リュクス川の戦い2
リュクス川の西側に据えられた討伐軍の本陣。ガーレルラーン二世はそこから対岸を睨むようにして眺めていた。イスパルタ軍を名乗る叛徒どもは、そこに段丘を利用して強固な防御陣を構築している。だが、彼にはこれを破る自信があった。
ただしそのためには全軍を動かす必要があり、さらに大きな犠牲を覚悟しなければならない。ここで叛徒どもを打ち破って、それで戦いが終わるなら、ガーレルラーン二世は迷わずそうしただろう。
だがここで敵を打ち破っても、恐らくはその後で、今度は炎帝ダンダリオン一世率いるロストク軍と戦わなければならない。討伐軍の戦力は五万。限界まで動員しており、さらなる増援は見込めない。それでこの後のことを考えれば、ここで大きな損害を出すわけには行かなかった。
それが、イスパルタ軍の側から見たとき、ガーレルラーン二世の動きを消極的にしていた。要するにロストク帝国とダンダリオン一世の影を気にしていたのだ。ジノーファのことなど、取るに足りない小物と考えていたのだろう。
とはいえそんなことは、ジノーファにしてみれば完全に埒外だ。討伐軍の動きが消極的である理由に、彼に思い当たる節がないのも当然だった。
「む……」
さて、敵陣の様子を眺めていたガーレルラーン二世が小さく声を上げた。食事の支度をしているのだろう。敵陣からは多数の煙が立ち上っている。これまでにも見た光景だ。だが今日は煙の数がいつもより多い。つまりいつもより多く、食事の準備をしていることになる。敵軍が動く兆候であると、彼は看破した。
ガーレルラーン二世は空を見上げた。そこには雲一つ無い。この様子なら、明日の朝には濃い霧が発生するだろう。それもまた、叛徒どもが動くと決めた要因であるに違いない。奇襲が上手くいくと考えたのだ。だがそれは討伐軍にも同じ事が言える。
彼は直ちに主だった者たちを集めた。今夜から明日の明け方にかけて敵は動く。敵の数がこちらより少ないとはすでに分かっている。ならば奇襲をかけるにしても、正面からはぶつかるまい。
さりとて、守り固めたあの防御陣を捨てることは躊躇われるはず。遮るものがなくなってしまえば、無防備な国土をさらすことになるのだ。ならば一隊を迂回させ、こちらの後背を突かせる算段であろう。多めに用意した食事はそのためのものか。しかし見方を変えれば、それは戦力の分散だ。
「明朝、後背の備えとして五〇〇〇を残し、残りの全軍で敵防御陣に攻撃を仕掛け、これを突破する」
ガーレルラーン二世はそう命令を下した。反対する者はおらず、討伐軍はすぐさま攻撃の準備を始めた。ただし、なるべくそれと悟られないようにしながら。そしてそれは、対岸も同じ事なのだろう。敵も味方も、こそこそと決戦の準備を進めている。その状況に、ガーレルラーン二世は皮肉げな笑みを浮かべた。
そして、翌朝。辺りがまた薄暗い時間に、討伐軍は攻撃の準備を整えた。ガーレルラーン二世が予想したとおり、周囲には濃い霧が漂っている。そのせいで、対岸の様子は分からない。だがそれは向こうも同じだ。
「渡河を開始せよ」
「はっ。全軍、渡河を開始せよ!」
ガーレルラーン二世が渡河を命じると、その命令は口伝えに全軍へ伝えられた。ラッパや銅鑼は使わない。音でイスパルタ軍に感づかれる可能性があるからだ。兵士たちも走らずに歩いて川の中へ入っていく。
完全に音を立てないのは、さすがに不可能だ。しかし川の水が流れる音が周囲には響いている。雄叫びを上げて走り出すような真似をしなければ、音で感づかれることはないだろう。そして姿は濃い霧が覆い隠してくれている。これで気づかれることなく敵陣に近づける、はずだ。
「…………っ」
