戴冠式と結婚式
大統暦六四一年五月七日、イスパルタ王国王都マルマリズで国王ジノーファの戴冠式が行われた。
戴冠式が行われたのは王統府の謁見の間で、そこには国内の貴族・代官・太守らが揃って参列していた。またロストク帝国からの賓客の姿もある。その中にはもちろん、シュナイダーやマリカーシェル、ルドガーの姿もある。また末席だが、ジノーファの冠を手がけた職人たちも、この式典に招待されていた。
シェリーの姿もまた、参列者の中にあった。彼女は身体に負担をかけないよう、ゆったりとした衣服を身に纏っている。彼女のすぐ近くには、リーサとカイブとボロネスの姿もある。ヴィクトールとヘレナの姿がないのが、シェリーは残念だった。
(思えば……)
思えば、遠くへ来たものだ。謁見の間の扉の前、未だ閉ざされているその扉の前で、ジノーファは思った。育ったのはクルシェヒルだから、ガルガンドーにいた頃に比べれば、マルマリズは故郷に近いと言える。だが彼が感慨深く思っているのは、そういう地図上の遠近ではない。
クルシェヒルで王太子と呼ばれていた頃は、彼は自分が建国事業を行うとは思っても見なかった。ガルガンドーでシェリーと結ばれたときには、王になりたいなどと考えることさえしなかった。
だが彼は、ただ祖国のことだけは、どうしても忘れられなかった。王太子ではないと知らされてから、いや殿としてあの戦場に死に残った時から、その想いを捨てられないまま、長い旅路を歩いてきたような気がする。そして今日、ついに旅路の果てへたどり着くのだ。
(さあ、行こうか……)
開け放たれた扉の前、ジノーファは足が震えるのを自覚していた。こんなに緊張したのはいつぶりだろうか。戦場でも、あまり緊張したことはないのに。おかしなことだ、と小さく笑うと足の震えは止まった。そして最初の一歩を踏み出す。そこから後、緊張は気にならなかった。
厳粛な空気の中、荘厳な音楽が演奏され、ジノーファが入場する。彼は白を基調とした最上位の正装を身に纏っていた。背中に羽織ったマントはやはり純白で、そこには大きく双翼図が、彼の聖痕の文様が刺繍されている。
参列者の視線を一身に集めながら、ジノーファはゆっくりと歩を進めた。彼の正面には一段高くなっている場所があり、そこには玉座が据えられている。そしてその手前には、ユスフが王冠を載せた台座を手に持ち、緊張した面持ちで立っている。
玉座まで後数歩、ユスフのすぐ近くまで歩いてくると、ジノーファはそこで一度足を止めた。参列者たちは、彼は玉座を凝視しているのだと思ったに違いない。だが彼はそんなモノを見ていたわけではなかった。
ジノーファが僅かに視線を動かして見ていたのは、ユスフの顔だった。イスパルタ王国が独立を宣言する前、ジノーファがアンタルヤ王国へ舞い戻った時、一緒にいた味方はこの従者ただ一人だった。
もちろんその時点で、ダーマードら貴族たちの協力は取り付けていた。だから建国事業をまったく二人きりで始めたと言えば語弊がある。だが最初から最後まで、いつでも傍にいてくれたのはユスフだった。
この戴冠式は、言ってみれば建国事業の総仕上げだ。ジノーファはその瞬間を、他でもないユスフに、一番近くで見届けて欲しかった。それで冠を運ぶこの大任を彼に頼んだのである。
ジノーファは緊張しきったユスフへ、彼にだけ分かるように微笑みかけた。ユスフも緊張した面持ちのまま小さく、しかしはっきりと頷く。それを見てから、ジノーファは視線を正面に戻した。そして歩を進めて壇上へと上がる。その後ろにユスフが従った。
壇上、玉座のすぐ正面で、ジノーファはマントを翻して参列者のほうへ身体を向けた。音楽が鳴り止み、謁見の間に厳かな静寂が舞い降りる。彼らの視線と期待を、ジノーファは堂々と受け止めた。
そして参列者たちの期待が最高潮に達したとき、ジノーファはユスフのほうへ視線を向けた。それを受け、ユスフは三歩前に進み出て片膝をつき、両手で台座を掲げてそこに載せられた王冠を差し出した。
