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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国
170/364

王太子アルアシャン


 大統暦六四三年。ロストク帝国よりマリカーシェルを正妃に迎えてから、二年が経過した。この年、ジノーファは二三になる。この二年間はイスパルタ王国も、そして彼の私生活も、比較的穏やかな期間であったと言って良い。


 まず、大統暦六四一年の九月に、シェリーが二人目の子供を出産した。女の子で、ジノーファがかねてから考えていたとおり、エスターリアと名付けられた。長男のベルノルトと同じくロストク風の名前で、王位継承順位が低いことを暗に示した格好だ。


 そのことに、ジノーファは少なからず心苦しさを感じている。娘の人格や才能を無視して将来を決めてしまったかのように思えたのだ。だが実際問題として、エスターリアやベルノルトが王位を望めば、国としては不幸な状況に陥るだろう。


 それを防ぐため、ジノーファには国王として予防線を張っておく責任がある。「イスパルタ王国の王位を継ぐのは、正妃マリカーシェルの産んだ子供」。それが大原則だ。そうである以上、本人を含め愚かなことを考える者が出ないよう、態度をはっきりと示しておくことは重要だった。


 この点でジノーファの心を軽くしてくれたのは、やはりシェリーだった。彼女は自分の子供たちが王位から遠ざけられたことに何の不満も漏らさない。ただ穏やかに子供の誕生と成長を慈しみ、彼らのことを見守っている。


『王位を目指すことになれば、それ以外の道は全て諦めなければなりません。ジノーファ様はこの子たちに可能性を与えたのです。そう考えれば良いのではありませんか?』


 シェリーのこの言葉のおかげで、ジノーファはずいぶん救われた気持ちになった。「王も皇子も家業のようなもの」。昔、ジノーファはシュナイダーにそう言ったことがある。子供たちもそれくらい気楽な気持ちでいて欲しい。ジノーファは以来ずっとそう思っている。


 彼がそう思っている子供たちというのは、何もシェリーが産んだ子供に限ったことではない。マリカーシェルが産んだ子供も、同じように気負わずに育って欲しいと彼は願っている。


 もっとも厳密に言えば、マリカーシェルにはまだ子供は生まれていない。現在は妊娠中であり、大統暦六四三年の年明けの時点でお腹の大きさが目立つようになっている。医者の見立てでは、春頃に生まれるだろうという話だ。


 待望の懐妊、と言って良い。特別遅かったわけではないが、マリカーシェル本人もホッとした様子だった。彼女の屋敷では、本人よりもカミラの方が張り切って準備を進めているという。


 子供が生まれれば、性別に関わりなく、イスパルタ王国とロストク帝国の同盟関係はさらに強固なものとなるだろう。ただこの時代、「跡継ぎは男」という社会通念がある。そして王妃ともなれば、そのプレッシャーと無縁ではいられない。


 マリカーシェル本人やイスパルタ王国国内はもちろん、故郷のロストク帝国でも男児の誕生を熱望している。確かに男の子が生まれてくれれば、色々な物事が収まりよく定まるのは事実だ。


 ただ、もう一人の当事者であるジノーファは前述したような考え方であるから、子供の性別にはあまりこだわっていなかった。特にイスパルタ王国では、王位継承は男子が優先されるとは言え、女王を否定しているわけではないのだ。ましてマリカーシェルがたった一人しか子供を産まないと言うわけでもない。


『男の子なら良いが、女の子でも良い。元気な子を産んで欲しい。子供とマリーが無事なら、それだけでわたしは十分だ』


 ジノーファは度々マリカーシェルにそう声を掛けていた。「男の子なら良い」と言ったのは、妻の心情を慮ってのことだろう。実際、彼が他の者に男子の誕生を望むような発言をしたことはなかった。


 そういう彼の心の機微を一番良く分かっていたのは、やはりシェリーであったろう。ただ彼女は彼女で少々面倒な立場にいる。彼女が「子供の性別はどちらでも良い」という趣旨の発言をすれば、それはつまり「男の子が生まれて欲しくない」という意味だと受け取られかねない。それで彼女はこう答えるのが常だった。


