リュクス川の戦い3
朝日がリュクス川を照らしている。霧はもうかなり晴れた。川岸には骸が幾つも横たわっている。霧のために全貌が分からなかったが、本当に激しい戦いだったのだな、とジノーファは思った。
今朝の戦いはおおよそ、ジノーファが望んだ通りに進んだ。討伐軍を誘い出し、そして万全の状態で迎え撃つことに成功したのである。敵はイスパルタ軍の堅い防御を破れず、少なからず損害を出した。ただ、イスパルタ軍も無傷ではない。
イスパルタ軍の陣中では、被害の確認や負傷者の救護などで、兵士たちが忙しく動き回っている。その指揮を執っているのはダーマードだ。彼がてきぱきと指示を下す様子を見ながら、ジノーファはふとユスフにこう話しかけた。
「ユスフ。ガーレルラーンはこちらが別働隊を動かすつもりであると、本当に信じたのだろうか?」
「信じたからこそ、攻めてきたのではありませんか?」
「多分だけど、ガーレルラーンは信じたんじゃない。信じたかったのだと思う」
顎先を撫でて思案しつつ、ジノーファはそう呟いた。アンタルヤ王国には余裕がない。北には活性化した魔の森に対する防衛線を抱え、東ではイスパルタ王国が独立を宣言した。この状況で五万も動員できたことが驚きだ。
だが五万人を動員することと、五万人を養うことは別問題だ。今のアンタルヤ王国に、五万の兵を養い続ける力は無い。イブライン協商国が万全の状態だったなら、海路で兵糧を送ってもらえただろう。しかし協商国は今、ランヴィーア王国と戦っている。アンタルヤ王国を支援する余裕はない。
「アンタルヤ王国は苦しいだろう。ガーレルラーン二世は早くこの戦いを終わらせたいと思っているはずだ。そんな時に敵が別働隊を動かす、その兆候を見せた。それを信じたくなってしまったとしても……」
ジノーファはそこで言葉を切った。そしてゆっくりと頭を振る。そしてユスフの方を見て、苦笑しながら彼にこう告げた。
「思いつきの戯れ言だ。忘れてくれ」
ユスフは静かに一礼した。ただ、彼はこの時のジノーファの話を忘れなかった。人に話すことはなかったものの、日記に書き残しており、それが後世に伝わった。それで戯曲にしろ舞台にしろ、このリュクス川の戦いが描かれる時には、必ずと言って良いほどこの場面が出てくる。
まあそれはそれとして。ガーレルラーン二世は信じたのか、それとも信じたかったのか、それは分からない。だがアンタルヤ王国の情勢が厳しいのは事実だ。川向こうに陣取る討伐軍の陣容は揺るぎないように見えるが、その実情は火の車であろう。ならその火をもう少し燃え立たせてやれば、ガーレルラーン二世も交渉に応じるかも知れない。
そのための一手が、クワルドに預けた一万の別働隊だった。敵の真っ只中へ送り出すのだから、相当に危険な任務だ。下手をすれば、孤立して全滅しかねない。だが上手く補給線を寸断できれば、討伐軍は干上がる。
ただしその全てが上手くいってなお、ジノーファはガーレルラーン二世が交渉に応じると確信できていない。不安だったが、彼はそれを決して表に出さなかった。ただ、胸中で祈る。
(クワルド、頼んだぞ……)
さて、そのクワルドだが、彼はジノーファに命じられた通り、一万の兵を率いてリュクス川のほとりを北へ向かっていた。彼は討伐軍が撤退してすぐ、霧が晴れる前に出立している。それで彼らが陣を離れたことは、まだ討伐軍には知られていないはずだ。
クワルドは馬上で、出陣前にジノーファから言われた言葉を思い出していた。「このようなことは卿にしか頼めない」。ジノーファはそう言ったのだ。
あの時、クワルドはこの言葉を、強い信頼の証と受け取った。危険で困難な作戦をこなせるのはクワルドしかいない。そう言う意味であると受け取ったのだ。
それも間違いではないだろう。ただ、一時の感激が収まると、あの言葉には別の意味もあったのではないか、とクワルドは思うようになった。そのきっかけは、彼が率いている別働隊だった。
