近衛軍改革
イスパルタ王国が人材不足であることは、すでに何度も取り上げた。そしてこの人材不足は何も、いわゆる官僚機構に限った話ではない。軍隊、特に近衛軍においても、人材の不足は深刻だった。
ちなみに、「近衛軍」という名称はアンタルヤ王国時代に用いられていたものだ。忙しかったせいもあるが、ジノーファが特別名前を変えることをしなかったので、今でもそのまま同じ名前が使われていた。改革が行われ、組織として別物になるまでは、名前は変えないつもりなのだろう。
まあそれはそれとして。イスパルタ王国の近衛軍というのは、大雑把に言ってロストク帝国の皇帝直轄軍に相当する。つまり、国王が比較的自由に動かせる軍隊だ。この組織を立て直すことは、国防上の急務と言える。
現在、近衛軍を統括しているのは、ジノーファの右腕とも言うべきクワルド将軍だ。彼はジノーファが貴族たちに人材を推薦するよう求めたときその場にいたのだが、この話を絶好の機会と捉えた。推薦された人材を軍部にも回してもらえないか、と考えたのだ。
クワルドの要請を、ジノーファもスレイマンも快諾した。というより、もともとそのつもりだったのだ。推薦される人材のすべてが、いわゆる文官志向というわけではないだろう。武官を志す者もいるはずで、そういう人材は軍部へ回すことになった。
「さて、即戦力の人材が来てくれれば良いが……」
クワルドはそう言って苦笑を浮かべた。例えば、貴族らの領軍で部隊指揮を執っていた者などは、即戦力の人材として計算できる。ただ、そういう人材を貴族たちが手放すのか、というのはまた別の問題だ。
数日悩み、結局クワルドは軍部としても人材の募集を行うことにした。訳あって野に下った、元士官などがその主なターゲットだ。ジノーファからは近衛軍の組織改革も進めるよう命じられている。指揮官となる人材は、どれだけいても足りない。
ジノーファが命じた組織改革は、主に二つの柱からなっている。一つは近衛軍を職業兵だけで構成された常備軍にすること。現在、近衛軍はその戦力の半分以上を徴兵によって集めている。これはアンタルヤ王国時代からのやり方だ。ジノーファはこれを革め、徐々に職業兵の比率を増やしていき、最終的には徴兵を止めるつもりでいた。
もう一つは兵站を扱う専門部署の新設だ。軍を動かし兵を働かせるには、どうしてもそれ相応の物資が必要になる。兵站に不安を抱えていては戦えない。ゆえに、それを専門に扱う部門を立ち上げるのだ。
もちろんこのいずれも、簡単に成し遂げられるものではない。だがやらなければならない。イスパルタ王国は小国であり、外敵を抱え、さらに魔の森にも対処しなければならない。国体を保つには、精強な軍隊が必要なのだ。
そして今は内政に注力できる、奇跡的な時期と言って良い。防衛線は落ち着きを取り戻した。北アンタルヤ王国と南アンタルヤ王国は互いに噛み合い、イスパルタ王国のことは後回しになっている。イブライン協商国はランヴィーア王国との戦争に忙しい。そしてロストク帝国との関係は盤石だ。
だからこそ今この時期に近衛軍の改革を断行し、イスパルタ王国を守る力へと育てなければならないのだ。南アンタルヤ王国との相互不可侵条約が有効なのは三年だが、ガーレルラーン二世がこれを律儀に守ってくれる保証はない。二年以内に改革を形にする必要がある。それは大変な作業だ。
「人手もそうですが、金がかかります」
クワルドはそう指摘した。ジノーファの言うとおりにすれば、今よりも多くの職業兵を常に雇うことになるのだ。人件費の増大は自明である。兵站部門の創設にも、やはり金がかかるだろう。その金を、一体どこから捻出するのか。
「これからこの国は、商業が活発になっていく。それに伴って税収も増えるはずだから、費用は賄える、と思う……」
ジノーファはそう言ったが、具体的な見積もりがあるわけではない。語尾は弱くなった。そしてそれでは、クワルドを納得させることはできない。彼は険しい顔をしたまま、ジノーファにこう告げた。