『わたしもジノーファ様と同じ気持ちです。男の子であれば良いと思いますが、女の子であっても喜ばしいことですわ』


 正妃と側妃の対立というゴシップを望む者にとっては、面白みのない発言であったろう。ただこれは決してよそ行きの発言というわけではなく、シェリーの本心でもあった。ジノーファの望むことが、彼女の望むことなのだ。


 またそもそも、マリカーシェルとシェリーは対立することなく、二人の関係は実に良好だった。その証拠に、シェリーは度々マリカーシェルの屋敷を訪ねては、彼女の世話をやいている。仲が悪ければそんなことはするまい。


 マリカーシェルとしても、すでに子供を産んでいるシェリーの存在は心強かったのだろう。この点、いくら優秀でも、未婚のカミラでは力になれない。彼女はシェリーの来訪を喜んで彼女の話を聞きたがったし、特に精神的に不安定になったときには傍にいて欲しいとせがむのだった。


『シェリーは、わたしよりもマリーと仲が良いね』


 三人でお茶をする機会があった際、ジノーファは冗談めかしてそう言ったことがある。マリカーシェルは焦ってしまったのか両手を振ってワタワタとしていたが、シェリーは得意げな顔に笑みまで浮かべてこう応えたものだった。


『もちろんですわ。ジノーファ様も、マリカーシェル様をもっと大切になさらないと、愛想を尽かされてしまいますよ?』


『それは困ったな。マリー、わたしを見捨てないでくれるかい?』


『ジ、ジノーファ様を見捨てるなんて、そんなこと絶対にありませんっ!』


 ジノーファが大げさに困ってみせると、マリカーシェルは慌てた様子でそう叫んだ。そんな彼女の様子を見て、シェリーがクスクスと楽しげに笑う。からかわれたことに気付き、マリカーシェルは顔を真っ赤にするのだった。


 国王と正妃と側妃がこんなにも和やかにお茶をするのは、歴史的に見ても珍しいことであるに違いない。後世の歴史書では、「ジノーファは後宮を上手く治めていた」と書かれている。ただ、実際にはシェリーの手腕が大きい。もっとも彼女がそれを誇ることはなかったが。


 さて、時期的にはこの頃、つまりマリカーシェルの懐妊が分かってから数ヶ月後の頃であろうか。イスパルタ王国でとある噂が囁かれるようになった。その噂とは、以下のようなものである。


 曰く「ジノーファ陛下は確かにアンタルヤ王家の血を受け継いではいない。しかし陛下は賢武皇アルアシャンの末裔である」。


 賢武皇アルアシャンとは、アンタルヤ王国の国王の一人ではない。「アルアシャン」と呼ばれた国王は何人かいるが、そのいずれも「賢武皇」とは呼ばれていないのだ。賢武皇アルアシャンと呼ばれた人物は歴史上にただ一人であり、その人物はヴァルハバン皇国を治めた皇王の一人だった。滅亡の危機に瀕した皇国を立て直し、中興の祖として高い評価を得ている人物である。


「武」の文字が示すとおり、アルアシャンは将として非常に優秀だった。生涯を通じ、大小合わせて一二〇以上の戦場を経験し、ただの一度も敗北を経験しなかったと言われる。「彼が指揮すれば一〇〇匹の羊であっても一国を攻め落とせる」と言われ、名文を持って知られる歴史家は彼が征くその姿を「向かうところ敵無し」、すなわち無敵と表現した。


 アルアシャンにまつわる逸話は数多くあるが、彼の人柄がよく分かる話の一つとして次のようなものがある。ある時、皇国は大軍を催して大遠征を行うことになった。アルアシャンはこの大軍を信頼する将軍に任せ、彼を全軍の大将とした。アルアシャンがその将軍に「できるか?」と尋ねると、彼はこう答えた。


『私にはとても難しいことです』


 アルアシャンは一つ頷き、今度は彼の副将に対しても同じように尋ねた。副将は、信任された大将への妬みもあったのだろう。自信満々に「私には簡単なことです」と答えた。それを聞き、アルアシャンはまた一つ頷くと、大将に任じた将軍の方に視線を向け、凄みを利かせてこう言ったという。