カスリムもまた、馬に乗ってリュクス川の中を進んでいた。彼は討伐軍の先鋒を任されていて、此度の作戦でも彼の部隊がまず敵とぶつかることになる。突撃を開始するタイミングも彼に委ねられていて、そのせいか彼の顔には緊張の色が浮かんでいた。
険しい顔をしたまま、彼は馬を操ってリュクス川に浮かぶ中州の一つに上がった。彼の他に、さらに数騎の騎兵が後に続いた。小さな中州なので、これだけですでに足の踏み場もない。だがこの中州は、今回の作戦上、非常に重要な場所だった。
濃い霧のために、周囲の状況はよく分からない。気づいたら対岸に到達していて、なし崩し的に戦闘状態へ突入するというのでは、こうして奇襲を仕掛けた効果が半減してしまうだろう。
そこで、この中州だ。この中州は、リュクス川のおおよそ真ん中に位置している。カスリムがこの中州に到着した時点で、全軍突撃の合図を送って攻撃を開始する。そういう手筈になっていた。
カスリムはよくよく目をこらし、中州の形を確認した。そして間違いなく所定の中州であることを確かめると、周囲にいる部下たちにこう命じた。
「ラッパを鳴らせ。全軍突撃だ!」
すぐさま命令は実行された。濃い朝霧の中にラッパの音が鳴り響く。そして次の瞬間、霧の向こうから鬨の声が響いた。討伐軍の兵士たちは雄叫びを上げながら駆け出していく。朝の静寂は突如として破られたのである。
霧の中から鳴り響くラッパの音を、そして次に轟いた鬨の声を、ジノーファもまた聞いていた。彼は段丘の一番上に置いた本陣におり、床几に座って目を瞑り、腕を組んで討伐軍が動くのを待っている。そして川の方からラッパの音が聞こえると、彼はすっと目を開けた。
辺りは一面、いまだ濃い霧に覆われている。だが霧の奥からは鬨の声が上がり、激しい水しぶきの音も聞こえてくる。先ほどまではなかったプレッシャーを、ジノーファは確かに感じた。これは戦場の空気だ。彼はわずかに拳を握り、そしてこう呟いた。
「動いた、か」
「はっ。鬨の声も、近うございます」
「こちらの備えは?」
「抜かりなく」
それを聞き、ジノーファは小さく頷いた。そうこうしているうちに、下の方から激しい戦闘の音が響き始める。その音だけで分かる。今までに無い規模だ。ガーレルラーン二世も今回は本気らしい。
「上手く誘い出せたようであるな、陛下」
「ああ。だが食い千切られては意味が無い」
ラグナの声は明るかったが、それに応えるジノーファの表情は険しい。確かに討伐軍を誘い出すことはできた。霧が発生するであろう日を狙い、食事の準備のための煙を多くして、イスパルタ軍が大規模な行動を取ろうとしていると誤認させたのだ。
ガーレルラーン二世はイスパルタ軍が別働隊を出すなりして陣中の兵の数を減らしていると考え、霧に紛れて総攻撃を仕掛けることにしたはずだ。だが実際には、イスパルタ軍は全軍で防衛線を固めている。霧によってこちらの様子が分からないことも幸いした。彼のアテを外すことには成功したのだ。
しかしながら、数において討伐軍が有利なのは変わらない。いくらアテを外したとはいえ、敵が力任せにこの防衛線を食い千切ってしまう可能性もあるのだ。実際に敵を撃退するまで、安心することはできない。
「陛下、予備戦力から左右に一隊ずつ回し、敵の側面を突かせます」
「任せる」
クワルドに対し、ジノーファは座ったままそう応えた。直ちに温存されていた予備戦力のうち、一〇〇〇ずつ合計二〇〇〇が動かされた。それらの部隊は左右から回り込むように移動し、川の東岸へ上陸した討伐軍の側面に対して攻撃を仕掛ける。下から聞こえてくる戦闘の喧噪はさらに激しさを増した。
