不穏の影
ガーレルラーン二世が五万の討伐軍を率い王都クルシェヒルから出陣した、まさにその日。王宮で暮らすファティマの元へ、父であるカルカヴァンから手紙が届いた。まるで狙い澄ましたかのようなタイミングに引っかかるものを覚えつつ、彼女はその内容を確かめる。そして盛大に眉をひそめた。
「これは……?」
ファティマはもう一度手紙を読み返した。曰く「イスファードが怪我のために気弱になり、妻に会いたがっている。ついては一度こちらへ戻り、殿下を看病して欲しい」。手紙にはそのような事が書いてあった。さらに「人手が足りないが、王宮の人員を連れてくるのは差し障りがあるので、屋敷の使用人たちを一緒に連れてきて欲しい」ともある。
(これでは、まるで……)
これではまるで、エルビスタン公爵家の人員を王都から引き上げようとしているかのようではないか。手紙の裏に不穏なモノを感じ取り、ファティマは表情を険しくした。そもそもイスファードの怪我は嘘なのだ。それを口実にすること自体、どうにもきな臭い。
とはいえこうしてカルカヴァンから手紙が来たと言うことは、イスファードもそれを望んでいると言うこと。であれば、それに応えないわけにもいかない。ファティマは数分逡巡した後、手紙をもって王妃メルテムのもとを訪ねた。北へ戻る、その許可を得るためだ。
「構いませんよ。あの子も寂しいのでしょう。行っておあげなさい」
ファティマが手紙を見せて事情を説明し、北へ戻る許可を願うと、メルテムは鷹揚に頷いてそう応えた。ファティマは一つ頷くと、さらにもう一点をこう尋ねる。
「では、屋敷の人手についても……」
「ええ、許可します」
「ありがとうございます、王妃様。領地から連れてきた者たちも多いので、この機会に里帰りをさせてやりたかったのです」
そう言って、ファティマはホッと胸をなで下ろした。本来、屋敷の人員をどうこうするのに、メルテムの許可を取る必要は無い。だが彼女が許可したとなれば、とやかく言う者もいなくなるだろう。ただでさえ現在、エルビスタン公爵家は微妙な立場に置かれている。こういう気配りは必要だ。
用件を済ませて肩の荷を下ろしたファティマは、顔に柔らかい笑みを浮かべながらミルクティーを口に運んだ。それからしばらくの間、彼女はメルテムと雑談に興じる。その中で、ファティマは少し気になっていたことをこう尋ねた。
「そういえば、ルトフィー様を次の王太子に、という噂が出回っているようですが、王妃様は何かご存じですか?」
「そういう噂があることは、聞き及んでいます。誰が言い出したのかは分かりませんが、困ったことです」
メルテムはそう言って苦笑を浮かべた。その様子からは、彼女がこの噂に危機感を抱いているようには見えない。
「ユリーシャ様は、どうお考えなのでしょう?」
「困惑しているようです。わたくしはもちろん、ユリーシャにもその気は少しもありませんから」
その言葉にファティマは頷いた。確かにユリーシャは息子が王太子となることを喜ぶような人ではない。ジノーファの事もあり、むしろ王家や権力からは距離を取りたいと思っている節がある。
ただメルテムやユリーシャにその気が無くとも、周囲がそれを望めば、まかり通ってしまう可能性はある。とはいえファティマもこの場でそれを議論しようとは思わなかった。彼女のその様子を見て納得したと思ったのか、メルテムは満足げな笑みを浮かべ、こう言ってこの話題を締めくくった。
「いずれにせよ、根も葉もない噂です。遠からず消えて無くなるでしょう。心配することはありません」
ファティマは表面上、笑顔を浮かべて頷いたが、内心は懐疑的だった。根も葉もないというのは同感だが、しかしその一方で噂が広まるのが早いように感じる。背後に何者かの意図を感じるのだ。そうであるなら、噂が自然と消えると考えるのは、少々虫が良すぎる気もする。
(お父様からの手紙も、たぶんそれを踏まえてのこと……)
そう考えると、やはり不穏なモノを感じざるを得ない。のんびりしている暇はないと考え、ファティマはミルクティーを飲み干すと立ち上がった。
「王妃様、慌ただしくて申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます。公爵家邸のほうで、色々と手配もしなければなりませんので」
「そうですか、分かりました。……そうそう、イスファードに手紙を書いておくので、届けてもらえるかしら?」
「分かりました。では準備が終わりましたら、また出発前にお邪魔させていただきます」
メルテム王妃の所を辞すると、ファティマはその足で王都にあるエルビスタン公爵家の屋敷へ向かった。驚いた様子で出迎えた初老の執事にカルカヴァンからの手紙を見せ、一緒に帰郷させる人員の手配を頼む。