『良いか。大将の仕事などというのはな、出しゃばりな副将を斬って捨てれば、それで務まるものなのだ』


 このように語った真意を、アルアシャンは特別説明したりはしなかった。彼が武断的な、少なくともその側面を強く持つ人間であったことは間違いない。しかしその一方で、彼は可能な限り武力を抑制的に用いた。彼の戦歴が輝かしいのは、それだけ皇国の状況が危機的であったことの裏返しでもある。それだけに武力をもてあそぶようなことは、決して容認できなかったのだろう。


 さらに「賢」の文字が示すとおり、アルアシャンは内政においても大きな功績を残している。彼は当時の国家予算でおよそ十年分という膨大な借金を二十年で完済した。さらにこの間、治水工事をはじめとした大工事を幾つも行い、さらには何度も軍を催しているのだから、その内政能力の高さがうかがえる。


 もっとも、アルアシャン自身は書類仕事が苦手であったという。一時間続けて机に向かっていることができず、たびたび執務室から脱走しては秘書官らに追いかけ回された、と逸話が残っている。こういう親しみやすさも、後世において彼の評価と人気が高い理由の一つなのだろう。


 閑話休題。ジノーファはその賢武皇アルアシャンの末裔であるという。無論、ただの噂であり、それを証明する証拠は何もない。アルアシャンは大昔の人物であるから、ジノーファも血の一滴くらいは繋がっているかも知れないが、末裔とはそういうものではあるまい。実際、その噂を聞いたジノーファは呆れたようにこう話した。


『妙なこと言い出す人もいるものだなぁ』


 過去の偉人と関連付けられるのは、確かに名誉なことではある。だが証拠があるわけではないし、何かしらの権利を持っているわけでもない。まさかヴァルハバン皇国の復活を求める人たちがいるわけでもないだろうし、ジノーファは特別この噂を気にとめることはしなかった。


 一方でスレイマンの受け止め方は少し違う。すでに周知の事実であるが、ジノーファはガーレルラーン二世の子供ではなく、アンタルヤ王家の血は引いていない。それどころか誰が両親なのかも定かではなく、血筋だけを見ればまさに「どこの馬の骨とも知れない」素性の人間だ。


 その彼が、イスパルタ王国の国王として認められてきたのには幾つかの理由がある。第一の理由は、やはりジノーファが聖痕(スティグマ)持ちであったことだ。聖痕(スティグマ)は得ようと思って得られるものではない。聖痕(スティグマ)を得ることで、彼は血筋を超越した存在になったのだ。


 また同じ時代に、同じ聖痕(スティグマ)持ちである炎帝ダンダリオン一世がいた。ジノーファがイスパルタ王国の国王となったとき、彼とダンダリオン一世を重ねる者は多くいただろう。つまり「ダンダリオン一世が優れた皇帝なのだから、同じ聖痕(スティグマ)持ちのジノーファも良い王になってくれるに違いない」というわけだ。


 第二に飛び抜けた武勇伝を持っている。たった一千の兵で殿を任され、一万五〇〇〇のロストク軍を迎え撃った。その際スタンピードが発生したのだが、彼は優先順位を見誤ることなく、炎帝ダンダリオン一世に共闘を持ちかけ、それを実現させた。そして見事にモンスターを撃滅したのである。


 この武功により、ジノーファは民衆の英雄になった。特にイスパルタ王国の国民は、スタンピードによって直接の被害を受けていたかも知れない人々だ。プロパガンダによる宣伝の効果もあるとは言え、民衆の彼への感謝の気持ちは強い。さらにその直後、彼が国を追われたことによって、この物語に悲劇性が加味された。人心を惹きつけるには十分すぎる要素、と言って良い。


 第三に、イスパルタ王国の建国前には、ジノーファの待望論が囁かれていた。つまり当時王太子であったイスファードのやり方が酷く、民衆の生活は苦しくなっていた。「ジノーファ様が王太子であった頃は良かったなぁ」と、そういうわけだ。


 そしてイスパルタ王国が建国され、ジノーファが国王に即位すると、民衆の負担はかなりの程度軽減されることになった。もっともこれは、魔の森が活性化する以前の水準に戻ったと言うだけのことなのだが、民衆にとってはそれこそが望みだったのだ。望みを叶えてくれたジノーファへの支持が高まるのは当然のことと言える。