ジノーファが王冠を受け取ると、ユスフは台座を掲げたまま壇の下へさがった。そのまま彼は脇で待機するが、玉座とジノーファから距離は彼が一番近い。彼はそこで顔をしっかりと上げ、その光景を目に焼き付けるため、全身の神経を集中させた。
視線を集めているのを感じながら、ジノーファはふと手に持った冠へ視線を落とした。冠はシンプルなデザインで、黄金の環の側面に十二個の宝石が埋め込まれている。職人たちが苦心して磨き上げたそれらの宝石はまばゆいばかりに輝いているが、彼が視線を向けたのはむしろ冠の内側だった。そこには、彼が頼んだとおり小さく文字が刻まれている。
――――灰は灰に。
そこにはそう刻まれている。この言葉を刻ませた意図を、かつてジノーファは「戒めだ」とシェリーに語った。永遠に続く国はない。そのことを忘れないよう、この言葉を残したのだ、と。
無論、それは彼の本心である。だが彼はこうも思うのだ。実の親を知らず、いつどこで生まれたのかも分からない自分は、まるで灰から生まれたかのようだ、と。そしていつかは灰に還る。
(それでいい。いや、きっとそれが当たり前のことなのだ)
ジノーファはそう思った。自分が何者なのか分からず、空っぽに感じることもあった。だがもういい加減、気にするのは止めよう。今の自分にはもっと大切なモノが、それもたくさんあるのだから。
ジノーファは一度目を閉じて心を落ち着けた。そして目を開くと、ゆっくりと王冠を自分の頭に載せる。頭に感じる重みは、前に試着したときよりも重く感じた。視線が多いからかも知れないな、と彼は益体もないことを考えた。
王冠を被ると、ジノーファはゆっくりと玉座に座る。その瞬間、万雷の拍手が鳴り響いた。爆発する歓喜の中、彼は少しだけ表情を緩め、参列者の列を見渡す。その中に涙を流しているシェリーの姿を見つけ、彼は小さく彼女に頷いた。
拍手はいつまでも鳴り止まないかに思われたが、宰相のスレイマンがほどほどのところでそれを収めた。そして次に、参列者の中から幾人か前に出て、祝福の言葉を述べていく。ダーマードやシュナイダー、クワルドも言上したが、シェリーは前に出て言葉を述べることはしなかった。
(本当に、立派になられて……)
シェリーは胸中でそう呟いた。あふれる涙を止めることができない。国を追われ、全てを失った少年が、しかし今あそこで堂々たる姿を見せている。彼を胸に抱きしめて慰めた夜のことが思い出され、感慨深さはひとしおだった。
ジノーファを支えてきたのは自分だ、などとシェリーは思っていない。ただそれでも誇ることがあるとするならば、彼がここにいるのは決して復讐のためではないという、そのことだろう。
彼は復讐のために、今日この日まで生きてきたわけではない。恨みを募らせ、憎悪を糧として国を興したわけでは断じてない。彼は立派に、堂々と、前を見て歩いてきたのだ。だからこそ彼の表情は晴れやかで、瞳の輝きに曇りはないのだ。
ジノーファのあの優しい笑顔を陰らせなかったこと。それがシェリーのささやかな誇りである。だが彼女は決して、自分が彼に正道を歩ませてきたとは思っていない。むしろ彼女は、自分こそがジノーファに連れられて日の当たる場所へ出てきたのだ、と思っている。
シェリーは元細作だ。本来なら、ここにいられるような立場にはない。それどころか、ガルガンドーでジノーファの妻になったことさえ、本当なら分不相応だ。彼の専属メイドになったことも、元々はダンダリオン一世の命令である。
あの日、宮殿の庭でジノーファに出会ったあの時から、シェリーの運命は大きく変わったのだ。今では子供にも恵まれている。全てを与えてくれたのは、他でもないジノーファだった。
(ずっと、お傍におります……)