「急でごめんなさいヤーフーヤ。こちらの手が足りなくなってしまうかも知れないけど……」
「何も問題はありませぬ。お嬢様」
ヤーフーヤがにこやかにそう応えると、ファティマはため息を吐いて頭を抱えた。まだ子供はいないとはいえ、彼女はもう結婚している。それなのにこの初老の執事は彼女のことを「お嬢様」と呼ぶ。
「お嬢様は止めて……。でも、本当に大丈夫?」
「私にとって、お嬢様はいつまでもお嬢様ですので……。屋敷の方ですが、人手が減っても維持管理に支障はありませぬ。教育も十分にしておりますれば、どうぞ心置きなくお連れ下さい」
「そう、ありがとう。それと、何通か手紙を書きたいの。書き上げたら、届けてもらえる?」
「はっ、かしこまりました。お嬢様のお部屋はそのままにしてございます。お手紙はそちらでどうぞ」
ファティマはヤーフーヤに礼を言うと、侍女の案内でかつて自分が使っていた部屋へ向かった。執事の言ったとおり、その部屋は以前のままで、ファティマの私物も残っている。彼女が王宮で暮らすようになってからは使う者はいないはずだが、掃除は行き届いていて、寝具にもシワ一つ無い。
懐かしさがこみ上げてきて、ファティマは小さく笑みを浮かべた。けれども彼女はすぐにその笑みを消して机に向かった。そしてペンと紙を取り手紙を書き始める。相手は派閥の貴族やその縁者らで、王都に駐在している者たちだ。
ファティマはカルカヴァンからの手紙を、紙面通りに受け取ってはいなかった。メルテムは軽く考えていたようだが、彼女の受け止め方はもっと深刻だ。彼女はこれを、王都からの引き上げ命令ではないかと考えていた。
(もしそうなら……)
もしそうなら、イスファードとカルカヴァンは、北で何か大それたことを企んでいることになる。そしてあの二人が隠れて企むとすれば、それはガーレルラーン二世への謀反以外にない。
謀反を起こす気でいるなら、ファティマだけを王都から脱出させても意味が無い。むしろ身内を贔屓したと批判を浴びるだろう。派閥の他の者たちも脱出させるべく、すでに動いているはずだ。だがもし動いていないなら、ファティマこそが彼らに警告を発しなければならない。そのための手紙だ。
ファティマは手紙を書き上げると、それを執事のヤーフーヤに託した。手紙の返事は、王宮ではなく公爵家邸に届くようにしてある。帰郷の準備と打ち合わせを名目にすれば、屋敷を頻繁に訪れても不自然ではないだろう。
手紙の返事はすぐに来た。部屋に運ばれていた手紙に一通ずつ目を通し、ファティマはひとまず安堵の息を吐いた。全員が近々王都を離れるつもりであると、返事を寄越したのだ。そして同時にそれを読んだ彼女は、父と夫が謀反を起こすつもりであると確信を深めた。
(なぜ……!?)
胸中でそう呟き、ファティマは頭を振った。理由など、分かりきっている。このままでは玉座に就くことはできない、とイスファードはそう考えたのだ。であれば、謀反を起こすしかない。そして派閥の貴族たちもそれに同調した。
「……っ」
ファティマは沈痛な顔をして、小さく頭を振った。事ここに至れば、この動きを止めることは、彼女にはできない。そもそも手紙を読む限り、王都からの脱出はすでに始まっている。彼女の手が及ぶのは、この屋敷の中だけだ。
ファティマはヤーフーヤを呼んだ。彼女は届いた手紙の内容と、そこから組み立てた自らの推論を彼に話す。イスファードとカルカヴァンが謀反を起こすつもりであると告げられても、彼は穏やかな微笑みを浮かべたまま、いささかも表情を崩さなかった。そして話を聞き終えると、彼はファティマにこう告げた。
「そうでしたら、お嬢様はやはり、一刻も早く王都を離れられるべきでしょう」
「ええ、そうね。だから、貴方も一緒に……」
「いいえ、お嬢様。私は王都に残ります」
ヤーフーヤはいつもと変わらない、落ち着いた口調でそう語った。イスファードらが蜂起すれば、王都にいる公爵家の縁者は恐らく殺される。それを承知の上で、彼は残ると言ったのだ。悲痛な顔をするファティマに、彼はさらにこう告げた。
「私までご一緒してしまっては、屋敷で指示を出す者がいなくなります。それでは何かと差し障りがありましょう」
それを聞いて、ファティマは説得を諦めた。彼は公爵家のためにここで死ぬ気なのだ。そして彼を翻意させているだけの時間はもうない。
「ありがとう、ヤーフーヤ。貴方にはずいぶん、お世話になったわ」
「恐悦至極に存じます、お嬢様」
翌日、ファティマは屋敷の侍女たちを伴い、公爵家の領地を目指して出立した。彼女が王都クルシェヒルへ戻ることは、ついぞ無かった。
□ ■ □ ■
馬車に揺られながら、ファティマは北へ向かっている。移動中は基本的に、することがなくて暇だ。そうすると、つらつらと色々なことを考えてしまう。頭に浮かんでくるのは、やはりイスファードのことだ。
