イスファードの決意
「ルトフィーを王太子に、だと……!?」
イスファードは呆然とした声を出した。ルトフィーはユリーシャの息子なので、彼にとっては甥に当たる。王家の血を引いてはいるが、その彼が王太子に冊立されるのではという話を聞き、イスファードは心の臓に一撃を食らったかのように感じた。
イスファードは現在、アンタルヤ王国北部、エルビスタン公爵家の屋敷で謹慎している。謹慎とは言え、監視の目はないに等しいから、彼は比較的自由に過ごしていた。ただ、さすがに防衛線に出て指揮を執ることはできない。それで彼は最近、王都からの情報に関心を寄せていた。
その中にあったのが、「次の王太子はルトフィーではないのか」という噂である。噂であるから、根拠はない。実際、ガーレルラーン二世は次の王太子について、まだ何も述べてはいないのだ。
だが王都では、貴族のみならず民衆までも、その噂をまことしやかに囁いているという。王都だけではない。噂はすでに各地へと広がっている。今や国中がこの話題で持ちきりだった。
王妃メルテムは、イスファードが王太子の地位に戻ると信じて疑っていない。だが世論と言うのは怖いもので、一度大きな流れができあがると、それがまるで決まった事であるかのように人々は考えるのだ。
そしてその世論は、ガーレルラーン二世の判断にも影響を与えるだろう。イスファードは表情を険しくした。不本意なことは多々あれど、最終的には王太子に戻れるはず。そう思えばこそ、彼は今の不遇を耐えているのだ。しかしこのままでは、その前提自体が覆りかねない。
「殿下、落ち着いて下さい。ただの噂ではありませんか」
カルカヴァンはそう言ってイスファードを宥めた。険しい表情のままではあったが、イスファードは「そうだな」と言って彼の言葉に頷く。しかしそこへ別の者が口を挟んだ。王太子軍の副将を務めていたジャフェルである。
ジャフェルは例の敗戦について、ガーレルラーン二世から直接咎められる事はなかった。イスファード一人が全ての責任を負う形になっているのだが、だからと言って全くの無罪放免というわけにもいかず、こうして義理の従兄弟と一緒に謹慎していた。
尤も謹慎と言っても、イスファード同様に緩いもの。普段はカルカヴァンの執務を手伝うなどしている。その一環として、彼はこうして王都からの情報を分析する場にも同席していた。そして彼は考え込む様子を見せながらこう述べる。
「本当にこれはただの噂でしょうか?」
「ジャフェル、何を言っている?」
「イスファード殿下の他に王太子の候補を探すのなら、まずはファリク殿下の名前が挙がるべきではありませんか?」
「だがファリク殿下は庶子だ。メルテム王妃にしても、自分の血を引いていない者が王太子になるなど、決して納得するまい」
カルカヴァンがそう答える。彼の言うとおり、ファリクの王太子冊立は難しい。その点に関しては、ジャフェルも同じ意見だ。それで彼はこう言葉を続けた。
「はい、まさしく。ファリク殿下を担ぎ出そうとするその動きさえ、メルテム王妃は決して認めますまい。そのことはダーマードらの一件からも明らか。少し頭の回る者なら、噂に信憑性を持たせるため、ファリク殿下の名前は避けるでしょう」
「待て。ではこの噂は自然発生したものではなく、誰かが意図的に流しているものだと、そう言うのか?」
カルカヴァンがいささか焦ったようにそう問い詰める。ジャフェルは小さく、しかしはっきりと頷き、さらにこう述べた。
「噂が広まるのが早すぎるように思います。何者かが意図的にやっていると考えるべきでしょう」
そう言われ、カルカヴァンもイスファードも黙り込んだ。否定したい気持ちはある。だがその材料がない。それに、そう考えた方がいろいろと納得できるのも事実だ。イスファードは忌々しげな顔をしながらこう呟いた。
「誰だ、そんな噂を流しているのは……!?」
「この際、誰が噂を流したのかは大した問題ではありません。仮に“奴ら”としますが、奴らは我々の対抗勢力です。そして噂の広まり具合からして、奴らは一定程度世論の支持を得ている。重要なのはそこでしょう」