恩義を感じている、などといえばジノーファは嫌がるだろう。だからシェリーもそんなことは言わない。その代わり、ずっと傍にいようと彼女は思う。そして見届けるのだ。彼の行く末を。それはきっと、とても幸せなことに違いない。
壇上では、ジノーファが立ち上がり、参列者に向かって言葉を述べている。その立ち姿は見る者に威圧感を覚えさせるようなものではないが、確かな風格を漂わせている。シェリーはその姿をじっと見守り続けた。
□ ■ □ ■
戴冠式の一週間後、今度はジノーファとマリカーシェルの結婚式が行われた。式場となったのは、戴冠式と同じく王統府の謁見の間である。
謁見の間は、戴冠式の時よりも幾分華やかに飾り付けられていた。ただ、華美と言うよりは壮麗と言った雰囲気で、浮ついた感じは少しもしない。国の威信をかけた婚礼に相応しい装いと言って良い。
壇上には、すでにジノーファの姿がある。彼は戴冠式の時と同じく、白を基調とした最上位の正装を身に纏い、双翼図の描かれたマントを羽織っている。ただ戴冠式の時とは別の衣装であり、控えめながらも見栄えがするように刺繍がされており、また幾つか装飾品も身につけている。何より、彼の頭には輝く王冠を被っていた。
謁見の間の扉が開かれ、いよいよマリカーシェルが入場する。介添えをしているのは、兄のシュナイダーだ。彼はマリカーシェルをエスコートしつつ、ゆっくりとヴァージンロードを歩いた。
マリカーシェルが身に纏っているのは、花嫁に相応しい純白のウェディングドレス。だが当然の事ながら、ただのウェディングドレスではない。皇后アーデルハイトがロストク帝国の威信にかけて用意させたウェディングドレスである。
最高級の正絹で織られた布生地は雪よりも白く、また向こう側が透けるほど薄い。ドレスはその布を幾重にも折り重ねて作られていた。そのせいなのか、歩く度にサラサラと軽やかな音がする。金糸や銀糸をふんだんに用いた刺繍も施されている。宝石も幾つか縫い付けられているが、全体の品位を損なわない絶妙なデザインだ。
頭にはベールが掛けられているが、顔は見えている。マリカーシェルはどちらかというと童顔で可愛らしい顔立ちなのだが、今は清楚で優艶な雰囲気を醸し出していた。ピンクブロンドの髪は美しく結い上げられていて、頭に載せられたティアラでは、大きな七粒の真珠が存在を主張している。そして手には、イスパルタ王国の花々で作られた、華やかなブーケを持っていた。
シュナイダーにエスコートされ、参列者の視線を一身に集めながら、マリカーシェルはジノーファの待つ壇上へ上がった。ジノーファは微笑みを浮かべて彼女を迎える。マリカーシェルが恥ずかしげに頬を染めて目を伏せると、彼は隣のシュナイダーへ視線を移した。
「妹のこと、よろしく頼む」
いつになく真摯な声で、シュナイダーは短くそう言った。この婚姻は本質的に政略結婚だ。彼もそのことは十分に承知している。しかしだからこそ、短いその言葉はどこまでも本心からのもので、そのことはジノーファにも十分に伝わった。
「はい。大切に、幸せにします」
ジノーファもまた、真摯な声でそう応えた。シュナイダーは一つ頷くと、組んでいたマリカーシェルの腕を解いて、ジノーファの隣に立つよう彼女を促す。そして二人が改めて手と手を取り合うのを見届けると、彼は壇上から降りて参列者の列に加わった。
「それではこれより、イスパルタ王国国王ジノーファ陛下と、ロストク帝国皇女マリカーシェル殿下の結婚式を執り行います」
壇上、身体を寄り添わせる二人を前にして、誓約立会人を務める宰相スレイマンがそう宣言する。その瞬間、会場は水を打ったかのように静まり返った。そしてその静寂の中で、スレイマンが話を行う。
彼がまず話したのは、この婚姻の意義だった。二人が結ばれることが両国にとって、そしてそこで暮らす民衆にとってどれだけ喜ばしく、また意味のあることなのかを語る。そして夫婦の暖かくて深く信頼し合う関係こそが繁栄と光輝の基となるのだ、と彼は語った。