歩騎一万からなるこの部隊には、三人の貴族もそれぞれ兵を率いて加わっている。その三人に作戦の概要を説明したとき、彼らの目がぎらりと光ったことをクワルドは見逃さなかった。そして同時に思い出したのだ。ジノーファが口にしていた、別の言葉を。
『言うまでも無いことだが、民を害することはまかり成らぬ』
ジノーファはそう言っていた。この言葉は無論、三人の貴族たちにも伝えてある。そして彼らも「相分かった」と、了解の言葉を口にしてはいる。だが彼らの様子を見る限り、クワルドは不安を拭えなかった。
(陛下が頼みたかったのは……)
ジノーファが本当に頼みたかったのは、作戦の成否よりも、民草を害さないことではなかったのか。下手な貴族を司令官として別働隊を預ければ、補給線の寸断を口実に、これ幸いと略奪にいそしみかねない。彼はそれを危惧してクワルドに任せたのではないか。彼にはそう思えてならない。
そして、そういう前提に立ってあの言葉をもう一度考えてみると、やはり違った意味合いが見えてくる。強い信頼の証というのは間違いない。だが同時に、任せられるのがクワルドしかいない、つまり民を害さないと信じられる人材が他にいないという、ジノーファの深刻な苦悩の裏返しでもあるのだ。
クワルドは馬上で手綱を強く握りしめた。浮かれていた自分を殴りつけてやりたい。だが今はそのようなことをしている場合ではない。何としてもジノーファの期待に応えなければならない。彼を暴君にしてはならないのだ。
(場合によっては……!)
場合によっては、手ずから命令に違反した者を斬らねばならないだろう。それが貴族らの身内であったとしても、大目に見ることはできない。だが同時に、それが原因で貴族らとジノーファの関係が険悪になることは避けなければならない。事と次第によっては、クワルドが全ての泥をかぶる必要がある。
(望むところよ……!)
クワルドは胸中で決意を新たにした。もとよりジノーファに救われたこの命。ジノーファのために使うのは当然のことだ。どのような形であれ、彼の盾となれるのであれば、クワルドは本望だった。
ただ結論から言えば、クワルドが覚悟していたようなことにはならなかった。別働隊はそもそも、リュクス川を越えなかったのである。彼らが最初の目的地である渡河のポイントに到着したとき、そこには何と先客がいたのだ。
先客というのはもちろん、一人や二人の話ではない。鎧を纏い武器を手に持った、最低でも数千人からなる部隊が、まさにリュクス川を渡河せんとしていたのである。これは言うまでも無く討伐軍の一隊であり、ガーレルラーン二世の命令によるものだった。
今朝の戦いで霧に紛れて撤退した後、西岸に戻ったガーレルラーン二世は損害を調べて報告するよう命じた。それによると、戻らなかった兵は全部で一六二三名。負傷によりしばらく戦えない者が二三七四名だった。
参戦可能な数で計算すると、およそ四〇〇〇の戦力を失ったことになる。さらにここへこれまでの被害を合算すると、参戦可能な兵の数は全部で四万五〇〇〇弱にまで減っていた。つまり討伐軍はここまででおよそ一割の戦力を失ったことになる。
大きな損害と言って良い。だがガーレルラーン二世に焦った様子はなかった。まだ十分に戦えるだけの戦力が残っている。しかもこの内の五〇〇〇は、今朝の戦いで使わなかったため無傷だ。
『上流よりリュクス川を渡河し、敵の後方を扼せ』
ガーレルラーン二世は後背を守っていた五〇〇〇の部隊にそう命じた。今頃、叛徒どもは勝利のために浮かれているだろう。敗れたばかりの敵が、すぐに動くとは思っていないに違いない。その隙を突くのだ。
五〇〇〇からなる討伐軍の一隊はすぐさま動いた。彼らは体力を消耗していなかったので、休む必要が無かったのだ。ただ同じタイミングでジノーファが別働隊を動かしていたことは、彼らにとってもまったく想定外だった。こうして両軍の別働隊は不意に遭遇する事になったのである。
