対南アンタルヤ王国通商交渉
リュクス川でイスパルタ王国と(南)アンタルヤ王国との間で休戦が成立してから、およそ三週間後。休戦の前提となったのは、両国の間で通商条約の締結に向けた交渉を行うことだったが、いよいよその交渉が始まろうとしていた。
交渉の場となったのは、イスパルタ王国の王都マルマリズ。よって南アンタルヤ王国からは全権大使が派遣される。クルシェヒルで交渉を行わなかったのは、国内の貴族たちをイスパルタ王国側に接触させないためと思われた。人質の件で彼らが不満を抱いていることを、ガーレルラーン二世は承知していた。
加えて、ルルグンス軍が国境を越えて攻め込むという事態も起こっていた。ガーレルラーン二世は軍を率いてそちらの対処をせねばならず、クルシェヒルをしっかりと統制することはできない。ならいっそ大使を派遣し、マルマリズの様子を見てこさせた方が良い、と言うわけだ。
南アンタルヤ王国の全権大使としてマルマリズを訪れたのは、腕利きの外交官として知られるフスレウという男だった。イブライン協商国にも顔が利き、両国の交易の発展に大きな功績のある男だった。今回の交渉のために、まさに適任者と言って良い。
イスパルタ王国側の交渉責任者は宰相のスレイマン。二人は顔見知りであり、フスレウを出迎えると、二人は親しげに握手を交わした。同時にスレイマンは内心で覚悟を決める。フスレウが相手であれば、交渉はタフなものになるだろう。
無論、スレイマンとて良いようにやり込められるつもりはない。最近ではロストク帝国との通商条約もまとめた。その経験は彼のなかで確かな自信となっている。意気込んで交渉に臨んだが、彼は良い意味で肩すかしを喰らった。
「これが、通商に関してアンタルヤ王国が求める条件でござる」
そう言ってフスレウは分厚い書類の束を差し出した。スレイマンはそれを受け取り、同じようにしてイスパルタ王国側の書類を差し出す。初日の交渉はこれで終わりだ。双方それぞれ、お互いの作業部屋へ引き上げた。
余談になるが、フスレウは「アンタルヤ王国」を名乗った。つまりガーレルラーン二世は北アンタルヤ王国を認めていないのだ。彼らはあくまで北の叛徒であり、アンタルヤ王国は南北に分裂していない、というのが彼の立場だった。
イスパルタ王国側の作業部屋へ戻ってくると、スレイマンは早速受け取った書類の確認を部下たちに命じた。その際、言葉の使い回し、単語の一つ一つにまで、細心の注意を払わせる。言葉の裏にどんな意図が隠されているのか、それを見極めなければならないのだ。
ちなみにスレイマン自身は、確認作業を命じた後、自分の執務室へ戻った。彼には他にもやらなければならない仕事がたくさんあるのだ。通商交渉にかかりきりになることはできない。そして彼が報告を受けたのは、その日の夕方になってからだった。
「これは、真なのか……?」
やや唖然としながら、スレイマンは報告を持ってきた部下にそう聞き返した。部下の方もいささか怪訝そうな顔をしてはいるが、しっかりと頷きこう答える。
「はい。確かにこれが、向こうの提示してきた条件です」
「そう、か……」
どこか信じられない気分を味わいながら、スレイマンは手元の書類に目を落とした。そこには(南)アンタルヤ王国側が提示してきた条件が要約してまとめられている。そしてその最後には、さらにそれを要約した一文が記されていた。
曰く「イブライン協商国並の条件である」。
アンタルヤ王国にとってイブライン協商国は、伝統的な友好国だ。さらに商業国でもあるため、協商国との交易は王国に大きな利益をもたらしていた。当然、結ばれている通商条約も交易を促進する性質のものだ。
そして今回、ガーレルラーン二世はフスレウを通じて、その友好国とほぼ同等の条件を提示してきた。それも、アンタルヤ王国を大きく割る形で分離・独立したイスパルタ王国に対して、だ。
確認作業を行ったスレイマンの部下たちも容易には信じられず、目を皿にして何度も書類を確認したという。だがやはり間違いはない。解釈次第でイスパルタ王国の不利益になりそうな文言が幾つかあったが、それは今後の交渉のなかで修正していけば良い。