「……ではいよいよ、お二人が愛を誓い合う時です。ジノーファ陛下、貴方はマリカーシェル殿下を妃とし、病めるときも健やかなるときも、彼女を愛すると誓いますか?」
「はい、誓います」
「マリカーシェル殿下、貴女はジノーファ陛下を夫として愛し、逆境にあって彼を支え、国母として民を愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」
マリカーシェルがそう言い、二人の誓いの言葉が出そろうと、参列者たちから拍手が沸き起こった。拍手の中、二人は視線を交わす。マリカーシェルがわずかに身体を寄せてきたので、ジノーファは小さく微笑みを返した。
「お二人の誓いの言葉、確かに聞き届けさせていただきました。では天下万民への証明のため、どうか誓約書へのサインをお願いいたします」
スレイマンがそう言うと、ユスフがトレイに誓約書を載せて壇上へ運んできた。そしてその誓約書へまずはジノーファがサインをし、次にマリカーシェルが名前を書き込む。最後にスレイマンが署名し、それによって誓約書は有効なものとされた。
三人分の署名を確認してから、スレイマンは誓約書をトレイに戻した。そして両手を広げて厳かに、それでいて喜ばしくこう宣言する。
「今日、この時を以て、結婚の誓約は成されました。では最後に、誓いの口付けを」
口付けを促され、ジノーファとマリカーシェルは向かい合った。マリカーシェルは目を潤ませ、頬を赤く染めている。だが目を伏せてしまうことなく、真っ直ぐにジノーファを見上げていた。
そんな彼女を、ジノーファは目を細めて優しい笑顔で見下ろした。そして、そっと彼女の唇にキスをする。唇と唇を軽く触れあわせるだけの、まるで初心な恋人たちのようなキス。それでもジノーファの胸にはチクリと痛みが残った。
ジノーファとマリカーシェルがキスを終えると、寄り添う二人に割れんばかりの拍手が送られた。それから二人は王統府の外へ出る。歓声に手を振って応えながら、彼らはフルオープンの馬車に乗り込む。これからパレードを行うのだ。
このパレードはロストク帝国側が「是非に」と強く望んだものだった。ジェラルドはもちろん、ランヴィーア王国へ婿入りしたフレイミースもまた、結婚式の時には記念のパレードを行っている。マリカーシェルだけやらないというわけには行かないのだ。まして彼女は可愛い末娘。国の思惑や威信は置いておくとしても、ダンダリオンもアーデルハイトも、親として娘の晴れ舞台に手は抜けない。
イスパルタ王国としても、ここで派手に祝っておくことには意味がある。両国の関係が極めて親密であることをアピールできれば、ロストク帝国から商人がたくさん来てくれるだろう。またランヴィーア王国と比べ、勝るとも劣るものではないと世に知らしめることができる。
儀式祭典用の華やかな制服を着た、近衛軍の騎兵隊に先導され、二人を乗せた馬車が王統府から出発する。沿道にはすでに人だかりができていた。道沿いの建物の二階からは花びらがまかれて風に舞う。マリカーシェルは知らないだろうが、ジノーファは知っている。あれはスレイマンの仕込みだ。
歓声の中、ジノーファとマリカーシェルは笑顔で沿道の人々に手を振った。空は青く澄み渡り、暖かな南風が柔らかく吹いている。
この日、イスパルタ王国国王ジノーファはロストク帝国の皇女マリカーシェルを正妃に迎えた。
シェリーの一言報告書「本当に、立派になられました」
ダンダリオン「そうだな」
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ということで。
「道化と冠 後編」、いかがでしたでしょうか。
やっと冠を被ってくれました。
ここまで長かった。
ところで、あらすじには「冠を被るまでの物語」とありますが、本編はまだ続きます。
さすがにここで切っては消化不良ですからね。
また次の章が始まるまで、しばらくお待ち下さいませ。