「それでは二年、いえ三年かけても、改革を形にするのは難しいかも知れませんな。両方が中途半端になるなら、どちらかを優先するべきではありませんか?」
「……兵站部門の創設を優先してくれ」
少し肩を落とし、ジノーファはそう指示した。金がかからないのはそちらだろう、と思ったのだ。それに確かに、税収がどれくらい増えるかが分からなければ、常備軍をどれほど置くかの議論はできない。
ジノーファの本音としては、兵力の増強を優先したかった。それは何も、外敵のことだけを考えてのことではない。アンタルヤ大同盟、そしてアンタルヤ王国の流れを汲むだけあって、イスパルタ王国は貴族の力が強い。王家の威信を保つには、やはり精強な軍隊が必要なのだ。
無論、ジノーファに限って言えば、国内の貴族らに軽く見られることはない。すでに武功を上げているし、ロストク帝国の後ろ盾もある。だが将来のイスパルタ王家はどうか。侮られ軽んじられれば、その末路は哀れなことになるだろう。
妙な話だが、王座について初めて、ジノーファはガーレルラーン二世の気持ちが少しは理解できた気がしていた。貴族の力が強く、相対的に自分の力が弱いというのは、不満や不安を覚えるのに十分な状況だ。そして不満や不安は行動を起こす動機になる。
だからといって、ジノーファはガーレルラーン二世のやり方に倣う気は少しもない。結局、彼は国を割った。それは言い訳のできない大失態だ。わざわざ同じ失敗を繰り返す必要はないだろう。しかし倣わないなら、別の方策を考えなければならない。その一つが軍事力の強化だった。
新たな近衛軍のモデルは、言うまでもなくロストク帝国の皇帝直轄軍だ。皇帝の意のままに、しかも素早く動くことのできるこの軍隊は、ジノーファに強烈な印象を残している。
だが現実は甘くない。今のイスパルタ王国の状況で、皇帝直轄軍を再現することは難しい。ジノーファもそれは分かっている。腹を据えて、取り組んでいくしかないだろう。
「……ところで陛下。一つ考えていることがございます」
クワルドがそう話しかけてきたのをきっかけに、ジノーファは意識を彼に戻した。そして「何だ?」と尋ねて彼に続きを促す。クワルドはこう話した。
「近衛の兵を何人か、アヤロンの民のところへ預けられないでしょうか?」
収納魔法を覚えさせたいのだ、とクワルドは言う。それを聞いてジノーファは驚いた様子だったが、すぐに満面の笑みを浮かべて何度も頷いた。
「それは良い考えだ。わたしの方からも、ダーマードとラグナに手紙を書こう」
「はっ、ありがとうございます」
もともとそのつもりだったのだろう。クワルドは満足げにそう言って頭を下げた。近衛の兵が収納魔法を覚えれば、ダンジョンを使った訓練がさらにはかどり、兵士一人一人の精強さが増すことになる。兵の数を増やすことはできなくても、戦力の底上げに繋がるのだ。
さらに収納魔法が使えるようになれば、それだけ多くの魔石やドロップアイテムを得ることができる。近衛軍の収入も増えるだろう。もちろんそれで費用の全てを賄えるわけではないが、多少はマシになるはずだ。
それがクワルドの考えだったが、ジノーファの考えはさらにもう一歩踏み込んでいた。近衛軍で収納魔法を使い始めれば、それはいずれ民間にも広がっていくはず。その時、国全体としてダンジョンから得られる収入は格段に増えるだろう。ジノーファは一部で独占されている収納魔法を、国全体に普及させようと考えたのだ。
「収納魔法は有用な魔法だ。使える人材を、イスパルタ王国も揃えなくてはな。……それはそうとクワルド、例の件はどうなった?」
「はっ。検討はしてみたのですが、やはり少々難しいかと……」
「そう、か……」
ジノーファは少々落胆した様子を見せる。彼は近衛軍に諜報部隊を作れないと相談していたのだが、クワルドの返事は色の良いものではなかった。
