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正妃の椅子


 新年の参賀が終わった、その日の夜。ジノーファはユスフだけを連れて謁見の間に来ていた。彼が見つめる先には、三つの椅子がある。玉座と、王妃の椅子と、側妃の椅子だ。このうち王妃の椅子は、今日の参賀では空席だった。


(はあ……)


 窓から差し込む月明かりに照らされて、三つの椅子が佇む。その様子を見て、ジノーファは内心でため息を吐いた。座る者のない椅子を用意する。そんな所にまで配慮しなければならないことが少々疎ましい。


 いや、配慮することが疎ましいのではない。ジノーファはシェリーをそこに座らせたかったのだ。だがそれはできなかったし、彼女自身もそれを望まなかった。


 マリカーシェルが嫁いでくれば、ジノーファは彼女を正妃として遇さねばならない。いや、嫁ぐ前であっても、こうして気を遣っている。最大の後ろ盾であるロストク帝国との関係をこじらせるわけにはいかないからだ。


 マリカーシェルに不満があるわけではなかった。まして嫌いなわけでも。彼女のことは納得しているし、正妃として相応しいモノを与えることに異論はない。だからこそ、正妃のティアラにあの真珠を使おうとも思った。


 だがシェリーはジノーファの妻なのだ。自分の子供を産み、最も辛いとき傍にいてくれた彼女を押しのけることは、果たして正しいのだろうか。


(はあ……)


 ジノーファはまた内心でため息を吐いた。彼は自分の心の浅ましさを感じていた。彼はそれが正しくないと思っているのではない。「正しくない」と誰かに言って欲しかったのだ。例えそれが耳をくすぐるような讒言であったとしても、彼はそう言って欲しかったのだ。


「陛下」


 情けないことを考えているときに、突然ユスフに後ろから話しかけられ、ジノーファの心臓は一つ大きな音を立てた。それを表に出さないよう一拍置き、しかし振り返ることはせずにジノーファはユスフに応える。


「なんだい、ユスフ」


「陛下はマリカーシェル皇女殿下のことを、どう思っておられるのですか?」


「皇女殿下はイスパルタ王国とロストク帝国を結ぶ架け橋。かけがえのない御方だ」


 ジノーファはよどむことなくそう答えた。それは建前であると同時に本心だ。建前と本心が一致するこの婚姻は、きっと政略結婚としては大成功なのだろう。だがそこにおいて当人らの意思は意味を持たない。


 それでもきっとマリカーシェルは幸せなのだろう。彼女はそういう風に育てられている。ダンダリオンは「少々純粋に育ちすぎた」と言っていたが、同時にそれは「お姫様」として完成されていることも意味する。そして思い続けていた「王子様」と結婚できるのだ。婚礼を控え、彼女はその日を心待ちにしているに違いない。


 だがジノーファはどうか。彼が愛しているのはシェリーだ。彼女だけを、ジノーファは愛している。マリカーシェルを正妃に迎えるのは、極端なことを言えば「必要だから」だ。計算によるものであり、情に動かされたわけではない。だからこそ……。


「陛下は、ジノーファ様は、まだお心が追いつかないのですね」


 ユスフが述べたその言葉は、ジノーファの心にストンと入った。政略結婚で妃を迎え、子供を産ませて後を継がせる。国王として至極当然のそれに、しかしまだジノーファは感情が追いつかない。頭ではいくらでも理解しているのに、心が納得してくれないのだ。


「そう、だね。ユスフの言うとおりみたいだ」


 背中を見せたまま弱い声でそう応えると、ジノーファは並べられた三つの椅子に近づいた。そしてそのうちの一つ、シェリーが座っていた椅子の背もたれに手をかける。そしてそのまま、ユスフにこう尋ねた。


「ねえ、ユスフ。どうすれば良いと思う?」


「経験上申し上げれば、男は義務感でも女を抱ける生き物です」


「義務感で女を抱いたことがあるのかい?」


「まあ、当たり外れがございますので」


 呆れた様子で尋ねるジノーファに、ユスフは視線をそらしてそう答えた。ジノーファは苦笑して「まったく」と嘆息したが、その一方でユスフの言いたいことも分かる。愛のない政略結婚など珍しくはないのだ。全てを義務感で行ってしまうのも、国王としてはむしろ正しい姿なのかも知れない。


(でも……)