クワルドは上がってくる報告を元に次々に指示を出した。展開している部隊を手足のように動かし、時には予備戦力を投入して戦線の手当てをする。さすがは歴戦の将軍だ。その手腕はジノーファにとっても良い勉強になる。
さらにクワルドは地図上に駒を並べ、模擬的にだが、戦いの様子が分かるようにした。その様子だけ見れば、有利なのはイスパルタ軍だ。敵は身動きに苦慮し、こちらを攻めあぐねている。ただしその圧力は、やはり侮りがたい。
「予備戦力から増援を出して、中央の厚みを増しましょう。それで十分に耐えられるはずです。他の部隊と上手く連動できれば、敵を押し返すことも可能です」
「予備戦力が枯渇して、柔軟に動けなくならないか?」
「敵の動きは鈍いように見えます。恐らくは霧のために、ガーレルラーンも戦況がよく見えていないのでしょう。仮に対岸から指揮を執っているなら、こちらの様子は見えていないはずです。伝令が行き来するのも、素早くとはいかないでしょう」
「分かった。やってくれ」
ジノーファが頷いて同意したので、クワルドは予備戦力から三〇〇〇を動かした。これで残っている予備戦力は、ジノーファの護衛とした分だけだ。クワルドもこれを動かすつもりはないので、事実上全戦力を投入したことになる。
徐々に日が昇り、周囲がだんだんと明るくなっていく。だが霧はまだ晴れない。蒙昧な帳の中で、激しい剣戟と怒号だけが響き渡る。ただ、クワルドの打った手が効いたのか、イスパルタ軍が有利なようにジノーファには思えた。
一方、ガーレルラーン二世はリュクス川の中州の一つにいた。彼はそこから、馬上にて指揮を執っている。霧のために、戦況はよく見えない。ただ聞こえてくる音と全戦からの報告を合わせて判断すると、どうも味方は敵軍を攻めあぐねているらしい。
思った以上に抵抗が激しい。どんな手を打っても、いちいち対応されている感がある。恐らくはクワルドの手腕であろう。ガーレルラーン二世はそう見抜いた。ただ、いかに彼の手腕が優れていようと、兵の数が足りなければ打つ手など無い。つまり討伐軍四万五〇〇〇に対抗しうる戦力があそこにはあるのだ。
「報告いたします! 中央に敵増援! 味方が押し返されています!」
「報告いたします! 右翼の敵が突出! 耐えきれません!」
「報告いたします! 敵左翼が攻勢を強めております!」
立て続けに良くない報告がもたらされ、ガーレルラーン二世はさすがに表情を険しくした。彼は鋭い視線を霧の向こうへ向ける。その視線にはいつもと異なり、歴とした熱量が込められていたのだが、そのことに気づく者は誰もいなかった。
(やはり……)
やはり想定より多くの兵が防衛線に残っていたのは間違いない。その数は二万か、それとも二万五〇〇〇か。いや、この様子では別働隊を動かして戦力を分散しているという、前提それ自体が間違っている可能性が高い。
恐らくは昨日、食事の準備のための煙がいつもより多かったのも、こちらを騙して誘い出すための策略だったのだろう。アレのために、敵軍は別働隊を動かすものと、皆が思い込まされてしまった。
「陛下、いかがいたしますか?」
参謀の一人が、少し不安げにそう尋ねる。彼もまた、前提が間違っている可能性に思い至ったのだろう。刻一刻と、討伐軍の旗色は悪くなっている。彼はそれを感じているのであろうし、顔色を見る限り他の幕僚たちも同様であるようだ。
ただ、ガーレルラーン二世自身はまだ焦ってはいなかった。たとえ敵の全軍が防衛線を固めていようとも、それを破る自信が彼にはある。ただしその場合、相応の被害を覚悟せねばならない。
ガーレルラーン二世は空を見上げた。朝日はすでに昇っている。これから気温が上がってくれば、霧は徐々に晴れていくだろう。そうすれば指揮もしやすくなる。ただそれまで現状を維持し、損害を増やすことは許容できない。