諜報部隊というからには、ただの斥候とはわけが違う。当然、ジノーファがイメージしているのも、ダンダリオンが使っていた細作たちだ。そして近衛軍には、この分野のノウハウが全くなかったのだ。
「不可能とは言いません。必要であることも承知しています。ですが全くの手探り状態から始めることになります。改革と同時進行というのは、難しいと言わざるを得ません」
「分かった。この話は一旦引き取る。スレイマンとも相談して、もう少し考えてみよう」
「申し訳ございません」
クワルドが沈痛な面持ちで頭を下げる。ジノーファは「気にするな」と告げた。その後、さらに幾つかの懸案を話し合ってから、クワルドはジノーファの執務室を後にした。
彼を見送ると、ジノーファはユスフに命じて宰相のスレイマンを呼んでこさせる。そして彼に諜報部隊の件を話した。
「そうですか。近衛軍の方では難しい、と……」
スレイマンはいささか気落ちしたようにそう呟いた。ジノーファも表には出さないが残念がっている。二人とも、今後諜報部隊はどうしても必要になる、と考えているのだ。
二人にそれを痛感させたのは、他でもないイスファードの蜂起だった。二人はこの動きを、シャガードという使者によって知った。だがもっと早く察知できていれば、他に動きようがあったかも知れない。
過ぎたことは置いておくとしても、イスパルタ王国は南北アンタルヤという二つの敵対勢力を抱えているのだ。二、三年の間は平和な時期が続くと見込んではいるものの、どうしても戦いは避けて通れないだろう。
そうであるなら、その兆候を見落とすわけにはいかない。相手の動きを監視し、情報を集め、来たるべき戦に備えなければならないのだ。だがそのためには、どうしても現地で活動する人員が必要になる。
大使館を開設する、というのも一つの手だ。しかしガーレルラーン二世もイスファードも、国内にイスパルタ王国の大使館を置くことを認めないだろう。そうであるなら、秘密裏に人員を送り込むしかない。そのために諜報部隊だ。
「……そういえば、アンタルヤ王国ではどうしていたのだ?」
ふと気になり、ジノーファはスレイマンにそう尋ねた。クワルドから聞いた限りでは、近衛軍に諜報部隊は存在していなかったと言う。だがまったく存在していないと言うことはないはずだ。
「詳しいことは分かりませんが、国王の直属機関としてそのようなものが存在しているとは、聞いたことがあります。ですが最近は、機能不全に陥っているのかも知れませんなぁ」
スレイマンはそう言って苦笑する。彼の言うことがいまいち腑に落ちず、ジノーファは小さく首をかしげてこう尋ねた。
「機能不全って……。どうしてそう思うのだ?」
「イスパルタ王国の独立を、そして北アンタルヤの謀反を、それぞれ察知することも未然に防ぐこともできませんでしたからなぁ」
そう言われ、ジノーファは納得したように頷いた。しかしそうなると、諜報部隊の必要性はますます増してくる。機能不全に陥っているかもしれないとはいえ、ガーレルラーン二世は諜報部隊を持っているのだ。イスパルタ王国内で活動させることは十分に考えられる。これを野放しにしておくことはできない。
加えて、警戒するべきは国外のスパイだけではない。アンタルヤ王国は三つに分裂した。国内の不穏分子も、国を滅ぼす原因となり得る。そうでなくともイスパルタ王国は貴族の力が強いのだ。将来的に彼らが何かを企む可能性は十分にある。これまでの経緯を見れば、ジノーファの危惧に十分な根拠があることは、容易に理解できるだろう。
「ここはもういっそ、経験者にお願いしてみようか?」
「経験者、ですか? どなたか、おられましたかな……?」
「シェリーだ」
首をひねるスレイマンに、ジノーファはさらりとそう告げた。シェリーがもともと細作であったことは、すでにスレイマンも知っている。諜報という、全く未知の分野に手を出すに当り、経験者の知見を頼りにするというのは良い考えだろう。