 第四に、ジノーファは独立戦争に勝利を収めた。イスファード率いる王太子軍を撃破し、ガーレルラーン二世率いる討伐軍を相手に一歩も退かなかった。そしてついに相互不可侵条約をもぎ取ったのである。


 これにより、ジノーファは自身が国を守る能力のある、強い王であることを証明したのだ。ルルグンス法国を見ても分かるように、弱い王が治める国は悲惨だ。民衆は自分たちの命と生活を守ってくれる王を求めている。自分がその必要に応えられることを、ジノーファは示したのだ。


 このように、ジノーファはこれまで王たる資質を何度も示してきた。しかしそれでもやはり、血筋というのは彼の弱点だった。民衆は支配者とその血筋に尊きを求めるもの。血筋によって権威を示せないことは、支配者にとって大きなハンデとなるのだ。


 歴史書を紐解けば、一代で成り上がった英傑たちであっても、その多くがどこかで血筋による権威を求めている。それは名家と姻戚関係を結ぶことであったり、偉人の子孫の養子になることであったり、方法は様々だ。中には家系図を改ざんする者さえいたが、それも決して珍しいことではない。


 ジノーファもまた、意図せずとは言え、同様のことを行っている。つまりマリカーシェルとの婚姻だ。血筋の観点で言えば、彼女の皇族としての血筋とその権威を利用したと言えるだろう。実際、彼女の輿入れ以来、イスパルタ王家の権威は高まっている。


 だがそれ以前はイスパルタ王家の、というよりジノーファの権威はそれほど認められてはいなかった。実力は認められている。だが実力と権威は別物なのだ。皆、心のどこかで「成り上がり」とか、「どこの馬の骨かも分からない」と蔑む気持ちが多少なりともあったのである。


 しかしここへ来て、「ジノーファは賢武皇アルアシャンの末裔」という噂がじわりと浸透し、多くの者の口に上るようになった。賢武皇の末裔ということは、すなわちジノーファに流れる血筋には権威があるということになる。


 繰り返しになるが、これはただの噂でしかない。証拠となるものは何一つないし、そもそもジノーファが言い出したことですらない。いわば民衆の間から自然発生した噂なのだが、だからこそスレイマンはこの噂に注目していた。


 賢武皇アルアシャンといえば、誰もが知っている偉人である。歴代アンタルヤ王国国王の中にも、その名前を持つ者が何人もいる。もちろんその高名にあやかってのことだ。つまり長い歴史のなかで、アルアシャンその人が権威そのものとなったのである。


 そして、「ジノーファは賢武皇アルアシャンの末裔」という噂が、民衆の間から自然発生した。それはすなわち、民衆がジノーファの権威を認めたということに他ならない。いや、彼だけではない。彼が賢武皇の末裔であるなら、彼の子孫もまた同様だ。イスパルタ王家は最上級の権威を獲得したと言って良い。


『この国は、イスパルタ王国は長く続く』


 スレイマンはそう語ったと言う。ただ彼はこういう権威うんぬんの話をジノーファにしたりはしなかった。ジノーファはアルアシャンと比較されることを少々こそばゆく思いながら、気負わずに日々の仕事をこなしている。それでいい、とスレイマンは思っていた。


 だからこれも、権威を気にしてとか、そういう思惑があったわけではないのだろう。


 大統暦六四三年四月二二日、マリカーシェルが男の子を出産した。ジノーファがこの子につけた名前は「アルアシャン」。そして名前が付けられると同時に、彼は王太子に冊立された。王太子アルアシャンの誕生である。



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― 新着の感想 ―
[一言] ちょっと貯めてから読むのが最近の好みなので、いまから消化させていただきます。マリカーシェルとも仲良くやっていけてるようで、嬉しい。
[一言] しれっと自分もと声を上げるダンダリオン
[一言] ジノーファ自身の権威は別にしてもガーレルラーン2世夫婦の非道の証なのは変わってないんだよなあ。 存在自体がアンタルヤ王国の弱点というかゴシップというか。王太子時代の生活を語れば尚更。
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