「……撤退する。合図を出せ」
いつも通り熱を感じさせない声で、ガーレルラーン二世はそう命じた。この後さらにロストク軍との戦闘が避けられないことを考えれば、ここで大きな被害を出すわけには行かないのだ。ならば霧に紛れて撤退した方が、被害は少ないだろう。
直ちにラッパと銅鑼が鳴らされる。それを聞いて、討伐軍の兵士たちは次々に撤退を始めた。ガーレルラーン二世もまた、馬首を巡らして西岸へと戻る。今回は敵にしてやられた格好だが、彼はいつも通り冷厳な表情を浮かべていて、悔しげな様子はなかった。
それにしても、今回の作戦を立てたのは一体誰なのであろうか。ガーレルラーン二世はふとそんなことを考えた。普通に考えればクワルドだろう。だがジノーファということもあり得る。なにしろ例の撤退戦のおり、ロストク軍との共闘をひねり出すような頭だ。欺瞞による誘引くらいはやるだろう。
「ふ、ふははは、はははは」
思わず、ガーレルラーン二世は馬上で笑い声を上げた。周囲を固めている者たちが驚いて彼の方を向き、すぐに慌てて視線をそらす。彼は当然それに気づいていたが、気づかぬ素振りを装い、リュクス川の西岸へ戻った。
さて、討伐軍の兵士たちが霧の中へ退いていったことを、ジノーファとクワルドは報告で知った。霧は未だに濃く、段丘の一番上からでは、その様子を肉眼で確認することはできなかったのだ。
「陛下、追撃いたしますか?」
「……いや、止めておこう」
少し考えてから、ジノーファはそう答えた。敵が慌てて撤退しているのか、それを本陣からでは確認できない。イスパルタ軍が討伐軍を誘い出したように、ガーレルラーン二世もまた撤退したと見せかけて、彼らをおびき出そうとしているのかもしれないのだ。逆撃を食らってはたまらない。
やがて敵の攻撃が完全に収まったのだろう。リュクス川のほとりに静寂が戻る。そして次の瞬間、イスパルタ軍の陣から歓声が上がった。今朝の攻撃がこれまでで最大規模であることは、全軍の兵士たちが理解している。それを防ぎきったことと、何より生き残ったことへの歓喜が爆発しているのだ。
その歓声に頬を緩めながら、ジノーファは素早く頭を巡らせる。討伐軍は確かに撤退した。しかし大損害を与えたかと言えば、そうではないだろう。防衛線の防備が堅いと見るや、ガーレルラーン二世はすぐさま兵を退いた。
多少の損害は与えたはずだが、まだ十分に余力を残していると見るべきだろう。戦える兵の数も、まだイスパルタ軍よりも討伐軍の方が多いはずだ。
つまり、まだ戦いは続くのだ。であれば、目先の勝利に浮かれている場合ではない。ともかく討伐軍は損害を出して撤退したのだ。すぐには動けまい。態勢が有利なうちに、次の手を打つべきだ。
「クワルド」
「はっ、ここに」
「ここでの指揮をダーマードに引き継げ。卿は一万の兵を率い、上流から渡河して敵の背後に回り込んで欲しい」
「敵の後背を突き、挟み撃ちになさるのですか?」
クワルドはそう尋ねた。これまでの軍議の中で、そう言う案も出ている。それをこのタイミングで実行に移すのかと思ったのだ。しかしジノーファはゆっくりと首を横に振りこう答えた。
「いや、狙いは敵の補給線だ。ただし無理をする必要はない。厳しいと思ったら退いてくれ。その辺りの判断は卿に任せる」
「御意」
「言うまでも無いことだが、民を害することはまかり成らぬ。……このようなことは卿にしか頼めない。頼んだ」
「ははっ」
クワルドは胸が熱くなるのを感じた。必ず成功させよう。そう思った。
ユスフ「ウチの陛下にはペテン師の才能がある」
クワルド「深慮遠謀と言わんか、馬鹿者!」