「まさか、この条件を初手で出してくるとは……」
スレイマンは嘆息気味にそう呟いた。相互不可侵条約が結ばれているとは言え、イスパルタ王国と南アンタルヤ王国は敵対関係にある。当然、通商条約もそれに準じたものになるだろう、と彼は覚悟していた。
イスパルタ王国としては、交易は積極的に拡大したい。それで提示されるであろう敵対的な通商条約を、少しでも友好的なものにすること。それがスレイマンの仕事だった。理想はまさにイブライン協商国並にすることで、しかしそれは無理だろうと誰もが考えていた。
しかし蓋を開けてみれば、南アンタルヤ王国は最初からイブライン協商国並の条件を提示してきた。素直に受け取れば、喜ばしいことだ。だが相手はあのガーレルラーン二世であり、百戦錬磨の外交官であるフスレウ。どこかに大きな落とし穴があるのではないか、と勘ぐってしまう。
ちなみにイスパルタ王国側が提示した条件は、ロストク帝国並だ。この条件はイブライン協商国並を上回る。到底受け入れられないことは分かっているが、最初はふっかけておくものだ。加えて両国の強い結びつきを誇示する目的もある。後でフスレウからガーレルラーン二世へ話が伝わるだろう。
まあそれはともかくとして。部下の報告を受け、スレイマンは考え込んだ。好条件を素直に喜びたいところではあるが、ここはやはり裏の目的があると考えるべきだろう。それが邪なものであるかは分からない。だが彼らは彼らなりに、合理的な理由があってこの条件を提示してきたはず。そこを考える必要がある。
「陛下とも、相談せねばなるまいの……」
スレイマンは部下をジノーファのところへ向かわせた。スケジュールを確認するためだ。何とか今日中にと思っていたのだが、部下は戻ってくると「陛下がお呼びです」でスレイマンに告げる。彼は急いでジノーファのところへ向かった。
スレイマンがジノーファの執務室に入ると、そこにはクワルドの姿もあった。呼ばれたわけではなく、別件でジノーファと相談していたのだという。ソファーに座っているから、彼にも話を聞かせるのだろう。知見は多い方が良い。スレイマンにも異論はなく、彼はクワルドの向かいのソファーに座った。
「ではスレイマン。もう一度事情を説明してくれ」
「はっ……。まず……」
ジノーファに促され、スレイマンは事情を説明する。それを聞き終わると、ジノーファは「なるほど」と呟いて何度か頷いた。向かいに座るクワルドは難しい顔をしている。そしてその彼が口を開いてこう言った。
「ガーレルラーンの意図が読めませんな……。何か企んでいるのではありませんか?」
「うむ。それゆえ、こうして相談したいと思ったのじゃ」
スレイマンがそう言うと、クワルドは腕を組んで考え込んだ。スレイマンも同じようにして考える。そこへジノーファがこんなことを言った。
「何か企んでいるとして、それは我が国に対するものではないのかも知れない」
「……あり得ますな。もしかしたら、ルルグンス法国を睨んでの事かも知れません」
そう言ったのはクワルドだった。ルルグンス法国にも港がある。そこを使い、法国がイスパルタ王国と経済的な結びつきを強める可能性は十分にある。そしてその結びつきが、軍事的な同盟に発展することもまた考えられるだろう。
その状況を南アンタルヤ王国の視点で見るとどうか。同盟を結んだ両国に東西から挟まれる格好となる。北アンタルヤ王国を合わせれば三方から囲まれた形になり、非常に大きな安全保障上の脅威と言えるだろう。
「そのリスクを回避するべく、少なくとも通商の分野では友好的な姿勢を見せることにしたのかもしれません。そうは言っても、相互不可侵の間だけでしょうが。そしてその間に北アンタルヤ王国を叩く。それがガーレルラーンの目的はないでしょうか?」
クワルドがそう話すと、スレイマンは「なるほどのぅ」と言って頷いた。一理ある、と思ったらしい。そしてクワルドの考えを聞いて何か閃くものがあったのか、続いて自分の考えをこう述べ始めた。