幼い頃は、彼を双子の兄と疑っていなかった。男女ではあっても髪の色や顔立ちは似ていたし、何より両親がそう言っていたのだ。それを疑うことはあり得ない。
仲の良い兄妹であったと思う。小さい頃は、何をするのも一緒だった。あの頃はファティマの方が足が速くて、かけっこで負けるとイスファードはむくれた顔をしていた。
大きな変化が起こったのは、十歳の誕生日である。その日、イスファードの本当の身分は王子であり、二人は血が繋がっていないことが両親から告げられたのだ。その時のことを、ファティマはよく覚えていない。今までの世界がガラガラと音を立てて崩れ落ちるような、そんな気分を味わったことだけ覚えている。
それからの生活は、たぶん劇的に変わったのだと思う。表面上は何も変わっていないように見えただろうが、二人の胸の内は大きく変わっていた。その変化が、世界の色艶さえ変えていたのだ。
双子の兄だと思っていた相手が、次の日から婚約者になったのだ。頭も心も追いつかなくて当然だろう。だがイスファードはファティマよりもずっと大きなショックを受けていたに違いない。彼の場合、信じていたモノがことごとく偽りであったと言われたようなものなのだから。
『わたしは、本当に王子なのですか?』
『そうだ。私の言うことが信じられないか?』
イスファードとカルカヴァンがそう言葉を交わすのを、ファティマは目撃したことがある。この当時、カルカヴァンはイスファードのことを、まだ王子ではなく息子として扱っていた。それは内と外で扱いを変えない為だったのだろう。ただ、それ以外にも変化を小さくするという意図があったのかも知れない。
『ですが、陛下や王妃様からは、一通の手紙もありません』
『僅かな痕跡も残さないためだ。これは王家の秘事。その時が来るまでは、決して人に知られてはならぬ』
そう言われイスファードは小さく頷いたが、納得したような顔ではなかった。ともかくこの時から、彼は王子であることを隠しつつ、しかし王太子になるための教育を受けるようになった。
そしてこの頃からである。イスファードは何かにつけてジノーファのことを意識するようになったのは。
当時、イスファードとファティマがジノーファと直接関わることはほとんど無かった。二人は領地で暮らしていて、王都へは年に数回しか行かなかった。それでジノーファとは深く知り合う機会が無かったのだ。
周囲の者たちには、それが不思議であったろう。何しろ、ファティマとジノーファは同い年。さらに家格も十分であるから、ファティマはジノーファの婚約者候補筆頭だ。しかしエルビスタン公爵家はそのつもりを全く見せない。王家の側から打診することもなく、そもそもガーレルラーン二世はジノーファの婚約者を選ぶつもりがないようにさえ思えた。
とはいえそれでも、周囲はファティマこそがジノーファの妃になるのだと考えていた。当時の国内情勢からすれば、それ以外に選択肢はない。むしろ彼女以外を選べば、禍根が残るだろう。現時点で王家とエルビスタン公爵家の両方に動きはないが、しかし二人の婚約は既定路線であると周囲は捉えていた。
『ファティマ様は将来、ジノーファ様の妃になられるのでしょう? その時には、ウチの娘をどうぞよろしく』
派閥の貴族の中には、幼いファティマに直接そのようなことを言う者までいた。彼女はそのたび、返事に苦慮したものだ。誰も彼もが、偽りの王子を立てたガーレルラーン二世に振り回されていた。
今にして思えば、カルカヴァンは意図的に王家とジノーファに関わらないようにしていたのだろう。世間の目をイスファードに向けさせないためでもあったのかもしれない。そしてそういう事情であったから、イスファードとジノーファが直接競い合うと言うことはなかった。
むしろジノーファの方は、イスファードが自分を意識しているなど、思ってもいなかったに違いない。しかし前述した通りイスファードの方は、気にしていないふりをしつつ、実は猛烈に意識していた。
ファティマが見るところ、それは今も変わっていない。イスファードが謀反を決意するほど王座に固執するのは、単純な野心や権力欲のためだけではないだろう。ジノーファはイスパルタ王国の国王を名乗った。それが無関係であるとは思えない。
(イスファード……)
王子であるがゆえに、彼は公爵家で養育された。そしてそのために、偽りの王子が生まれた。全ては王座のために。だがそれが危うくなり、さらにジノーファが国を興したこの状況で、イスファードは一体何を思うのか。
何を願えば良いのか、どんな未来が最良なのか、それさえも判然としないまま、ファティマは馬車に揺られる。騒乱の火の手が上がるまで、あと少し。
ファティマ「里帰りを楽しむことは、できないでしょうね……」