、という気持ちが彼の中でくすぶり続けている。
(ジノーファにできたのだ。わたしとて……)
皮肉にも、と言うべきか。メフメトの野心に火を付けたのはジノーファだった。僅かな領地さえ持たない彼が、しかし鮮やかにイスパルタ王国を建国して見せた。ならば自分とて、という気持ちがメフメトにはある。
そもそも血筋で言えば、メフメトの方がはるかに高貴な血筋なのだ。前述した通り、彼はネヴィーシェル王家の末裔であり、世が世ならその王権を受け継いでいたはずの者。一方でジノーファは誰が親なのかさえ定かではない。ならば国王に相応しいのは自分の方ではないか、という思いがメフメトにはある。
しかしそうは言っても、今すぐにことを起こすのは難しい。何よりネヴィーシェル辺境伯家の現当主はダーマードなのだ。彼を説得するためにも、簒奪の成功率を上げるための環境作りを進めなければならない。
(焦ることはない……)
メフメトは胸中でそう呟く。ジノーファの建国事業を見ていたことで、国を興すには二つの要素が重要であると、彼は考えるようになっていた。その二つの要素とは、時勢と人脈である。時勢を得なければ、事を起こしても気運は萎む。人脈がなければ周囲は敵だらけになるだろう。
時を待ち、その間に人脈を作る。メフメトはそう定めていた。私貿易に関わりたかったのも、そのためである。ジノーファがロストク帝国に人脈を持っていたように、彼もまた国の外に人脈を作ろうとしているのだ。
「さて、これから忙しくなるな」
メフメトはそう呟いた。しばらくはバラミール子爵家領とネヴィーシェル辺境伯領を行ったり来たりする生活になるだろう。だがそれは充実した日々になるに違いない。メフメトはそう思った。
さて、その三日後。諸々仕事の引き継ぎを終え、メフメトはいよいよバラミール子爵領へ向かうことになった。その出発前に、彼は父の執務室へ足を向ける。ダーマードは防衛線の視察へ向かっているため不在だ。もっとも、不在を知っていたので来たのだが。
父の執務室に入ると、メフメトは内側からドアに鍵を掛ける。次に彼が近づいたのは、壁際に並べられた本棚の一つ。彼は一冊の分厚い本の背表紙に触れると、おもむろにその本を奥へ押し込んだ。
次の瞬間、「カチリ」という硬質な音が響いた。メフメトは本を元の位置に戻し、今度は本棚それ自体を押す。すると重厚な作りの本棚は、しかし簡単に反時計回りに回転した。本棚の後ろに秘密の空間があったのだ。
メフメトは躊躇う様子もなく、その本棚の後ろに隠されていた空間へ入った。入ってすぐの場所にロウソクと燭台が置いてある。彼がポケットから魔道具を取り出してロウソクに火を付けると、周りが明るくなる。そこはおよそ一メートル四方の狭い踊り場だった。そしてさらに地下へ続く階段がある。
メフメトは本棚を元の位置に戻すと、燭台を手に持ってその階段を降りる。真っ直ぐな階段の先には堅牢な鉄の扉があり、彼はその扉の小さなくぼみに右手にはめた指輪を押しつける。この指輪は辺境伯家の世子に代々受け継がれてきた指輪だ。ちなみに当主にはまた別の指輪がある。
指輪を押し当てて数秒待つと、鉄の扉が開いた。扉は魔道具であり、指輪が鍵になっているのだ。本棚で隠されていた通路と言い、この鉄の扉と言い、尋常の設備とは言いがたい。つまりこの先には、表には出せない何かがあるのだ。
メフメトが解錠された鉄の扉を開け、地下室へ入る。そこはおよそ五メートル四方の小部屋だった。床も壁も天井もすべて石造で、窓はない。彼が持つロウソクの火が消えたら、真っ暗になってしまうだろう。
その地下の小部屋に保管されていたのは、一本の笏だった。白金製であり、頭の部分には七つの宝石が埋め込まれている。ネヴィーシェル王家がこの一帯を支配していた時代、王冠と共に王権を象徴していた秘宝、王笏だ。
この王笏は暗黒期の混乱のために失われたはずだった。当時のネヴィーシェル王家はそう説明し、王冠のみをアンタルヤ王家に献上したのだ。しかし実際には、王笏の存在は秘匿され、こうして現代にまで引き継がれてきた。全ては王権を取り戻す日のために。
王笏の存在は、代々ネヴィーシェル辺境伯家の当主と後継者にのみ知らされてきた。それで今この秘密を知っているのは、ダーマードとメフメトの二人だけである。父からこの王笏を見せられた時のことを、メフメトは忘れられない。
『父祖たちに誓って、我々はこの地を守らねばならない。例え王家に臣従しようとも、その誇りを失ってはならないのだ』
あの時、ダーマードは厳かにそう話して聞かせた。彼は「いつの日にか王権を取り戻す」とは言わなかった。アンタルヤ王家の権勢は強く、辺境伯家の世子が余計な野心を持つのは良くないと思ったのだろう。
だが現在、情勢は変わった。ネヴィーシェル辺境伯家の悲願を遂げる日は近づいている。メフメトはそう確信していた。彼は王冠を取り戻し、この王笏を手に采配を振るう自分の姿を想像する。
ジノーファにできたのだ。メフメトにできないはずはない。
歴代ネヴィーシェル辺境伯家当主の秘密のお仕事
→「秘密の小部屋の掃除と王笏のお手入れ」。