 それではあまりにも、とジノーファは思う。繰り返しになるが、彼はマリカーシェルを嫌っているわけではない。彼女のことは可愛らしい人だと思っている。幸せになってほしいと願う程度には、好意も持っているのだ。


 だが妻に迎えるとなると、話は違ってくる。内側へ踏み込まれることに、どうしても忌避感を覚えるのだ。それならユスフの言うとおりにしてしまえば良いとも思うのだが、それはそれで申し訳なさを覚える。なにしろこの状況は、ジノーファが望んだが故なのだから。


「ジノーファ様はお優しい」


 ジノーファが黙り込んでいると、ユスフが唐突にそう声を上げた。ジノーファが反射的に振り返ると、彼は小さく笑みを浮かべて折り目正しく一礼しこう言った。


「マリカーシェル皇女殿下のことも、気遣って差し上げればよろしいかと存じます」


「そう、だね」


 ジノーファはまた弱い声でそう応えた。彼の顔には、自虐的な笑みが浮かんでいる。この期に及んでまだそんな当たり前のことを人から言われなければならない。そんな自分の、なんと滑稽なことか。


 だがそれでも。それでもジノーファが愛しているのはシェリーなのだ。マリカーシェルを妃に迎えれば、いつかそのことを彼女が悲しむ日が来るのではないか。そんなことを考えてしまう。


 いや結局のところ、それさえも言い訳なのだ。シェリーを、最愛の人を押しのけることに心が軋む。突き詰めて言えば、ただそれだけの事なのだ。


「……戻ろう」


 そう言ってジノーファは身を翻した。ユスフが「御意」と言ってその後ろに従う。二人は静かに謁見の間を後にした。マリカーシェルのことに結論は出ていない。いや、最初から結論は出ているのだが、どうしても忌避感を拭えない。自分は心の狭い人間だ、とジノーファは自身を嗤った。



 □ ■ □ ■



 南アンタルヤ王国の情勢とガーレルラーン二世の動向は、現在のイスパルタ王国にとって最大の関心事である。さらに両国の間に通商条約が結ばれ、合法的に行き来ができるようになったことで、人員を送り込むこともできるようになった。


 人員といっても、本職の細作ではない。そちらはまだ人を育てている段階で、本格的に運用できるレベルには達していない。とはいえ本職ではなくとも、現地に人を送り込めることには大きな意味がある。


 噂を集めたり、モノの値段を調べたり、非合法でなくともできることは結構あるものだ。そしてそうやって集められた情報が、今日もマルマリズのジノーファのもとへもたらされていた。


「では、ガーレルラーンはまだ新領土のほうにいるのだな?」


「はい。どうやらそのようです」


 ジノーファの問い掛けに、スレイマンは大きく頷いてそう答えた。昨年、北アンタルヤ王国が独立を宣言したその少し後、ガーレルラーン二世は越境侵犯してきたルルグンス軍を撃退し、さらに法国へ逆侵攻。法都ヴァンガルを無血開城させ、大きく国土を割譲させた。


 南アンタルヤ王国が手に入れた新領土は全部で二五州。ガーレルラーン二世はこれを全て天領とした。彼は年が明けてもクルシェヒルへは戻らず、現地に残って直接采配を振るい、新領土の統制を強めているという。


「王が不在で、しかも貴族らも北を切り取るべく、自分たちの領地で忙しい様子。そのせいでクルシェヒルは幾分寂しいことになっておるようですなぁ」


 スレイマンが少しおどけてそう言うと、ジノーファも小さく笑った。しかし彼はすぐに表情を引き締める。


 情報によると、ガーレルラーン二世は軍の一部をクルシェヒルへ戻したという。その数、およそ二万。そうすると、現在およそ二万五〇〇〇の兵が、新領土で彼の手元にあることになる。この戦力を多いと見るか、それとも少ないと見るか。確たる結論を出すには、まだ情報が足りない。


「いずれにしても、それだけの戦力が手元にあるのなら、仮に現地で反乱が起こったとしても、迅速に鎮圧することが可能でしょう。新領土は着実に南の一部になっていくものと思われます」


