覚悟
(かなわない、なぁ……)
シェリーをベッドに寝かせた後、ジノーファは自分の寝室に戻っていた。今は窓際に腰掛け、夜空に浮かぶ月を眺めている。いや、彼は月を眺めているようで、実のところ意識は別の所に向いていた。
シェリーはジノーファの内心に気付いていた。当然だ。彼女はまるで文字を読むかのように、すらすらと彼の内心を読むのだから。そして気付いていても、知らない素振りをしてくれたのだ。
マリカーシェルの輿入れが近づくにつれ、ジノーファは気鬱になることが増えていた。必要なことだと分かっている。そもそも全ては彼自身が望んだこと。だがどうしても、心の中に追いつかない部分があるのだ。
(わたしが望んでいたのは……)
ジノーファが望んでいたのは、自分の国を建てること。そして魔の森の脅威に対処しつつ、時勢に合わなくなった部分を新しくし、次の時代の礎を築くことだ。だが現実問題、小僧が一人粋がったところで何もできはしない。ロストク帝国の後ろ盾が必要であり、それを保証するのがマリカーシェルの輿入れだった。
そう言う意味で、マリカーシェルの輿入れはジノーファが直接望んだことではなかった。彼女のことは嫌いではない。だが愛しているわけでもない。ジノーファが愛しているのはシェリーだけで、そのプライベートな部分に踏み込まれるように感じるから、輿入れを受け入れがたく思うのだ。
繰り返すが、ジノーファも輿入れが必要であると理解している。ならば形ばかりの正妃で良いではないかと心が囁くのだ。その甘美な囁きに彼の心は揺れる。シェリーのお腹にいる二人目が女の子であれば良いと思うのも、その延長線上にあると言って良い。
女の子であれば、マリカーシェルに子供がなくとも、ロストク帝国との同盟は維持できる。彼女がうまずめであるとか、そういう可能性はこの際関係ない。彼女に触れずにいられるのではないか。そう、思ってしまったのだ。
あまりにもマリカーシェルを馬鹿にした考えだ。そもそも彼女を泣かせてしまっては、ダンダリオンが黙っていないだろう。同盟を維持するためには、やはり彼女を大切にしなければならないのだ。
男は義務感でも女を抱けるものだ、ユスフは言った。本当にそうするべきなのかも知れない、とジノーファは思う。だがそれで本当にマリカーシェルを大切にしていることになるのだろうか。彼女はそれで幸せなのだろうか。
(いや……)
いや、もう自分の心は偽るまい。ジノーファはそう思った。彼が考えていたのはマリカーシェルのことではない。そうやって義務感で女を抱く、自分のことを考えていたのだ。必要だからと肌を重ね、子供を産ませる。それをする自分が、ジノーファはひどく惨めに思えたのだ。
その上、その惨めさを厭う自分の未熟さや青臭さを、ジノーファはシェリーへの愛に置き換えて隠していた。愛するシェリーを押しのけることが辛いのだと、彼は自分に言い聞かせてきた。もちろんそれは嘘ではない。だが多面的な感情の一部でしかなかったことも、また事実なのだ。
そんな気持ちも、シェリーには筒抜けなのだろうか。ジノーファはそう考え、少し気恥ずかしくなった。情けなくなってしまい、彼はため息を吐く。王や皇帝とはもっと超然とした存在だと思っていたのに、今の自分はまったくそんなことはない。
だがそれでも、シェリーはあんなにも「愛している」と、「幸せだ」と伝えてくれた。押しのけられてしまうのは彼女自身なのに。少しも不満はないと、ずっと傍にいると、そう言ってくれていたのだ。
このタイミングでの懐妊も、もしかしたら彼女の掌の上のことなのかも知れない。ジノーファはふとそう思った。妊娠中なら、彼がシェリーを抱くことはない。彼の足は、自然とマリカーシェルのもとへ向かう。そう、シェリーを蔑ろにしていると罪悪感を覚えることなく。
考えすぎなのだろう。本当にそんなことが可能なのか、という疑問もある。だがジノーファとマリカーシェルにとっては、たぶんそれが必要な事なのだ。シェリーは二人のことを考えていた。自分の事ではなく、二人のことを。