「イスパルタ王国が独立し、さらに南北に分裂したことで、アンタルヤ王国の経済規模はかなり小さくなりました。北と活発な交易などしないでしょうから、税収はさらに減るはず。我が国との交易で、それを補うつもりなのかもしれませぬなぁ」
二人の推察にジノーファも頷いた。軍を動かすには金がかかる。だが南アンタルヤ王国は小さい。農作物からの税収には限りがある。収入を増やすには交易を拡大するしかない。安全保障上の懸念も合わせて考えれば、今は友好的な姿勢を見せた方が得策。ガーレルラーン二世はそのように考えたのだろう。そうだとすると、また別の考えも見えてくる。ジノーファはそれをこう語った。
「ガーレルラーンは北を枯らすつもりなのかも知れない」
「と、仰いますと?」
「クワルドの言うとおり、ガーレルラーンはまず北アンタルヤ王国を叩くつもりだ。そしてスレイマンの言うとおり、南北アンタルヤの間で活発な交易は行われない。後はイスパルタ王国との間で国境を閉じさせれば、北アンタルヤ王国は陸の孤島になる」
つまりガーレルラーン二世は北アンタルヤ王国に対して経済封鎖を仕掛けようとしているのではないか、というのがジノーファの考えだった。それを聞いてクワルドもスレイマンもはっとしたような顔をする。否定する要素がなかったのだ。
北アンタルヤ王国は、北を魔の森に、東をイスパルタ王国に、南を南アンタルヤ王国にそれぞれ接している。西は魔の森に対するいわゆる緩衝地帯であり、国はおろか街と呼べるものさえない。
この地政学的な条件下で、南と東の国境を封鎖されたら、北アンタルヤ王国は文字通り孤立することになる。西側からルルグンス法国を目指すなどのことはできるかも知れないが、まともな道もないのだ。大規模な交易などできるはずもない。
ではイスパルタ王国に北アンタルヤ王国との国境を封鎖させるにはどうしたら良いのか。実のところ、これは難しくない。イスファードはジノーファを目の敵にしている。まともな通商条約など結ぶはずがなく、放っておいても両国の間で正式な交易は行われないだろう。このように敵対的な態度を取られれば、攻め込むことはないにしても、国境は封鎖せざるを得ない。
だがガーレルラーン二世はジノーファが通商の分野に強い関心を持っていることを知った。また経済封鎖によって苦しくなれば、イスファードもなりふり構っていられまい。彼が歩み寄れば、両国の間に通商条約が結ばれることはあり得る。
ガーレルラーン二世はもしかしたら本当は、「北アンタルヤ王国と交易するな」と言いたかったのかもしれない。しかしそんなことを言えば、自国の弱みを見せることになる。イスパルタ王国に余計な気付きを与えても面白くはない。
そこで通商分野では友好的な姿勢を見せ、イスパルタ王国の目と商人を南アンタルヤ王国へ惹きつけようとしたのではないか。仮に北アンタルヤ王国とイスパルタ王国の間で通商条約が結ばれても、その条件が南アンタルヤ王国に及ばなければ、人とモノと金はやはり北ではなく南へ流れることになる。経済封鎖は破られない。
「北は南だけでなく、防衛線も抱えているのだ。人も物資も枯渇し、苦しいことになるだろう。離反者も出るかも知れない。そうなったら、もうまともには戦えないだろうな」
そうやって弱らせてから、満を持して北アンタルヤ王国を制圧する。もしくは降伏させる。それがガーレルラーン二世の戦略なのではないか。ジノーファはそう語った。クワルドもスレイマンも、「あり得る」と言って同意する。それを見てから、ジノーファはさらにこう続けた。
「あとは、塩だな」
北アンタルヤ王国は内陸国だ。海に面していない。海水から塩を作ることはできないのだ。また領内に塩湖や岩塩のとれる鉱山があるわけではないから、塩は完全に輸入に頼ることになる。
それなのに経済封鎖などされたら、財政の悪化などという話では済まなくなる。民衆の生活が成り立たなくなるのだ。あちこちでイスファードに対する反乱が起こるだろう。ガーレルラーン二世の親征を待ち望む待望論さえ生まれるかも知れない。