 スレイマンの見立てに、ジノーファも一つ頷いて同意する。ガーレルラーン二世が直接采配している事も含め、新領土のほうで混乱が起こることはなさそうだ。


 あるいは他国が暗躍すれば、騒乱を起こすことは可能かも知れない。ただルルグンス法国にそれだけの気力は残されていないだろうし、イスパルタ王国にはそのための人員と能力がない。傍観するより他にないかと思った矢先、ふと気になることがあり、ジノーファはスレイマンにこう尋ねた。


「北はどうすると思う?」


「北、ですか……。そうですなぁ……」


 スレイマンは考え込んだ。南アンタルヤ王国の混乱を最も望んでいるのは、言うまでもなく北アンタルヤ王国であろう。そうであれば、工作員を送り込んで未だ不安定な旧法国領で騒乱を引き起こすことは、当然選択肢の一つになるはずだ。だがそのために必要な余力と能力と情報が彼らにあるのか、それが問題である。


「確たることは言えませんなぁ。こちらとしても、北の情報が足りていません。公爵家ならあるいは、と言う気もしますが……」


 しばらく考え込んでから、スレイマンは結局そう答えた。北アンタルヤ王国がどれほど工作員を有しているのか、どれだけルルグンス法国の情報を持っているのか、ということはさすがに彼も把握していない。曖昧に答えざるを得ないのだ。


「何にしても、情報は流してやるべきでしょう。北が動けば良し。動かずとも、当面我々に影響はありません」


 スレイマンがそう言うと、ジノーファも一つ頷いて同意した。北アンタルヤ王国が陰謀を巡らし、南アンタルヤ王国の新領土で反乱を起こすなりできれば、ガーレルラーン二世はまずそちらに対処しなければならなくなる。それは彼が直接北を討伐するべく動くまでの時間稼ぎに繋がり、さらにそれは南の矛先がイスパルタ王国に向くのを遅らせることにも繋がるだろう。


 それで、北アンタルヤ王国が動いてくれれば、イスパルタ王国には最も都合が良いと言える。情報を流すのもこのためだ。しかし北が動かなかったとしても、イスパルタ王国に影響はない。最初から計算に入れていないからだ。


「それにしても、ガーレルラーンは楽しそうですなぁ」


「楽しそう? スレイマン、どうしてそう思うのだ?」


 スレイマンの言葉が不可解に思えて、ジノーファはそう聞き返した。ガーレルラーン二世は内心を読ませない。その彼がどうして楽しそうだと思うのか。


「まあ、楽しそうというのは私の想像ですが。ただ、新領土は全て天領です。これをしっかりと掌中に収められれば、アンタルヤ王家の力は建国以来最も強くなりましょう。人質の件を抜きにしても、他の貴族らに対して圧倒的優位に立ったと言えます。王家は、そしてガーレルラーンも、これまでずっとそれを望んでおりましたからなぁ。悲願の達成まであと一歩のところまで来た思えば、それは楽しかろうと思いまして、な」


 スレイマンの説明を聞き、ジノーファは「なるほど」と思った。アンタルヤ王国は伝統的に貴族たちの力が強く、相対的に王家の力が弱い。この力関係をどうにかすることは、確かに王家にとって長年の悲願だった。


 南アンタルヤ王国の版図は五〇州。その半分以上が天領である。ガーレルラーン二世の力は圧倒的と言って良い。アンタルヤ王国が三つに割れる以前と比べても、天領の数は今の方が多いのだ。


 新領土からしっかりと税を取れるようになれば、ガーレルラーン二世はもはや国内の貴族の顔色を気にする必要はなくなるだろう。さらに南アンタルヤ王国は、北アンタルヤ王国やイスパルタ王国に対しても、二倍近い国力を誇っている。両国を討伐して元の国土を回復することは、客観的に見て十分に可能だ。そしてその時、ガーレルラーン二世はまさに絶対的な君主となる。


 ガーレルラーン二世がどこまで考えているのかは分からない。だが彼の目にその未来が映っているのなら、確かに楽しいだろう。もっとも彼が楽しげにしている様子など、それはそれでジノーファには想像できなかったが。


 閑話休題。ガーレルラーン二世の動向は私貿易を通じて北アンタルヤ王国へ伝えるとして、ジノーファとスレイマンが気にしているのは、むしろクルシェヒルへ戻った二万の方だった。この二万は戻った後も解散せず、そのままクルシェヒルの防備を固めている。


「スレイマン、どう思う?」


「クワルド将軍の意見を聞きたいところですが、まあ、常識的に考えて北と東への備えでしょうな。西で何かあれば後詰めに使われる可能性もありますが、そういう事態にはあまりならないかと愚考いたします」


