会談1
北アンタルヤ軍を動かした時点で、イスファードとカルカヴァンはもはや引き返せない所まで来てしまったと言って良い。ただこの動きがガーレルラーン二世に伝わるまでには、少なからず時間的な猶予があると二人は思っていた。
ガーレルラーン二世が遣わした使者らは、公爵領内や防衛線の監査をすることになっていたから、現時点で報せがなかったとしても不審には思わないだろう。軍勢を見られたとしても、それが彼に伝わるまでにはやはり時間がかかる。
その間に王都クルシェヒルを落とす、というのが北アンタルヤ軍の基本戦略だった。それで南へ向かう行軍中に二人が考えていたのは、王都を落とした後、引き返して来たガーレルラーン二世といかにして戦うか、と言うことであったろう。
だがガーレルラーン二世は二人が思うよりずっと用心深く、言い方を変えれば疑り深かった。実は彼は派遣した使者らの他にもう一組、別の者たちを公爵領へ送り込んでいたのである。
彼らは正式な使者ではなく、いわゆる隠密に近い。ただ、ガーレルラーン二世は公爵らの秘密を探るために彼らを送り込んだわけではなかった。彼らの仕事は監視であり、その対象は使者たちだった。
正確には、カルカヴァンが使者らをどう扱うのか、それを見ていたのだ。彼とイスファードが本当に謀反を企てているなら、此度の使者らは致命的に邪魔であろう。どこかで排除するに違いない。逆に言えばその行動こそが、謀反の確たる証拠だ。
果たして、カルカヴァンは使者たちを殺させた。そしてそれを見ていた者たちは、すぐさまそのことをガーレルラーン二世に報告した。その報告を受け、討伐軍の幕僚らは静まりかえった。
かつてイスファードが王命を無視して出陣し、そして敗北を喫した時、ガーレルラーン二世はかつてない怒りを見せた。では今回、イスファードがあろう事か叛旗を翻したと聞き、彼はどれほど激怒するであろうか。幕僚らはむしろそれを恐れ、沈黙を守って彼の反応を待った。
「ふ……、愚かなことよ」
幕僚らの予想に反し、ガーレルラーン二世はそう呟いて冷笑を浮かべた。「底冷えのする壮絶な冷笑というより、退屈でつまらないと言わんばかりの冷笑であった」と幕僚の一人は書き残している。
監視の一団を付けたことと言い、ガーレルラーン二世は謀反が起こることを予期していたのかもしれない。何にせよ、この反乱が彼に与えた驚きは小さく、それゆえ彼の対応も早かった。
「五〇〇〇の騎兵を選び、王都へ向かわせろ。城門を閉じて防備を固めれば、十日は時間が稼げよう」
「はっ。では、その間に反乱軍を撃滅なさるのですか?」
「さて、反乱軍とはどちらのことだ?」
嘲笑気味に問い返され、問いを発した幕僚は言葉を詰まらせた。アンタルヤ王国は、いやガーレルラーン二世は今や二つの反乱軍を抱えることになった。ジノーファ率いるイスパルタ軍と、イスファード率いる北アンタルヤ軍である。優先するべきはどちらなのか、あるいは後回しにしても良いのはどちらなのか。
「ハムザ」
「王よ、御前に」
ガーレルラーン二世に名前を呼ばれて彼の前に現れたのは、武官ではなかった。彼の傍に仕える、書記官である。年の頃は四十過ぎだろうか。ガーレルラーン二世は跪くハムザにこう命じた。
「反乱軍、イスパルタ軍の陣へ赴き、講和をまとめよ。条件は奴らの主張する国境線の承認と、二年間の相互不可侵条約だ」
ガーレルラーン二世がイスパルタ軍と講和すると宣言したのを聞き、アンタルヤ軍は少なからずざわついた。つまり彼は北アンタルヤ軍とイスファードを、息子を先に叩くと宣言したのである。