もっとも、塩を得る手段が何もないわけではない。ダンジョンから岩塩が得られることもあるのだ。ただそれだけでは需要は満たせないだろう。他にも密貿易という手もある。高い金を払えば、南アンタルヤ王国の貴族などから仕入れることは可能だろう。もちろんこの場合、イスパルタ王国も仕入れ先の候補に挙がるはずだ。
ただどんな手段を取るにしても、自前で作ることができず、正規ルートでの購入も難しいとなれば、塩の値段は暴騰する。生活必需品の暴騰は、民衆の生活を直撃するだろう。民衆の間には不満がたまるはずだ。そしてそれはやはり、ガーレルラーン二世への待望論に繋がることになる。
「そうなれば、北伐は成功したも同然ですな……」
ジノーファの話を聞き、クワルドはそう呟いて唸った。軍略家である彼は「たかが通商」と思っていたのかも知れない。だが軍事も通商も政治の一面だ。通商でつまずけば民衆の生活が圧迫される。そしてそれは軍事的な隙になるのだ。
さてここまで色々と話し合ったが、一人だけが正しくて他は間違い、と言うことはないだろう。ガーレルラーン二世が複数の目的を持っていることは十分にあり得る。案外、三人ともそれぞれ正解を言い当てていたのかも知れない。東西の安全保障を確保し、交易によって税収を増やし、同時に北の叛徒を締め上げる。一石三鳥の策、というわけだ。
「この一手で、そこまでの影響があるかも知れないとは……」
「して、陛下。いかがいたしますかな?」
「せっかく交易のしやすい条件を持ってきてくれたのだ。このまま進めてくれ」
ジノーファはスレイマンにそう答えた。イスパルタ王国に対して何か企んでいるのでないのならそれでいい。スレイマンも異論はないらしく、彼はしっかりと頷いてジノーファに応えた。
「陛下、北に攻め込みますか?」
そう尋ねたのはクワルドだった。冗談を言っている気配はない。部屋の中がにわかに緊張する。南アンタルヤ王国に全てくれてやることはない。イスパルタ王国も食い込め。彼はそう言っているのだ。
「……今は内政を優先する」
ジノーファはそう答えた。ガーレルラーン二世が北アンタルヤ王国を枯らそうとしているのなら、すぐさま攻め込むことはないはずだ。イスパルタ王国だけが先走っても良いことはない。むしろ当て馬に使われかねない。
(それに……)
それに、少し考えていることもある。イスパルタ王国と北アンタルヤ王国の間で、正式に通商条約を結び交易を行うことは難しいだろう。だが貴族間の私貿易であればどうか。両国とも、貴族は自主自立の気風が強い。その上、はっきりと禁じられているわけではないのだ。利益が出るのであれば、私貿易に手を出すことはあり得る。
そこまで考え、ジノーファは苦笑して小さく頭を振った。今は南アンタルヤ王国だ。北アンタルヤ王国のことは、また改めて考えればいい。最後にもう一度諸々の確認をすると、クワルドとスレイマンは退席した。
「陛下は……、慎重ですな」
スレイマンと並んで廊下を歩きながら、クワルドはふとそう呟いた。「兵は出さない」と決めたことを言っているのだろう。スレイマンは一つ頷き、彼にこう応える。
「意外ですかのう?」
「正直に言えば、少々。陛下はお若い。イスファードとは因縁もありまする。派手な軍事行動を好まれるのではと思ったのですが……」
「それまでの人生を否定され、さらには国を追われた。苦労されたのでしょう」
スレイマンの言葉にクワルドは同意して頷く。ただ、口では面白がるようにしてこう言った。
「ユスフからは、ガルガンドーでの生活を楽しんでおられたと聞いておりますが?」
「内心の忸怩たる思いを表に出さなかった。それもまた一つの苦労でございましょう」
なるほど、と言ってクワルドはまた頷いた。無論、ガルガンドーで暮らしていた時にもジノーファが祖国を想っていたことは、彼から直接聞いてクワルドも知っている。だがそれさえもほんの一部なのだろう。いつかもっと詳しく聞いてみたい。クワルドはそう思った。
フスレウ「……え? なにこれ? 正気?」(イスパルタ王国側の条件案を思わず二度見する)