問題は、シェリーがダンダリオン一世の細作であったと言うことだ。そして現在は彼の養女でもある。下手をしたらイスパルタ王国の諜報部隊であるのに、ロストク帝国の影響力のほうが強い、などということになりかねない。イスパルタ王国の情報が、ロストク帝国に筒抜けになってしまう。
(まあ、今更ではある、かのぅ……)
スレイマンは内心でため息を吐いた。建国の経緯からして、イスパルタ王国はロストク帝国の影響が強いのだ。
それに、諜報面でロストク帝国との結びつきを強めることは、決して悪いことばかりではない。諜報分野は今後しばらくの間、イスパルタ王国の弱点になる。それを補うことができるだろう。帝国が入手した情報を教えてもらうことも期待できる。
(形が整ったところで陛下の直属部隊ということにし、シェリー殿下には手を引いていただく。そういうことにすれば……)
シェリーの影響力は残るだろう。だがロストク帝国の好き勝手にされることはない。スレイマンはそう考えた。何より今は、諜報部隊の設立を急がなければならない。
「分かりました。シェリー殿下にご承知いただけたのなら、こちらで予算を用意しましょう」
「うん。近いうちにシェリーに話してみよう」
ジノーファは少し浮き立った声でそう答えた。シェリーのところへ行く理由ができたのが嬉しいのだろう。仲の良いことだ、とスレイマンは苦笑した。
そしてその日の夜。ジノーファは早速、閨の中でシェリーに話をした。諜報部隊の設立を任せたいと言われ、彼女は驚いた様子で身体を起こした。
「わたしが諜報部隊を、ですか?」
「うん。どうだろうか?」
「やってやれないことはないと思いますが……。よろしいのですか?」
難しい顔をして、シェリーはジノーファの顔を上からのぞき込んだ。どうやら自分の立場を気にしているようだ。その気持ちはジノーファも理解できる。彼は苦笑を浮かべると、シェリーの頬に手を添えてこう言った。
「他に適任者がいないんだ。……シェリー、力を貸してくれないだろうか?」
「……もう、その言い方は卑怯ですわ」
口ではそう言いつつも、シェリーの表情は緩んでいた。そしてジノーファの横にそっと身を横たえ、彼の胸に頭を乗せる。ジノーファは彼女の髪を優しく撫でた。シェリーは気持ちよさそうに目を細めた。
「諜報部隊の件、承知いたしましたわ。ちょうど、ダンダリオン陛下からお借りした者たちもおります。彼らの力も借りましょう」
シェリーは落ち着いた声でそう言った。実は彼女が帝都ガルガンドーから連れてきたのは、屋敷の使用人たちだけではなかった。ダンダリオンから細作を十人ほど借りて、連れてきていたのだ。
もともとは屋敷の警護のために貸し与えられていた者たちだが、マルマリズへ赴くにあたり、一緒に連れて行けと言われたらしい。彼らはシェリーの命令に従うようダンダリオンから言い含められているというし、確かにシェリー一人に全てをやれというのも無理な話だ。ジノーファは一つ頷いてこう応えた。
「良い考えだと思う。任せるよ」
「いいえ、任せてしまっては駄目ですわ。ジノーファ様」
「シェリー?」
「やはり頭となるのはジノーファ様でなければ。わたしは意見を言いますし、助言もいたしますが、最終的にはジノーファ様の御下知に従います」
優しい声で、しかし厳しいことをシェリーは言った。さらに彼女の声音にはどこか面白がるような響きがあるのを感じ取り、ジノーファは苦笑する。彼女の頭にあるのは、おそらくダンダリオンの姿なのだろう。諜報部隊が仕える主として、自分は彼のようになれるのか。ジノーファはいささか自信がなかった。だがそれでも、諜報部隊は必要だ。
「分かったよ、シェリー。力を貸してくれ」
「はい」
シェリーは幸せそうにそう応えた。こうして諜報部隊はジノーファの責任のもとで設立されることになった。どの歴史書を見ても、シェリーが諜報部隊の設立に大きく関わったという記述は出てこない。彼女は優秀な細作だった。
シェリーの一言報告書「夫を歴史の影から支える。これぞ内助の功!」
ダンダリオン「スケールがでかいな」