イスパルタ王国の背後にはロストク帝国と炎帝ダンダリオン一世がいる。国内が分裂した状態では、これと戦い勝利を収めることはできない。ガーレルラーン二世はそう考えたのだろう。
いや、もしかしたら簒奪を許すことは決してできぬ、とそう思ったのかも知れない。ジノーファが行っているのは侵略行為だが、イスファードのやっていることは国家と父祖に対する裏切り行為だ。王としてこれを容認することはできないのだろう。
いずれにせよイスパルタ軍と北アンタルヤ軍は、いずれ両方とも叩かねばならない。そして方針は定められたのだ。
一時の動揺が収まると、討伐軍の幕僚らはすぐさま動き始めた。まずは命じられた通り、五〇〇〇の騎兵を選んで王都へ急行させる。この者たちには反乱に加わった家の者たちやその縁者で、王都クルシェヒルに残っている者たちを捕らえておくことも命じられた。
さらに、講和がまとまったならすぐに撤退を開始できるよう、その準備も始めた。ただし、こちらはイスパルタ軍に悟られないよう慎重に進められた。
それと同時に、イスパルタ軍の陣に使者が送られた。言うまでもなく、使者となったのは書記官ハムザ。リュクス川を越えて敵陣に足を踏み入れた彼は、ガーレルラーン二世からの使者であることを告げ、ジノーファへの謁見を求めた。
少し待たされたものの、ジノーファへの謁見はすぐに行われた。幕僚たちが居並ぶテントの中へジノーファが入ってきて上座に座る。「顔を上げてくれ」との声がかかってから皆が頭を上げる。ハムザもそれに倣った。
ハムザがジノーファを見るのはこれがおよそ五年ぶりだが、彼は少年から青年を経て大人の男へ脱皮しようとしているようだった。王太子であった頃の面影も残っているが、あの頃よりずっと表情が柔らかい。それが、ハムザには少し意外だった。
「それで、何用であろうか、ハムザ卿」
「はっ。ガーレルラーン陛下より講和をまとめよと仰せつかり、この通りまかり越した次第でございます」
ハムザがそう答えると、イスパルタ軍の幕僚らの間にざわめきが広がった。彼らのうちの誰も、ガーレルラーン二世がこのタイミングで講和を申し入れてくるとは、思っていなかったのだ。それはジノーファも同じであったはずだが、しかし彼は動揺を顔には出さず、一つ頷いてからさらにこう尋ねた。
「なるほど。それで、講和の条件は?」
「現在、貴国が主張しておられる国境線の承認と、二年間の相互不可侵条約の締結。加えて、金貨で一万枚の賠償金をお支払いいただきたい」
少々陰湿な笑みを浮かべながら、ハムザはジノーファに条件を告げた。それに対し、ジノーファは不快げな顔もせずに一つ頷き、こう応える。
「そちらの条件は承知した。家臣たちとも相談したいので、ハムザ卿は別のテントでお待ちいただけるだろうか?」
「分かりました。どうぞ賢明な判断をくだされますように……」
慇懃な態度でそう言い残し、ハムザは立ち上がってテントを後にする。その背中を見送ってから、ジノーファは幕僚たちを見渡した。そして彼らにこう告げる。
「この話、卿らどう思うか。忌憚のない意見を聞かせてくれ」
「国境線の承認や相互不可侵条約はともかく、賠償金は銅貨一枚たりとも支払うべきではありませぬ!」
「左様。賠償金を支払えば、イスパルタ王国は金で講和を購ったと見られましょう。それは敗北に等しい。面目を失いますぞ!」
「まあ、落ち着かれよ。まずはふっかけるのが交渉事の基本。向こうも、そのまま通るとは思っておらぬでしょう」
「逆に、こちらから賠償金を求めてみては如何でしょうか? 相手の腹の内も、探れるやも知れませぬ」
幕僚の一人がそう提案すると、何人かが賛同の声を上げた。それに頷きつつ、ジノーファはダーマードに視線を向け、彼にこう尋ねた。