「なんだと……!?」
討伐軍の一隊が渡河中なのを見て、クワルドは驚いた。そして、どうやら敵もたいそう驚いたようだ。目に見えて動揺し、隊列と旗が大きく乱れた。それを見て、クワルドはとっさに我に返った。
見たところ、敵は一万に届かない。しかも渡河の途中であり、隊列を乱している。味方も準備万端というわけではないが、まだ敵よりはマシであろう。何より、敵が渡河するのを黙ってみているわけにはいかない。
「全軍突撃! 奴らを押し返せ!」
クワルドはただちにそう号令を下した。別働隊の将兵は思わぬ敵との遭遇に少なからず動揺していたが、指揮官のその命令を受けて落ち着きを取り戻す。そして雄叫びを上げながら敵へ襲いかかった。
戦闘はイスパルタ軍有利だった。というより、敵はほとんど戦うことなく逃げ出した。ラッパや銅鑼の音が鳴り響き、隊列を乱して後退していく。数の上で及ばないのを見て取ったのか、あるいは予期していなかった敵の出現に驚いたのか。恐らくはその両方であろう。そしてクワルドは逃げていく彼らの背中を見送った。
「将軍、追撃を!」
「今ならば容易に蹴散らせましょう! ここで敵の数を減らしておかねば!」
そう主張する者たちもいたが、クワルドはリュクス川を越えようとはしなかった。確かにここで追撃すれば、敵に大きな損害を与えることができるだろう。しかし一兵残さず殺し尽くすことは不可能だ。
そうである以上、イスパルタ軍別働隊の存在はガーレルラーン二世の知るところとなる。そうなれば、奇襲を成功させることは難しい。それどころか、別働隊こそが退路を断たれて全滅しかねない。
またジノーファのいる本隊も危険だ。イスパルタ軍が戦力を分散させていることを知れば、ガーレルラーン二世が再び総攻撃を行う可能性もある。仮に本隊が敗れれば、別働隊がどれだけ戦果を挙げようとも無意味だ。
「陛下は無理をするなと仰せであった。退くぞ」
そう言ってクワルドは馬首を翻らせた。追撃を主張した貴族や幕僚らは不満そうだったが、彼はそれを黙殺する。ここからは時間との勝負だ。一刻も早く本隊へこの件を報せ、また戦力を合流させなければならない。
クワルドはまず早馬を出した。そして明るいうちにたいまつを用意させる。夜を徹して移動を行うためだ。それから、敵が戻ってこないか監視させるために数名の斥候を残し、彼は別働隊を率いて来た道を戻った。
日が暮れ、辺りが闇に包まれても、たいまつの明かりを頼りに彼らは進んだ。今朝の戦闘、日中の行軍、その上休む間もなく急いでとって返す。大変な強行軍と言って良い。だがクワルドは脱落者を出すことなく兵たちを連れ帰った。
本隊に合流すると、兵たちはさすがに座り込んだ。早馬を出しておいたおかげで食事が用意してあり、兵たちは喜んだ。きっと食べ終えたらすぐに寝てしまうだろう。クワルドもそれを咎めるつもりはない。早く体力を回復してもらわねばならないのだ。
「クワルド、よく戻ってくれた」
「陛下。お役目をはたすことができず、申し訳ありません」
クワルドが事情を説明すると、ジノーファは笑って彼を労った。別働隊はその存在を知られていないからこそ、効果的に動けるのだ。知られてしまった時点で引き上げるのは、正しい判断だった。
ダーマードら本陣に残った貴族たちも、どこかほっとした様子だ。早馬で報告を受けてから、イスパルタ軍は厳戒態勢を取っていた。敵がいつ攻めてくるのか、気が気ではなかったのだ。不安も大きかっただろう。だがガーレルラーン二世が動く前に、クワルドが別働隊を連れて戻ってきた。これで一安心、と思ったに違いない。
だがまだ安心はできない。繰り返すが、別働隊は強行軍のために疲労困憊だ。少なくとも夜明けまでは、厳戒態勢をとり続けなければならないだろう。別働隊を出したことで何だか空回りしてしまったように思え、ジノーファは内心でため息を吐いた。