「ああ、わたしは本当に、愚かだ……」
ジノーファはそう自嘲気味にそう呟いた。この期に及んで、自分の事ばかり。輿入れをしてくるマリカーシェルのことは、何一つ思いやってやれない。不本意だと嘆き、気鬱になっている。
「これでは、不幸だ」
こんな男に嫁がなければならない、マリカーシェルが。国と玉座を望んだのはジノーファ自身であるというのに、そのツケをよりにもよってマリカーシェルに払わせようとしている。それはとても不誠実なことだ。
自分はマリカーシェルをまるで勲章か何かのように思っていたのではないのか。手に入れて、綺麗に飾っておけばそれで良いと、そう思っていたのではないか。いや、そうしたいと思っていたのではないか。
そう思い至ったとき、自分のあまりの身勝手さにジノーファは愕然とした。無意識なのだろうが、相手をまるで人形のように考えていた。マリカーシェルは人間で、怒りもすれば笑いもする。そんな当たり前のことを忘れていた。
心が追いついていないのだ、とユスフは言った。その通りなのだろう。だがジノーファがすべきは、それを理由にして気鬱になることではない。心を追いつかせるよう、努力しなければいけなかったのだ。
(マリカーシェルを愛そう)
ジノーファはそう心に誓った。今はまだ愛せていないというのなら、愛することができるよう努力するべきなのだ。愛して、大切にして、幸せにする。それがきっと、心を追いつかせると言うことなのだろう。
正直に言えば、心は軋んでいる。甘い言葉の一つで、楽な方へ逃げたくなる。泥のように脆い決意だ。だが今は覚悟だけあればいい。決意はこれから固めていく。
□ ■ □ ■
ジノーファの戴冠式と結婚式が近づいていた。二つの式は、まず四月の末に戴冠式が行われ、その一週間後に結婚式が行われる予定だ。ジノーファは両方同日に行ってはどうかと提案したのだが、「絶対に無理です」と切り捨てられた。
さて、これらの式にはロストク帝国から賓客が招かれている。この使節団の団長は第二皇子のシュナイダー。さらに輿入れするマリカーシェルもこれに同行していた。いや、彼女の輿入れに使節団が同行した、と言う方が正しい。ともかく現在イスパルタ王国を二人の皇族が訪れており、ジノーファは彼らを王統府の謁見の間で出迎えた。
「ようこそおいで下さいました、シュナイダー殿下」
ジノーファは玉座から立ち上がり、満面の笑みを浮かべて二人を出迎えた。シュナイダーとマリカーシェルも、それぞれ優雅に一礼する。それからダンダリオンからの親書を受け取るなど、少々堅苦しいやりとりが続く。途中、ジノーファとシュナイダーは目が合ったのだが、その時には二人とも口元に小さく苦笑を浮かべていた。
形式的な挨拶が終わると、シュナイダーとマリカーシェルは王統府から滞在先のお屋敷へ向かった。マリカーシェルのためにシェリーとカミラが準備しておいたお屋敷だ。マルマリズに滞在中、ロストク帝国の使節団はこの屋敷に泊まることになる。
シュナイダーとマリカーシェルを出迎えた次の日。ジノーファはその屋敷へ二人を訪ねた。ちなみに彼がこの屋敷を訪ねるのはこれが初めてである。ある意味で彼の後宮と呼ぶべき場所なのだが、シェリーとカミラに任せっきりだったのだ。
「ようこそ、ジノーファ陛下!」
ジノーファが馬車から降りたとき、そう歓声を上げて出迎えてくれたのは、他でもないマリカーシェルだった。彼女は胸の高さに手を組み、わずかに頬を上気させている。そんな彼女に、ジノーファは優しく微笑みかけた。
「お出迎え、ありがとうございます、マリカーシェル殿下。待たせてしまいましたか?」
「いいえ、大丈夫です。……ところで、その、陛下。お義姉様はご一緒ではないのですか?」
馬車から他に降りてくる人影がないのを訝しむように、マリカーシェルはそう尋ねる。お義姉様、と言われジノーファは一瞬それが誰のことか分からなかった。ただすぐに、シェリーがダンダリオン一世の養女になったことを思い出す。
「シェリーは今、身重でして。体調が良いときにご挨拶させて欲しい、と話していました」