噂とはもともと根拠のないものであるが、しかしあまりにも荒唐無稽であれば広まることなく消えていくだろう。噂が囁かれることそれ自体、人々がイスファードではなくルトフィーを次の王太子に望んでいる証とも言える。つまりルトフィーを王太子に望む勢力があり、それが急速に力を伸ばしているのだ。
「後手に回ったな。致し方ないとは言え、状況は良くない」
嘆息気味にカルカヴァンがそう呟く。防衛線の指揮のために、彼は北から離れられない。そこへイスファードの謹慎が重なり、中央での政治工作が疎かになった。その隙を突かれた格好だ。
これまでアンタルヤ王国国内に、彼らに対抗する勢力はなかった。だがイスファードが王太子でなくなり、さらに謹慎を命じられたことで、その勢いに陰りが出た。今や次期王太子を巡る世論は、イスファードとルトフィーで二分されている。
「いや、しかしそれでも有利なのは我々だろう」
難しい顔をしつつも、カルカヴァンは腕を組んでそう言った。そしてそう判断した理由をこう語る。
「確かに、奴らには我々に対する不満があろう。その不満が奴らを結びつけたとも言える。だが現状は噂が広まっただけで、はっきりとした繋がりがあるわけではないだろう。時が経てば、必ずや利害の衝突が生まれる」
防衛線維持のための負担を強いられたことや、王太子に近い場所を独占されたことへの嫉妬など、恨みや不満は多々あろう。だがその一方で、奴らとて一枚岩ではないはず。言い方を変えれば、奴らには共通の不満はあれども、共通した利益はないのだ。烏合の衆であり、かならずや内部で対立が起こるだろう。
加えて、メルテム王妃がイスファードを強く支持している。母親であるユリーシャも、息子が政争に巻き込まれることは望まないはず。この二人がルトフィーの冊立に否定的である以上、煽る者がいたとしても、噂はやがて消えるだろう。今はそれを待てば良い。カルカヴァンはそう思ったのだが、しかしジャフェルが異を唱えた。
「果たして本当にそうでしょうか?」
「どういう意味だ、ジャフェル?」
「奴らは烏合の衆。そこは確かに、叔父上の言うとおりでしょう。それゆえ、もし本当にルトフィー様が王太子となっても、後ろ盾は貧弱です。ですが、それを好都合と考える方もいるのではありませんか?」
「まさか、それは……」
「はい、ガーレルラーン陛下です」
カルカヴァンはうなり声を上げた。それは全く予想していなかった名前だった。渋い顔をする彼に、ジャフェルはさらにこう続ける。
「陛下が何を考えているのか、それは分かりません。しかしこれまでのなさりようからすれば、陛下は貴族の力をそげる時には容赦なくそうされる方です。恐らく、ご自分の力が妨げられるのを嫌っておられるのでしょう。そうであるなら、貧弱な後ろ盾しか持てないルトフィー様を、あえて王太子に冊立されることは、十分にあり得ます」
実際、誰を王太子に冊立するかは、結局のところガーレルラーン二世の胸三寸なのだ。そうであるなら、世論の勢いを理由にルトフィーが選ばれる可能性は十分にある。彼がガーレルラーン二世にとって都合のよい後継者であるならなおさらだ。
そう考えてみると、ルトフィーの王太子冊立が俄然現実味を帯びてきて、カルカヴァンは「ぬう」とうなり声を上げた。ガーレルラーン二世が現在王太子を定めずにいるのも、その伏線であるように思えてくる。つまりイスパルタ軍を撃退し得るかどうかで、今後の対応を変えるつもりなのだろう。
「こうなると、おかしな話ではあるが、反乱軍の奮闘を期待せねばならぬな……」
カルカヴァンは嘆息気味にそう呟いた。反乱軍を鎮圧し、イスパルタ王国を倒すことができなければ、ガーレルラーン二世の権威は失墜する。その時彼は、強固で安定した支持母体としてエルビスタン公爵家とその派閥を求めるだろう。つまりイスファードが王太子に復帰することになる。
しかしもし勝てば、ガーレルラーン二世の影響力はかつてなく高まることになる。権力を維持するための支持母体は必要ない。そうなれば対抗馬は貧弱であることが望ましく、ルトフィーが選ばれる可能性は高まる。カルカヴァンはそう考えたのだが、しかしイスファードの考えは違った。彼は叫んでこう言った。