 スレイマンがそう答えると、ジノーファはまた一つ頷いた。南アンタルヤ王国の主力は言うまでもなく、ガーレルラーン二世が直卒していた四万五〇〇〇だ。しかしこれを全て新領土に置いておくと、北や東に異変があったときに対処仕切れない。なによりクルシェヒルが空になる。


 だが二万の戦力があれば、北アンタルヤ王国も容易にクルシェヒルを奪えるとは思わないだろう。クルシェヒルを狙わないとしても、北アンタルヤ軍が侵攻してきた場合には、しっかりと後詰めをすることができる。イスパルタ王国としても、この状況では相互不可侵条約を破ってまで兵を動かそうとは思わない。


 ガーレルラーン二世は二万をクルシェヒルに置いて睨みを利かせることで、両国の動きを大きく掣肘してしまったのだ。そして両国の動きが鈍いうちに、新領土の支配体制を確立させる。それが彼の狙いであろう。


「もともと動くつもりはなかったけど……。流石だ、嫌になるくらい手強い」


 やや投げやりな口調でそう呟き、ジノーファは身体を椅子の背もたれに預けた。もっとも、ガーレルラーン二世の手強さを今最も思い知らされているのは、彼ではなくイスファードの方だろう。


 全面戦争に突入する前にそれを知ることができて、ジノーファはむしろ幸運だったと言えるかも知れない。もっとも彼は、あまり救われた気分にはならなかったが。本当に、イスファードには踏ん張ってもらいたいところである。


「ところでこの二万、いや手元にある二万五〇〇〇も含めて、ガーレルラーンは常備軍化してしまうつもりなのだろうか?」


「当面、解散させるつもりはないでしょうな。ただ、このまま恒久的な常備軍にしてしまうのかはなんとも……」


 スレイマンはそう言葉を濁した。恒久的な常備軍となれば、維持するために相応の金がかかる。だが王権を確たるものとするために、武力ほど有用なものはない。ガーレルラーン二世もそれは重々承知しているはずだ。


 ましてガーレルラーン二世はこれまで、ロストク帝国皇帝ダンダリオン一世の姿を見てきたのだ。彼の指示の下、迅速に動く皇帝直轄軍の姿は、ガーレルラーン二世にも強烈な印象を残しているに違いない。


 国王という立場になったとき、ジノーファはそれが欲しかった。いやむしろ、それがなければ国と王権を維持できないのではないかとさえ考えた。ましてガーレルラーン二世は国を割られてしまったのだ。ジノーファ以上にその思いが強かったとしてもおかしくはない。


 今の時勢を機に、ガーレルラーン二世は近衛軍の常備軍化を進めるだろう。確証はないが、ジノーファにはその確信があった。そしてその確信が、彼の心に重くのし掛かる。


 時が経てば経つほど、ガーレルラーン二世は強大になっていくようにジノーファには思えた。ならばいっそのこと彼の態勢が整う前に、という考えが彼の頭をよぎる。しかし彼は小さく頭を振ってその考えを振り払った。今は内政に集中するべき。彼は自分にそう言い聞かせた。


「我々も、備えをしておかなければならないな」


「御意。我が国も負けてはおれませんからな」


 南アンタルヤ王国は領土を大幅に拡張した。だがイスパルタ王国とて、交易による多額の収入が見込まれている。現時点において、すでにその兆しは出ているのだ。その富を投じて備えを行えばいい。


 もっとも、富は常に限りあるモノ。その中で成果を出すには、入念な計画が必要になる。そしてまた時間も限られている。ジノーファは背もたれから身体を起こすと、スレイマンと打ち合わせを続けた。



ユスフ「ちなみにどう外れだったかというと……、おっと人が来たようだ」

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 3〜4周目で気になったのですが、後半のこの部分 ーーーーー 閑話休題。ガーレルラーン二世の動向は私貿易を通じて北アンタルヤ王国へ伝えるとして、ジノーファとスレイマンが気にしているのは、…
[一言] う~む……後から考えると、ガーレルラーン二世との和平?講和?はマイナスなのかプラスなのか微妙だよね。 ガーレルラーン二世を打ち倒す事だけなら、イスファードと講和条約を結んだ方が良かっただろ…
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