ジノーファはそう説明したが、シェリーは別に体調不良というわけではない。要するに、彼女はマリカーシェルに遠慮したのだ。彼女の傍に控えていたカミラはそのことに気付いた様子だったが、一方のマリカーシェルに気付いた様子はなく、むしろ目を輝かせてまた歓声を上げた。
「まあ、では二人目の和子様を身ごもられたのですね! 陛下、おめでとうございます!」
「ありがとうございます、殿下」
「カミラ、お祝いの品は何が良いかしら?」
「殿下、それはまた後で考えましょう。今は陛下をお部屋へご案内なさっては如何でしょうか?」
カミラにやんわりとそう指摘され、マリカーシェルは「あっ」という顔をした。どうやらすっかり舞い上がってしまっていたらしい。
「も、申し訳ありません、陛下。兄も陛下をお待ちしております」
そう言って、マリカーシェルはジノーファを案内してしずしずと歩き始めた。ジノーファもゆっくりと歩き始める。部屋へ向かう途中、彼はマリカーシェルにこう尋ねた。
「殿下は、シェリーとお会いになられたことがあるのですか?」
「はい。ガルガンドーで何度か、お茶をご一緒させていただきました。陛下のあのお屋敷にも、お邪魔させていただいたことがあるのですよ」
マリカーシェルは楽しそうにそう話した。彼女はずいぶんとシェリーを慕っているように見える。シェリーのほうも、彼女を嫌ってはいないはずだ。だがジノーファはシェリーから、マリカーシェルの話を聞いたことがない。
(それは、たぶん……)
それはたぶん、シェリーがジノーファに気を遣っていたのだ。つい最近まで、彼はマリカーシェルのことで鬱々とすることが多かった。その中で彼女の話を聞かされていたら、いい気はしていなかっただろう。かたくなになっていた可能性さえある。情けないな、とジノーファは苦笑した。
さて、マリカーシェルがジノーファを案内したのは、日当たりのよい南向きの客間だった。部屋の中にはすでにシュナイダーが待っていて、彼は二人が部屋に入ってくると、ソファーに座ったまま片手を上げてこう声をかけた。
「よう。昨日ぶりだな、ジノーファ殿」
「ええ。シュナイダー殿下もおかわりなく」
シュナイダーとジノーファはそう親しげにそう言葉を交わした。一方、その様子を見てマリカーシェルは形の良い眉を跳ね上げる。彼女は怒った顔をしてシュナイダーに詰め寄った。
「シュナイダー兄様! もう、失礼ですわ!」
「かたいことを言うな、マリー。ジノーファ殿とはいつもこんな感じだ。ま、さすがに衆目のあるところでは格好付けるがね」
「もう、そんなことだから放蕩皇子などと言われるのです。……ジノーファ陛下、本当に兄が申し訳ありません」
そう言ってマリカーシェルは恐縮し、頭を下げた。だがもちろん、ジノーファに気にした様子はない。彼は小さく笑い、むしろこう言った。
「かまいませんよ、マリカーシェル殿下。よろしければ、殿下も楽になさって下さい」
「そうだぞ、マリー。お前はジノーファ殿とは夫婦になるんだ。妻の前でさえ気を張らねばならぬとなれば、ジノーファ殿も気が休まらない」
「め、夫婦……」
その単語を聞いて、マリカーシェルはたちまち顔を真っ赤にした。彼女は輿入れのためにここまで来たわけだし、彼女自身それは重々承知しているだろうに、それでもまだ気恥ずかしさがあるらしい。妻になる人のそんな様子を見て、ジノーファは初めて彼女のことを可愛らしいと思った。
「そうだ。ジノーファ殿も、妹のことはマリーと呼ばないか。家族はみんなそう呼んでいる」
「兄様!」
マリカーシェルが悲鳴を上げた。真っ赤な顔をしたまま、ワタワタと手を動かし、オロオロと視線を行き来させる。それでもジノーファを見る彼女の目には、明らかな期待が籠もっていた。彼は優しげに微笑むと、マリカーシェルにこう問い掛けた。
「よろしいでしょうか?」
「は、はい。もちろんです。それで、その……」
「どうかしましたか、マリー?」
「はぅ……。わ、わたくしも、ジノーファ様と、お、お呼びして良いでしょうか……?」