「そんな悠長なことを言っていられるか! 父上が負ければ、この国自体が危ういわ!」
ガーレルラーン二世率いる討伐軍が負ければ、敵はリュクス川を越えるだろう。そして残りの領土も併合せんと企てるに違いない。アンタルヤ王国がなくなれば、王太子だの次期国王だの、そんなものには何の意味も無くなる。イスファードはそう考えているのだ。
「いえ、ですが殿下。ジノーファがそこまでするかどうか。彼の気性からして、討伐軍を退ければその時点で講和を求めるはず」
「誰が道化の話をした!? ロストク帝国が、炎帝が、弱った獲物を前に黙っているはずがないだろうがっ!」
なるほど、ジノーファは確かにただの傀儡ではないだろう。彼は自分の足で立っている。しかしイスパルタ王国が実質的に、ロストク帝国の尖兵であることに変わりはないのだ。となればその軍事行動には、帝国とダンダリオン一世の意向が大きく関わってくることになる。
ロストク帝国は長年、大洋に面する貿易港を欲してきた。そしてイスパルタ王国がウファズを押さえたことで、新たな交易路の開拓に関しては、ほぼ見通しが立っていることであろう。交易そのものに関しては、それでも問題ないと言える。しかし帝国の本心としては、やはり自分たちで貿易港を押さえたいと思っているはずだ。
そのような時に、イスパルタ軍が討伐軍に勝利を収めたらどうなるのか。ロストク帝国はこの機を逃さず、軍をさらに西へ進めさせるだろう。本格的に援軍を出すことさえするかもしれない。
そうやってイスパルタ王国にさらに別の貿易港を確保させるのだ。そして征服が完了したあかつきには、それまでの協力の対価としてウファズを求める。そうすれば、飛び地にはなるが、ロストク帝国は念願の貿易港を掌中に収めることができる。イスパルタ王国にしても、別の貿易港があれば、ウファズに固執することはないだろう。
西征の際、イスパルタ王国がアンタルヤ王国の北部にまで食指を伸ばすのか、それは分からない。だが沿岸部を押さえられてしまったら、結局北部は干上がるしかない。防衛線維持の負担も重くのしかかるだろう。最終的には降伏するより他にないのだ。それが一年先になるのか、それとも十年先になるのか、それはこの際重要ではない。
「父上には勝ってもらわねばならん。だが……」
勝ったら勝ったで、イスファードらの未来は明るくない。理想的なのは、何とか勝ったもののイスパルタ王国を滅ぼすほどの力は残っていない、という場合か。しかしそれでもやはり、未来は明るくない。アンタルヤ王国よりイスパルタ王国の方が、先に国力を回復させるだろうからだ。
先に国内を立て直し、さらにロストク帝国の後ろ盾まである。弱った敵国を叩かない理由はないだろう。あるいはジノーファはそれを積極的には望まないかも知れない。だが帝国はそれを望むだろう。理由は前述した通りだ。
アンタルヤ王国が命脈を保つには、ここでイスパルタ王国を打ち倒すより他にない。しかしその未来において、イスファードが王座に就く可能性は低いのだ。恐らく彼は臣籍に下り、エルビスタン公爵家の当主として生きていくことになる。彼にとっては、不本意なことこの上ない。
「オレは嫌だぞ……。こんな僻地に押し込められて生きるなど、絶対に……!」
その呟きはイスファードの本心だった。そしてだからこそ、その一言はカルカヴァンの胸を痛烈に抉った。
イスファードの気持ちは分かる。だが彼が僻地と蔑んだ地は、エルビスタン公爵家が代々治めてきた土地だ。カルカヴァンが治めている土地で、他でもない彼自身が育った土地だ。それを貶められては公爵家の現当主として、また彼の育ての親として、立つ瀬がない。
しかしそれでも、カルカヴァンは胸の痛みを飲み下して腹に収めた。彼としても、イスファードを次期国王に、と願っているのは事実。そしてその実現が危ぶまれていることこそが、目下最大の問題なのだ。
座して見ているだけでは、奴らを勢いづかせるだけだ。何か手を打たねばならないだろう。そして噂には噂で対抗するのが良い。つまり「次の王太子はやはりイスファード。メルテム王妃もそれを強く望んでいる」と噂を流すのだ。