「ダーマード、卿はどう思う?」
「なぜこのタイミングで講和など言い出したのか。それが気になりますな」
ダーマードがそう答えると、同じ疑問を感じていたのだろう、ジノーファを含め多くの者たちが頷いた。その中にはクワルドの姿もある。
以前、霧に紛れて総攻撃を仕掛けて以来、討伐軍が大規模な攻勢に打って出てきたことはない。上流の渡河地点も監視させているが、そちらに別働隊が現れたという報告もない。動きが消極的な一方で、しかし討伐軍の陣容に隙はなく、そのためイスパルタ軍も動くに動けない状態が続いていた。
ガーレルラーン二世は機を待っているのだろう。ジノーファらはそう考えていた。だからこそ、このタイミングでの講和には不可解なモノを感じざるを得ない。講和の動きが出るとして、それは少なくとももう一度、大規模にぶつかってからのことだろうと思っていたのだ。
しかしながら実際には二度目の総攻撃は行われず、こうして講和の申し入れがあった。賠償金の支払いが求められてはいるものの、これは大きな方針の転換である。では一体何が、ガーレルラーン二世にそれを決断させたのか。
普通に考えるなら、これ以上にらみ合いを続けられない何かが起こった、ということになる。死傷者が多く、戦列を維持できなくなった、と言うことはないだろう。なら、兵糧不足か。しかし対岸から見る限り、食事の準備の煙に変化はない。ガーレルラーン二世が病に倒れたという可能性もあるが、それは少々突飛すぎるだろう。
正直なところ、イスパルタ軍にとってこの展開は望ましい。しかしだからこそ、容易に飛びつくことはできない。ガーレルラーン二世の意図が分からないからだ。ともすれば講和それ自体が罠であるかも知れない。
「講和を結び、陣を引き払わせたところで、急転しその背中を襲う。あるいはそういう腹づもりなのかも知れませぬ」
「いや、だがそれなら、賠償金の要求など最初からしないのではないか?」
「そこが狙いです。こちらとすれば、賠償金の支払いなど認められない。本気で交渉させることで、真の狙いを我々に悟らせまいとしているのではありませんか?」
「そこまで手の込んだ事をするのなら、もう一度くらいは大がかりな攻勢があって良さそうなものだ。その方が、講和にも信憑性が出る」
その後も、幕僚たちは色々と意見を交わした。しかしやはりどうにも敵の意図が見えてこず、そのためどう対応して良いかも判然としない。
「いっそ、講和を蹴ってはどうだ? 我々はまだ十分に戦える。わざわざ敵の思惑に乗る必要はあるまい」
「いや、講和の流れそのものは歓迎するべきだ。イスパルタ王国はまだ万全ではなく、国力でもアンタルヤ王国に劣る。それを忘れるべきではない」
意見は出るが、結論は出ない。ジノーファは幕僚たちの話し合いを聞きながら、少し別のことを考えていた。このタイミングでの講和は明らかに不可解だ。しかしガーレルラーン二世にとっては、恐らく必然なのだろう。とすれば、ジノーファらが知らないだけで、アンタルヤ王国国内で何か問題が起こったのかも知れない。
「謀反でも起こったのか……?」
ジノーファがぽつりとそう呟くと、幕僚たちがギョッとした顔をして彼の方を見た。皆が彼の方を見てしまったため、議論の喧噪が一時的に止む。それを契機として、ジノーファは彼らにこう述べた。
「ひとまず、向こうの条件をそのまま呑むことには皆反対、でよいのだな?」
ジノーファがそう尋ねると、幕僚たちは皆一様に頷く。それを確認してから、彼はさらにこう言葉を続けた。
「であれば、講和を蹴るか、こちらから新たに条件を提示するか、そのどちらかだ」