「……っ、ええ、是非」
マリカーシェルの願いにジノーファは少し驚いたが、すぐにそう答えた。彼の浮かべる微笑みは、先ほどよりも深い。ただ、マリカーシェルがそれに気付くことはなかった。彼女は真っ赤な顔のまま何度も頷いてから、はにかんで嬉しそうに目を細めた。
それからまたカミラに促されて、ジノーファとマリカーシェルはそれぞれソファーに座った。そのタイミングを見計らい、壁際に控えていたメイドたちが二人にお茶を差し出す。お茶の温度もちょうど良い。優秀な者たちのようだ。
それから三人はしばらく雑談に興じた。ガルガンドーはまだ寒いらしく、マリカーシェルは「こちらは暖かい」と言って驚いていた。シュナイダーが「ジノーファ殿は寒がりだったな」と言って笑うと、彼も「聖痕持ちも寒さには勝てません」と言って皆を笑わせた。
「……そう言えば、ジノーファ殿の蔵書も、ヴィクトールから預かってきた。どうする、王統府の方に運ばせるか?」
「そうですね……。ではマリー、こちらのお屋敷の一室を書庫として使わせて欲しいのですが、良いでしょうか?」
「は、はい。もちろんです。カミラ、そのように」
マリカーシェルがそう指示を出すと、カミラは「承知いたしました」と言って折り目正しく一礼した。それを見てジノーファも一つ頷くが、実際に書庫ができあがるには幾分時間がかかるだろう。何しろマリカーシェルの嫁入り道具はロストク帝国の威信をかけたもの。それを片付けるだけでも相当な手間がかかる。
ロストク帝国が威信をかけて臨んだのは、嫁入り道具だけではない。嫁入りの行列にも、ダンダリオン一世は相当な力を入れている。彼はこのためになんと三万もの兵を動かしたのだ。無論、その全てが直轄軍の精兵である。
もっとも、三万全てがイスパルタ王国に入ったわけではない。シュナイダーやマリカーシェルと一緒にマルマリズまで来たのはこの内の一万。残りの二万は旧フレゼシア公国領の南側に待機している。聞くところによると、大規模な演習を予定しているそうだ。
何にしても、ダンダリオン一世はマリカーシェルのためなら、そしてイスパルタ王国のためなら、三万の兵を動かすと世に知らしめたのである。そして三万と言えば、現在ランヴィーア王国へ援軍として動かしている兵の数と同じ。イスパルタ王国の国力が三分の一ほどしかないことを考えれば、まさに破格の待遇と言って良い。
それだけダンダリオン一世がイスパルタ王国と貿易港を重視している、ということだ。ロストク帝国が三万の兵を動かしたことで、周辺諸国は肝を冷やしたことだろう。最も震え上がったのは、北アンタルヤ王国であったに違いない。ロストク軍三万と言えば、それだけで北を征服できそうな戦力だ。
またこの輿入れ行列をきっかけに、イスパルタ王国とイブライン協商国の通商交渉は弾みが付くことになる。ロストク帝国の軍事力を背景に攻めてこられてはたまらない、ということだ。
ただ、ロストク帝国とイスパルタ王国が最も意識していたのは、他でもない南アンタルヤ王国だ。今回動員された直轄軍三万は、主に南に対する牽制と言って良い。南は確かに五〇州の版図を誇るようになったが、その半分は元ルルグンス法国であり、そこの兵は弱い。ロストク軍が三万と聞けば、かなりの圧力を感じるはずだ。
「そうそう。こっちに来た一万を指揮しているのはルドガーだ。後で挨拶に行かせる」
「本当ですか。お会いできるのが楽しみです」
「また三人で一杯飲もうぜ。マリーがいたらできない話もあるしな」
「そうですね。是非」
「まあ、シュナイダー兄様もジノーファ様も、わたくしをのけ者にして。ひどいです」
そう言ってマリカーシェルが分かりやすくむくれて見せる。シュナイダーとジノーファは顔を見合わせて笑った。そのうちマリカーシェルも笑った。
それからまた、三人は雑談に興じた。その中でジノーファは、マリカーシェルとなら上手くやっていけそうな気がして、少し安心した。
マリカーシェル「はぅ……、笑顔が……、尊い……」