カルカヴァンは北から離れられないので、この工作は王都にいるファティマにやらせればいいだろう。彼はそう考えた。その際、メルテム王妃を巻き込めればなお良い。噂の信憑性が増すし、使える手駒も増える。
そして世論の勢いがなくなれば、ガーレルラーン二世も「ルトフィーを王太子に」とは言い辛くなるに違いない。カルカヴァンはそう提案したが、ジャフェルとイスファードの反応は否定的だった。
「新たに噂を流したとして、妃殿下と王妃殿下では、その範囲はクルシェヒルに限定されます。とても奴らの勢いを抑えるほどにはならないでしょう」
「それに最終的な決定権を握っているのは父上だ。噂だけで父上を翻意させられるのか、確実性に欠ける」
「では、他にどうするというのですかな?」
腕を組みつつ、わずかに顔をしかめて、カルカヴァンは逆にそう尋ねた。するとジャフェルは少し考えてからこう答えた。
「今一度、兵を出すというのはどうでしょう? 今から準備を行えば、我々が動く頃には反乱軍は陛下と睨み合っておりましょう。容易に背後へ回ることができるはず。あるいはマルマリズを強襲しても良いかと。我らの功が大きければ、陛下も無下にはできますまい」
「馬鹿な。二度も王命を無視してタダで済むものか。それに、それほどの戦力を引き抜けば、今度こそ防衛線が崩壊する」
ジャフェルとカルカヴァンはあれこれと対応策を話し合ったが、しかしどれも上手くいくとは思えなかった。やがて三人は室内で無言になる。沈黙の中、万策尽きたような無力感が漂った。
「…………やはり、兵を動かすしかあるまい」
重苦しい沈黙の中、絞り出すようにしてそう言ったのはイスファードだった。その声には思い詰めた響きがあり、カルカヴァンはギョッとして彼の方を見る。彼の視線は鋭かったが、落ち着いた様子であり、やけっぱちになったようには見えない。だがそれでも、カルカヴァンは言い知れない不安を覚えた。
「兵を動かして如何するおつもりなのですか。二度も王命を無視すれば、どれほどの武功を立てようとも、陛下はお許しになりますまい。ここはやはり、王妃殿下に取りなしていただくのが上策でしょう。確実には思えず不安かもしれませぬが、今ここで性急に動くことこそ下策。殿下、今は辛抱でござる」
まるで哀願するかのように、カルカヴァンはそう語った。そんな彼に、イスファードは鋭い視線を向ける。そして口を開き、こう言った。
「カルカヴァン、狙うのは反乱軍ではない。王都クルシェヒルだ」
「殿下!」
「カルカヴァン。お前たちがオレを担いだのはなぜだ?」
悲鳴を上げたカルカヴァンに、イスファードは平坦な声でそう尋ねた。その口調よりも鋭い視線に射貫かれて、カルカヴァンは言葉に詰まる。そんな彼に、イスファードはやはり平坦な声でこう続けた。
「それはオレが次の国王だったからだ。オレの治世において権勢を得るためであったはずだ。だがこのままではそれも危うい。お前は、そして派閥の貴族たちは、それでも良いのか。諦めきれるのか?」
「……っ」
「オレは嫌だぞ。手を伸ばすことさえ諦めるのは。ならば動くべきだ。いや、動かねばならぬのだ。それが、大望を果たすということではないのか!」
イスファードはそう叫んだ。その気迫にカルカヴァンは圧倒される。彼が言葉を失っていると、ジャフェルが口を開いてこう言った。
「わたしも殿下に賛同いたします」
「ジャフェル!」
「陛下はこの先も貴族の力をそごうとされるでしょう。潰すことさえ躊躇いますまい。陛下が我々を喰らおうとするのであれば、喰われる前に喰うほかありませぬ」
「カルカヴァン、決断しろ。隠居したいというのなら、それでもいい」
「み、皆を、集めましょう。どのみち、公爵家だけではどうにもなりませぬ。動くというのであれば、他の者たちの支持も取り付けなくては」
カルカヴァンはそう言った。苦し紛れではあったが、筋は通っている。イスファードとジャフェルも頷いた。
イスファードの一言日記「アンタルヤ王国の国王に、オレはなる!」