「ユスフ、別働隊は出すべきではなかっただろうか?」
「別働隊を出したからこそ、敵の思惑を潰す事ができたのではありませんか?」
ユスフからそう言われ、ジノーファは小さな笑みを浮かべて「そうだな」と呟いた。確かに敵の思惑を挫いたのは大きい。敵は一万に届かないという話だったが、それでも数千。そんなモノに後方で暴れられては、防衛線を守るどころではなくなっていただろう。
(今後は上流にも目を配らないと……)
再び別働隊を動かすのは無理だろう。だが斥候を出して監視させる必要はある。ジノーファはそう感じていた。ただ、別働隊を動かして失敗したのは討伐軍も同じだ。警戒は必要だが、すぐにどうこうと言うことはないだろう。
ジノーファのその推測は当たった。討伐軍は積極的な動きを見せなくなったのである。時折小競り合いが起こるが、どれも大したことはない。リュクス川を挟んで両軍はにらみ合い、対陣はおよそ一ヶ月に及んだ。
討伐軍が持ちこたえたことに、ジノーファは少なからず驚いた。大きな戦いをしていないとは言え、一ヶ月もの間、現地調達もせず五万もの将兵を養い続けるとは。アンタルヤ王国は苦しいはずなのだが、よく兵站を崩壊させなかったものである。
実のところ、ガーレルラーン二世は国内だけで兵站を賄っていたわけではなかった。隣国にして実質的な属国である、ルルグンス法国に物資の供出を命じていたのである。さらにその物資を切り詰めて使うことにより、討伐軍は何とか一ヶ月に及ぶ対陣を可能としていたのだ。
一方のイスパルタ軍だが、こちらにはまだ余裕があった。ロストク帝国からの援軍が到着したのである。数はおよそ三〇〇〇。これでイスパルタ軍の戦力は、およそ三万五〇〇〇となった。数の上ではまだ討伐軍に劣るが、陣中にはためく帝国の旗は、味方を大いに鼓舞した。
同時に、対岸に陣取る討伐軍に対しては、さらなるプレッシャーをかけたに違いない。ただでさえ攻めあぐねているというのに、そこへさらに、あのロストク軍が援軍としてやって来たのだ。実際、その日を境に討伐軍はさらに攻撃を控えるようになった。しかしそれさえも、ジノーファにはなんだか不気味に思える。
「ガーレルラーンは何を待っているのだろうか……?」
段丘の一番上から対岸を臨み、ジノーファはそう呟いた。彼の声には不安げな響きがある。ダンダリオンは兵と一緒に多量の物資も送ってくれた。このまま対陣がさらに長引いたとしても、味方は持ちこたえる事ができるだろう。
しかし相手はあのガーレルラーン二世だ。軍を動かさず、しかし講和にも応じないと言うことは、彼はまだ諦めていないのだ。彼には逆転の構想があり、そのために何かを待っているに違いない。
それは一体何なのか。ジノーファもクワルドら幕僚たちと相談しつつ色々と考えてはいるが、どれも今ひとつ決定力に欠ける気がする。イスパルタ軍の側からすれば良いことなのだろうが、その反面、得体の知れない不安が募った。
彼はかつて「ガーレルラーンとて、魔術師ではない。腹の内はともかく、打てる手は現実の諸要素に制限される」と言って、幕僚たちを落ち着かせた。だがガーレルラーン二世ならば、それこそ“魔術的な”手腕でこの状況を打開し得るのではないか。そう思ってしまうのだ。
(まったく……)
ジノーファは内心で嘆息した。「虚像に振り回されるのはもう十分だ」と、そう思っていたはずだった。しかし今、虚像と実像の見分けがつかず、結局振り回されている。動かずにいることが苦しかった。
さて、イスパルタ軍と討伐軍の対陣は続いている。そしてその間に、歴史の流れは思わぬ方向へ向かうことになった。
父王の不在を狙い、イスファードが謀反を起こしたのだ。
イスファード「アップを始めるぜ!」
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今回の更新分はここまでです。
続きは気長にお待ち下さい。