ジノーファがそう言うと、幕僚たちはまた頷いた。その後、また意見が色々と述べられ、最終的にはジノーファに対応を一任することになった。要するに、確たる結論が出なかったのである。
その方針が決まると、ジノーファは人をやってハムザを呼んだ。彼が来るまでの間、ジノーファは目を瞑って気持ちを落ち着けた。不思議と、頭の中はすっきりしている。やがてハムザが現れ、先ほどと同じ場所に座った。
「さて、結論は出ましたかな?」
「その前にハムザ卿、一つお尋ねしたいことがある」
「なんでございましょうか?」
「北の様子は如何だろうか?」
ジノーファがそう尋ねると、ハムザは困惑気味に小さく首をかしげた。まるで「思いがけない質問だ」と言わんばかりである。そしてその表情を維持したまま、彼はこう答えた。
「北、でございますか。無論、エルビスタン公爵もイスファード殿下も、陛下への忠義に励んでおられます」
「そうか。わたしは防衛線のことを尋ねたつもりだったのだがな」
「っ!?」
その瞬間、ついにハムザが慇懃な笑みを崩した。無論、それは一瞬のことだったが、ジノーファはそれを見逃さない。彼は口元に小さく笑みを浮かべると、さらにハムザにこう尋ねた。
「エルビスタン公爵とイスファード殿下。その二人がどうかしたのか?」
「……お二人とも陛下への忠義に励んでおられる。そう、申し上げたはずでございます」
少し間を取ってから、ハムザはよどみなくそう答えた。表情も落ち着いている。しかし取り繕っているのは明らかだ。しかし一度持ち直した以上、これ以上つついても彼がボロを出すことはないだろう。それでジノーファは小さく頷いてから、話を本題に戻して彼にこう告げた。
「そうか。……さて、講和のことであったな。皆とも相談したが、イスパルタ王国としては現時点で講和を結ぶつもりはない。ガーレルラーン陛下にはそうお伝えしてくれ」
「……っ! 戦争を継続するとおっしゃる? 失礼ですが、イスパルタ軍の状況は苦しいはず。ここで講和を蹴るのは、賢い選択とは思えませんな」
「我が軍の旗色が悪いと申されるか。ならばやはり、ハムザ卿は書記官だな。ロストク帝国の旗が共に翻っているというのに、我が双翼図に陰りなどあろうはずがない」
にやり、と不敵な笑みを浮かべてジノーファはそう応えた。威勢の良いことを言っているが、半分ははったりである。ただ、先ほどのハムザの反応からして、北で何か問題が起こったのは間違いない。ガーレルラーン二世はそのために、こちらでの戦闘を切り上げようとしているのだ。
ならばそれを利用させてもらおう。ジノーファはそう考えたのだ。ガーレルラーン二世が講和を急ぐなら、条件を緩くしてくるだろう。その上で、イスパルタ王国の要求を突きつければいい。
もっとも、講和を蹴ったことで、ガーレルラーン二世が全面攻勢に打って出る可能性もある。ただ、それはこれまでずっと想定してきたこと。防ぎきる自信はあるし、このタイミングであればイスパルタ軍も心の準備ができている。
「ガーレルラーン陛下にお伝えあれ。我々はいつでも一戦お相手つかまつる、とな」
最後にそう告げ、ジノーファはハムザを去らせた。彼がテントを出た後、ジノーファは居並ぶ幕僚たちの顔を見渡す。不満を表に出している者はいない。皆、少なくとも表面上はジノーファの決定を支持している。彼はそのことに、内心で小さく頷いた。
「講和を蹴ったことで、ガーレルラーンが動くかも知れない。それぞれ警戒を強めてくれ」
「「「はっ」」」
ジノーファの言葉に、幕僚たちが一斉に頭を垂れる。こうして会談は終わった。
クワルド「まさか蹴るとは……」
ユスフ「思い切りの良い方なので」